第一章25 「叫ばずにはいられない」
「お前にっ、お前なんかに! いったい俺の何がっ! いったい何が分かるって言うんだよ!!」
体を内側から灼いた激情に身を任せ、これでもかと喉を震わせる。
いきなり怒声を浴びせかけられたスノーは驚いたように身を竦め、鬼気迫るレンの形相にベルは危機感を募らせてスノーの肩に乗り、金色の瞳を向けてきた。
そんな様子すら目に入らないレンの胸中を支配するのは、激しすぎる嚇怒。燃え上がる憤怒がレンの頭に響く彼等の合唱すら焼き尽くす。
三年もの間――いや、もっとずっと前から、レンの中で鬱屈と溜め込まれていた叫びが、スノーの一言を切っ掛けに噴火した。
「俺は全てを奪われた! 何もかもだ! この孤児院での思い出も! 兄弟のように思っていた人たちも! 本物の母親のように思っていた恩人も! 全部っ……!」
スノーの静かな言葉が頭の中でリフレインする度に、脳天に雷が直撃したかのような圧倒的な衝撃が全身にひた走り、怒りのあまり視界が明滅する。
耳鳴りがガンガンと脳を揺らし、今の発言を決して許してはならないと、レンの魂は雄叫びを上げていた。
「いつだって世界は残酷で、どれだけ足掻いたところで報われない! 血の滲むような努力しても、何も守れなかった! どれだけ頑張ろうと! どれだけ足掻こうと! どれだけ必死に守ろうとしても! 大切なものは全部! 俺の両手から零れ落ちていく!!」
喉が枯れる程に声を張り上げ、スノーが自分の気持ちを理解できる訳がないと、その理由を堪えきれない怒気と共に炸裂させる。
今まで全くと言っていいほど、感情を表に出さなかったレンの激しい怒りを前にして、スノーはレンの怒りの『炎』に気圧され、碧い相貌を見開いた。
今なら先程よりも簡単に、この場から去ることが出来るだろう。だが、それは今や出来ない、してはいけない。レン自身訳の分からない『熱』に体を侵され、沸騰する頭がその行動に移させない。
軽はずみにあんな言葉を投げかけてきたスノーを糾弾するように、レンはさらに声を張り上げる。
「いなくなった実の妹すら取り戻せなかった! いつだってそうだ! 限界まで力を振り絞ってもがいても何一つ守れない! 手が届かない! これ以上俺にどうしろってんだよ! ああ!?」
前世でもそうだった。この世界に来てからも、そうだった。
何も変わったりしなかった。変えることも出来なかった。
いつもレンが望んだ結果など得られず、大切な人達はみんなレンを置いて何処かに消えてしまう。
取り戻したくて、守りたくて、自分にできることは可能な限りやり尽くした。
なのに現実はいつも非情で残酷だ。いつだって、どんな時だって、レンの努力は報われない、実を結ばない。
どれだけ遠くまで手を伸ばしても、その手は届かず、指先がかすりもしない。レンが本当に大切に思っていた者は戻ってこない、守り切れない。
「できる事は全部やったのに! その今までしてきたことは何もかも! 全部! 無意味だったんだよ……ッ! 俺の気持ちが分かるだと!? ふざけるのも大概にしろ!!」
腕を横に振りぬき、八つ当たりとも言える癇癪を爆発させる。暴走したマナが憤懣に乗って周囲を凍結させた。下がり続ける気温、凍り付く大地、それらと共にマナは形を作り、百を超える氷柱がスノーの全身を貫かんと弾幕を張る。
だがしかし、繰り出される氷柱はベルの無言の圧力によって全て圧壊。大地を覆っていた氷と一緒に風に流された。
砕け散った氷は白い霧を巻き上げ、ベルが放つ風で遠くに流される。
氷の破片が混ざる冷たい風に晒されたレンは肩をわななかせ、物凄い剣幕でスノーとベルを睨みつけた。
こんな会ったばかりで、レンの事情を知りもしない赤の他人に、レンの気持ちを理解することなど不可能だ。断言できる。理解されたくもない。
一度目の人生――藺月水仙の人生は、妹の事を除けば、周囲の環境は最悪だった。両親は水仙と真凛が小学校に入る前に離婚。原因は確か、父の不倫だったと記憶している。
そして当時五歳だった二人は、裁判の結果親権を得た、今では憎き母の方について行った。
まだ幼かった二人。双子の妹の真凛は、その時は両親の離婚について、よく分かっていないようだった。だが水仙は朧気ながらも理解していた。もういつもの日常は訪れないのだと。
だからこそ、水仙はこの時から、真凛に心配をかけさせないよう自分がしっかりしなければと、自立する覚悟を決めた。
朝は自分一人で起きるようにして、何も言われずとも家事を行い、買い物も積極的に自分でやって、時間が許す限り、真凛と共に一日を過ごした。
できるだけ普通の、今までと変わらない生活を送ることができるよう、真凛の前では笑顔を絶やさないようにしていた。
