第一章22 「最後の晩餐」
「どうして、傷が治ってる……」
暗幕が落ちている黒瞳で睨む先、『悪魔』は治ったばかりの首を捻り、濁る瞳でこちらを嘲笑い、唾を飛ばして呵々大笑している。
あと少しというところで仕留めそこなたものの、それなりの傷を負わせることに成功したレンは、空高く尾を引いていく笑声の中、『悪魔』が発揮した謎の回復能力に、血管が浮かび上がるほど強く剣の柄を握りしめた。
このまま一気に畳みかければ、討伐に王手がかかったというのに……。そこまできて、今の一撃すらなかったことにされたのは、精神的にかなりきつい。
折角剣の間合いにまで入れたというのに、また一からやり直しだ。偶然生まれたチャンスを棒に振ってしまったのは、今日これで二度目。
不甲斐なくて自分で自分に腹が立つし、情けなさすぎて反吐が出そうだ。
――いや、一旦……落ち着け。
レンは柄を握りしめる手の力を緩め両の瞳を閉じ、肺の中を空にする勢いで、本日二度目となる長い息を吐いた。
スノーはバフォメットへの警戒を解かないまま、こちらを心配そうに見つめていたが、その碧い視線すらも思考から排除する。
今のは偶発的に生まれた好機であり、それを逃してしまったのは痛い。だが、まだレンがバフォメットに敗北した訳ではない、
こちらの敗北条件は、都市に侵入されて壊滅的な被害を与えられること。断じて、レンが殺されるという事ではないし、ましてや『悪魔』を殺せなかったということでもない。
逆に勝利条件で言えば、ベストは討伐。ベターは撃退だ。
そう、まだ負けたわけではない。こちらは『悪魔』相手に一歩たりとも『魔術都市』の地を踏ませてはいない。
だからこそ、諦める必要も、絶望する必要もない。また一から、少しずつ、確実に、勝利に向けて走ればいいだけ。
今、レンが新しく考え直さなければいけないのは、バフォメットが一体何をしたのかだ。
『悪魔』の攻撃自体は掠った程度だが受けた。だがそれは、自分には全く関係のないこと。
いくら『悪魔』の攻撃を受けたところで自分にも、奴にも、何の影響も及ぼさない。
だというのに、何故『悪魔』の傷は塞がっている。
「あの棘は、刺さらなかったよね?」
スノーはレンが目を開けたのを見て、もう一本の氷の剣の柄に手をかけつつ、再度確認を取ってきた。
憂慮も含まれたスノーの問いかけに、レンは軽く顎を引き、
「アイツに回復させるようなヘマはしてない」
「そうよね。……じゃあ、どうして?」
それこそレンの方が聞きたいぐらいだ。本当に何故、バフォメットに付けた傷が塞がってしまったのか。
奴の傷が再生するとすれば、誰かの血肉、マナを喰らった場合。つまりは、『悪魔』が直接人に攻撃をして殺した時。
そうでないのならば、どんな摩訶不思議な力を使ったというのか。
レンは『悪魔』の能力は回復手段以外も大体把握している。――中には、今日初めて知ったものもあるが。
そこはいいとして、バフォメットのその能力の中に今のような現象、何の媒体もなしに回復する手段など存在しない。
そも、奴が回復する手段など、先の人に直接攻撃をして殺す時だけなのだ。
「だから絶対に回復するための供給源があるはずだ。それを見つけない限り、例え致命傷を与えたとしても意味がない」
「なら、その供給源を探して『悪魔』から遠ざけるか、一撃で倒すしかないのね」
「そうだが……万一を考えて、それから遠ざけた上で、即死させるのが望ましいな」
スノーの意見に同意しつつ、レンは最悪の事態を想定した討伐方法を提案。
バフォメットの再生能力がどの程度なのかは未知数だ。故に、即死するような攻撃が通ったとしても傷が元通りになってしまう、なんてことになってしまうかもしれない。
そんなことが起きてしまっては、バフォメットを倒すという意思が折れかねない。
