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プロトタイプ  作者: 如月皐月樹
第一章
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第一章21 「空間魔導士の戦い」

 哄笑が、グラミディアの森まで響き渡る。天に広がる波打つ黒枝、打ち付けられてカタカタと鳴る真っ白な歯牙、鋭利な光沢を放つ逆立った黒い体毛にギョロつく赤目。


 ケタケタケタと、口を開けて髭を揺らし快哉を叫ぶバフォメット。角と同様枝が伸びる四肢は地面に根を張ったかのようで、その場から一歩たりとも動かさない。

 飛び出た濁る瞳の視点は足元とは対照的にいつまで経っても定まらず、上下左右に動き回る。その赤い目に同調するかのように、ゆらりと宙を泳ぐのは黒い六本の枝。

 その枝には無数の突起が生えて棘付きバットのようになっており、より凶悪さを増していた。


「「――」」


 まさしく悪魔といった様相のバフォメットを前に、レンとスノーの二人は互いに目だけを合わせる。交錯する黒瞳と碧眼、死んだ瞳が碧く輝く蒼穹を覗き込んだ。


 一切の曇りのないスノーの瞳は決して揺るがず、その『光』はただ一つの目標を宿している。

 それ即ち、バフォメットを討伐すること。強い覚悟を顔に秘めるスノーは、碧い瞳でそうレンに訴えかけてきている。


「……」


 その高潔な意思を受けたレンの心情は、スノーのそれとは裏腹に対極の位置にあった。

 冷え切った無感情な心、冷徹な思考、色という色の一切合切が抜け落ちた無表情。

 レンの頭脳は、バフォメットを殺すにはどうすればいいのか、ただひたすらにそれだけを考える。

 ――心情で言えばそうして正反対な方向を向いているのだが、皮肉にもその目的は同じだ


 恐ろしい変貌を遂げたバフォメット。奴の攻撃手段は格段に増えている。

 その物量は今までの比ではない。単純計算で二倍以上、普通に距離を詰めるのはほぼ不可能に近いと言っていいだろう。

 だが、その無常な事実は、今のレンにとってはあまり意味がない。

 しかし、


 ――これも、使い方と使いどころによっては……か。


 視線をバフォメットに移し、目を細めてそう結論を下す。幸か不幸か、バフォメットのおかげでレンの枷は外された。

 それでも、乱発すれば余計な消耗を招き、次第に奴も慣れてしまうだろう。

 故に、使いどころは慎重に選ぶのと同時に、目の前の情報を一つ残らず見逃さないようにしなければならい。


「――」


 そんな風に頭の中で計略を張り巡らせるレンだったが、スノーが(まばた)きをして自分に何か訴えているのが目に入った。

 そこである程度まとまっていた戦略を練るのを止め、スノーの事について逡巡。レンは左手に氷剣(ひょうけん)を二本創り出す。


「それを使え、流石に無手じゃきついだろ」


 自分の右に立つスノーに放り投げた二本の氷剣。スノーは目の前に飛んできた剣の柄を両手で一本づつ掴み、確かめるように軽く振ると、


「――ありがとう、でも、これって……」


「ああ、マナで創ったやつだから、アイツには効果がない。――かなり頑丈に創ったから、砕けないと思うが、二本目は念の為だ。それと、分かっていると思うが、攻めじゃなくて守りに使え」


「そうよね。……じゃあ、私がある程度『悪魔』の攻撃を受け持って、その間にレンが『悪魔』に近づくってこと?」


「そうだ」


 バフォメットに直接攻撃をするのは自分の方が適任だろうと、レンは本当に大まかな戦略をスノーと共有。今度はさっきまでの自分の役割をスノーに任せ、ベルと同じ役目を果たすつもりだ。その手段は、魔法ではなく手に持つ愛剣だが。


 転移魔法も今は使える状況、なによりアイツとの戦闘を三年前とはいえ一度経験していて、現在との齟齬の修正も終わってきた。

 だからこそ、バフォメットとの戦いにおいては自分は先駆者と言えるだろう。

 ――もっとも、バフォメットと戦って生き残った人がどれだけいるのかは知らないが。


 そんな正確な数値が出ていない事はともかくとして、たとえ奴が本気を出したところで、こちらもまた以前戦った時とは違うし、まだ全力を出してはいない。

 自分に残されたマナはまだ余裕がある。この分ならそれなりに空間魔法も使えると、レンは息を吐いて自分の内側に意識を向けた。


「……」


 身体強化、マナを体中を駆け巡らせ循環させる。そうして沸々と力をみなぎらせると共に、全身に風を纏った。

 マナによる身体強化、やりすぎればリスクも生じるが、それは正確無比なマナコントロールを有するレンにとってはなんら関係ない。

 関係ない――のだが、今この時ばかりは大有りだ。


「――っ」


 歯が軋むほど奥歯を噛み、レンは雷が全身を走ったかのような全身の痺れを我慢。今、己が使える限界、その許容量を大きく超えて、それでいて尚、体が壊れない範囲でレンは身体強化を発動させた。

