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女神様の赤い糸  作者: もも野はち助
【番外編】
15/17

秘密の文通

こちらは姉セルフィーユがメインの話になります。

(時間軸は幼少期の初参加お茶会~エルネスト家初訪問した日の間の出来事)

16,000文字越えの短編作品くらいある長さな上に本編と違って、ビター展開。

※ビター展開苦手な方は、ご注意ください。

 六歳の頃、初めて参加させられたお茶会は、セルフィーユにとって苦痛でしかなかった。そしてこの時ほど、妹のシャーロットの存在を欲した事はない……。


 そんなセルフィーユは、父の後ろに隠れるように後ろをくっ付いていた。

 すると同じ年頃の令嬢達が、セルフィーユの事をチラチラみながら、何かを囁きクスクスと笑ってくる。そして同じ年頃の令息達もセルフィーユの事を遠巻きにしながら、ニヤニヤと何か企むような笑みを浮かべていた。


 今回のお茶会は、織物関連の事業を売りにしている伯爵クラスから男爵クラスまでの爵位の人間が参加しているものだ。

 クスクス笑いやニヤニヤ顔をした自信満々の表情の子供達は、恐らく伯爵クラスの家の子供だろう。


 そしてセルフィーユと同じように息を殺し、この状況をやり過ごそうとしている子供達もいるが、それは男爵家の子供達のようだ。

 彼らは下手に目立って、伯爵家の子供達に絡まれる事の恐ろしさを知っている。

 そして同じ男爵家の子達と身を寄せ合って、防御に徹していた。


 セルフィーユも同じように自分と同じ立場で孤立している子がいないか、辺りをキョロキョロしてみた。

 しかし……今回初めて参加したのは自分だけのようで、男爵家の方でも殆どグループが出来ていて、入れそうにもない……。

 例えそういう同じ境遇の子がいたとしても人見知りの激しいセルフィーユでは、声など掛けられはしないだろう。


 そんな不安に押しつぶされそうなセルフィーユに三人の伯爵令嬢と思われる少女達が声を掛けてきた。

 一瞬、同情して声を掛けてきてくれたのかと思ったが、彼女達が浮かべている笑みを見て、セルフィーユは落胆する。


「あなた、参加は今回初めて?」

「は、はい……」

「良かったら、あっちで私達とお話しない?」


 そう誘って来た令嬢達だが、明らかに好意的な意味合いからではない。

 見下すような表情で、お互いにクスクスと忍び笑いをしている。

 正直、セルフィーユは行きたくないと思い、思わず父の服を引っ張る。


「おや? セフィ、もうお友達が出来たのかい?」


 呑気な父はそう言い、セルフィーユに一緒に遊んでくるように勧めてきた。

 仕方なくその令嬢達に連れられ、ケーキが並んでいるテーブルの方へと誘導される。すると、急に後ろから髪を一房引っ張られた。


「お前、新参者だろ?」


 そう言って髪を引っ張って来たのは、先程セルフィーユを見てニヤニヤしていた伯爵令息と思われる四人の男の子だった。

 その瞬間、セルフィーユは身を強張らせた。

 そしてそのセルフィーユの怯えている反応をそのリーダー格の男の子は、すぐに読み取り、更に威圧的な態度で髪を何度か引っ張って来る。


「お前、アデレード家の人間だろ? 知っているか? 子爵家は伯爵家より下なんだぞ?」


 当たり前の事を勝ち誇りながら口にしたそのリーダー格の男の子は、更に何度も掴んでいるセルフィーユの髪を引っ張った。

 勢いはなないが、地味に痛い。


「やめて!! どうして髪を引っ張るの!?」


 やや涙目になったセルフィーユが、必死にその男の子の手から自分の髪を引き抜こうとするが、男の子はニヤニヤしながら、全く解放してくれる気がない。

 そしてセルフィーユを誘って来た令嬢達もその様子見て、ニヤニヤしている。


「お前、子爵令嬢の癖に目立って生意気なんだよ!」


 そう言って、男の子はセルフィーユの腕をも掴もうとしてきた。

 それをセルフィーユは必死にかわし、父の元まで逃げ切りしがみつく。


