第一章26 「君を殺そう」
「私が君を殺してあげる」
風に髪を揺らされる少女の透明な声音は、遥か彼方から聞こえた気がした。
唐突の殺害宣言にスノーの肩に乗るベルですら放心して、驚愕の視線を彼女に向けている。だが、吹き抜ける風の音しか聞こえない中、レンの目にはそう言い切ったスノーの顔しか映っていなかった。
このエルフの少女がレンに放った言葉は、とてもではないが信じ難い。
スノーが何を言ったのか、レンの脳はその言葉をただの音の羅列にしか判別できていなかった。
――ワタシガキミヲコロシテアゲル……?
脳の思考速度がナマケモノの如く低下し、知性の大暴落が発生。レンの思考は、ただただ白い空白に飲まれていく。
時が止まったかのように停滞したレンの脳は、考える事を放棄しようとその機能を停止しかけた。が、顔に吹き付けた微風により、停滞していたレンの思考は再び動き始める。
レンは怒りの感情が抜け落ちた顔で唖然としながら、今の文の意味を理解しようと亀のように鈍間な頭をなんとか回そうとする。
――コロシテアゲル……コロシテ…………殺す………………?
殺す、つまりはレンの命を奪うと、この世からレンの存在を抹消すると、スノーはそう言ったのか。
途轍もなく簡単な文章ではないか。何をそんなに、考え込む必要があったのだろうか。幼稚園児でも分かるような単純な文章だ。
呆然とした自分がなんとも滑稽で、まるでただの馬鹿になったようではないか。
だが、言葉の意味を理解できても、スノーがどういう意図で言っているのかまでは理解できなかった。
「……どういう、意味だ?」
「どうもこうも、言葉通りの意味よ。私も君を殺す方法を探してあげると、私が君を殺すと、そう言ってるの」
何とか思考を纏めて震えた声を絞り出すレンに、まるで何か問題があるのかと言わんばかりに、スノーは淡々と言葉を返してきた。
胸に当てた手を握りそう言うスノーに、やはりレンはただただ唖然とするしかない。
「訳が、分からない。どうして今の流れから、その言葉が出てくる? いや、それもあるけど――それ以前の問題だろ」
そうなのだ。出来る出来ない、殺す殺さない以前に、彼女がレンを殺した場合、それは立派な犯罪だ。
たとえここが異世界でも、当然罪のない人を殺せばそれ相応の罪に問われる。
ばれなければ犯罪ではない、という問題でもない。
「それを理解した上で、言ってるのか?」
「殺人に、手を染めるのか?」というレンの問いかけに、スノーは一度碧い目を伏せる。
そして、逡巡するように幾ばくかの間を空けてから、スノーはその美しい相貌を上げ、
「別に、問題ないわ。だって私の両手はもう、血で赤く汚れているもの。今更一人増えたところで、何も変わらない」
「は?」
「ちょっ!? スノーは――むぐぐ」
思わず出たレンの呆けた声と、何かスノーに言おうと現実に回帰したベルの声が重なる。
ベルはスノーにその口を押さえられているが、今のレンには先程と同じように、ベルに意識を割く余裕などない。
それほどまでにスノーの告白は衝撃的で、レンはスノーの白い肌が鮮血で真っ赤に染まっている光景を幻視した。
この可憐な少女の過去に、一体何があったというのだろうか。
今はどこか悲し気な表情をしているこの少女が、既に人を殺めていると言うのか。
言葉を失うレンを余所に、スノーの手から解放されたベルは「いきなり口を塞ぐなんてひどいじゃないか」と、非難がましい顔でスノーを見てから表情を引き締め、
「……それはそれとして、あまり言いたくはないけど、ボクは彼の手助けをするのに感心しないな。スノーらしくもないし、何より彼は危険だ」
「ちょっと前までは好きにしていいって言ってたのに、どうして今になって反対するの? 急にそんなことを言われても、私は納得できない。それに、これは私とレンの問題で、ベルには関係ないじゃない」
「いいや、スノーに関係するなら、それはボクにも関わってくる。彼とこれ以上関わらないというならよかったが、そうでないなら、ボクはスノーの保護者として彼の存在を見過ごせない。彼のことはもう諦めるんだ」