 最初から全開、リミットは完全に外して短期決戦で勝負を決める。


「準備は、できてるな?」


「ええ」


 腰のベルトに一本の氷剣を納め、もう一本の剣を握りしめるスノーに問いかける。彼女も自分同様風を纏い、静かに戦意を高めてそう答えた。


 目の前でスノーが使う魔法を見て、レンの胸中に多少なりとも驚嘆が芽生える。スノーが纏う風の質は自分のとは段違いで、洗練され最適化されていた。


 ――風系統に関して言えば、本気を出したコイツのとは雲泥の差か。


 そんな感想を胸に抱き、レンはスノーに視線で合図を出しながら姿勢を低く構える。レンの鋭い視線にスノーは顎を引き、氷剣を正眼に構えた。

 精鋭化される集中、静まり返った戦場、研ぎ澄まされる剣気、覇気、冷たい汗が頬を伝って顎まで走り――地面に溶けた。


 二人が起こす風が空気をかき回し低い唸り声を上げて――疾走。

 二陣の風がバフォメット目掛けて吹きかかる


 バフォメットとの距離は約二十メートル。体力測定のシャトルランと同じくらいだ。

 この程度の距離など、二人をもってすれば一瞬で詰められる。

 一歩目からの加速、風に乗り最高速度に到達。身を低くし、バフォメットとの間合いを一息で詰めようとした。

 しかし当然――、


「――――ッッッ!!」


「簡単には近づかせてくれないよな」


 四本、ゲラゲラと喉を震わせながらの、全て別の方向から体目がけて振り下ろされる黒閃。四本の『黒』はレンの体に穴を開け、挽肉にしようと迫り狂う。

 死角からも迫るその『黒』に対し、レンは左側から来る棘付きの枝は見向きもせず、冷静に左手をそちらに向けた。


「今度は、さっきとは同じようにいかないからな」


 マナに意志が込められ想像が現実に形を作る。多重展開する具現化した氷の大盾、鋼以上の硬質さを誇るそれはひび割れ欠けながらも、その攻撃を受け止めた。


「――後ろ」


 前方に意識を向けさせたかったのだろうが、殺気でバレバレだ。地面から突き出る氷の柱は、最初の鞭の影に隠れながら回り込み背中を刺さんと射出された漆黒をはじく。

 氷は弾け破片が飛び散り、降り注ぐ陽の光を反射して輝く。儚げに飛び散る氷の破片だったが、それでも二本目の(いばら)も防ぎきった。


「残りは――二本」


 死角を突いてきた攻撃は先程の一本だけ。故に、残りは初動で見えた二本。それらはまるで枝自体に意思が宿っているかのように不規則な動きで真正面から襲い掛かってくる。

 のたくるような動きの棘の鞭、直情的だった先程とは異なる滅茶苦茶な動きで迫るそれに――、


「安直な攻撃だな」


 その言葉は甲高い金属がぶつかる音に飲まれた。鞭がレンの顔面に当たり粉砕しようとする直前、目の前に掲げた鋼がその攻撃を受け止める。キリキリと赤い火花が散り強引に押し込まれるが、刃の向きを変え軌道を逸らした。

 力の方向が変わり、するりと地面に吸い込まれる鞭。それを尻目に、最後の一本の腹に剣を振り下ろし、これもまた地面に叩きつける。


「――ちっ」


 だが、攻撃はそれだけではない。受け止め、逸らし、防いでも、すぐさま次が襲い掛かってくる。

 切り返し、下から顎を貫かんと突き出される黒槍。その一突きに対し、レンは顔を後ろに逸らして回避。

 前髪に突起が引っかかるも、その槍は天を貫き血はすすれない。


「これだからお前の相手は面倒なんだ」


 そうして槍を躱したと思えば、次に来るのは横薙ぎの蔓。足首を狙って地を這い、枯れた雑草を刈り取りながら払われる。

 足を切断して動けないようにする魂胆が透けて見えた。が、たとえ当たったとしても、レンの場合は転倒して、そのまま前に一回転し、地面に足をつけて走る勢いを殺さずに済んでそれで終わりだ。

