第一章14 「べっどいん」
お酒。それはエタノールを含んだ飲料の総称である。アルコールは抑制作用を持つため、飲酒をした場合、その人に酩酊を引き起こす飲料となる。
現代日本では、多くの大人が嗜み、仕事の疲れを忘れようとするだろう。
それは異世界でも同じ。夜のギルドは酒場としても機能する。この日も多くの冒険者が集まり、酒を片手に盛り上がっていた。
そんな夜のギルドだが、相変わらずレンの周辺だけ誰も近寄り難い空気が充満していた。
例え酔った状態だとしても、誰もそこには近寄らないだろう。
もし近づいた場合は、酔いなんて一瞬で吹き飛ばされ、失禁してしまうのが目に見えて浮かぶ。
時に、レンは酒が嫌いだ。その理由は前世での経験からなのだが、ともかく彼は酒が大嫌いなのだ。
一応飲める歳ではあるが、一滴たりとも口に含もうとは思わない。
それと同時に、酔っている人間も嫌いだ。流石のレンも、他人に酒を飲まないよう強制するつもりはないが。
それでも夜のギルドに毎晩行くのは、一筋の希望を求めているから。
酔っぱらった人間は饒舌になるもの。なので、嫌々ではあるが、自分の目的を成すための打算的な思考のもと、この場で食事を摂り、そのままギルドが閉まる時間まで、レンは借りた本を読んでいる。
さて、酒も酔った人間も嫌いなレンだが、今、彼は恐れ知らずな一人の酔っ払っている少女に絡まれていた。
「ね~え~、なんで君はああやって逃げようとするのよ~。そのくせ、今は私の事を無視するし~。照れてるの~?」
グイと木製のジョッキを傾けながら、スノーはテーブルにうつぶせになって本を読んでいるレンを見上げる。
レンから見ると、所謂上目遣いになる訳だが、残念ながら彼は読書に没頭しているため、スノーの顔は視界に入っていない。
「む~、また無視するし~。いたずらしちゃうよ~」
赤くなっている頬を膨らませ、スノーはいじける。
スノーもいじけたり、それこそ酒でも飲まないと、今日はやってられなかった。
普段は積極的に飲まないし、ベルにも体に悪いから飲酒はあまりしないようにと言い含められている。
だが、流石に今日は飲まないと、本当にやってられないといった様子。
「なんで急に逃げたり消えたりしちゃうの~? あの場所にいたんでしょ~。あの後物凄く探したのに、どこにも見当たらなくて、とっても疲れちゃったんだよ~」
手足をバタバタさせて文句を言ってくるスノー。ジョッキを持ったままだったので、中身の酒が少し溢れるが、スノーはそれすら気にしない。
だが、レンからすればスノーの今の発言は、言いがかりも甚だしい。
スノーはレンに勝手についてきて、勝手に探していただけ。別にレンはスノーと一緒に行動する必要はなく、寧ろ邪魔だった。
だからこそ、スノーから逃げようとしたし、あの場からもすぐに去った。
レンは、酔っ払いが言っていることだとスノーの声を聞き流し、本の頁をめくる。
レンが話を全く聞いてくれないので、スノーはもう一度頬を膨らませ拗ねた。
「ちょっと~、話ぐらい聞いてよ~。聞いてくれらきゃ、ほんりょにいたずりゃしちゃうよ~」
呂律が若干怪しくなっているスノーは椅子から立ちあがり、レンの対面の席から隣へと千鳥足で移動して、物理的な距離は詰める。
そこでスノーは良い事を思いついたとばかりに、赤い顔をにやつかせた。スノーは相変わらずの無表情のレンの顔を見つめ、そのままレンの肩にしなだれかかろうと、頭を傾かせる。
が――、
「あたっ!」
その勢いままスノーは椅子から転げ落ち、側頭部を床にぶつけた。
当然の如く、レンはスノーがしようとしたことを察知して、彼女から逃れようと椅子を横に引いていたからだ。
その結果がスノーの悲鳴なのだが、レンは半眼で床の上のスノーを見下ろし、何も言わないまま読書に戻る。
酒が入って、積極的になっているのだろう。だからこそレンは酔っ払いが嫌いなのだ。
普段とは違う態度をとるし、普段に増して攻撃的になることもある。それがあいつを思い出させて、虫唾が走る。