バフォメットの攻撃は防げど、近づく事は未だ容易ではない。そんな中、何度も即死級の攻撃を当てろ、というのは流石に難易度が高すぎてやる気が削がれる。
「分かったわ――それで、レンはどう考えてるの? 私より『悪魔』のことに詳しそうだけど」
「――それを話し合う時間はなさそうだ」
「えっ――!」
遠くまで伝わる振動音、レンは咄嗟にスノーに前に出て音速の槍に直剣を合わせ、横に逸らした。
その後も続く黒の渦、六本全てを乱雑に振り回すバフォメットの攻撃はより苛烈になっていく。
レンはその全てを難なく見切り、的確に弾き、いなしていく。
やまない金属音は次第に黒板をひっかくような不快な音に変わるも、それは刹那の間に空気を震わすことはなくなり、無音となった。
流れる水のような流麗で無駄のない剣技、レンはバフォメットの攻撃に完璧に対応し始めた。
その力強くもしなやかな剣捌きは、まさにどんな形にも姿を変える水そのもの。
絶え間なく押し寄せる闇を払い続けるレンを、雲間から差し込む日の光が照らす。ちらと目線を太陽にやる。体感ではそこまで長く戦っていないと思っていたが、西から昇る日の様子を見るに、それなりに長い間戦闘を継続していたようだ。
その証拠として『悪魔』の攻撃に目は慣れ、こうして再び余裕を持って対応できているのか。
――作戦は変更だな。
「取り合えず、バフォメットの治癒能力については戦いながら考える。時間を稼ぐぞ」
できれば短期決戦が望ましかったが、こうなってしまっては、いい意味でも悪い意味でも長期戦を覚悟でやるしかない。
レンは言いながら、バフォメットの相手ができるギリギリのラインを見極め、身体強化のレベルを下げる。
今の今まで続いていた針に刺されるような全身の痛みが引き、それと同時に、急に体が重くなるのを感じる。
それすらもレンは計算にいれ、美しさすら持ちうる斜めの銀閃を虚空に描く。枝を受け止め衝撃を殺し、クッションのように柔らかく引き付ける剣先。その一閃は、空気を裂く鞭をふわりと上へと押し上げた。
「……今だ」
「うん」
後ろで氷剣を構え控えていたスノーは、レンが作り出した『悪魔』の連撃の隙間に身を滑り込ませる。低い姿勢でレンの隣を駆け抜け、バフォメットへと疾駆するスノー。
「――っ」
レンの後ろから飛び出したスノー、これでスノーにもヘイトが向くかと思ったのだが、レンを襲う黒の暴威の数は変わらない。
とくれば――、
「尾が――来る」
横からバフォメットを見ているため、奴のゴワゴワしている尾もはっきりと確認できる。
小刻みに震える『悪魔』の尾。それは街灯に寄り集まった小さな虫を刺激した時のように、ぶわっとスノーを狙うように広がった。
「あっ、私の方が相性が良いって、どういう意味で言ってたの?」
群れて飛び掛かってくる魚影から大きく距離を取りながら、スノーは先程のレンの発言の意味を問う。
レンは変わらず『悪魔』との距離を詰めようと、黒枝を切り払いながら、
「実体を持たない魔法、つまりは火か風系統ならアレに効果があるかもしれない。だから――」
「……了解!」
スノーは信じられないといった様子で碧い瞳を見開き訝しげな表情をして、それから考え込むような顔を見せたが、割とすぐに信じてくれた。
こうしてレンが伝えんとした事をすぐに理解してくれたのは、非常に助かる。
あのドクターフィッシュのような魚については、まだ情報が少なすぎる。ただ、最初にあの闇の塊を見て気になったのは、人を直接食していたという点だ。
網膜に焼き付けられた血濡れた不快な光景は思い出したくもないが、それでも得るものはあった。
人を直接貪り喰らう。角や魚になる前の尾は、喰らうというよりは吸い取るといった感じだった。
