4.糸の先
父からエルネスト家の次男クラウスとの縁談の話をされてから三日後。
シャーロットの小指に突如現れた赤い糸は、その後も更に長さを増し、今ではその先端が、何処に行ったか分からなくなってしまった……。
そのあまりにも長く伸びてしまった赤い糸は、現在アデレード家の屋敷中の床を絨毯のように埋め尽くしている。
しかし、その存在を目視できるのは、何故かシャーロットだけだ。
その証拠に床を埋め尽くす赤い糸は、その存在を見る事が出来ない屋敷の使用人達に容赦なく踏みつけられている。
だが、そんな光景を見ていたシャーロットは、ある事に気付いた。
どうやらこの赤い糸は、見えているシャーロットが踏みつけると、しっかり質感があるのだが、見えていない人間にとっては、存在しない物として扱われるらしく、踏みつけると見事にすり抜けるのだ。
またしても不思議な現象を起こしているこの赤い糸ついて、シャーロットはもうキリがないと判断し、考える事を放棄した……。
そもそも先が誰にも繋がっていない赤い糸なんて、夢が無さ過ぎる。
そんな状況からシャーロットのこの赤い糸への感心は、すっかり薄れて行ってしまったのだ。
それよりも今のシャーロットには、かなり気がかりな事がある。
ここ最近の姉セルフィーユの様子だ……。
父からエルネスト家の次男との縁談話をされてから、姉の様子がおかしい。
考え事している事が増え、ふとした瞬間に思い詰めた表情も浮かべている。
昨日ロマンス小説を借りに姉の部屋を訪れた際など、何も書かれていない便箋を机の上に出しっぱなしにして、ぼぉーっとしていた。
そんな上の空状態になっている姉をシャーロットは、初めて見た。
それがクラウスとの縁談の話を父からされた日から、続いている……。
その姉の様子から、もしかしたらシャーロットの知らない間に姉は、クラウスとどこかで面識があったのかもしれないと考えてしまう。
その考えが生まれてしまったシャーロットは、四日後に控えているエルネスト家への訪問の際、クラウスの評価を厳しめにしようと意気込んでいた。
しかし四日後、朝目覚めたシャーロットは、自分自身の事で茫然としていた。
昨日まで屋敷の床を絨毯のように埋め尽くしていた赤い糸が、キレイさっぱり消えていたのだ。
慌てて左手の小指に目をやると、そこにはまだ赤い糸が結びついている。
しかし小指に結ばれた赤い糸は、何故かシャーロットの部屋から屋敷の入り口の方まで続いていた。
その糸を辿り、寝間着のまま自室を出ようしたら、侍女のマデリーンに見つかってしまい、こっぴどく叱られ、早々に外出用の柔らかい色目のオレンジ色のドレスに着替えさせられてしまう。
「マデリーン……。この服装、ちょっと気合を入れすぎではない?」
「何をおっしゃいます! 本日はお嬢様方の縁談という華々しい日ではありませんか! 旦那様からも本日のお二人のお召し物には、うんっと気合を入れるよう言付かっております!」
「お二人って……。縁談の最終目的は、お姉様を選んでもらう事なのよ? それなのにおまけの私を着飾っても無意味だと思うのだけれど……」
「そんな事はございません。クラウス様に好印象を抱いて頂ければ、クラウス様のご友人との縁談も舞い込むかもしれませんよ?」
「それ言ったのって、絶対お父様よね?」
「では本日の御髪は編み込みのヘッドドレス風になさいましょうね!」
「マデリーン。誤魔化さないで……」
そうこうしている内にマデリーンは、シャーロットのミルクティー色のサラサラな髪を使って、美しい編み込みでヘッドドレスを作り出した。
そして編み込みの最後の毛先を降ろしている髪の裏側に隠し、右耳の裏辺りにオレンジ色のリボンで作られた花モチーフのコサージュ風の髪飾りを挿す。
「やはりシャーロット様は、明るいオレンジ色が本当によくお似合いですね!」
「そうかしら? でもよく子供っぽいと言われてしまうのだけれど……」
「そこが可愛らしいのではないですか!」
「やっぱり子供っぽいって事じゃない!」
やや不貞腐れた表情を浮かべながら、それなら姉のように深く鮮やかな大人っぽい青いドレスの似合う女性になりたかったと、切に思うシャーロット。
そんなシャーロットの思いを汲み取るように鮮やかな青色の外出用のドレスに身を包んだ姉が、部屋にやって来た。
両サイドを編み込みにし、ハーフアップした後、後ろの真ん中部分に美しいパールの髪飾りが差し込まれている。
「シャル、あと一時間したら出発するけれど、朝食はもう済んだの?」
「そ、そんなに早く家を出るの!?」
「エルネスト家は、馬車で一時間以上かかるから……。ご先方は私達が十一時過ぎくらいに訪問すると思っているそうよ?」
