兄悪役弟画策
ぱんぱかぱんとこの世に生を受けて早六年。
由緒正しい公爵家の次男であるシムオンは、生まれて初めて母親に頬を打たれていた。
柔い頬にじんじんと広がる熱と痛みに驚く間もなく、濁流のように押し寄せる前世の記憶に溺れそうになる。
まさかそんな。ここが乙女ゲームの世界で兄が悪役だなんで冗談だろうと現実逃避していると、眉をつり上げた母に叱咤される。
「貴方は次期当主になるのですよ。こんな落ちこぼれに時間を割く暇などないのです。分かりましたね?」
うるさいと言いかけたがなんとか頷く。
背中に刺さる五歳年上の兄の視線を感じながら、シムオンは母親に強く手を引かれるまま自分の部屋へと戻った。
凝った細工の椅子に座り、自分一人きりになったところで混乱する頭の中を整理する。
シムオンという人間になる以前、どこにでもいる普通の学生として過ごしていたが、迫る車を最後に記憶が途切れている。事故死でもしたのか。
両親や友達の顔が薄らと浮かんでくる。泣きたくなるような懐かしい気持ちになり、実際、涙が溢れそうになったが妹の顔が浮かんだ途端それどころじゃないと感傷的な気持ちが引っ込んだ。
前世の妹は所謂オタクというもので、世間で流行したとある乙女ゲームが大好きだった。全く興味がないシムオンですら題名を知る位には人気だったのだが、プレイしたことはない。
しかし、妹が毎日毎日毎日毎日まいに、ごほん。日々熱烈に語ってきたので、特別記憶力が良くないシムオンでも大まかな内容はぼんやりと覚えている。
孤児として生まれたヒロインは身の内に莫大な魔力を持っており、それを見初めた伯爵夫妻に孤児院から引き取られる。そして迎えるデビュタントで攻略対象達と出会い、宮廷魔法師を目指しながら彼等と恋愛模様を繰り広げていくというストーリーだ。
その中で登場するラスボス的な悪役令息がシムオンの兄、ベルデである。
彼は宮廷魔法師として代々王に仕え国の平和に貢献してきたレッタリア公爵家の長男として生まれたが、魔力がほとんどなく落ちこぼれの烙印を押され悲惨な幼少期を過ごす羽目になる。そんな中、社交界に颯爽と現れたヒロインが有力貴族達の関心を引き、国王にすら将来を期待される魔法師の卵として話題になるのだ。
彼女と比較される対象として自身の名前が出る度に劣等感に押し潰されたベルデは、やがて強い憎悪を抱くようになる。
そして決定打が禁忌として歴史から葬り去られた魔道具を見つけることだ。確か短剣だったような気がする。どうやって見つけたのかは覚えていないが、その短剣で相手の心臓を貫くと、その人の魔力を自分の物に出来るという恐ろしい魔道具だ。
嫉妬と妬みで闇堕ちしたベルデがそれを手にしたらどうなるか。
当然、あの手この手でヒロインの命を狙うのだが、それらの困難を全て乗り越え、攻略対象達との絆を深めながら立派な魔法師になるヒロインの前に完全敗北するのである。
最後はヒロインと結ばれるヒーローにより命を落とし、ゲームのエンディングを迎えるといった内容だ。
何が一番シムオンにとってまずいのかと言うと、ベルデは短剣を入手してから手始めに自分を貶した両親とそれを傍観していた弟を殺めている。
つまり、シムオンは実の兄に殺されるモブキャラクターとして生まれたのだ。
しかしこの時点で原作と既に違うところがある。
シムオンは原作では左程魔力の量が多くなく、兄程ではないが両親から冷遇されていたのだが、現実は正反対になっている。
溢れんばかりの魔力と、物理的に表現される熱心な教育的指導。
待て。本来ヒロインへ向けられる筈の兄のヘイトが自分に向かってきたら、おれ、原作の十三歳より大分早めに退場するのでは。
そんなのは嫌だ。歯が抜け落ちるまでとは言わないから長生きしたい。
「…こびへつらって情を勝ち取るか」
なんて息苦しい世界なんだ。
時々ゲームの画面を見ては狂ったように部屋を駆け回っていた妹よ。兄は今、君の夢見た桃源郷で生きています。
***
思い立ったが吉日。
前世を思い出した次の日から、雛鳥よろしくシムオンはベルデに付き纏った。
実は昨日まで兄と顔を合わせたことがなかったのだ。
これはベルデが基本部屋に籠もりがちなのと、両親が徹底的に遠ざけてきたからでもある。