 だが、それでは隣で二本の鞭相手に余力を残して捌きながら並走しているスノーに、レンの秘密がばれてしまう。


 スノーはキッと唇を結び丸い瞳を鋭くして、華麗に氷剣を振るい、身を傾けて、猛攻を避けている。

 そちらに集中しているとはいえ、すぐ真横でレンが被弾すれば、その集中の糸は途切れてしまうだろう。


 よって、避けるよりわざと被弾する方が楽なのだが、ここは躱すしかない。

 刹那の思考の中でレンは判断を終わらせ、縄跳びを跳ぶよりも簡単に足を折り曲げて、鞭はその下を瞬く間に潜り抜けた。


 折り返しの鞭を回避したが、それでもバフォメットの攻撃は途切れることがない。

 漆黒の線が空に無数に引かれ、モザイクのように全てを覆い隠そうとする。


 その悉くを、レンは、スノーは、剣で受け止め、流し、逸らし、かいくぐり、盾で防ぎ、少しずつ、着実に距離を詰めていく。

 火花が生まれ、泥が跳ねあがり、氷はひび割れ、しかししっかりと攻撃は止めて、前に進む為の障害を失くしていく。


 たったの二十メートル、たかが二十メートル。なのにそれが驚くほど遠い。まるで牛歩の歩み、この空間だけが歪んでいて、永遠に距離をゼロにできないのではないかと思える程の、しかし短い距離。

 魔法一つで解決できるが、それすらも今は危険だ。なにせ――、


「転移できる空間が限られてる」


 唇を噛み、頬を固くするレン。己の想定を上回る物量の嵐。攻撃の速度、範囲、次の行動に移るまでの流れ。それらが二割増し程で速い。

 そのせいで周囲の空間が圧迫され、転移した先に流れ弾が飛んできかねない。

 スノーに割かれる攻撃の分があり、それ自体への対処は苦ではない。それでも、すぐには距離が縮められず千日手。


「消耗戦だけは避けたいってのに」


 焦燥に駆られながらも、枝を弾き返すレン。その黒い枝を永遠に振り回すバフォメットはニタニタと笑い、奴のなだらかになっている体毛が黒光りした。


「っ――!」


 ぞわりと、背筋が凍り、警鐘が耳鳴りの如く脳内に響いた。あれは、バフォメットが新しく使ってきていた遠距離攻撃。


 ――来る。


「気を付けろよ」


「わっ、かってる!」


 そう直感し、横に首を回してスノーに忠告した時には、既にこちらに向かってそれは放たれていた。

 グッと溜を作ったかのように引っ込んだかと思えば、それはバネのように反発し、黒い体毛が鋭い針となり一斉に飛び出る。


 断続的に振るわれる黒い嵐を氷剣ではじく中、スノーは切羽詰まった声で返答しながら、左手を上から下に振り下ろした。


「落ちて!」


 透明な声音が願いを込めた叫びと共に、風の滝が轟音を立てて流れ落ちる。本物の滝に負けずとも劣らない吹き下ろされる風、それはあの聖騎士達と同様に墓標にしようとした太い針を上から押さえつけ、押し返そうとする。

 が――、


「っ、止まらない……!」


 氷の剣舞を披露し、バフォメットの滝をものともしない連撃を防ぎながら行使したスノーの魔法はしかし、黒い長針を揺るがせたものの、地面に叩き落とすことは叶わない。

 魔法の制御にも力を入れるスノーは、さらにマナを込めて威力を高めようとするが、


「その必要はない」


 レンの一声と共に、滝を貫き弾幕を張っていた針には正面から飛ぶ氷柱と追突、推進力を失って風に流された。

 スノーの風を利用して追い風に乗った氷柱。速度、威力、共に飛び出た針とイコールのそれは、互いのエネルギーを限りなくゼロに近づけた。

 砕け散ったのは氷柱だけだが、それでも氷の破片と黒い針は一緒に滝に呑まれる。


「スノー、お前はアイツの尾に注意を払っていろ。それ以外は俺がどうにかする」


「なんっ、で?」


「お前はまだ見てないんだったか。アイツの尾は小魚の集合体だ。それが無数に分裂して襲ってくる。アイツの攻撃手段の中で一番危険なのがそれだ。その魚とは、俺よりお前の方が相性がいい」


「そういうっ、ことはっ、もっと、早く言ってよ!」


 淡々とした口調の早口でスノーに説明したレンだったが、余裕があまりないのか、枝を防ぎ金属音が鳴るごとに口を止め、怒気をはらんだ声で文句を言われた。


 その声と若干苦し気な表情が一瞬目に入り、レンは目を細める。確かにスノーは身のこなしは身軽で、永遠と止むことのない漆黒の乱舞を防ぎきってはいるものの、剣の扱いで言えばどことなく力任せな気がする。

 今もまた強引に枝を弾き返し、そのせいで氷剣には亀裂が生まれていた。


 ――これは……。


「――ぁ」


 二撃、三撃、四撃と続くにつれてその亀裂は確実に広がり、やがて氷が割れる音が空高く響いた。

 青白く輝く氷の刀身は砕け散り、マナへと変わって塵になる。


 かすれた声を喉の奥から漏らしたスノー。武器を破壊されたスノーは、一瞬とはいえ隙を晒してしまった。

 腰には予備で渡した氷剣が揺れているが、それを抜くのを『悪魔』が待つのも、一瞬の隙も見逃すというのもありえない。


 高速戦闘の中での僅かな空白、それはあまりにも致命的すぎる空白。

 塵へと姿を変えていく氷の柄を握り、刀身がなくなった剣を横に振り切った姿勢のまま硬直しているスノー。

 彼女の白いうなじ目掛けて、極悪の漆黒がスノーに死をもたらそうと無常に振り切られる。


「――っぅ!」


 碧い瞳を極限まで見開き、何とかしようと思考を張り巡らせるような、それでいて「しまった」と焦りを浮かべるスノー。

 空気すら殺して黒の暴虐がスノーの細い首を撥ねようと迫り――


「させねーよ」


 レンは剣を左手に持ち替え、視線はバフォメットを射抜きながらも、右手をスノーに向けた。

 空間魔法を使うにあたり、最も重要な要素は座標の認識と把握。それを完璧に習得するのに、どれだけの時間が掛かったことだろうか。


 空間魔法を使えるようになり二年半、ほぼ完璧にこの術を身に着けて、使い慣れたものなら無意識でも扱えるようになった。

 故に、毎日のように空間魔法を使っているレンにとって、狙った場所へ魔法を発動させることなど児戯に等しい。


 羽虫を握りつぶすよりも簡単に創りだされる六枚の束ねられた氷の盾。それらはスノーと枝との間に割って入り、枝がスノーに到達する時間を僅かとはいえ稼ぐ。

 氷盾は一枚一枚と破砕され、崩壊の旋律を奏でながら空に消えていくが、その役割は十二分に果たされた。


「援護ありが――と!」


 その僅かな時間で持ち直したスノーは左の踵で土を抉る。

 左足を軸に回転するスノー、彼女の長い脚が伸ばされ足先は美しい楕円を描いた。

 足刀が黒い枝の棘の間を見事に捉え、回し蹴りがすぐ近くにまで来ていた『死』を蹴りはらう。


 一体どんな神経と身体コントロール、そして肉体の強度を持っていれば、あんな神業めいた足技を繰り出せるというのか。

 少なくとも、レンがやれば足はまず間違いなく折れる。というより、実際に折れた。

 それに、突起と突起の隙間に足をねじ込むことなどできる筈もなく、足には何個もの穴が空く事だろう。


 一歩間違えれば即死につながるそれを、スノーはまるで当たり前のように実行したのだから底知れない。

 もしかしたら、体術ではスノーには敵わないかもしれないと、静かな戦慄を覚えるレン。

 だが、今はそんなことを考えるときではない。


 今のスノーの迎撃にはバフォメットですら予想外だったのか、今度は向こうに隙が生まれている。

 しなる黒鞭は動揺したかのように宙を漂い、終わらない連続攻撃に停滞ができた。

 この一瞬、偶然できたこの好機を、みすみす逃すわけにはいかない。


 ――よくやった。


 胸の内で称賛の声をスノーにかけ、レンの視界の景色が切り替わり、目の前には漆黒の山羊が現れる。


「――ッッ!!」


「終わりにしようか」


 唐突に眼前に移動してきたレンに、バフォメットは反射で口腔から針を飛ばしてくる。

 超至近距離から放たれる針、だがその攻撃はレンの予想通りすぎる反応だ。


 ――それぐらい、想定済みなんだよ。


 二度目の短距離転移、バフォメットの右横へと瞬間移動。

 再び姿を消したレンに、バフォメットは明らかに動揺している。動きを止め、無防備に首を晒すバフォメット。


 その黒い首筋に、大上段から両手で握りしめた必殺の剣を振り下ろす。