両親が離婚した当初は、日々の生活はそこまで酷くなかったと思う。あの母も、特段変わった様子はなかったが、口数が減っていったのだけは覚えている。
だが水仙の献身にも関わらず、最初の一、二年でその日々は狂い始めて、徐々に――徐々に、崩れていった。
水仙の母は、そこまで酒に強い人ではなかった。しかし、父と離婚し、家を離れて安アパートに引っ越してから、母が飲む酒の量は段々と増えていき、煙草も吸うようになった。
初めのうち、小学校低学年の頃は夜にしか飲酒していなかったのに、水仙と真凛が九歳になる前には昼間から酔っぱらっているようになった。
一体いつ仕事に行っているのかと疑問に思っていたが、その時には既に仕事などしていなかったのだと、後になってから気付いた。
毎日の生活が僅かに、少しずつ、窮屈になっていたからだ。
母と最期に会話したのは、いつだったろうか。その頃にはもう、一言も言葉を交わしていなかったと思う。だからこそ、家計が傾いているのに気付くのも遅れてしまった。
ギスギスとした空気が親子の間に芽生え、互いの存在を気に掛けることもない。そんな生活が続いていた。
水仙は真凛といることに時間を割き、母とコミュニケーションを取らずにいた。
そも、水仙は母を頼ろうとせず、出来る事は全部自分でするようになっていた。心のどこかで、自堕落な母の存在を疎ましく思っていた節があったのだろう。
――母の方からも、そんな水仙と真凛に話しかけようともしてこなかった。
それでもまだ、互いの存在を空気のように扱っていただけ、マシだった。
母との関係が完全に壊れたのは、酒に酔った勢いで母が真凛の頭を殴った時からだ。
きっかけが何だったのかは、分からない。ただ、真凛の何気ない一言が母の気に触れたのか、真凛が勉強している姿が気に食わなかったのか、母は手に持ったテレビのリモコンで、唐突に真凛の頭を思い切り殴ったのだ。
その光景を見た後の記憶は、水仙にはない。覚えているのは、頭の中が真っ白になった事と、酒と煙草の臭いが染みついた母が何か怒鳴っていた事。そして、頭を殴られ、痛みに泣きじゃくる真凛の横顔だけ。
その後、水仙が気付いた時には全身に青痣ができており、風呂の中で真凛の頭を撫でていた。
それからというもの、母からの暴力は習慣化していった。
事あるごとに口汚い罵声と、殴る蹴るの暴行を水仙と真凛に加えてくる母。
母が真凛に向ける暴力は水仙が間に割って入り、その全ての痛みを肩代わりした。
真凛は女の子だから、何が何でもその綺麗な肌に傷を付けさせたくなかった。辛く痛い思いをさせたくなかった。その一心で、母の魔の手から最愛の妹を庇い続けた。
「大丈夫? いつもごめんね」と、真凛は瞳に涙を浮かべながら、口癖のように水仙の心配をしてくれた。
その愛おしい声は、いつだって真凛が庇われることに対する、罪悪感を抱いている声だった。
水仙はそんな罪悪感すら吹き飛ばすように、「大丈夫に決まってるだろ。こんぐらいどうってことないさ」と、いつも笑顔を作って誤魔化し、負い目を負わせないようにしていた。
本当は凄く痛かった、辛かった。時には痣だけにとどまらず、骨に罅が入ることもあった。
泣き叫び、むせび泣き、逃げ出したい夜もあった。それでも声を上げることは決してせず、ただひたすらに歯を食いしばり耐え続けた。
なぜなら、真凛のためならば、どんな苦痛も耐える事ができたから。我慢することができたから。
彼女が無事なら、それでよかった。彼女が笑ってくれれば、それでよかった。
何の心配もいらないと、いつだって真凛の前だけでは明るく振舞おうと、痛みを堪え、傷付きながらも、母の暴力をその身に受け続けた。
しかし、家庭環境は悪化していくばかり。
働かない母。生活費は元父が一定のお金を振り込んでいたが、それも微々たるもの。三人暮らしを維持するのが困難なほどだった。当然、節約する必要があるし、新しい収入源を確保しなければならない。
だというのに、母は働かないくせして変わらず酒と煙草を買ってくる。推測だが、昼間はパチスロでも打っていたのだろう。
そして水仙は小学校五年生になる頃に、日々の生活の為に働き始めた。
年齢を偽り、仕事に就く。当時は小学生だ。大人の目を誤魔化すのには、少しばかり苦労した。
だが、自立心が芽生えたのが早かったからか、当時の小学生にしてはかなり大人びた雰囲気が出ており、それが幸いした。特に問題なく、新聞配達の仕事に就くことができ、働き始めた。
――身長が低かったので、そこだけが難点だったが。
慣れないことが多く、何度も失敗を経験した。それでも真凛の為に、めげず、たゆまず、働き続けた。