「そ、そんなぁ~!」
これでは急にスッキリまとまってしまった赤い糸を辿る時間はない。
そう思ったシャーロットは、落胆のあまり大きく肩を落した。
「シャル? そんなに落ち込んで……今日何かやりたい事でもあったの?」
「いいの……。明日確認するから……」
「そ、そう?」
項垂れながらトボトボと食堂に向かう妹の後ろ姿に心配そうな視線を送る姉。
そんな姉の視線に気付かず、シャーロットは暗い表情で朝食を取り始める。
何も予定のある日に大きな変化を見せなくてもいいのに……。
そう思いながら、自身の左手の小指を睨みつける。
すると何やら赤い糸の様子が、今までと少し違っている事に気付いた。
「糸が……少し張っている?」
思わず呟きながら、自身の目の前に左手をかざす。
よく分からないが、昨日までだらりと垂れ下がっていた赤い糸が、何故か今日は少し弛んでいる……。
その変化に左手を前にかざしたまま、シャーロットが首を傾げる。
すると、それに気が付いた母がキッと目くじらを立てた。
「シャル! 食事中に何をやっているの! お行儀が悪いわよ!?」
「ご、ごめんなさい……」
一緒に朝食を取っていた母に叱られ、シャーロットは慌てて左手引っ込めた。
「全く……そんなにエルネスト家に行くのが楽しみなの?」
「ち、違うわ! これは、その……」
恋愛に夢見がちな次女が、やっと縁談に興味を持ってくれたと勘違いした母の様子を何となく感じ取ったシャーロットは、慌てて弁明しようとしたのだが……まさか左手に謎の赤い糸が結びついていて、その様子を観察していたとも言えず、そのまま口ごもる。
そんなシャーロットの様子に母が更に苦笑した。
「もう! お母様! これは本当に違うの!」
「はいはい。いいから早く朝食を済ませなさい。でないと折角、楽しみにしている縁談なのにセフィに置いて行かれてしまうわよ?」
「だから違うのぉぉぉ~!!」
母に変に誤解されたシャーロットは、思わずムキになって叫んでしまった。
すると、また母の小言が飛んでくる。
もうこれ以上この赤い糸を気にし過ぎると、いい事はないと思ったシャーロットは、怒られない程度に急いで朝食を口に詰め込んだ。
「シャル、そろそろ出発するけれど……もう準備はいい?」
一息つこうと食後のお茶を飲んでいると、姉がシャーロットを呼びに来た。
「待って! あともう少しだけ、ゆっくりさせて!?」
「もぉ……。先に馬車に乗って待っているから。あと五分したら来なさいね」
「はーい」
困ったような笑みを浮かべて、食堂を出ていく姉の姿を目で軽く追う。
その方向にシャーロットの小指に結ばれている赤い糸も続いていた。
どうやら赤い糸は、玄関から外の方へと続いているらしい……。
その事が気になり出したシャーロットは、まだ五分経っていなかったが、姉の待つ馬車へと向う。
「まだ五分も経っていないけれど……もう出発していいの?」
「ええ。もう大丈夫」
そう言って馬車に乗り込んだシャーロットだが……。
馬車の窓から体を乗り出し、目をすぼめながら自分の小指から出ている赤い糸の先を確認した。
どうやら赤い糸は、これからシャーロットが向かう方へと続いているようだ。
そしてやはり糸は、少しだけ張っている。
「どうなっているのかしら……」
「何が?」
「え!? えっと……エルネスト家の領地って、どうなっているのかなーって」
「ふふっ! シャルは随分今回の縁談に興味があるのね?」
「た、確かに社交界で人気と噂の伯爵令息様には、少しは興味があるけれど……でもそれは、お姉様に相応しい人か心配しているだけよ!?」
そのシャーロットの言葉に一瞬だけ、セルフィーユの表情が曇った。
だがすぐにニッコリと笑みを浮かべ、シャーロットの頭を撫でる。
「心配してくれて、ありがとう。でも大丈夫よ? ちゃんとお父様のご要望にお応え出来るように頑張るから……」
そう言って窓の外に目を向けて、ここ最近よく見せていた上の空な状態になってしまった姉。その姉の様子にシャーロットは、ある事に気付く。
もしかして姉は、この縁談に前向きではないのでは……と。
だが、その理由がシャーロットには全く見当が付かない。
真面目な性格の姉ならば、政略的な婚約でも家の為と割り切ってしまいそうなのだが、今の姉の様子からは、この縁談がまとまる事への抵抗があるように見える。
「お姉……様?」
恐る恐るシャーロットが声を掛けると、少し寂しげな表情で姉が笑みを返す。
そんな姉の反応に急に不安を抱いたシャーロットは、行儀よく膝の上で組まれていた姉の右手をギュッと握った。
「シャル?」