「セフィ? どうした? 皆と遊んでこなかったのか?」


 その父の言葉にセルフィーユはイヤイヤをしながら、更にしがみついた。

 そして気付かれないように先程の七人の伯爵家の子供達の方に目をやると、まだセルフィーユの事を見ており、やはりニヤニヤしている。

 その様子に恐怖を感じたセルフィーユは、このお茶会が終わるまで、父にしがみついていようと決めたのだが……。

 父も父で商談に繋がりそうな交流をしなければならないので、セルフィーユに構ってはいられなかった。


 どうして今日に限ってシャーロットは、いないのだろう……。


 そう思ったセルフィーユは、更に父にしがみ付く。

 妹シャーロットは、昨日から熱を出し寝込んでいるのだ……。

 そしてその看病で母もこのお茶会には参加していない。

 その母の代わりに長女のセルフィーユが、本日人生で初のお茶会に参加しているのだが……やや内気な性格のセルフィーユは人見知りをする。

 そんなオドオドしているセルフィーユは、あの伯爵家の子供達にとって、いい玩具的な存在なのだろう。


 その為、セルフィーユは交流関係の醸成に励んでいる父に必死に引っ付いていた。少しでも父から離れてしまうと、先程の男の子達に囲まれてしまう……。

 そう身の危険を感じたからだ。


 しかし、しばらくするとこのお茶会の主催者である伯爵夫妻からの挨拶が始まる。

 会場の視線が一斉にその伯爵夫妻に注目した。

 それはもちろん、セルフィーユに絡んで来た子供達も同様だ。

 その隙をつき、セルフィーユはこっそり会場から離れて中庭へと逃げ出す。

 幸いな事に先程の伯爵家の子供達は、誰一人その事に気付かなかったようだ。


 中庭まで逃げ切ったセルフィーユは、全力疾走してしまった所為で荒くなってしまった息を整える。

 誰もいない中庭には、何個かのベンチが設置されていたので、その一つにセルフィーユは腰を下ろし、やっと安堵した。


 そして先程、髪を引っ張って来た男の子の事を思い返す。

 どうして初対面の自分に対して、急に嫌がらせをしてきたのだろうか……。

 そんなに自分は嫌われやすい人間なのだろうか……。

 六歳のセルフィーユには、まだ複雑な人間関係がよく分からない。

 相手が意地悪をしてくるという事は、その相手は自分の事を嫌っているという単純な考えしか出来ないのだ。

 まだ会ったばかりの相手から、自分は一瞬で嫌われてしまう存在なのだと考えてしまったセルフィーユは、急に悲しくなった。


 そして同時にあの男の子達がいる会場に戻る事も怖いと感じてしまう……。

 そんな恐怖心を抱いてしまったセルフィーユは、このままお茶会が終わるまで、誰も来ないこの場所でやり過ごそうと思い、時間が過ぎるまでここで耐え凌ごうと瞳を閉じた。

 だが次の瞬間、心臓が飛び出しそうな程、驚く。


「こんな所で何をやっているの? 一人でいたら危ないよ?」


 急に声を掛けられたセルフィーユは、慌てて逃げ出そうとした。

 しかし、その声のした方に視線を向けると、まるでお姫様のように美しい顔立ちの男の子が不思議そうな表情を浮かべて立っている。

 華奢で色白のその男の子は、どうやらセルフィーユより少し年上のようだ。

 今にも壊れてしまいそうなその美しい少年にセルフィーユは、釘付けとなった。


「早く会場の方に戻った方がいいよ?」


 再度、男の子に声を掛けられて我に返ったセルフィーユだが、男の子のその助言に対して、駄々をこねるように首を左右に振った。


「どうして戻りたくないの?」

「戻ったら……意地悪してくる男の子達がいるから……」


 そう言ってセルフィーユは、悔しそうにギュッとドレスを握りしめる。

 すると男の子が近づいてきて、セルフィーユの隣に座った。


「その子達とは知り合い?」

「今日初めて会った子達……」

「それなのに君に意地悪してきたの?」

「うん……。きっと会っただけで、私の事を嫌いになったんだわ……」


 人懐っこい妹のシャーロットと違い、セルフィーユは人見知りをする。