中学に上がってからは、バイトの数を増やした。三つのバイトを掛け持ちし、睡眠時間を削って朝も夜も働き続けた。
そして、どれだけ忙しくても、家のこと――真凛のことだけは疎かにはしなかった。
水仙が頼れる存在がいるとしたら、真凛だけだったから。水仙の心の支えは、真凛だけだったから。
彼女さえいれば、水仙はどんなに辛くても頑張れたから。彼女の為だけに、水仙は生きていたから。
水仙の一番大切な、かけがえのない人が真凛だけだったから。
肉体にも、精神にも、疲労が溜まる。なのに何故かお金は貯まらない。
理由は単純明快だった。全て、あのクズのせいだった。
年齢が上がるにつれて、お金は用入りになっていく。だからこそ、水仙はバイトを増やしていた。
真凛には部活動で必要なお金もあり、それを工面するためにさらにバイトを頑張った。
なのに、あのクズは水仙が汗水たらして必死に稼いだお金を勝手に持ち出し、無駄に浪費していた。
水仙がどれだけ対策を練っても無駄だった。お金に対する執着心、嗅覚。それを持ち合わせていたあの寄生虫は、水仙の対策を全て破り、稼ぎを強奪していく。
勿論、あの害虫がお金を見つけられない時もあった。だがその時は、質が悪い事に真凛を執拗に痛めつけようとしてくる。
あれは、理解している顔だった。水仙がどれだけ真凛のことを大切に思っているのか、理解してやっていた。
しかも、よりにもよって水仙が家を空けて、真凛しかいない時を狙って犯行に及ぼうとしてくる。
そのタイミングがイレギュラーにやってくるものだから、いつになっても気が抜けない。
真凛は部活動で剣道をやっていた。真凛は所謂天才肌で、大抵の事はやってみると上手くいく子だった。運動神経もよく、更にはその道に才能もあったのだろう。
故に、真凛はすぐに剣道の大会で頭角を現し、全国上位に入るようになった。
だが、いくら真凛が自衛の手段を持っていて、それが兄としてとても誇らしかったとしても、あの悪魔の如き凶行を見過ごすことは出来ない。真凛を危険な目に遭わせる訳にはいかなかった。
あの強欲な怪物が水仙の集中を乱し、その結果バイトに支障をきたすこともあった。
そのせいで、何度バイトを首になったことか。バイトを首になった遠因をあれに押し付け、次は失敗しないようにと、水仙は新しいバイト先を探した。
そんな水仙をやはり心配した真凛は、中学三年生になる前に部活を止めてしまった。そして真凛はすぐには学校から帰宅せず、図書館で水仙のバイトが終わるまで、そこで勉強して待つようになった。
お腹を空かせるだろうに、真凛は図書館の閉館時間までひたすら勉強に打ち込むようになった。
忙しい水仙とは違い、真凛には親しい友達もいた。偶にその友達と一緒になって、そこで真凛は勉強していたという。
彼女たちは、水仙と真凛の家庭環境を察しているようだった。真凛はできるだけ隠し通そうとしていたが、無理があったようだ。
そんな真凛の友達たちは、時々彼女等の家の残り物を真凛にくれるようになった。
水仙と真凛にとって、それはとてもありがたいことであった。時には、それ以上の申し出があったり、彼女等は自分の両親に相談をしていたそうだ。
だが、水仙も真凛も、それら全てを断った。心配することは何もないと、これ以上迷惑をかける訳にはいかないと、自分たちは大丈夫だからと、断り続けた。
貧しく、母の暴力に耐え、それでも真凛の為に折れず、挫けず、諦めず、毎日を生き、日々は過ぎていく。
そして更なる悲劇が水仙を襲ったのは、中学三年生の春休み。高校に入学する前だった。
水仙は何とか二人分の学費を揃え、それから高校受験が終わり、真凛がバイトを始めるようになった頃。
真凛は県内トップの進学校へ、水仙は資格が取れる商業高へ、それぞれ進学が決まり、二人してバイトに勤しんだ春休み。
ある日バイトに行っていた真凛が、何故か家に帰ってこなかった。真凛のスマホに電話をかけるも、繋がらない。真凛のバイト先に連絡しても、知らないの一点張り。
警察に相談し、捜索願いを出し、自らもバイトを休んで、必死になって真凛を探した。
一日、二日、三日、一週間、一か月――春休みが終わり、高校の入学式が終わっても、真凛の影すら見つけられなかった。
あのクズは、真凛がいなくなったことに腹を立てた。金ずるの一人が、いなくなったからだ。
だが、腹を立て、今までよりも一層酷く水仙に暴力を振るうことはあっても、真凛のことを探そうとはしなかった。
奴にとって、真凛はその程度の人だったということだろう。途方もない怒りが水仙の心を焦がしたが、金食い虫に歯向かうより真凛を探すのに時間とエネルギーを使うほうが何倍も有益だったので、その怒りの矛先をノミに向けることはしなかった。