そこが妙に引っかかる。バフォメットに魔法は効かない。それは周知の事実で、例外はベルのような極大魔法を使うか、角や枝を防ぐのに使う場合。
ならば、あの魚はどうなのか。元々が尾を形どっていた魚達だ。それらが人を直接喰らう。
その変化の理由を推測していき、そこから自ずと導かれる結論は――、
「あまり私のことを見くびらないで!」
疾走するスノーは身を捻って振り向き、右手に持った氷剣の切っ先を魚群に翳す。収束するマナは不可視の刃を創り出し、音もなく魚群の中に突っ込んだ。
放たれる風の刃、それは小さいながらも大きく顎を開いてスノーを追う魚の口腔に吸い込まれた。
「――」
レンはあらぬ方向に体を向けているバフォメットとの距離をジリジリと縮めながら、その結果を視界の端に捉える。
瞬間、魚の体が切り刻まれ汚い刺身となった。バラバラにされた多くの小魚。群れの凡そ三割が風の刃の犠牲となった。奴らは魔法を喰らう事ができず、細切れの状態で宙に散る。
レンの推測通りの結果。やはり、あの魚はスノーに任せるのが良さそうだ。それに、アレがスノーを狙ってくれているのも都合がいい。
そうしてレンは『悪魔』との間合いを詰めようと気を入れ直すが、
「ああっ、そんな!?」
「――っ」
驚愕の叫び声を上げたスノーに、何事かとレンは再びスノーと魚の群れに視線をやり、それを見た。
こうして驚愕するのは今日何度目になるのか、レンはその光景に眉を顰めて、前に進める足を止めた。
つくづく思うが、このような『二つ名』の異常性には本当に嫌気が差す。
「自分で自分を食べるとか聞いてない!」
そこで繰り広げられていたのは壮絶な共食い。正確に言うのなら、刺身にされ宙を舞っている元は尾だった魚が、他の生き残りの口の中に次々と入っていくものだった。ギザギザの歯を噛み合わせ、咀嚼する魚の群れ。
スノーは魔法が魚には効果が在り、それ故に、少しはバフォメットの力を削げると思っていたのだろう。そこにはレンも同感だ。
なのに、あれは流石に想像すらしていなかった。どんな自給自足の仕方だと、レンは縦の一閃を半身になって躱しつつ、口の中で舌を弾く。
あのように死んだ(?)魚も片っ端から喰われてしまえば、たとえどれだけ殺したとしても、その死体を食べられてプラマイゼロ。寧ろ、スノーの方がマナを消費する結果だけが残るので、このままではジリ貧だ。
「それになんか大きくなってる気がする!」
「!?……おい、全部とは言わないが、できるだけ多くの小魚を倒してくれ」
「えっ、いい……そういうことね。分かったわ」
察しが良く、それでいて聞き分けもいいとは大変助かる。それはスノーにバフォメットを討伐するという、確固たる意思があることに起因しているとは思うが。
スノーは厳かに頷き掴んでいた氷剣を腰に戻すと、再びマナを集中させ始めた。
そのマナの気配を感じ取ったのか、スノーに鋭い歯を突き立てようと宙を泳ぐ魚群は二手に割れる。
一糸乱れぬ高速の泳ぎでスノーを追う魚の群れ。挟み撃ち、回り込み、どうにかスノーを追い詰めようとする小魚達。
しかしスノーはそれを意に返さず、広い戦場を生かし、滑るような動きで噛みつこうとする魚達を躱し続け、
「大きくなったとしても数が少ない方がいいからってことだよ――ね!」
背後から追って来ていた群れに対し、スノーは急停止してバッと振り返る。突然のスノーの愚行に、魚群は狼狽するかのように隊列を乱した。
天然か、はたまた狙ったのかは不明だが、スノーは強引に魚の隙を作り出し、そして両手を並べて前に出す。
構えられた雪のように白いスノーの両手からは、逆巻き轟く風が生みだされた。その風の渦は、動きを止めてしまった魚の群れを丸ごと飲み込み、空洞の中で輪切りにする。