「大丈夫! 変な人だったら、また私が追い払ってあげるから!」
「もぉ。それではお父様のご要望に反してしまうでしょ?」
「そうなったら、いつもみたいに全部私が、お節介で暴走した事にすればいいのよ! お姉様は何も心配しなくていいからね?」
そう言って、にぃっと無邪気な笑顔を向けてくる妹の頭をセルフィーユは、優しく撫でた。
「シャルは本当に頼もしいわね」
「お姉様のナイトが現れるまでは、私がしっかりお姉様を守ってあげる!」
「ありがとう、シャル」
そう言って嬉しそうな笑みを返してくれた姉の反応にシャーロットが、少しだけ安心する。
姉が何らかの理由で、この縁談に不安を抱いている事は間違いない……。
その理由は分からないが、それは縁談相手のクラウス・エルネストという人物が、どのような人間かで大きく変わってくるはずだ。
そう考えたシャーロットは、どうかこの縁談相手が姉に相応しい素敵な令息であって欲しいと、切実に願った。
そんな事を考えながら、姉とロマンス小説の話題で盛り上がっていると、あっという間に一時間が過ぎ、外の空気がいつの間にか変わっていた。
それに気付いて窓の外から顔を出すと、隣の姉が苦笑しながら一言呟く。
「エルネスト家の領地に入ったみたいね」
「そうみたい。緑の香りが、うちの領地と少し違うわ……」
そう言って、旅先でよく感じる空気の違いの感覚をもっとよく確認しようと、シャーロットが窓から少し身を乗り出す。
すると馬車の車輪付近に赤い糸が零れているのが、ふと目に入った。
どうやらこの赤い糸はシャーロット達が向かっている方向へと、まだ続いているらしい。
しかし、ここでシャーロットは、新たにこの赤い糸の不可解な現象に気付く。
「糸が……いつの間にか巻き取られている?」
赤い糸はシャーロット達が向かっている方向に続いている。
すなわち、シャーロットがその方向に進み続ければ、長すぎる赤い糸はシャーロットの足跡のようにその後ろに取り残されるはずだ。
しかし……馬車の後方に目を向けると、ある程度の距離で赤い糸は折り返して、シャーロットの左手の小指の方へと繋がっていた。
それはまるで、自分の小指に結びついている部分に後方に残されていた赤い糸が、巻き取られているかのように短くなっているのだ。
それに気付いたシャーロットは更に身を乗り出し、いつ赤い糸の長さが縮んでいるのか確認しようと目を凝らした。しかし……。
「シャル! そんなに身を乗りだしたら危ないわ!」
いきなり姉にドレスの腰辺りをグッと掴まれ、思わず赤い糸から目を離してしまった。そしてそのまま姉によって馬車の中に引きずり戻される。
「もう! 危ないでしょ? 馬車から落ちてしまったら大変よ!?」
「ご、ごめんなさい……」
姉に謝罪しつつも先程気付いてしまった赤い糸の様子が気になって仕方ないシャーロットは、そっと窓から首だけを覗かせて後方を確認する。
すると……思った通り、赤い糸が折り返してくる距離が短くなっていたのだ。
まるでシャーロットが見ていない時に左手の小指が、徐々に赤い糸を巻き取り回収しているような……そんな感覚だ。
だがその小指の結び目部分は、特に何か変化が起きているという様子はない。
「本っ当、よく分からないわ……」
シャーロットが眉間にシワを寄せ、自身の左手の小指を凝視していると、急に馬車が方向転換をして、その遠心力で体が揺れた。
「えっ!? な、何、急に……」
「先程立派な門をくぐったから、エルネスト家のお屋敷内に入ったみたいね」
どうやら後方ばかり気にしていたシャーロットは、目的地が見えていた事に一切気付けなかったようだ……。
いつの間にか馬車の外の景色は、立派な庭園の横をすり抜ける道を進んでいる。
そしてしばらくすると、ゆっくり馬車が止まった。
「到着したみたい……」
姉の呟きと同時に丁寧に馬車の扉が開かれる。
「セルフィーユ様、シャーロット様。ようこそお出でくださいました」
そう言って二人に馬車から降りるよう促したのは、初老で品のあるベテランそうな執事だ。
「お初にお目にかかります。当屋敷の全体の管理を任されている執事のロワンズと申します。お足元にお気を付けて、ゆっくりお降りくださいませ」
そう言って、扉側に座っていたシャーロットに丁寧に手を差し出してくれた。
そのエスコートで先にシャーロットが馬車から降りる。
続いて姉もロワンズの手を借り、下車して来た。
すると出迎えで控えている三人のメイド達が、二人に丁寧に頭を下げてきた。
流石、歴史ある伯爵家だけあって、来客時に出向かい用に人員を割ける程、使用人の人数が多いようだ。その事に感心していると、執事のロワンズが「ご案内いたします」と言って、二人を屋敷内に促す。