街中を探し回り、真凛の写真を印刷した紙を配り、知らない人にもなりふり構わず協力を仰いだ。
――真凛の友人とは、連絡がつかなかったので、頼ることも出来なかった。
真凛からは、彼女等は二人して家の事情、通う高校の影響で県外に引っ越すと言っていたので、そのせいだった。
探せども探せども見つからない真凛。警察のほうでも手掛かりが全くないと、捜査は暗礁に乗り上げていた。
多くの見知らぬ人に声をかけ、紙を配ったが、意味がなかった。世間の風は冷たく、何の協力も得られなかった。
声を枯らし、血涙で枕を濡らし、それでも諦めることなく、真凛を探し続けた。
だが、別の問題が水仙に降りかかる。――学校での虐めだ。
いつも暗い雰囲気で社会的弱者なのが目に見えていたからか、高校に入学してから一か月と少し経ったあたりで、それが始まった。
幼稚にも思える持ち物を隠す行為から始まり、それを壊され、身体的な嫌がらせをされ、暴力を振るわれ、金銭の要求にまで発展した。
なんと人の心は醜いものだろうか。この世に悪魔がいるとするならば、それは人間の心に巣食う闇に他ならないと水仙は思う。
分かりやすい弱者を惨めに晒上げ、愉悦と快楽に浸る。他人を見下し、相対的に自分が優れていると思うのは、なんと楽な事だろう。侮蔑と嘲弄の目で他者を――弱者を嬲る。人とはここまで残酷になれるものなのだ。
水仙は可能な限り無視を決め込むも、悪魔の使徒たちは見逃してくれなかった。
抵抗すら許されず、執拗に袋叩きにされ、爪をはがされ、口内は血の味しかせず、歯が欠けて、汚物をかけられ、血に塗れて、下水に顔を突っ込まれ、拷問され、金を奪われ、人としての尊厳を踏みにじられる。
水仙には抵抗する気力もなくなり、真凛を探すことしか頭に残っていなかった。
どれだけ惨めを晒そうと、真凛の居場所だけは作りたかったから、残しておきたかったから。
――水仙が、真凛の居場所にならなければいけなかったから。
その状態のまま時は過ぎ、進級して高校二年生の冬直前、あの人の形をした腐った肉塊は蒸発した。
それまでに、金を寄越せと頻繁に水仙を殴り倒してきた寄生虫。
何故か家には化粧品が増えていた。貯蓄の減りも加速していた。その理由がこの時になってハッキリした。
男。あの雌犬は親としては兎も角、見た目だけはそれなりだった。
ホストクラブにでも通い詰めていたのだろう。高級そうな鞄も、家に置いてあった気がする。
奴は水仙の金をごっそりと抜き取り、銀行の通帳と印鑑も盗み、どこかへと消えた。
はっきり言えば、清々した。これで家では自由だ。家に帰ってから、怯える必要もなくなった。
だがそれは、この時の水仙にとって何の慰めにもならなかった。
金がないのだ。生きていくために必要なお金が。
今までも散々搾取され続け、それでもギリギリのラインはセーブしていた。
だが、手元には財産と呼べる物が何も残ってない。水道代を払えない。光熱費も払えない。家賃も払えない。学費も払えない。食費もない。
あの心が醜く、卑しい肉塊が残していったのは、多額の借金だけだった。
もうどうすればいいのか、水仙は分からなくなってしまった。
見た目は乱れ、嫌な臭いが付き纏い、声はかすれ、体は傷つき、涙も涸れ果て、寒さに凍え、労苦に精神を蝕まれ、このままでは電気も、水道も、ガスも、止まってしまう。
最低限の生活すらままならない状態では、学校に行くどころの話ではない。
高校は自主退学。その時残っていた僅かなお金で、身形だけは何とか整えた。
そして、折れかけた心を真凛の顔を思い出して必死に繋ぎ止め、バイトをして、稼いで、臓器を売って借金を自力で返して、真凛を探して、探して、探して…………。
――まだ寒さが残る三月のある日の夕方、水仙が配っていた紙がクシャクシャに丸められて、道端に捨てられているのを見つけた。
ゆっくりとかがんでそれを拾い上げ、しわを伸ばす。それは真凛の写真の部分だけ、切り取られていた。
ぽたぽたと、アスファルトが塩辛い水で濡れていく。
見つからない妹。一人ぼっちで、孤独に苛まれ、頼れる人もおらず、抜け殻のように働く自分。
傷跡が残る体を引きずり、家路に着こうと水仙はとぼとぼと歩きだした。
その時だった。嘲笑うような会話が水仙の耳に入ってきたのは。
「おい! これがあいつの妹ってマジかよ!」
「ありえねー。めっちゃ美人じゃん。あいつなんかにはもったいなさすぎるわ」
「でも失踪してんだろ。あいつに嫌気が差したから、逃げ出したんじゃね?」
「ぎゃはははは」と品のない笑い声を上げるのは、水仙の虐めに加担していたグループのメンバーだった。