「これで半分……わ!」
スノーは額の汗を拭う仕草をして一息つく。しかし、別方向から来たもう一方の魚群に気付き、慌ててしゃがみ込んだ。
スノーの白い頭の上を通過する魚群。缶詰に詰められるような形になった同胞達に、奴らは我先にと集り貪る。
「――見ていて気持ちが良いものではないな」
レンはスノーの方から視線を外し、一歩、前に足を踏み出した。
魚はスノーが引き付けてくれている。スノーがしっかりと自分の役目を果たしているのなら、レンもそれを全うしなければ。
鋼と漆黒が交差する。腕が痺れてしまいそうになる重い連撃。だが、バフォメットの攻撃に目は慣れ、止まって見えるとは言えないものの、全てハッキリと視認できる。
もはや大げさに躱す必要も、強く跳ね返す必要もない。小さな力で、より大きな結果を得る。効率よく防ぎ、躱し、マナと体力を温存しながら地道に接近する。
「――距離を詰めたところで、アレの絡繰が分からなきゃ意味ないが」
高速の剣舞を披露し汗を流していても涼しい顔は崩さず、その思考も止めはしない。
最初に考えられる可能性の一つは、先程喰らった戦場に在った死体の一部を何処かにストックしていること。
人間の肝臓ですら栄養を蓄えるのだ。余分な死体は回復には回されず、保険として残していた可能性。
「だけど、これは違うな」
眉間を狙う亜音速の突きを顔を横に傾けるだけで回避。空気を裂く音が耳のすぐそばで鳴る。
空振りした枝、それを今度は横に払ってくるバフォメット。だが、レンは僅かな予備動作を見逃さず、体を低くしてもう一歩前へ。まるで予定調和のように、横薙ぎの一閃はレンの背中スレスレを通り過ぎた。
「お前が人を喰らった後、大分攻撃速度が速くなったからな。だとすれば、そこに力が回されたと考えるのが妥当だろ」
六方向から襲い掛かってくる蔓。一部の隙も無いような猛撃。その一部の隙を、レンは鋼をもってして作り出す。
滑らかな軌跡を描く剣先は手で掴むように一本の枝をなめとり、レンはそれを右横に捨てた。
そうしてできた隙間に体をねじ込み、足捌きと体捌きで猛撃を全て躱す。
「なら、お前は一体何処から回復する分を持ってきた」
バフォメットは既に、レンとスノー以外のここに居た人間は全て殺し尽くしている。
今この場に他の生物など何処にも――、
「――」
今、レンの中で何かが引っかかった。
何が、引っかかったのか。レンは足をすくおうとする蔓を跳んで躱し、唐竹割りにしようと降りかかる直線の腹を刃で撫でて軌道を変えながら、頭の中を掠めた違和感の正体を探ろうと――、
「――っ」
その時、足裏に微かな振動が伝わる。やけに冷たい汗がレンの背を伝った。
嫌な予感しかしないと、レンは『空間把握』を急いで構築。読んで字のごとく、そのままの意味の空間魔法。
己の知覚範囲が急速に広がり、レンは振動の正体を捉えた。
「地中に――枝。……まさか」
地を潜行している細い別の四本の枝。それは確実に地上のレンがいる付近に近づいて来ている。
レンは早めに『空間把握』を使っておいて良かったと、前に進める足を止めバックステップ。黒い波から距離を取った。
直後、先程までレンが立っていた場所に逆杭が生える。もしあのまま戦っていたら、全身を枝で貫かれていただろう。
だがしかし、先に気付いてしまえたのなら、どうということはない。
一点に先端が集中するも、やはり何もない空間を突き刺した逆杭。
それを直に見て、雲のように掴みどころなかった違和感に、朧気ながらも形が見え始めた。
レンは地中に戻っていく枝を見届けた後、最終確認としてバフォメットを注視する。
相変わらず体の向きは固定されており、顔だけでこちらを睥睨しているバフォメット。
そして、奴が立つ地の周辺に生えている草は、その全てが枯れていた。
