第一章9 「……夢」
「ねえ起きて」
「うーん」
「起きてってば」
「うーーん」
「お・に・い・ちゃ・ん!」
「うーーーん」
「起きろ! バカ兄貴!」
「ごふっ……!」
思いの込もった重い一撃を腹にうけ、水仙は目を覚ました。げほげほとせき込みながら、ずれたピントを合わせて、ぼやけた世界を修正する。
瞬きをして朝日に目を慣らし、世界をようやく正しく認識した。
そうして水仙の視界に入り込んだのは、腰に手を当てて怒り心頭な少女だった。
腰まで届く艶やかな長い黒髪は、朝日を受けて光り輝き、長いまつ毛に縁どられた気の強そうな黒瞳は吊り上げられていて、彼女の機嫌が斜めだと主張している。
すっと通った鼻筋、身内の贔屓目を通しても間違いなく美人だと断言できる、モデル顔負けの容姿にスタイル。
本当に自分の妹なのかと疑ってしまうほど、整った美貌を持つ少女――真凛は腰を折り前かがみでこちらを見て、
「ほら朝だよ、朝ご飯作って。私、お腹空いちゃった」
「あふ、……ん、りょーかい」
両腕を上げて大きく伸びをしてから、殴られた腹をさすり水仙は布団から起き上がる。
時計を見れば朝の六時半、今日は珍しく真凛のほうが早く起きたようだ。
水仙は寝巻のままキッチンに向かい、朝食を作り始める。鮭が焼ける香ばしい匂いが立ち込める中、二人分の学校の支度を整えている真凛が、おもむろに口を開いた。
「……ねえ」
「なに?」
「私もさ……バイト、してもいいかな?」
懇願するようにそう言った真凛に、水仙は包丁を握る手を止めずに首を横に振る。
「何度も言っただろ、今はまだ駄目だ。来月から俺たちはもう中三だし、受験があるんだから。真凛は勉強に集中してろ」
「でもっ……」
真凛がこちらに振り返る気配を水仙は感じた。彼女は後ろにいるので、今どんな表情をしているのか水仙には分からないが、きっとこちらを心配する様な表情なのだろう。
双子の妹の事なのだ。真凛が何を考えているのか、どんな顔をしているのか、水仙には手に取るように感じられる。
「どうせ、俺が体を壊さないか心配してるんだろ。別に、そんなこと心配しなくて大丈夫だから」
「だってお兄ちゃんってば、いっつも疲れた顔して帰ってくるし。帰ってきたと思ったらすぐ寝ちゃうし、心配にもなるよ!」
「そっかそっか、そうやって心配してくれるなら、朝はもうちょい寝かしてくれるか、優しく起こしてくんないかな!」
先程の事を揶揄するように、水仙は笑いながら言う。それを受け、真凛は凛々しい顔を尖らせて、
「だって……お腹空いちゃったんだもん」
「はいはい、あと少しででできるから、もうちょい我慢してろ」
おざなりに手を振る水仙。いつもは凛々しい真凛だが、こうして自分にだけは甘えてくれるので、そこが可愛いし愛おしい。
だからこそ水仙は、毎日をこうして暮らしていけるのだ。もし彼女がいなかったら、自分は今頃生きてなどいないと水仙は思う。
そこだけ……本当にその点に関してだけは、親に感謝している。
「あっ、それとさ、修学旅行のことなんだけど……私も、行かなくていいから」
鰹節と昆布のだしを取って、味噌汁を作っているところで、真凛が再び声をかけてきた。
その淡々とした言い方に、水仙は眉間にしわを寄せ、
「別に金のことなんか心配すんな。お前には仲の良い友達だっているんだし、修学旅行ぐらい行ってこい。留守番するのは俺だけで十分だ」
「でもっ、私はお兄ちゃんと一緒がいい。もし本当にお兄ちゃんが行かないなら、私も……!」
「そんなこと言うなって、人生で一度きりのイベントだぞ? きっと橋本さんとか中島さんとか、真凛と一緒に京都に行くのを、楽しみにしてるんじゃないか?」