レンに避けられたスノーだったが、「あたた」と言いながら頭を撫でて、
「ひっどーい。避ける事はないれしょ~。君は男の子なんだから、ひゃんと支えてよ~」
二度目の言いがかり。そもそも、今のはわざとしなだれかかろうとしていたのが見え見えだった。
それに加え、性差別的な発言。一応、スノーは酔っ払い。なのでレンは酔っ払いの戯言だと、これも聞き流す。
スノーはゆっくりと立ち上がり、椅子の上に座り直した。そして座ったくせに何を思い立ったのか、もう一度立ち上がって、レンの背後に立つと、
「ほら~、私のこりょを無視すりゅ悪い子には、髪の毛あみあみの刑に処しましゅ~」
勝手にレンの髪を掴み、三つ編みにし始めた。慣れた手つきでスイスイと編み込みを作るスノー。
レンはされるがまま、というより、スノーのことを完全に知覚の外に置いている。
髪をいじられるままに、レンは読書に集中……集中………………出来ない。
「ちっ」
思い切りスノーに聞こえるように、レンは舌打ちをした。それを聞きつけ、スノーはにへらっと笑う。
「あ~、やっと気にしてくりぇたね~。もっと私にかまえ~」
レンの肩に手を置き、スノーは前後に揺らしてくる。髪を編まれ、肩を掴まれ、揺すられるレンはそれでも両手に持つ本を離さず、その目は字を追っている。
無視をしても、反応しても厄介なのが酔っ払い。スノーの場合は絡み酒なので、余計にたちが悪い。
「……」
ちらと、本から目をそらすレン。視界に白い艶やかな髪が入るのと一緒に、ギルド内にいる冒険者から無遠慮な視線を受けていることにレンは気付いた。
周囲の冒険者からは嫉妬と怨嗟がこもった目で見られている。
それは、スノーが自分に絡んできているからに違いないと、当然の帰結をレンは出す。
それとは別に、自分ではなく、スノーの事を心配する様な視線も感じた。
恐らくは、レンがいつものような対応をするのではないかと、危惧しているのだろうが、レンにそのつもりはない。
もしそれをした場合、ベルがおとなしくしている筈がないだろう。
当の彼女は、ポッコリと膨らんだスノーが着ているローブのポケットの中で、寝ているのだろうが。
それに、スノーのあの目の光がレンにそれをさせてくれない。
そして、仮にやったとしても、この少女なら軽く受け流すだろうという確信がレンにはあった。
「……いい加減俺を揺さぶるのをやめろ」
レンは未だに自分を揺らし続けるスノーにしびれを切らし、その行為を止めるよう振り向きざまに声をかける。
スノーは急に話しかけてきたレンに、丸い目をさらに丸くすると、何故か急に笑い転げ始めた。
「あっはははは! レンってば、その髪型全然似合ってないじゃん! 顔は普通にかっこいいのに、おっかし~!」
口に手を当て、眦に涙を浮かべるスノーを余所に、レンは風を起用に操り三つ編みを解いていく。
この髪型にしたのはスノーのくせに、それを自分で見て笑い転げるとは、理不尽な少女だ。
ひとしきり笑ったスノーは急に静かになり、周囲の視線など気にした様子もなく、そろそろとレンの隣に腰を下ろす。
そして細い腕を枕にして、その腕の隙間からとろんとした目でレンを見上げ、
「ねえ、なんでレンはさ……」
さっきまで笑っていた明るい雰囲気はどこへやら。急に落ち着いた声音でスノーは言葉を紡いだ。
いきなり変わったスノーの雰囲気に、レンは心の内で息を吐く。
――これだから酔っ払いは。
そんな感想を抱くレンに構わず、スノーは独り言のようにゆっくりとした口調で言葉を発する。
「なんで、レンはさ……そんな……目…………を……」
そこで言葉は途切れ、スースーと小さな寝息が聞こえ始めた。さっきスノー自身で今日は疲れたと言っていたし、結構飲んでもいたので、これも仕方がないだろう。
「…………はあ」
――心底面倒だが、これも仕方ない……か。
心の中でそう呟き、レンは本を閉じて椅子から立ちあがった。
▲▽▲▽▲▽
誰かの手を掴んでいる感覚がする。