屋敷の中に足を踏み入れると、飾られている調度品に目が行く。
どれも高価そうで品のあるデザインだ。
実用性重視のアデレード家では、この光景はあまり見られない。
シャーロットには、ロマンス小説好き繋がりで友人は多いのだが、このような『いかにも貴族のお屋敷』という友人はいなかった。
そう考えると、エルネスト家は伯爵という爵位でも上位の方だとよく分かる。
やや行儀が悪いが、キョロキョロしながらシャーロットが歩いていると、二人を案内していた執事のロワンズがある部屋の前で止まった。
「只今、クラウス様をお呼びいたします。こちらのお部屋で少々、お待ちくださいませ」
そう言って客間らしき部屋に二人を通した。
その部屋の中も美しい花瓶や見事な絵画などで、かなり格式高い印象を放つ調度品が、品よく飾られている。
「お、お姉様……エルネスト家って、もしかして伯爵位でもかなり上位のお家柄なの?」
「まぁ……。知らなかったの? エルネスト家は元々国内の織り機の性能向上を王家より任され、かなり貢献した家系なの。今国内で使われている織り機の殆どは、このエルネスト家が中心となって職人や技術者達と開発した物なのよ? あまり表立ってはいないけれど……王家との繋がりがあるお家柄なの」
「さ、流石、お姉様……」
「それよりもシャル、お行儀が悪いから、あまりキョロキョロしないでね?」
「はい……」
やんわりと姉に窘められ、素直に頷くシャーロット。
それにしても姉の博識さは、本当に頭が下がる。
友人間でエルネスト家の次男との縁談が持ち上がっている事を伝えたが、その情報を持っている令嬢は、誰一人いなかった。
その代わり皆が口々にしていた情報は、クラウス・エルネストという人物は、ロマンス小説に出てきそうな程の美男子だという事だ。
数か月前まで王立寄宿学校に在学していたらしいが、その頃から女性に人気で、更に同学年だったこの国の第三王子とも友人だったらしい。
その第三王子目当ての令嬢達の殆どが、クラウスに鞍替えしてしまう程、彼は女性を虜にしてしまうような容姿だと、友人達が噂していた。
だがその部分は、シャーロットが一番気にしているところでもある。
そんな女性慣れしていそうな令息は、果たして姉に相応しい相手なのかと。
まずはその辺をしっかり見極めてやろうと、改めて気合を入れ直す。
すると、何故か左手の小指に違和感を覚えた。
そっと確認してみると、糸が弛みもせずにピンっと張っている。
「え……?」
思わず小さく呟くが、その声は客間の扉が開かれる音でかき消された。
そちらにゆっくり目を向けると、深いダークブラウンの少し癖のある髪をした背の高い青年が、颯爽と部屋に入って来た。穏やかそうな深い青い瞳と、切れ長で凛々しい眉が印象的な何とも整った顔立ちの青年だ。
「お待たせしてしまって申し訳ございません。クラウス・エルネストと申します。本日は我が家においで下さいまして、誠にありがとうございます」
十人中ほぼ全員の女性が、確実に見とれてしまいそうな優しい笑みを浮かべて挨拶してきた好青年は、優雅に二人の前まで歩みを進めてきた。
それに合わせるように姉が、スッと立ち上がる。
「本日は妹共々、お招き頂きまして、ありがとうございます。アデレード家長女のセルフィーユと申します。こちらが……」
そう言い掛けた姉が、未だに茫然とソファーに座ったままの妹の姿を確認して、ギョッとする。
「シャル! ご挨拶は!?」
姉の声でやっと我に返ったシャーロットが、慌てて立ち上がる。
「た、大変失礼致しました! じ、次女のシャーロットと申します!」
シャーロットの慌てふためいた様子に姉が大きくため息をつき、クラウスの方は小さく忍び笑いをしている。
その状況にシャーロットは、自分の失態が恥ずかしくなり、一瞬だけ顔を真っ赤にして俯いてしまった。だがその顔色は、徐々に青さを増していく。
実はそれどころではない緊急事態が、シャーロットには起きていたのだ。
「こちらから縁談のお話をさせて頂いた立場の分際で、わざわざお二人にお越し頂きまして、本当に申し訳ございません……。ですが、まずお二人には我がエルネスト家の事を知って頂いた方がよろしいかと思いまして」
「道中拝見致しましたが、とても素敵なご領地ですね」
和やかに世間話を始めた二人の横で、シャーロットだけ冷や汗が止まらない。
その原因にもなっている目の前の人物にそっと視線を向ける。
そのまま恐る恐る向かい側に座るクラウスの左手を確認したシャーロット。
そこには……シャーロットの小指の赤い糸と同じ物が結びついていた。