5
温室の中はまるで別の国だった。この国には咲いていないであろう鮮やかな色彩と大きな花弁を持つ花々が所狭しと咲き乱れている。
良い香りに導かれて進んでいくと、奥にそこだけぽっかりとあいたような空間があった。
「綺麗な薔薇・・・。」
そこには青い薔薇が咲いていた。あたり一帯に芳醇な薔薇の香りが広がっている。
お兄様から聞いていた魔法でしか育てられない青い薔薇。あまりに神秘的な光景に目を奪われる。そのあまりの美しさに魔法でしか育たない理由がわかった気がした。
「気に入ってもらえたかな?」
薔薇に見入っていて人が近づいてくるのに気づかなかった。慌てて振り返るとそこには先ほど顔を見たばかりのレイナルド王子殿下が立っていた。王子殿下は1人だった。お兄様の姿は近くには見えない。
間近で見た王子殿下に胸がざわついた。
「ここは普通の庭園では管理の難しい植物ばかりが集まっている温室でね。中でも特にこの薔薇はリースランド国の自慢なんだ。他の国では作られていないんだよ。」
王子殿下が教えてくれる。私は改めてじっと薔薇を見た。
私はあわててカーテシーをとった。
「綺麗です。すごく。こんなに綺麗な薔薇が存在するなんて知りませんでした。」
前世の私にもこの薔薇を見た記憶はない。それだけ貴重な薔薇なのだろう。この薔薇が見れただけでも今日のお茶会に参加した意味があったんじゃないかと思う。
「この薔薇には別名があってね、願いを叶える薔薇というんだ。」
「願いを叶える、ですか?」
「もちろん、言い伝えだよ。なんでも叶えてくれるわけじゃない。」
そう言いながらも王子殿下は、愛しいような大切なものを見るような何とも言えない表情を浮かべてその薔薇を見た。
「王子殿下はその薔薇に願いを叶えてもらったことがあるのですか?」
「そうだね・・・」
王子殿下は儚くふんわりと微笑むとこちらを見た。
「あるよ。とても大事な願いを叶えてもらっている。」
さすがにこれ以上深く聞くのは失礼だろう。私は当たり障りないように話題を変えることにした。
「王子殿下がお茶会の場から離れてしまっていてもよろしいのですか?」
ふふと笑って王子殿下が言う。
「少し疲れてしまってね。みんなには内緒だよ。」
私は先ほどの肉食獣と化した子息令嬢たちの様子を思い出した。たしかにあの勢いで迫られれば王子殿下にも休憩が必要になるかもしれない。だとすると私もこの場を辞した方がいいのかもしれないと思うけれども、なぜか立ち去りがたくもう少し薔薇を見るだけだからと自分に言い訳をしてその場にとどまってしまう。
「ところで君は会場のテーブルにはいなかったよね?」
王子殿下に問われて自分が大変な失態を犯したことに今更ながら気づく。
(そうだ私、王子殿下にご挨拶していない!)
名乗りもせず王子殿下と会話をするなんて令嬢失格だ。
「ご挨拶もせずに失礼いたしました。私ウィンサー侯爵家の長女ルーチェリアと申します。」
「気にしなくていいよ。僕たちはまだ子どもだしね。そんな時もあるよ。」
青くなる私に王子殿下は笑ってそう言ってくれた。
「そうかウィンサー侯爵家の長女ということはクリストフの妹君かな?
それで、ルーチェリア嬢は席から離れて何をしていたの?」
王子殿下は私のことをフランクにルーチェリア嬢と名前で呼んだ。
「恥を忍んで申し上げます。お兄様が王子殿下の元へ行ってしまったので、テーブルに1人では心細くなり席を立ってしまったのです。」
完全に嘘というわけではない。ただ同じテーブルの他の子息令嬢たちが肉食獣に見えてそれが怖くて、とはさすがに言えなかった。あんなテーブルに1人にされれば心細くもなるというものだろう。このくらいのかわいい嘘くらいゆるしてほしい。
「そう。それは悪いことをしてしまったね。」
「いえ、おかげでこうして青い薔薇も見られましたし、素敵なお庭が探検できてとても有意義に過ごせました。」
私は心からそう言った。
「そう言ってもらえると助かるよ。
さて、そろそろいい時間だ。クリストフも待ちわびている頃だろう。会場に戻った方がいい。
私と一緒に戻ると騒がしいだろうから、先に戻るといいよ。」
そう言われて温室の屋根越しに空を見上げると、夕日で赤く染まっていた。気づかないうちにずいぶんと長居してしまったみたいだ。
「ありがとうございます。ではお言葉に甘えてお先に戻らせていただきます。」
王子殿下にお礼を言って会場に戻ろうとすると、ルーチェリア嬢、と呼び止められた。王子殿下を振り返る。
「私のことは王子殿下ではなくレイナルド、と呼んでくれないか?私もルーチェリア嬢と呼んでいるしね。」
まだ子どもだからいい、ということなんだろう。王子殿下がそうおっしゃるなら、と私はうなずいた。
「はい。レイナルド殿下、今日はありがとうございました。失礼します。」
「またねルーチェリア嬢。君に会えて嬉しかったよ。」
王子はそう言うとアルカイックスマイルではない笑みを浮かべた。
会場に戻るとお兄様が私を探していた。
「ルーチェ!やっと見つけた。どこまで行っていたんだい?」
「ごめんなさい、お兄様。こんなに遅くなるつもりはなかったの。でも青い薔薇を見せていただいたわ。とても綺麗で今日のお茶会に参加した甲斐がありました!」
「おや、1人で見に行ってしまったのかい?お兄様と一緒に行こうと約束していたのに。ルーチェは悪い子だな。」
「すっかり忘れていたわ!ごめんなさいお兄様!」
「いいよ。今度は一緒に行こうね。
さあ帰ろうか。お母様が待ちくたびれているよ。」
「はーい。」
お兄様に手を引かれてお母様が待つ馬車へと歩いた。まだ体に薔薇の香りが残っているかのように私は夢見心地だった。
馬車に乗ってもまだ夢見心地なままで、思い出すのは青い薔薇とその薔薇の香りにつられるようにレイナルド殿下のことばかりだった。胸がふわふわもやもやしっぱなしだった。