「やっぱり、そういうことか……!」
レンは確信を得る事ができたと、握り拳を作る。
タネが割れてしまった手品ほどつまらないものはない。分かってしまえば、その対処法はいたってシンプルだ。
攻略法が分かれば、後は淡々とバフォメットの攻撃に対処していくだけ。
『悪魔』の敗因は、功を焦って今の今まで隠し通してきた蹄の半分、その枝を攻撃に使ってしまったことだ。
「そもそも、お前は一歩たりともそこから動いてなかったもんな」
そこからしてまず不自然だったのだ。ベルが極大魔法をバフォメットに直撃させて以降、その四肢は瞬間接着剤で地面にくっついたかのように、不自然にあの場から動いていなかった。
前回殺り合った時には、そんなことはなかった。攻撃を喰らわまいと意識するあまり、無意識の内に視野が狭くなっていたのだろうか。
「そこは後で反省すればいいが、……お前は土系統の魔法は使えるか?」
レンは追撃の黒鞭から走って逃れつつ、いつの間にか二匹にまで数を減らし、巨大になっていた魚の相手をしているスノーに尋ねる。
スノーは二匹――この場合は頭と数えた方がいいか――の大魚と相対しながら、
「えっと、使えないけど……」
何故そんなことを聞いてきたのかと、不思議そうな、それでいて申し訳なさそうな声で答えてくれたスノー。
レンも特に期待していたわけではないので、それはそれで構わないし、スノーが使えなくても問題はない。
「そうか、使えないならそれでいい。――それより、あの治癒能力の絡繰が分かったぞ」
「ほんと!?」
「あの野郎、周囲の植物からマナを吸い取ってやがる。『悪魔』の足元の草、全部枯れてるだろ。それが証拠だ」
レンはスノーが鞭の標的にされないように立ち回り、それでいて会話が成立する距離を保ちながら、顎でバフォメットの方をしゃくる。
スノーは風魔法の弾幕を張り、それを大魚への牽制としながら『悪魔』へと目を向け、
「ほんとね、踏み荒らされていてよく見えなかったけど、確かに枯れてる」
「それと、今アイツが振り回してる蹄の枝は半分だけで、もう半分が地中に潜ってる。それが、植物からマナを吸い取ってるんだろう。だから、俺がそれを引き抜く」
「それで土魔法なのね」
レンはそれに頷くも、「ただ」と息継ぎ、
「俺は使えるには使えるが、流石に『悪魔』の相手をしながらは無理だ。だから――」
「えっ……? あっ、ちょっと!」
レンはスノーの許可を待たず、その声も無視して空間転移を発動。スノーの目の前に移動し、大魚に見せつけるようにマナの圧を高めた。
「選手交代だ。頼んだぞ」
あっけにとられるスノーを余所に、レンは案の定食いついてきた大魚と大立ち回りを開始。
かなりの余裕を持ちながら、大魚を自分に引き付ける。
レンが急に強引なスイッチをしたことで、スノーは呆れ交じりの吐息を零した。
そして、少し乱れていた己の白い髪に手を通して整え、
「勝手なんだから。いきなり押し付けられた私のことを、もう少し考えてくれればいいのに」
ぼそっと呟かれたその言葉は、二頭の大魚を相手取るレンには届かない。
それでもスノーは「仕方ないなぁ」と、大魚相手にあまり使っていなかったシンプルな装飾の氷剣を手に取り、『悪魔』を抑えるべく駆けだす。
「――」
今度はスノーがバフォメットの相手をしに行くのを尻目に、レンはひらりと緩やかなステップで鈍足になった大魚を躱し、術式の構築に集中する。
土魔法、普段から積極的に使わない魔法なだけに、強力なものにしようとすると、どうしても時間がかかる。
それに――、
「動きが遅くなったからといって、鬱陶しいものは鬱陶しいな」
小さかった時と比べ、闇色に染まった魚の宙を泳ぐ速度は格段に落ちている。