それが偶然に偶然が重なり対面を果たしたのだ。お陰で前世を思い出せたのだから神は我が身に宿っていると過信してもいいだろう。
自惚れ大事。じゃなきゃ、この先選択しなければいけなくなった時に沼るかもしれない。
そうだ。ナルシストで生きていこう。地頭があまりよろしくない自分が慎重に行動しても上手くいくか分からない。考えるより感じろ精神で生きてきた前世が大胆に行こうぜと囁いてくる。
一方、それで失敗して早死にしちゃったらどうしよう、元も子もないじゃないかと僅かな知性が反論してくる。珍しく悩みに悩んだシムオンは考え込みすぎて訳が分からなくなり、もういいやと放り投げてしまった。
取り敢えず仲良くなればなんとかなるだろ。
実に安直な着地点である。
「あーにーうーえ」
「…お前、また来たの。鬱陶しいな」
「いやよいやよも好きのうちだよ」
「だから意味分かんないって」
「ええ? 兄上大好きだよって意味だけど」
「気持ち悪」
「なれて」
「は?」
ベルデの部屋は質素であまり家具もないし、なんなら埃っぽい。メイドや執事も食事を届けにくるだけで、シムオンのように頻繁に訪れる者はいない。
最近はシムオンが本やら羽根ペンやら色々と持ち込むせいで小物がそこら辺に散らばっている。殺風景よりはいいだだろうという自己判断と、ベルデはシムオンと違って勉強が好きそうだから、ためになりそうな教材も押しつけ…プレゼントしているのだ。
水球を飛ばすという初歩的な魔法だって、家庭教師がくどくどと原理を説明しながら手本を見せてくれても理解すら出来なかったが、兄が「ボールを指で弾く感じじゃないの」と言ってくれたお陰で出来るようになったのだ。
魔法はデコピン。把握した。
きっとそんな覚え方をしているのはシムオンだけだし、ベルデの口癖が「意味分かんない」になりかけているのも、間違いなくシムオンのせいである。
「僕に構ってるとまたあいつに顔を叩かれるよ」
「おれの美ぼうに傷をつけるなんていい度きょうしてるよね」
ベルデが大きな溜め息を吐いた。
「兄上がこんなにかっこいいんだから、おれがかっこいいのも当ぜんでしょ」
「やめて」
ほんのりと頬を赤く染めたベルデにシムオンの胸も温かくなる。
お揃いのプラチナブロンドの髪と、アジメストの瞳。冷たい風に見える端整な顔立ちはやる気がなさそうな緩いシムオンの顔立ちよりきつい印象を受ける。
事実、ベルデは見た目を裏切らない気性の荒さがある。
会話も刺々しい返答が殆どだが、シムオンも大概なのでそこはお互い様だ。
ベルデとそこそこ仲良くなったと思っているシムオンは、原作っていつから始まるんだろうと前世の記憶を探る。
貴族の令嬢は十五歳で社交界デビューをするので、もしヒロインがベルデと同い年だとするとあと四年ということになる。一応、社交界の情報は耳に入れるようにしているが平民あがりの伯爵令嬢はまだ現れていない。
それまでにもっとベルデと仲良くなって、彼が悪役となる引き金になった魔道具も回収したいし、根深く染みこんだ劣等感みないなのも取っ払ってあげたい。
シムオンの魔力を譲渡することも可能だが、他人への魔力譲渡は自分の体の皮を剥ぎ、肉を抉り、内臓を焼き焦がすほどの苦痛を伴うらしい。
絶対無理である。
だから、なんとかそのみそっかすな魔力をどうにかこうにか有効活用して自分で立ち直って欲しい。
平穏に暮らせればなんでもいい、次期当主の座も今はシムオンに与えられているが全然ベルデに譲って構わない。
むしろはいどうぞと渡したい。
原作で滅ぶ家の当主など不穏以外の何物でもない。
「ほら、いつまでもそんなとこに立ってないでこっちに来て座りなよ」
「うん」
なんだかんだベルデはシムオンに優しいし、シムオンも絆されてきている自覚はある。
打算抜きで兄として純粋に好きだなと感じるし、幸せになって欲しいと願う気持ちに嘘はない。
じっとベルデを見つめると迷惑そうに顔を顰めながらもシムオンの頭をそっと撫でてくる。
するとまた、胸の奥がほわほわと温かくなるのだ。
「あにう…、ふはっ、」
嬉しいから耳が赤くなっていることに触れるのはやめておいてあげよう。