 その為、親戚等での集まりでも周りがセルフィーユを気遣い、あまり声を掛けてこない。しかし妹のシャーロットは、笑顔を向けられ声を掛けられていた。

 その状況を六歳のセルフィーユは、自分の人見知りが原因とは気付けず、ずっと自分は周りからよく思われない存在だと勘違いしてしまっていた。

 しかし隣の男の子は、そのセルフィーユの考えに疑問を抱いたようだ。


「それは……ちょっと違うのではないかな?」

「え?」

「だって本当に嫌いならば、わざわざ君に声を掛けてきたりはしないだろ?」

「で、でも……いきなり髪を引っ張られたし……」

「それこそ変だよ。君は嫌いな相手の髪の毛に平気で触れるの? 僕はちょっと嫌だな……」


 そう言われたセルフィーユは、大きく目を見開く。

 確かに自分も嫌いな相手の髪になど、触れたくない。

 それどころか会話すらしたくない。

 それなのにあの男の子は、あまりいい感情を抱いていないはずの自分に必要以上に絡んできたのだ。


「じゃ、じゃあ! どうしてあの子達は、私に意地悪してきたの!?」

「それはその子じゃないから僕には、分からないなー。だったら、その子に直接聞けばいいのではないかな?」

「ど、どうやって……?」

「『どうしてあなたは、わざわざ嫌いな私に声を掛け、平気で髪に触れるの?』って。多分、向こうは君の事が気にくわないとか言ってくるだろうから、その時は君が思った疑問を彼にぶつければいいと思う。『私は嫌いなあなたの髪には触りたくないし、話もしたくもないのに何故あなたは、自分が嫌な思いをしてしまう事をわざわざしてくるの?』って。そうすれば、彼はきっとその理由を教えてくれるはずだよ?」


 そう言って、その男の子は天使のような微笑みを浮かべた。

 しかしその原因追及方法はセルフィーユにとって、かなり勇気がいる方法だ。


「で、でも……それって『私はあなたの事が嫌いです』って言っているから、そんな酷い事を言われた男の子は、ますます怒って意地悪してきそう……」


 セルフィーユがポツリと零すと、その男の子は一瞬だけ驚いた表情をし、そのすぐ後に優しそうな笑みを浮かべ直した。


「君はとても優しい子だね。だからこそ僕は、その男の子の行動は許せないな。だって何もしていない初めて会ったばかりの君にその子は、いきなり意地悪な事をして来たのだろう? そっちの方が酷いと思うよ?」

「そ、それは……」

「それにその男の子は、もしかしたら自分が君の事を嫌いだって事に気付いていないのかもしれない。見ているだけでイライラするから、意地悪したくなるだけとしか思っていないのかも……。ならば君がその事を教えてあげれば、その子も君が嫌いだから、そう思ってしまうって気付けるし。そうなれば君もその子もお互い嫌いな者同士なのだが、話す必要がないって分かるだろ?」

「で、でも……」


 それでも相手に『嫌いです』という事を伝える行為に抵抗があるセルフィーユ。

 いくら気にくわない相手からとは言え、言われたらいい気分はしないはずだ。

 そうなれば、きっともっと酷い意地悪をされてしまうかもしれない……。

 そんな不安を読み取ったのか、その男の子はセルフィーユの頭を撫でてきた。


「大丈夫。その子は絶対に怒ったりはしないはずだよ。だから君は、しっかりと自分がその子に対して感じている気持ちを正直に伝えてごらん? そうすればその子は、もう君に意地悪をしてこなくなるから」

「本当……?」

「うん。だからほんの少し……勇気を出して頑張ってみて?」


 まるでその勇気を与えてくれるように頭を撫でてくるその男の子にセルフィーユは、小さく頷いた。

 そのセルフィーユの反応に男の子の方も微笑みを深める。

 しかし、男の子が急に何かに気付いた様子を見せた。


「そういえば……今日のお茶会に君のお友達は来ていないの?」

「私……今日、初めてお茶会に参加したの……」


 普段でも内気なセルフィーユには、友人と呼べる存在がいない。

 逆に妹のシャーロットは、その人懐っこさで友人をすