正義マンとトロッコ問題
正義マンは分岐器の前に立っていた。
左右には線路が敷かれていて、左側からトロッコがあり得ないくらいの猛スピードでやってきている。尋常ではない。おそらく、制御不能となっているのだ。
「ふうむ……」
正義マンの右側――線路が二又にわかれている。
なぜだかわからないが、二又にわかれた線路の両方で、人が何やら作業をしている。片方が五人、もう片方が一人。
「おーい! もうすぐトロッコがやってくるぞ! 危ないから逃げろ!」
正義マンの注意喚起に、しかし誰も耳を貸さない。
聞こえていないのだろうか?
左手からやってくるトロッコを見る。時間はあまりない。彼らの元まで行って、もっときちんと注意をすることはかなわない。
「どちらかを見捨てるしかない、か……」
分岐器でトロッコの進路を切り替えなければ、五人が犠牲となってしまう。
一人と五人、どちらかを犠牲にしなければならないとしたら、一人を犠牲にするべきだ。理想を言えば、誰も犠牲にならない選択をしたいところだが、残念ながらそんな選択肢は存在しない。妥協するしかない。
「仕方がない。すまない、一人を犠牲に――」
そこで気づいた。
その一人は最愛の妻であるということに。
正義マンの妻一人と、見知らぬ人五人。
同じ人間という種であることには変わらない。しかし、正義マンにとっての価値はまるで異なる――いや、どちらも同じ人間なのだ。
「ぐ、ぐう……」
どちらを犠牲にするべきなのか……?
正義マンは正義を愛する男。
たとえ最愛の妻だからといって、他の人間の命よりも彼女の命の価値を重んじることなどできない。それをしたら、正義マン失格。正義マンは世のため人のため頑張って活動している。プライベートな事情を持ち込んではならない。それをしたとき、彼は正義マンではなくなる。
正義マンであることを捨てるか。
正義マンであることを貫くか。
残された時間は少ない。悠長に考えているような時間はない。
「クソッ、クソッ、クソッ、クソッ……クソオオオオオ――ッ!」
そして、正義マンは――。
妻を見捨てた。
分岐器を動かして、トロッコの進路を変えた。
猛スピードのトロッコが、正義マンの前を駆け抜けていった。正義マンは涙を流しながら、行く先を見つめた。
「あ、あなた……っ!」
なぜかわからないが、妻が今になって夫とトロッコに気づいた。
「ああ――」
トロッコの突進を食らって妻は即死した。
正義マンはその場に泣き崩れた。
これで、これでよかったのだ……。
片方の線路で作業をしていた五人が、作業を終えたのか、こちらへ向かって談笑しながら歩いてきた。
「何、泣いてるんだ、こいつ。気持ち悪いな」
「なあ、トロッコに轢かれた女見たか?」
「ああ、ぐちゃってなってたな。ぐろかった。吐きそうだよ」
「けっこう綺麗な人だったな。もったいない」
「俺、好みのタイプだった」
「じゃあ、今からでも死体に○○してこいよ」
「俺にそんな趣味ねえよ」」
ぎゃははは、と五人は笑って去っていった。
正義マンはゆらりと立ち上がった。
人間の命の価値は平等である、と考えるようにしていた。命に貴賤はない。それが、正義マンの正義的考え方である。
しかし、それは間違いだった。
あんな五人の一人一人と、妻の命の価値が同じであるはずがない。
そう思ってしまったとき、男は正義マンではなくなっていた。正義マンだった彼は暗黒サイドへと堕ちた。
これからは、あのような価値の低い命は救わずに、むしろ積極的に殺していこう。それが彼らのためだ。人間は多すぎる。淘汰するべきなのだ。
元正義マンは歪んだ正義を遂行するために歩き出した。彼の正義も、分岐器を動かしたときに、異なる方向へと進行してしまったのだろう。
「正義とは一体何なのだろうな?」
その問いに答えてくれる者はいない。