「それはっ……ちゃんと謝るし……。それに、一度きりのイベントなのはお兄ちゃんも一緒じゃん!」
「俺はいいんだよ、別に楽しみにしてるわけではないし、真凛がお土産の一つでも買ってきてくれれば。……真凛は何のために俺が学校に無断でバイトをしてるのかぐらい、分かるだろ?」
水仙は首を捻って後ろを見る。いつの間にすぐ近くに来ていたのだろうか、真凛は顔をうつむけ服のすそを引っ張り、
「……そんな言い方は、卑怯だよ。……私、お兄ちゃんに何にも返せてないのに」
「卑怯で結構。それに、俺はもう十分真凛からもらってるよ」
「……」
「もしお前が納得できないなら、ちゃんと勉強して、高校大学って進学して、良い会社入って、俺の事を将来養ってくれれば、それでいいさ」
そうだ、それでいい。真凛がちゃんと進学して、良い会社に入って、自分で暮らせるようになってくれれば、それ以上の喜びは水仙にはない。
水仙は前を向き、調理に集中する。すると、後ろで未だに服のすそを離さない真凛からは、鼻をすする音が聞こえてきた。
「……こんなことで泣くなよ、もう十四だろ? それに、真凛には泣き顔より、笑ってる顔の方が似合ってるんだから、笑え。ほんと、俺は真凛が笑ってくれてれば、それでいいんだから」
「……バカ兄貴、ほんっとうに、バカなんだから」
「おいおい、そんなバカバカ言われると、俺も傷つくぞ」
「……嘘、大好き」
「ああ、知ってる。俺の事を誰だと思ってるんだよ? お前の双子の兄貴だぞ。真凛のことで知らないことなんて、俺にはないと思ってるんだが?」
肩をすくめながらそう言って、水仙は手を止める。
「ほら、泣き止んだか? 泣き止んだんなら、朝ごはんにするか」
「ん、する」
そこでようやくすそを離し、真凛は顔を上げた。そして二人で出来立ての朝食を食卓に運び、黙々と食べる。
水仙は食べ終わった後、身支度と片付けがあるので、真凛は水仙より先に学校へと行く。
朝食を食べ終わった真凛は、食器を片付け鞄を背負い、
「それじゃ、先に行ってきます」
「おう、いってら」
玄関から出ていく真凛を見送る水仙。真凛の細い背中が遠ざかっていく。
この時の水仙は数年後、彼女の背が絶対に手が届かないどこかへ行ってしまう事を……。
◇□◇□◇□
淡い陽光を受け、レンは目を覚ました。時刻は暗刻の五時、いつもと同じ時間だ。レンはゆっくりと上体を起こして、深く息を吐いた。
ずっと昔、それこそ二十年近く前の出来事だが、今でも彼女のことなら鮮明に思い出せる。
誰よりも愛しく、誰よりも尊く、誰よりも大切な、己の半身である双子の妹。
ある日を境に消えてしまった、魂を分かち合ったと言っても過言ではない双子の妹。
彼女の夢を見ることなどここ数十年あまり無かったが、あの夢を見た理由ははっきりしている。
昨日出会ったあの少女だ。あの『目』が最愛の人のと被って見えたから。
あの少女の影に、いるはずのない妹の姿が見えてしまったから。
「……ままならないもんだな」
かなりの年月をこの異世界で過ごしてきて、未だに彼女に執着している自分がいる。
随分と女々しい男だと、ほとほと自分自身に呆れるレン。
それに加え、昨夜、結局スノーとベルには自分の居場所が割れてしまった。
泊まる場所を変えるのも面倒なので、とりあえずレンは彼女達とあまり関わらないようにと決めた。
『マーキング』が意味をなさず、寧ろ逆効果だったのはレンにとっては完全に誤算だった。
さらに言えば、自分の行動範囲は狭い。故に、なるべく関わらないという対症療法しか手段がないのだ。
とりあえずはいつも通りの一日を過ごそうと、レンは軽装に着替え始めた。