そうだとしても、並の冒険者や新人の聖騎士程度なら瞬殺できそうな勢いだ。
「けど、アレよりかは全然マシだな」
カチカチとスズメバチの威嚇音のように歯を鳴らし、愚直に突撃を繰り返す二頭の大魚。
旋回し、曲線を描き、その鋭い牙でレンを噛みちぎろうとしてくるが、その突撃の悉くをレンは容易く回避する。
ついさっきまで、計六つの亜音速で振るわれる一撃必殺の鞭を避け続けていたのだ。この程度の攻撃だと、あまりにも遅すぎて欠伸が出そうだ。
――たとえそうだとしても、集中を切らす訳ではないが。
「とはいえ、狙った訳じゃないがこの結果は棚ぼただな」
元々はあの小魚が集団行動を止め、都市に入り込むことを危惧してスノーあのように頼んだのだが、思わぬ二次効果があったと、レンは目を細めて愛剣を二度振るう。
すれ違いざまの斬撃。銀閃が二本、口は裂けんばかりに開かれ、己を喰い殺そうと突進してきた大魚に走り、そして、数瞬、宙に停止。
途端、思い出したかのように大魚の体がズレ、綺麗な三枚おろしとなる。
その断面には木目模様があるが、一匹が倒されたことによって、残りのもう一匹は条件反射でそれに飛びつき、喰らった。
「今度こそ、終わらせる」
生み出した短いようで長い時間。餌に食いついている間にレンは大魚に背を向け、にやけ面で枝を振り回しているバフォメットを視界に収める。
角と蹄から生える枝、合計六本の鞭と、突然飛ばしてくる槍のような体毛に、口腔から放たれる針。
その全てを何とかかいくぐり、しゃがみ込み、走り回って、スノーはバフォメットの相手をしている。
必死に、しかし危うげなく回避行動を続けるスノー。先程の反省を生かしているのか、手に持つ氷剣は必要最低限にしか使っていない。
スノーに気を取られているバフォメットの背後、宙を駆け抜ける稲妻が乱舞する渦中に、その身を入れようとレンは疾駆した。
構築した術式、その有効範囲内にバフォメットを納める為、再び全開で身体強化を発動。
「準備が終わった。詰めに入るぞ」
遠く、呼びかけに対しスノーは一瞬碧い双眸でこちらを見て、了解したとばかりに品良く口の端を綻ばせた。それから、今までにないほど表情を引き締める。
時間稼ぎは終わり、スノーの動きも一段と加速。リスクを顧みずに、白髪を後ろに流して疾風怒濤の勢いで走る。
そんなスノーに合わせるように、レンは地を蹴り上げ、風を切り裂き、時折くる流れ弾を弾き返し、前へと進んだ。
当然、急速に近づくレンに、バフォメットが気付かない訳がない。
全方位に飛ばされる棘の嵐、荒れる黒鞭。いい加減見飽きてきた光景に、レンは剣舞で応じ、スノーは身のこなしだけで躱し、両者共にさらに前へ。
「――ッッ!!」
二人の突然の変化に『悪魔』は焦ったのか、咆哮を上げ、その漆黒は更に荒れ、乱れ、見境なく破壊をまき散らす。
それでも、別方向から駆け寄る二人には届かない。
『悪魔』の破壊の源泉が一つでも掠れば、当たれば、自分はともかくスノーは死ぬ。
それでも、あの純白の妖精にその『黒』は直撃も、掠めもしない。スノーに向けられる深淵のような闇深い殺意は、彼女が纏う『風』に阻まれ、流される。
「同じ演目には飽き飽きした。別の舞台を用意してやる。――他界他界という舞台をな」
距離は縮まり、嵐が一層激しくなる中、レンは編み込んだ術式を展開。
低く身を伏せ、頭部を切断しようと薙がれた枝を回避した勢いのまま、荒地に左手をつく。
血で湿っていた筈なのに、今はそんな事実などなかったかのように、乾いた土の感触が皮膚に伝わる。
そんな感慨すらマナと共に願いに込められ、乾いた大地を味方につける大魔法が火蓋を切った。
「――――ッッッ!」
膨大なマナが世界の理に干渉。バフォメットの足元が隆起し、天を突く巨塔が戦場に聳え立つ。