ベルは「さっき彼も『これ以上付き纏うな』って言ってたし」と、スノーに先の発言を撤回させ、もうレンと関わらないように説得しようと弁を尽くす。
それでも――、
「ベル、私は彼の助けになるって、あの時から決めてたの。……寧ろ、今になってその気持ちはさらに強くなってる。だからベルに何と言われても、彼が私を拒絶しても、私の意思は変わらない」
首を振り、強い眼差しでベルを射抜くスノー。彼女の決意は固く、何人たりとも揺るがすことはできない。そう感じさせるほどの、静かに燃える強い意志の炎がスノーにはあった。
その決意の炎に当てられ、奥歯を噛んで気難しい顔をしつつも、説得を諦めたかのように溜息を吐いて肩を落とすベル。それを了承の意と捉えたスノーは、その真剣な眼差しをレンに向け、
「私は君を殺すよ。この手を汚す覚悟もできてるし、なにより私達は君の助けになるようなことを知ってると思う」
「――!」
「確証はないけどね」と微苦笑して付け足すスノーの瞳にはしかし、確信を持っている光があった。
雄弁に語るその目に魅入られ、スノーが持つ決意の炎に触れ、レンは目を見開いて微かな希望を少女に見出す。
己を終わりに導いてくれる手段を、己に終わりを齎してくれる知識を、スノーが持っているというのか。レンが喉から手が出るほど欲しているそれを、この少女が手にしているというのだろうか。
もし、スノーが言っていることが真実で、それがこの『不死の加護』を凌駕するのなら、レンには是非もない。
今すぐにでも自分を殺したい。死んでしまいたい。彼らが眠るこの地で、罪に縛られたこの身を滅ぼしてしまいたい。
そうすればもう、『声』に悩まされる日々も、『影』に怯える日々も――常に絶叫を上げているこの心とも、別れを告げることが出来る。
――だが、
「……いくらお前が俺を殺そうと思っても、無理なんだよ。これはそういう『加護』だ。三年も探し続けているのに、まだ何も手掛かりが見つからないんだ。そんなに都合よく、お前がその方法を知ってるとは……俺には思えない」
是非はない――筈だった。
どうしようもない諦観が、昔以上に擦り切れてボロボロになった精神が、レンにそれを信じさせてくれない。
死ぬことを、諦めたわけではない。それに、これは諦めてはいけない類のものだ。しかし、この『加護』のことで直接誰かに頼る、誰かに期待するという選択肢は、最初からレンの中には無かった。
レンが他人に求める事があるとすれば、魔術や空間魔法のことだけ。
暗い想像が、どこまでも後ろ向きな思考が、レンの頭を埋め尽くす。
ベルに期待を抱いてしまった時と同じように、一度それを持ってしまえば、後で来る無常な現実により一層絶望することになる。
渇いた喉は水を求めるが、一滴の水では喉の渇きは潤せず、その後に来る渇きはより一層肥大してしまうから。だからこそ、余計な期待もしたくないし、目の前に提示された淡い希望も受け入れがたい。
そんな風に手を伸ばせば届く距離の希望すら否定の言葉で埋め立てて、スノーの決意に水をかけるレンに、それでも彼女はその蒼い炎を強め、
「そんなもの、やってみなきゃ分からないじゃない。聞きもしないで勝手に見限って諦めるなんて、そんなことは私がさせない」
「やらなくても、聞かなくても分かるさ。この世界でこの『加護』を一番よく知ってるのは俺だ。たとえお前が諦めなくても、殺人すら厭わないと言っても、俺は端から期待なんかしてないし、できないし、したくないんだよ」
レンは他人に期待するという行為とは無縁の人生を歩んできた。
前世であれだけ助けを求めたのに、誰にも相手にされず、誰にも手を差し伸べて貰えず、警察ですら役に立たなかった。だから、たった一人で、ずっとずっと耐えて、我慢して、歯を食いしばって、誰かの助けを期待することなく生きていた。
今世では、最早自分にすら期待していない。
自分で勝手に期待して、その後に最悪な結果が待っていたら?
認めたくない現実を突き付けられたら?