彼等は水仙が聞いているのに気付いていない。なのに、狙っているのかのようにその会話を続ける。
「てゆうかさー、元からこんな妹なんていないんじゃね?」
「それあるかもな。周りの気を引くために、いもしない妹をずっと探してるとか? 悲劇の主人公気どりかよ、きもちわりー」
「まぁ、もし本当にこの美人ちゃんがあいつの妹だったとして、実在してるとしても、もう死んでんじゃねーの? だって二年近く見つかってねーんだろ」
「かーっ、もしそうだったらもったいねー」
後に続く下品で真凛を貶めるような言葉は、もう水仙の耳には入っていなかった。
それはそれで、良かったのかもしれない。
だが、聞くに値しないその汚泥たちの会話が、無視してしまえばいい下劣どもの会話が、心無いその一言だけは、耳に入ってしまったから。
水仙の傷ついた心に追い打ちをかけるように、割れたガラスが突き刺さって、食いこんでいった。
立ち尽くし、呆然とし、放心状態になって、水仙はふらふら、ふらふらと、宙を舞う木の葉のように歩き出して――。
自宅を通り過ぎ、立ち入り禁止の工事現場に入り、いつの間にか水仙は、廃ビルの屋上の端に立っていた。
眼下には普通の生活を営む人々が家に帰ろうと、歩き、車を運転し、バスに、電車に、乗ろうとしている。
真凛が死んでいる。その可能性を、一ミリも考えなかった訳ではなかった。
真凛はまだどこかで生きている。そう信じて、また会える日を夢見て、毎日を生きていた。
だが、その頃の数か月、どうしても暗い想像ばかりが頭の中では溢れかえっていた。
寒い部屋で一人、夜を過ごす時間。眠ろうと目を瞑ると、どうしても嫌な事ばかりが頭に浮かぶ。
その究極が、真凛がもうこの世界にいないのではないのかという物だった。
心の片隅にあった最悪の事態。決して言葉にはできない、させない、してはいけないこと。
それを目の前に、あの人の悪意だけを詰め煮込んだような低劣な集団に、突き付けられた。
眩暈がして、水仙は膝から崩れ落ちた。あの言葉が耳について、水仙の胸に深く突き刺さって離れない。
局所的な大雨が、罅割れたコンクリートの上に水溜まりを作った。
ぽっかりと、目の前の亀裂が入っているコンクリートと同じように、ひび割れた心に大穴が空き、砕け、散っていく。
――もう、疲れた。
水仙の肉体も、精神も、とっくの昔に限界を迎えていた。
心身ともに削られ、抉られ、苦汁を舐め、涙を飲み込み、辛酸を味わい、仕事では笑顔を取り繕い、黙って、耐えて、叫ばずにいたが、――限界だった。
真凛がいなくなったあの夜から既に、水仙は限界を迎えていたのかもしれない
――ここから飛び下りれば……真凛と同じ場所に、行けるだろうか。
ゆっくりと立ち上がり、高みから階下を見下ろす。
高度は十分。ここから落ちれば、柔い人体など簡単に壊れるだろう。
そう水仙が思った時には、迷いなく頭から地面に向かって飛び下りていた。
判断は一瞬。結果は火を見るより明らか。
全身で風を切る中、走馬燈が、一瞬の内に水仙の頭の中をよぎっていった。
痛かったこと、辛かったこと、苦しかったこと、嫌だったこと、怖かったこと、悲しかったこと、寂しかったこと、寂しかったこと、寂しかったこと、寂しかったこと、寂しかったこと、寂しかったこと、寂しかったこと、寂しかったこと、寂しかったこと、寂しかったこと、寂しかったこと、寂しかったこと、寂しかったこと、寂しかったこと、寂しかったこと、寂しかったこと――、
――真凛の、花のように美しい満面の笑顔。
「願わくば、最後に真凛の笑顔を、この目で見たかったなぁ」
その呟きは雫と共に硬い地面に吸い込まれ、誰にも届かない。
そして、藺月水仙の人生は投身自殺により幕を閉じ、体感ではそのすぐ後に、レンという名で二度目の人生が始まった。
二度目の人生――今世では、ここにあった孤児院で目を覚ました。
最初の内は混乱し、状況の把握に手間取った。
なにせ、確実に死んだと思ったのに生きていたのだから。
超人でもない限り、戸惑うことは必至だろう。
転生したことを理解したのは、最初の目覚めから二日経ってからだった。
そして死ねなかったことに、絶望した。
どうして世界は、いつも水仙を過酷な目に遭わせるのだろうか。
生きる気力もない、自殺してしまった、死にたかった自分を、何故転生なぞさせたのか。
ただのぼろ雑巾に成り果てた、乾いて、枯れ木になってしまった自分を、何故記憶を保ったまま転生させたのか。
輪廻転生というシステムがこの世に存在するならば、せめて記憶の全てを忘却したかった。
そして、そんな事をひと時でも考えた自分に愕然として、呆れ果てて、侮蔑して、嫌気が差した。
目覚めて、一歳になるかならないかぐらいの小さく不自由な体で、水仙は無気力な日々を過ごす。
揺り籠の中から窓の外を眺める毎日。
おしめを取り替えられ、柔らかい離乳食を食べ、穏やかな美声の子守歌を聴いて、人肌の温もりに囲まれて、風呂で体を洗われて、賑やかな子供達の姿を眺めて、その姿はいつだって楽しそうで、輝いていて、美しい聖母のようなエルフの院長は、そんな彼等を愛を込めて面倒を見てて、水仙もその愛を受けて育てられて――、
「怖かったのね。もう、大丈夫よ」
悪夢を見てうなされていた夜にそう言われて、その温かい胸の中に小さな体の全てを包み込まれた。
心地よい心臓の律動が、久しく感じていなかった人の温もりが、枯れて、乾いて、壊れて、無感動で無関心だった水仙の心に優しく染み込んで、甘やかに溶かして、慈雨の如き慈しみで潤して、繋ぎ合わせてくれた。
目の奥から熱い物がこみ上げ、ぐちゃぐちゃな感情と共に滂沱と涙が溢れ出した。
ずっと辛かった。ずっと悲しかった。ずっと寂しかった。
誰かに必要とされたくて。誰かに守ってもらいたくて。誰かに慰めて欲しかった。
泣いて、泣いて、泣いて、泣き喚いて、今までの辛かったことの全てを吐き出して、その瞬間に、レンという人物が初めてこの世界に産声を上げたのだ。
少しづつ、着実に、レンは成長し、傷を癒していった。
心に空いた穴は相変わらずそのままだったが、それでも少しづつ前を向いて、歩き始めた。
この世界を知り、知識を蓄え、生きていくための力をつけ、アイリスから多くの師事を受けた。
国の歴史、読み書き、魔術、剣術、体術、礼儀作法、法律、交渉術、算術は当然しなくてもできて、動植物、魔獣、英雄譚、芸術、伝統、文化。
ありとあらゆる生きるのに必要だと思われる知識を、貪欲に、自主的に、スポンジのように吸収していった。
ここがファンタジー世界だとしても、知識は時に、剣や盾よりも役に立つ事があるから、可能な限り頭の中に詰め込んだ。
アイリスは本当に様々な事を知っていて、その知識や経験の一部でもいいからと、一言一句覚える勢いで教えを乞い、学んだ。
それと同時に、どんな時でも、どんな相手でも、この場所を守れるよう武術を身に着けた。
どうやらこの新しい体は、かなりの潜在能力を持っていたらしく、気持ち悪いほど自分の思うように体が動いた。
それでも驕らず、慢心せず、常に倒れるまで、己の限界を超えて、研鑽に励んだ。
もう二度と、あんな思いしたくなかったから。もう二度と、何も失いたくなかったから。
血反吐を吐くような思いの努力と研鑽を、三歳になる頃から、毎日、毎日、雨の日も、風の日も、雪の日も、嵐の日も、休まず、欠かさず、まだ足りない、まだ高みを目指せると、重ね続けた。
トラウマにぶつかり、前進する足を止めてしまったこともあった。
それでも、自己を叱咤し、奮い立たせ、二度と折れない覚悟を固めて、乗り越えた。
『加護』がこの身に宿っていると知ったのも、その時だった。
――初めの内は、どんな傷でも瞬時に治る『加護』かと勘違いしていたが。
『加護』を持っているとアイリスに伝えた時、彼女にはあまりその事を吹聴しないよう、もう一人の孤児と共に、口を酸っぱくして言われた。
『加護』は神からの祝福である。それが世間一般での認識だ。
だが、レン達が住むクロッス魔導王国では、少しばかり事情が異なる。
『加護』持ちは危険な存在、そう多くの国民が信じていた。
三百年近く前、強力な『加護』を持つ三人の人物が、国中で暴れたという歴史があった為だ。
民は怯え、多くの村や町が人為的に破壊され、国が総力を挙げて討伐に乗り出す事態。
だが、その人物等は王城に侵入し、王族にまで手をかけようとして、しかし、失敗した。
当時の国王――『魔王』バーナ・クロッス、王国宮廷騎士団団長『岩峯』ディートフリード・デーベライナー、そして、王国宮廷騎士団副団長『三原色』アイリス・フリーゼが筆頭となり、『加護』持ち三人は討伐され、事態は沈静化された。
そういった背景があり、この国では『加護』を持つ者達への風当たりや偏見が他国よりも強い。
現在では創神教の働きかけがあり、昔に比べ『加護』持ちへの差別はマシになっているそうだが、隠しておいて損は無い。
この世界でも、そうして辛く、不自由で嫌な思いをすることがあった。
だが、何一つ不幸なことがない人生、失敗が存在しない人生など有り得ない。
たとえ転生して、二度目の生を授かったとしても、それは不変的なものだと思う。
大人だって失敗するのだから、前世と繋げて考えても、失敗や挫折を経験しないほうがおかしい。
誰だって、小さな失敗や挫折を経験する。