 『悪魔』の知覚外から銀閃がひた走り――、

































 紅の『眼』が、レンの顔を見ていた。


「っ――――!」


 ギリギリと、首に入り込んだ剣を、硬質化して伸びる体毛が受け止めている。

 どす黒い血が切り裂いた首から流れているが、完全に切断できておらず致命傷を与えたかどうか微妙なライン。


 ゴキブリ並みのしぶとさを発揮して、歯を見せびらかすバフォメット。その様に目を見張り、レンは両手に握る剣に力を込める。

 ここで確実に息の根を止めなければ、次にいつチャンスが巡って来るのか分からない。

 体力、マナにも限界がある。延長戦だけはしたくない。

 なにより、スノー以外に人がいないこの状況がいつまで続くかも分からないのだ。


「くっ――!」


 上からレンの全体重をかけ、身体強化をこれ以上ない程に引き上げる。ミシミシと軋む体、筋繊維は千切れ、骨には(ひび)が入るも修復される。

 込み上げる血塊、口の端では鮮血が小川を作る。


 押し込む刃、押し返してくる棘。

 肉に刃は届いていて、その首を切り落とそうと震えているのに、あと数歩だけ足りない。

 限界のそのまた先、己の存在、全身全霊をかけて、刃を通そうと――、







「危ない!」







 ――悲壮な叫びが、レンの鼓膜を刺激した。


 透明な声、無視をすればいい声、聞こえなければ良かった声。

 レンには命の危機など存在しない。たとえ相手が『悪魔』だとしても、それは全くもって関係ない。

 コイツの攻撃を喰らったとしても、自分が死なないのは過去に既に判明している。


 なのに、脳のどこかで理性が彼女と同じように叫んでいる。


 何を、叫んでいるのか。


 このままスノーに秘密をばらす覚悟で押し切った後のことか。


 それとも、全身に穴が空き、それに伴う激痛に対してなのか。


 秘密か、痛みか、討伐か。


 それは、意識してやったことではない。ただ、その声の持ち主の『目』が脳裏にチラついて……、





「くそっ、たれがぁ……!」


 大きく飛びのいた先で剣を支えにし、片膝をつきながらレンは悪態をついていた。

 全身から棘を突き出し針玉になっているバフォメット。じくじくと痛む抉られた脇腹をさすり、レンは下唇を噛み千切らんばかりに歯を突き刺す。


 スノーの声が耳に入ってしまったばかりに、咄嗟にあの場から離れてしまった。

 最大の好機、秘密をばらしてでも仕留めるべきだったそれを逃してしまった。


「大丈夫!?」


「……ああ」


 元通りになった脇腹に目をやるレンに、スノーは駆け寄ってきた。

 レンの安否を確認するスノーに、レンは冷淡な声で応じる。

 まさか味方の声が邪魔になるとは思ってもなかった。だが、それはそれこれはこれ。

 秘密がばれなかっただけよしとする。


 なんとか冷静になろうと服の裾を強く握り、自分を納得させるレン。そしてスノーは荒い呼吸を整えようとするレンの頭からつま先まで見渡して、どこにも怪我をした様子が見られないのを自分の目で確認すると、


「手応えは?」


「微妙だ、半ばまでぐらいしか刃が通らなかった」


 命の源は今も奴から減り続けているが、このまま死んでくれると思うのはあまりにも甘すぎる。

 血を流す首をレンとスノーに向け、紅の瞳でこちらを睥睨しているバフォメット。

 その口元は笑っているものの、眼だけは憎悪で赤く燃えていた。


「でも、わりと効いてるみたい。このまま――」


「一気に……!?」


 スノーの言葉を引き継ぎ、再び突撃しようと立ち上がったレン。だが、そのバフォメットの変化に、またしても目を見開き、硬直する。

 スノーもレンと同様、その変化に「うそ」と小さく呟いていた。


 先程抉られた脇腹はそこまで深い傷ではなかった。それに、奴の攻撃を喰らおうが喰らわまいが、どちらにせよ奴に吸収されることはない。

 だというのに、『悪魔』につけた切り傷は、見る見るうちに治っていく。


 二人が動揺を露わにするのを見て、バフォメットはケタケタ、ケタケタ、と哄笑を上げ続ける。


 『悪魔』の嗤い声が響き続け、その不協和音に合わせて、絶望の足音が近づいてきている気がした。

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