希望は毒だ。手が届く、手に入れられると期待して、希望を持ってしまえば、裏切られた時の絶望感は果てしなく広がってしまう。
「お前が俺を殺すなんて土台無理な話なんだよ。お前にこの『加護』の何が分かる? 持っている俺ですら、詳細が分からないものなんだぞ」
自らの意思でコントロールできず、どんな傷も、怪我も、致命傷も、欠損も、瞬時に治り、しまいには灰になったところで蘇る。これ以外に、この『加護』についてレンが知っていることはない。
そんな無敵にも思えるこの『加護』の抜け道が、魔術、魔法という超常の現象にならあると思って、レンはそれをずっと探している。
「これを一番よく知っていて、それでも詳細は不明で、その方法を三年も探してる俺が見つけられないことを、お前が知ってるなんて信じられないし、認めたくもない。それに、試したところでどうせ失敗するんだから時間の無駄だ。それだったら、俺が一人で探してるほうがよっぽど良い」
そうだ。誰にも邪魔されず、一人で静かに探している方が、レンの精神衛生上も、気持ち的にも、幾分かマシだ。
それに、今こうしてスノーと押し問答している時間すら無駄なのだ。
――だから、
「――勘違いさせるような言い方をしてごめんなさい。あくまで私が知ってるのは、君を殺す方法じゃなくて、その手掛かりがあるかもしれない場所なの。それに、知識の量で言ったらベルが役に立つわ。なんたって、五百年以上もこの世界で生きているんだもの。だからね、一度くらい私の……私達の話を聞いても損は無いって約束する。それに、何度でも言うし、今ここで私は私の名において誓うよ。――君を殺すって」
それでも、否定の言葉を積み重ね、差し伸べられたその手を払いのけても、最愛の妹を彷彿とさせるこの少女は、決してその意思を曲げる事はなかった。
何が、スノーをそこまで突き動かすのか。
何が、スノーをそこまで諦めさせないのか。
「大切な人を失うことがどれだけ辛いことなのか、私は知ってる。それこそ、死んでしまいたくなるくらいなのも。……君がどれだけ辛い思いをしてきたのか、その全ては理解できないけれど、それでも、その一部だけでも、私は分かってあげられる」
瞳を閉じ、言葉を投げかけてくるスノーの口調は、どこまでも柔らかい。
分かる訳がないと、レンはスノーのそれを否定したのに、人を殺したこの少女は知っていると、分かってあげられると、そう嘯く。
「ずっと苦しんできたんだよね。ずっと辛かったんだよね。今も……苦痛に感じているんだよね。だから私が、君を助けてあげる。君自身でも自分を殺せないのなら、私が君を殺してあげるから」
こうまで物騒な内容の言葉を、どうしてこんなにも優しい声音で言えるのだろうか。
何故欠片の迷いも、躊躇いも無く、こうも言い切れるのだろうか。
目を開けたスノーの瞳の奥。そこにある『光』を全く曇らせることなく、こんなことを言えるのだろうか。
人を殺めた人の言葉だというのに、なぜ不信感を抱かないのだろうか。
「どうして、そこまで……」
どうしてスノーは、そこまでして何の関係もないレンを助けようとしてくるのか。
どうしてスノーは、こうまでしてレンに関わろうとしてくるのか。
死のうとしている人を見過ごせない、と言うのなら分かる。普通の良心的な感性を持っている人ならば、自殺しようと試行錯誤している人など無理にでも止めようとするだろう。
なのに、会って間もなく、友好な関係というよりは寧ろ、険悪な関係になっていてもおかしくはないというに、レンの前に立つこの少女は――、
「……だって、君が何かに困ってそうだったから。誰かに、助けを求めてそうだったから」
レンの震えた声の問いの答えは、レンからすれば到底信じられないものだった。それは、レンに対する侮辱とも取れる答えで……。
この少女の目には、レンの姿が一体どのように映っていたのか。それはレンには計り知れない。
あの日、スノーからレンに初めて声をかけてきた時、あの時のレンのどこに、それを感じ取ったというのだろう。
「俺は、誰の助けも求めてない。全部俺一人で出来る。今までもそうだったし、これからもそれは変わらない。別にお前の手なんか借りなくても……」
誰かに助けを求めるような、誰かに物乞いをするような、卑賎で姑息で醜い真似も態度も、誰の前でもしてこなかった。そんなことは無意味だと、痛いほど身をもって知っていたから。
レンは自分にも他人にも期待なんてしていない。それでも、一人でもこの問題は解ける。
一人で――。
「でも、何の手掛かりも掴めていないのでしょう? 何処にも道標がなくて、行き詰っているのでしょう?」
「――っ」
レンの声に被せるようなスノーの真っ当な指摘に奥歯を噛み、レンは地面へと顔を逸らす。
どこまでも一人であろうとするレンの姿勢。どれだけスノーが善意からそう申し出ようと、その姿勢は頑なで崩れることは有り得ない。