円柱になっている塔の側面、そこにはうねる枝が六本。下から見上げるその光景は、まるで一本の大樹が唐突に出現したかのようだ。
頼みの綱が切れたからか『悪魔』は咆哮を重ね、塔からはみ出ている枝を引き戻す。
塔に吸い込まれる枝を見上げながら、レンは膝を曲げて力を蓄積。そして一息で上へと跳び上がる。
衝撃波と共に地面には小さなクレーターができ、急上昇するレンは、下にいるスノーの足元に手を向けそこに『ゲート』を開く。
「わわっ!」
驚倒の叫びは一瞬で地上から上空へ。バタバタと血で汚れたローブが空気を打ち、その音に覆いかぶせるように、スノーは叫ぶ。
「そういうことをするなら先に言ってよ!」
スノーは態勢を整えてからレンの暴挙を非難。もっとも、レンはスノーに謝罪するつもりはない。
こうしたほうが効率が良く、上と下、その両方から攻撃を加えることができるという、いたって合理的な判断をしたまで。
スノーもそれに薄々感づいているからか、レンが沈黙を守ってもそれ以上は何も言わず、バフォメットに集中してくれた。
「――ッ!!」
急激な環境の変化に『悪魔』は遂に余裕を失くし、なりふり構わず滅茶苦茶な攻撃へと転換。
かなり深い場所まで潜らせていたのだろう、四肢は未だ地面に張り付いており、あの六本の枝が台座から出てくることはない。その為『悪魔』はその他の手段を全て用いる。
上空にいるスノーへと伸びる鞭。三本の漆黒の枝が、落下するだけのスノーを仕留めにかかる。
空中で動けないでいるスノー。生身の人間が空を飛ぶ方法は無く、また、細やかに移動をすることもできない。
無防備な格好を晒すスノーができることとすれば、その手に持つ氷剣で攻撃を防ぐことだけ。
だがそれも、身動きが取れない空中ではあまりにも頼りなさ過ぎる。
あわや、漆黒の枝がスノーの喉笛を貫き、一人のエルフは黒木へと姿形を歪められそうになる。
が――、
「今更その程度の攻撃をしても、私を殺すことはできないわ」
スノーはバフォメットの連撃を、驚くべき方法で回避した。
奏でられる金属音、それはスノーが手にする氷の刃で枝を叩いた音だ。しかし、スノーがしたのはそれだけではない。
「ふっ――!」
己が腕力のみで下方から迫る枝に氷剣を叩きつけ、その力だけで無理矢理空中を移動する。
身を捻り、氷剣を叩きつけ、枝に直接触れることなく空を縦横無尽に動き回る。
鳴り続ける金属音、その音は次第に間隔を狭め連続していき、それに伴いスノーの細身が宙を舞った。
「なんて無茶苦茶な移動法だよ」
スノーを空に放った張本人であるが、流石にあのように攻撃を回避するとは思いもしなかったと、レンは苦笑する。
本当ならスノーにも分かるような足場を作るつもりだったが、あの分なら問題ないだろうと即断。
レンは何もない空中に足をかけ、更に上へ上へと進む。
無論、こちらにもバフォメットは攻撃を仕掛けている。
上からの急降下、一対の角と一本の枝がレンの頭頂部を狙って突き下ろされる。
だが、レンもスノー同様この程度では止まりはしない。空を蹴り方向転換、ジグザグの空中機動で上へと押し上げたバフォメットとの距離を詰めに掛かる。
「――またか」
空へと駆け上がるレンは、塔の側面の土が零れ落ちるのを黒瞳に映す。
そこから飛び出てくるのは棘付きの黒槍。自分の元に戻すのを諦めたのか、バフォメットはその六本を反撃の狼煙にせんと突き出してくる。
土竜叩きの如く幾度も出てくる枝。レンは当然、スノーのようにそれを叩くのではなく、短距離転移によってやり過ごす。
転移を使い、高速で空を駆けるも、レンはどこまでも慎重に、確実に、冷静に、『悪魔』の猛攻を避け、躱し、頂点へと昇り詰める。
「っ、――見えた」