誰かの手に掴まれている感覚がする。
その手の温もりが優しく自分を包み込んでくれて、その手は男の子のように大きくて。
綺麗で指は細いくせに、ちゃんと硬くて、それが彼はれっきとした男性なんだと知らせてくれる。
まどろみ、ゆられて、人肌の温もりに安心する。
なのにどうして、彼の手は暖かいのに……どうしてその瞳は……。
「う、うーん」
眉間にしわを寄せ、軽い頭痛を覚えながら、スノーは額に手を当てて目を覚ました。
昨日の夜、ギルドでお酒を飲んでからの記憶がない。なんだか、酔った勢いに任せてとてつもない事を口走ってしたような気がしなくもないが、きっと気のせいだろう。
それに、座っている感触からして、自分はちゃんと宿の部屋まで帰ってこれたようだ。
「ん……?」
ふと、スノーは違和感を覚えた。今額に手を当ててるのは、空いている右手。左手の方は動かせない。
何故、左手は動かせないのか。答えは単純、ふさがっているから。
では、何にふさがれているのか。判然としない頭でスノーはそれを考える。
自分の左手は何かをしっかりと掴んでいる。それは、硬くなっている部分と、柔らかい部分が混在し、温もりも感じる。
その何かを確かめるように、スノーは無意識のうちに握る。すると、その何かも握り返したような気がした。
その手に握る感触が何故か非常に心を落ち着かせるので、スノーはいつものようにぼさぼさの頭のまま、その状態でぼーっとする。
「……」
そうしてどのぐらいの時間が経ったのだろうか。カーテンの隙間から眩い日差しが差し込み、スノーの顔を照らしたあたりで、彼女は自分が何を握っているのかを気になり始めた。
眩しさに目をほとんど閉じながら、スノーは左手にゆっくりと顔を向ける。
「?」
自分の左手は、誰かの右手を握っていた。スノーはそのまま、同じようにゆっくりと視線を上にあげていく。
その手は当然、その人の腕と繋がっている。その腕は黒い袖に通されており、緊張感はなくリラックスしていた。
そろそろと、スノーはその手を握ったまま左手を持ち上げ、目の高さまでもってくる。
ぼんやりと霧がかかったような思考で、目の前にある右手とその手の持ち主の顔を交互に見比べ、
「――――ぁ」
寝起きの乾いた口からかすれた音を出し、そこでスノーの頭の中と視界が急速にクリアになった。
スノーの瞳に入ったのは、整った中性的な顔立ちの少年。切れ長の瞳は今は閉じられており、静かな寝息から彼がまだ寝ていることが窺える。
その服装は昨日着ていたのと同じで、彼がずっとこのベッド脇の椅子に座っていたと容易に想像できる。
とくれば――、
「ぇっ、うそ」
レンがまだ寝ているので声は抑えたが、驚きの声を上げるのは抑えられなかったスノー。彼女は空いている左手で口を押さえ、碧い目を見開く。
もし自分の想像通りなら、ギルドでお酒を飲んでそのまま寝てしまい、レンにお持ち帰りされたというわけだ。
つまるところ――、
「迷惑、かけちゃったな……」
ぽつりと、レンの手を握ったままスノーは呟く。だが、何故、レンは自分の事をここまで運んでくれたのだろう。
彼はスノーの事を無視して、逃げて、およそ好意的に接してくれていた訳ではない。
寧ろ、スノーの方がレンに嫌われるような事をしていたかもしれないのに。
それに、昨日一昨日とレンの事を見てきたが、彼は他の冒険者から遠巻きにされ、恐れられていたように見えた。
スノー自身の第一印象も、その後に彼と話した時も、レンは冷たい人なのかとスノーは思っていた。
なのにどうして、こうして会って間もないスノーの面倒を見てくれたのだろうか。
「……本当は、優しくて思いやりのある人なんだね、レンは」
静かに寝息を立てているレンに、スノーの慈愛に満ちた声は届かない。
ただ、いつもあのような目をしているとは思えない健やかな表情で眠る少年の手を、スノーは彼が起きるまでずっと握り続けた。
――レンが起きて、そのまま短距離転移で彼の部屋に戻ったのは、この後すぐのことだった。