乗馬は貴族にとって嗜みのひとつだ。
あれから三年程経ちベルデは十四歳、シムオンは九歳になった。
ヒロインはまだ社交界に現れていない。やはり来年が今の所一番怪しい。相変わらずベルデは皮肉屋だし、深夜に自身の手の平をぐっと握り締めながら涙を流している姿も目撃する。
それでも原作ほど両親に関心や憎しみを抱いておらず、シムオンには拙いながらも精一杯の優しさと愛情を返してくれている。
無論、シムオンも日頃から好き好き大好き超大好きと言葉でも態度でも示してきた。愛情は十分伝わっていると思う。むしろ鬱陶しいくらいじゃないだろうか。
あともう一押し。何かもう一押しさえあれば色々と吹っ切れそうな様子なのだが、それをするにはどうしたらいいのかシムオンは分からずにいた。
シムオンの魔力量が雄大な湖ならばベルデは雨水が貯まったバケツ程の量しかない。
それでも全く魔法が使えない訳ではないし、魔力のコントロールには目を見張る物がある。
才能なんかじゃない。ベルデが積み重ねた努力の結果だ。あとは自信さえつけてくれれば。ベルデ自身が自分を認めてあげれば。
シムオンに対し何も思わないわけがない。それでも、弟として可愛がってくれる兄のことをなんとかしてあげたい。
心の底から笑える日が来て欲しいと願っているのだ。
穏やかに歩く馬の背に揺られながら、シムオンはぼんやりと意識を遠くに飛ばしていた。
「…あれ」
そしてつい考え込んでしまったらしい。はっと我に返った時には随分奥まで来てしまっていた。目の前に広がる湖で足を止めた馬から軽やかに降りる。美しい場所だ。少し休んでから戻っても問題ないだろう。案外心配性な兄に小言を言われるかもしれないが。
しかし一瞬、湖の真ん中辺りが強く輝いたような気がして目を細め凝視する。
「見間違いかな」
成長するにつれちょっと神経質になってしまった。まあ、大抵のことは大雑把なのだけれども。
ヒン! と馬の嘶きが響き、咄嗟に背後を振り返る。ライオンのような胴と人のような顔をした魔物、マンティコアがそこにいた。
「は、」
馬を捕らえ、音を立てながら貪っている。
口から馬の片足をぶら下げながら、標的をシムオンへと定めたマンティコアが鋭い爪を振り降ろした。
咄嗟によけて体勢を立て直す。抉れて土煙があがる地面にぞっと身の毛がよだつ。ほんの少し掠っただけでも致命傷になりかねない。
なんでこんなところに凶悪な魔物がいるんだ。熊よろしく腹を空かせて人里にでも降りてきたのか。本来なら火山口の近くに生息している筈なのに。イレギュラーにしても酷すぎる。
下手したら、死ぬ。
魔力を凝縮させ、火球を次々とぶつけていく。不規則に飛んでくる尾を避け、体の重心から襲いかかってくる方向を予測し反対へ身を転がす。
どくどくと心臓が脈打ち、冷や汗が止まることなく額から流れ落ちた。
どうしよう。どうしたらいい。どうやって勝てばいい。いや逃げよう。でも逃げると言ったってどうやって逃げればいいんだ。
限界にまで張り詰めた緊張の糸がぎちぎちとシムオンの首を絞めていく。
マンティコアが飛び掛かってくる。シムオンの一歩が出遅れた。肩に鋭い牙が刺さり、爪が腹を裂く。
「痛ってえんだよくそが!!」
血を吹き出しながら叫んだシムオンは、無事な方の腕に魔力で炎を宿すと、マンティコアの口に突っ込んだ。
頸椎を燃え溶かし竜巻のように空へ吹き上がる灼熱の炎。苦痛に悶えおぞましい雄叫びを上げるマンティコアがたまらず湖へ飛び込む。
大量の水飛沫があがり湖の水量が半分以下になった。
シムオンはすかさず巨大な氷柱を作ると、それを操ってマンティコアの体を頭から尾までぐっぷりと突き刺した。
声を上げることなく倒れるマンティコア。それと同時にシムオンもその場に崩れ落ちた。おびただしい血の量が流れている。腸が出てこないよう傷口に手を当てるが気休めにしか過ぎない。
痛い。寒い。痛い。痛い。
結局死ぬのか。まだ原作だって始まってないのに。あのむかつく両親をとっちめてからでもいいだろ。こんなことなら大人しく家にいればよかった。気分転換したら死にましたなんてあまりにも残念すぎる。
ベルデを、独りにするのか。