塔の頂上、円形の台座に立ち竦み、大口を開け哄笑を上げる漆黒の『悪魔』。捩れた角と枝を振り回すしか能がないバフォメットは、上と下、レンとスノーのどちらが危険か測るようにグルグルと赤い眼を回し続ける。
レンはその様子を細めた瞳に収め、バフォメットとあの魚の注意を引き付けるべく、マナの気配を最大限に高めた。
「――ッ!!」
周囲の気温が急速に低下し、大気が歪曲して見えるほどの濃密なマナ。
レンが放つその気配に、『悪魔』は上から落ちてくるスノーのことなど忘れ、無我夢中で飛びつく。
九本、一抹の理性が一本だけバフォメットの手元に枝を残し、豪速の黒鞭がレンへと向けられた。
「かかった」
直線を引く一極集中の漆黒の流星は凍える風を吹き飛ばし、地上を徘徊していた大魚は尾を翻して、磁石のように一直線にレンに惹きつけられる。
ベルが喰らわせたあの魔法が、『悪魔』には余程薬になったのだろう。だが、レンのこれは見せかけのハッタリに過ぎない。そも、こんな短時間でベル並の魔法など使える訳がない。
全ては、スノーの強襲を成功させる為の囮。
「転移」
頭と足、その両方にギリギリまで上下の攻撃を引き付け、音だけを残し、レンの身は更に上空へと移る。
忽然と姿を消したレン。『悪魔』は急停止することなど当然できず、その槍は大魚を貫通。
びちびちとのたうち回り声にならない悲鳴を上げる大魚は、やがて槍へと統合され影も形もなくなった。
「――終わりにしましょう」
転移した先、両膝を曲げ剣を構えるレンの耳朶に、小さな呟きは風に乗って運ばれてきた。
荘厳な『風』が天空を吹き荒れ、上から迫る槍を氷剣で捉えて、そのままスノーは体を押し出す。
直後、破砕音と共にエルフの手の中の氷剣は砕け散った。煌めく氷の欠片は空気に溶けるように霧散するが、最早スノーに剣は必要ない。
既にそこはスノーの間合い。恐らく、スノーが最も得意である徒手空拳が届く距離。
スノーの特攻とも博打とも言える、ハイリスクな超至近距離での攻撃。
レンはその足技が形を得る寸前、溜めた力を一挙に解放。無色透明な足場からの大跳躍。
正面に『ゲート』を開き、加速を得た体を台座近くまで一瞬で運ぶ。
三度目の正直。入射角は斜め、『ゲート』ならば物理法則は働いたまま。弾丸のように弾き出される肉体、その勢いを上乗せした斬撃。
景色が変わり、目の前には硬直するバフォメットの黒体と、振り下ろされる長い脚。
「はああッ!」
「――――ッッ!!」
縦に一回転、裂帛の声と共に必殺の踵落としが炸裂。頭頂部は凹み、骨が砕け、血しぶきが舞い、哄笑は、叫喚へ。
悪足掻き、絶叫を上げ、頭蓋を割られながらも、口腔をスノーへと向ける『悪魔』。
一瞬、目に映る全てがスローモーションのように停滞した。
スノーは動揺に瞳を揺らがせ息を呑み、頭蓋を蹴り砕く彼女の踵の力が一瞬抜けるのが分かる。
執念、妄念、憎悪。
暗く、暗く、ドロドロに煮詰め濁ったような、その身で体現する闇と同じ『感情』が、『悪魔』から溢れ出る。
その『感情』と『二つ名』の――『悪魔』の最後の悪意に、スノーですら呑みこまれる。
――が、
――無意味な足掻きだ。
レンだけは、その悪意をものともしない。
それは、過去に一度命のやり取りをしたからでも、彼が特別勇敢だからでもない。
ただ、冷徹な意思が、永久凍土のように凍り付いた心が、その悪意では揺るがない。
妖精を道連れにしようと、今この瞬間にも放たれようとする針。
だが、それは少女に当たることは決してあり得ない。
それが放たれることは、今後一切あり得ない。
何故なら――、
「これが、お前の最後の晩餐だからだ」
振り切られる神速の銀の刃が闇の中に吸い込まれ――、
甲高い金属音が、高く、高く、何処までも響き渡った。