一人でやれると、自分に構うなと、そうレンは言っているのに、スノーは根気強く、レンのその姿勢と同じかそれ以上に固い意志を貫き通してくる。
「ね、そうなんだよね。それなら、私がその道を作るから。作ったその道を、一緒に歩いてあげるから。――世界を広げてあげるから」
「世界を、広げる……?」
顔を上げ、戸惑いを瞳に宿すレンは、スノーの言葉を躊躇いがちに繰り返す。
澄み切った蒼穹のような凛とした瞳に輝く『光』は、陰る様子などこれっぽっちもなく、スノーは「うん」とレンに頷き返す。
「一つの方法に拘る必要はないと、私は思うの。別の可能性だって絶対あるはず。だから、もっと色んな視点から『加護』のことを調べてみない? 魔術からは一旦離れて、新しいことを開拓していくの」
「――」
「私は外の世界を見てきたから、そのことに関しては君よりもよっぽど経験があるわ。その私から言わせてもらえば、今の君は一つのことに固執し過ぎて視野が狭くなってると思う。だから、一度別の可能性を探してみない?」
「――――」
「私だってエルフの端くれだし、君が知らないことも沢山知ってる。色々な場所を旅して回って、色々な事も見聞きしてきた。だから君も、狭い範囲で決めつけないで、もっと広い範囲で世界を見てみない?」
「――――――」
「その中で、私も君を殺す方法を探すから。私が君を殺すから」
繰り返し繰り返し、スノーはレンを殺すと、レンの人生を終わらせると、真剣な面持ちで、透き通った穏やかな美声で、言ってくる。
だが、スノーのそれがどれだけ透明で優しさの塊のような声音でも、どれだけ取り繕い言葉を着飾っていたとしても、スノーが言っていることは全て、レンを殺すという一点に終着している。
――こんな所まで、そっくりだな。
性格も雰囲気も全く異なるのに、どうしても似ていると感じてしまう自分がいる。
一度決めたら、曲げず、折れず、貫き通そうとする強固な意志。
雪のように儚げな雰囲気を持っているのに、そうと感じさせない芯の強さ。
諦めるということを知らない、自らの想いを貫く意思の怪物。
幾度となく、その瞳の『光』から、その思いの強さから、妹の姿が見え隠れする。
ならば、期待しても、いいのではないか?
■■が愛している彼女とどこか似ているこの少女になら、期待してしまっても、いいのではないのだろうか?
崩れる筈がなかった頑なな姿勢が、氷解する筈のなかった永久凍土が、スノーの言葉にほだされて、音も立てずに溶け落ちていく。
「本当に、殺してくれるのか?」
壊れた心に満ちていく静かな期待感。
暗闇の中を彷徨い続けていた中で突如見えた淡い光。
その希望と言う名の光に照らされ、レンの心臓は密やかな脈動を打っている。
変わり映えのないレンの日常に、突如として割り込んできたスノー。
鬱陶しく、邪魔でしかない存在だと思っていたが、どうやらそれは間違いだったようだ。
この少女と会った日は厄日だと思っていたが、本当は吉日だったようだ。
この少女は、止まっていた時を動かす福音を齎してくれた。
懇願すら込められたレンの問いに、スノーは厳かに頷く。
「――ええ。私はもう誓ったはずよ。君を殺すって」
歩み寄り、スノーはその白い手を差し出してきた。
「今一度、私は君に誓うわ。私が必ず、君を殺してあげると」
物騒な言葉と共に差し出された白い手。
緩やかな風に色の異なる髪が揺らされる中、レンは目の前の少女の事を考えながらも、ゆっくりと右手を持ち上げる。
レンの過去の一端に触れ、レンが抱える混沌とした『闇』を覗き見て、それでも憐憫すら感じさせない顔と声で、レンがしようとしている行為を肯定する感性。
自殺しようとしている物理的に死ねない人間に、そんなことを止めろと諭すのではなく、手伝い、自らの手で殺すと言ってくる精神性。
一片の曇りもなく、その『光』を損なわない瞳でレンを見つめ、絶対に殺り遂げるという意思を伝えてくる異常性。
この少女の強い意志は狂気的ですらあり、その死生観も、考え方も、レンには到底理解が及ばない。
このお節介で、高潔で、純粋な少女の姿が、異形で歪な化け物に見えて仕方がない。
それでも、自分が死ぬことができるのなら、レンは悪魔とだって契約する。
それに比べれば、お目付け役がいる殺人を犯したと嘯く風妖精に協力してもらうことなど、可愛いものではないか。
「――なんとも、酷い口説き文句もあったものだな」
「くどっ……まぁそうともとれる……かな?」
溜息を吐くようなレンの言葉に、スノーは若干頬を赤らめ苦笑し、首を傾げて肯定する。さっきまでのシリアスな空気がものの見事に吹き飛んで台無しだ。けれど――、
「その言葉、信じさせてもらうからな」
今も少し震える声でそう言って、レンは自らに死を運んできてくれると言う、血に濡れた妖精の手を取ったのだ。