まだ何一つ解決していないのに。まだ、彼の世界は暗く閉ざされたままなのに。深夜に悔し泣きする兄を見て言葉を失い、呆然とすることしか出来なかった自分はやはりちっぽけだったのか。
「シムオン!」
あれ、なんで兄上の声が聞こえるんだろ。
ていうか、名前、初めて呼ばれた。
「シムオン! 目を開けろシムオン! シムオン!」
「あ、にう、」
ぐっと重たい瞼を持ち上げたつもりだが、最早うっすらと目を開くことしか出来なかった。
ベルデだ。ベルデがいる。シムオンの体を震える手で抱き上げて、その血で真っ赤に染まりながら、見たことも無い顔で泣いている。
「な、で」
「あんな馬鹿げた火柱をあげる魔法なんて使うの、お前くらいだよっ」
ああ、あれを見て何かあったと思って駆けつけてくれたのか。でもごめん。おれもう死にそうなんだ。意識だって途切れ途切れで、あんなに激しかった痛みも感じなくなっている。
「帰ろうシムオン。すぐ医者に診てもらえばまだなんとかなる。僕が絶対助けるから! だからっ、だから!」
死なないで。
「いやだ、いやだよ、僕には君が必要なんだ、いなくならないでよ」
ふわりとシムオンを抱えたベルデの体が宙に浮く。そのまま邸宅を目指して飛行し始めた。こんな繊細な魔法、シムオンには無理である。やはり、ベルデは凄い。
だからもっと、堂々と生きて欲しい。
「あにうえ」
「なに、どうした?」
全く余裕のない兄に、ああ、自惚れでもなんでもなく、ちゃんと愛されていたんだなあと不謹慎にも嬉しくなった。立派なブラコンになったものだ。
「あげる」
最後の力を振り絞り、ベルデの心臓の上にべちゃりと血みどろになった手を添える。
意図を理解したベルデが絶叫する。それでも手を離せばシムオンが地面に真っ逆さまになるため拒絶することも出来ず、降りれば一刻と争う時間を無駄にしてしまう。叫び続ける顔と首に血管が浮き出ていた。
死へと近づく体に遠退きかけてた激痛が戻ってくる。しかし意識が朦朧としているせいか予測していたより堪えられる痛みだ。なんかどばっと血が溢れたような気がしたがもうこの際どうだっていい。
シムオンは自分の身の内に流れる魔力を、意識が持つ限りベルデに譲渡し始めた。
置き土産にしては悪くないだろ。これで兄のコンプレックスがなくなるのだ。自己満足かもしれないが、それでも、今のシムオンに出来ることはこれしかない。
邸宅まであと少しの所まで来た時、がくんとシムオンの体から力が抜けた。
***
死んだと思った。本当に、死んだと思った。
あの後、シムオンは三年間意識が戻らず、ずっと寝たきり状態だった。
目が覚めた時、何故か両親は事故死していて、何故かヒロインが王妃の専属騎士になっていて、何故かベルデが宮廷魔法師になっていた。
なんかもう、よく分かんない。
ベルデに魔力を譲渡したシムオンの総魔力量は平凡といって差し支えない量になっていた。逆にベルデは膨大な魔力量を宿している。シムオンが譲渡した魔力より多い。ちょうど両親の分を追加したような。
怖い物見たさでやんわりと聞いてみたら、ベルデが懐からあの短剣を取り出したのでシムオンは開いた口が塞がらなかった。
「事故死……?」
「どうだろうね」
聞かなかったことにした。
ちなみに、今はベルデが細工を施し、本当にただの短剣らしい。
「シムオン」
「なーにー」
「シムオン」
「…なにー」
「シムオン」
だからなに。
まだまだ安静状態なシムオンにぴったりと寄り添う現公爵家当主。
大分心配をかけてしまったのは申し訳ないが、ちょっと過保護過ぎではないだろうか。
一応、これでも十二歳なんだが。
「今日は何するの」
「本読んで、歩く練習して、庭園でお茶する予定」
「外に出るなら僕の部屋から見える所にいて」
「分かった」
頷くとベルデが満足そうに目尻を下げた。
成長した兄は益々磨きがかかり格好いい。
「シムオン」
「うん」
「ありがとう。あと、ごめんね」
「それもう何回も聞いた」
「シムオンが生きていてくれて嬉しい」
「弱くなったけどね」
「僕が守る」
ベルデが優しくシムオンの額を小突いた。
その顔に浮かぶ柔らかな笑みを見て、取りあえず頑張ってよかったなあとシムオンは口元を綻ばせた。