そして失敗から学び、過去からの教訓を得て、挫折から立ち上がり、成熟して、大人になっていくのが人間だ。
レンの場合、恐らく普通の人の倍はその時間がかかっている。もしかすれば、今もまだその精神は成熟しきっていないのかもしれない。
そうしてレンは賑やかな孤児たちに囲まれ、時に苦しく、時に厳しく、時に楽しく、心の底から笑えるようになり、過去と折り合いをつけ、新しい人生を歩もうとして、日が昇り、月が沈み、月日は巡って――あの日が来た。
獣の遠吠え、燃え盛る炎、悲鳴を上げる村人。
燃やされ、壊され、喰われて、阿鼻叫喚の地獄絵図が瞬く間に描かれた。
絶体絶命としか言いようがない、あのアイリスですら焦るような魔獣の大軍が、村を襲った。
アイリスは孤児達をレンや年配の孤児に任せ、一人魔獣の行軍を食い止めようと最前線に飛び込み、レンは後ろ髪を引かれたが、それでもアイリスを信じて、逃げ出した。
孤児の手を引き、襲い掛かる魔獣の爪牙を切り抜け、逃げて、逃げて、逃げて――。
そして、逃げ出した先で『悪魔』と遭遇した。
この時は、まさか自分が「ここは俺に任せて先に行け」のような、ありきたりな台詞を口にするとは思ってもいなかった。
『悪魔』を食い止め子供達を逃がそうと、レンはたった一人で必死の白兵戦に挑んだ。
一体どれだけの時間を『悪魔』と戦っていたのか分からない。
当時のレンは、幾度も『悪魔』の攻撃を喰らい、傷付き、血を流し、『加護』に癒されて、何とか戦線を維持できていた。
それほどまでに分が悪く、しかし拮抗した戦闘を繰り広げていたレンだったが、『悪魔』のものではない別の攻撃がその場に割り込み、レンは消し炭になって初めて死んだ。
その時最後にレンの目を焼いたのは、闇よりなお黒い何かだった。それが何かを認識する前に、レンは死んでしまった。
その何かのせいで一瞬のうちに体が消失し、レンの意識は途切れた。
そして死んだと思っていたが、幾ばくかの時間が過ぎてから、何故かレンは目を覚ました。
傷一つ残っていない肢体、あの漆黒の何かは夢か幻か。
――着ていた服は無く全裸だったので、あれは現実のものだったと思うが。
それでも、確実に死んだと思ったのに、レンは生きていた。
魔獣の大軍も、あの『悪魔』も、レンを消し飛ばした何かと同じように、蜃気楼の如く消え去って、静寂だけが残されていた。
助かったのかと、最初は思った。
自分は戦場のど真ん中で、無防備な状態で長時間倒れていたのだ。
これなら、アイリスも、子供達も、助かったに違いないと、レンは彼等の名前を呼びながら、変わり果てた村を歩いた。
焼け落ちた家屋、風になびく煙、血と臓物の海が広がる地面、ぬかるむ地面を素足で踏み、ぬちゃぬちゃと気持ち悪い感触と音が響き、濃密な血や肉の焦げる臭いが鼻腔に充満し、麻痺していく嗅覚、そして――死体。
頭が潰れた死体、四肢がもげた死体、目が抉られ眼下が窪んだ死体、下半身が無い死体、下半身しかない死体、絶望に目を見開いた死体、恐怖に顔が歪んだ死体、バラバラにされた死体、齧られた死体、燃え尽きた死体、切り刻まれた死体、毒に侵された死体、腹に風穴が開いた死体、見知った誰かの――死体。
死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体。
そこかしこに死が溢れ、村だった場所には死体の山が築き上げられていた。
倒れこみ胃の内容物を全てぶちまけ、涙が出なくなるまで泣き続け、レンはゆっくりと立ち上がった。
死体の山を手作業で崩し、魔法を使ってできる限り綺麗に整える。
誰なのか判別できほど損傷している死体もあったが、孤児院の子供達だけは、見間違えることはなかったし、そこまで酷い状態ではなかった。
アイリス以外の全員を見つけ出し、倒壊した孤児院まで運んで、更地にして、土葬して、石碑を立てて――、
「――――――!!」
音にすらならない慟哭が夜の闇を劈き、喉が枯れるまで声を絞り出し、石碑に縋り、崩れ落ちた。
胸を掻き毟り、爪が剥がれ、暗い穴が空く。
その傷も、簡単に塞がり、治った。
途方もない喪失感、果てしない絶望感。
心の古傷は開き、粉々に粉砕され、修復不能なまでに崩壊した。
粉砕された心は空虚に埋没し、前髪の一部が白く染まり、世界から急速に色が失われていく。
選択を、誤った。
『悪魔』なんかの相手をせず、子供達を守りながら一緒に逃げれば良かった。
子供達から離れなければ、こんな結果にはならなかった筈だ。
彼等を守るつもりで『悪魔』の相手をしたというのに、結局何一つ守れなかったではないか。
今までしてきた努力は一体何の為のだったのか?
レンは何の為にこの世界で生きてきたのか?
分からない、理解できない、思い出せない。
レンの『愛』は『哀』へと移ろい、やがて『虚』へと変貌する。
二度も大切な人を奪われ、心が壊れ、それでも廃人にすらなれず、レンは銃口を突き付けるようにゆっくりと掌を頭の横に添えて、氷の魔法で頭を吹き飛ばした。
だというのに、レンは再び目を覚ました。
確実に自分の頭を撃ち抜いた。即死した筈だった。なのに何故生きている。
まさかと思い、腕を切り飛ばして、それが瞬時に再生していくのを確認した。
レンが持つ『加護』は、ただ傷を治す加護などではなかった。
『死』からも復活する、レンにとっては呪いのような『加護』だった。
この『加護』の呪縛に囚われ続ける限り、レンは現世という名の地獄に縛りつけられる。
大切な者を死なせてしまった大罪と十字架を背負い、無間地獄で生き続けなければならない。
胸が張り裂けそうな、半身を無理矢理引きちぎるような、魂を直接握りつぶされるようなこの痛みに、永遠に苛まれ続けなければならない
世界はレンを過酷な運命に強制的に導き、その茨が咲くレールの上を裸足で歩かされる。
そんなことは御免こうむりたい。
レンは思いつく限りの、ありとあらゆる死に方を試した。
けれど、その全てが無駄で、何も成果を得られなかった。
それでも、死ぬことしか考えられず、魔術と空間魔法に一縷の望みにかけ、『魔術都市』へと赴き、三年もの間調べたが、未だに何も見つからない。
これまでの水仙という人物の人生を、レンという人物の半生を、何も知らないくせに、今レンの目の前に立つ少女は、この真実を知ったとしても、分かると言うのか。
「分かる訳、ねえだろうがぁ! 俺が今までどれだけ苦しんできたかを! 傷ついてきたかを! 何にも知らないくせに……! 知ったような口をきくんじゃねえよ!!」
転生者という存在を、この世界の住人が理解できる筈がない。
水仙の苦境を、レンの苦境を、水仙の苦悩を、レンの苦悩を、水仙の苦痛を、レンの苦痛を、何人たりとも理解できる筈がない。
レンの中に深く根付いている死にたいという欲求も、理解できる筈がないのだ。
「本当に死にたいのか!? そうに決まってるだろ!!」
スノーの問いは愚問だ。これほどまでに強く、死を願う人などレン以外にいる筈もない。
レンの心は血を流し過ぎた、壊れ過ぎた。
この体はいくらでも再生するが、心は、精神は、治ることがない。
生きようとする意志の炎など、とっくの昔に消えている。
今のレンには、生きる意味も、生きる理由も、生きる価値も、何も無い。
今のレンには、死ぬ意味も、死ぬ理由も、死ぬ価値も、全て揃っていて、この罪を償う為にも、死ななければならない。
「……これ以上、苦しみながら生きるのも嫌なんだよ。俺はこんな自分も世界も大嫌いだ……! だから――ッ!」
世界は常に、レンの努力を嘲笑い、否定してくるから。
死にたいのだと、生きていたくないのだと、己の自殺願望を初めて他人に打ち明けた。
『熱』に浮かされ余計なことまで口走ってしまったと、下を向き荒い呼吸を繰り返すレン。
溜め込んでいた鬱屈とした感情を吐き出した途端、脱力感と自己嫌悪がレンの体に襲い掛かった。
普通なら、多少なりとも楽になるものではないのか。
全てとは言わない。けれども、今まで溜め込んできた感情の一部を吐き出した今でも、胸に突き刺さる痛みは変わらず、残ったのは堪えきれない死への衝動と寂寥感だった。
それに、過去を思い出して言葉にしたことで、余計に罪悪感と自責の念が強まり、悲嘆の海に深く沈んでいく。
レンのこの気持ちを真に理解できる人は、存在しない。誰にだって、理解できない。
この自殺願望をスノーに打ち明けたところで、何も変わらない。
これからも一人で、この苦痛に耐えながら、死ぬ方法を探すだけ。
二度も人生を歩んできて、その二つとも悲惨な目に遭い、罪の意識に囚われ、それを償うことすら出来ず、死にたいのに死ねず、ただ生かされる命。
レンと同じように自殺願望がある人でも、完全に理解することは出来ないだろう。
もし、この気持ちを真に理解できる人がいるとすれば、それはレンと同じだけの境遇を持つ者ぐらいだ。
そんな人がいたとしても、レンが救われる訳でもない。
だからレンは――、
「――そんなにも生きるのが辛いなら、そんなにも生きるのが苦しいなら……私が、手伝ってあげる」
ふと、俯くレンの鼓膜に透き通った声が響いた。顔を上げ、声の主を真正面から見る。
レンの正面で真っすぐに立つスノー。スノーの碧い瞳の光は、何度見ても真凛のものと似ている。
恐らくは、何かしらの言葉でレンの事を励まそうと声を掛けてきたスノー。だがたったの一言、その最初の一言でレンを激昂させ、八つ当たりされたスノーは、それでも毅然とした態度と真っ直ぐな眼差しで、レンを正面から見据えている。
一陣の風が吹く中、レンの叫びを聞いたスノーはそっと自分の胸に手を当て、瞑目し一つの覚悟を瞳に宿して、こう言った。
「私が君を殺してあげる」
その瞬間、運命の歯車がゆっくり、ゆっくりと、動き出した。




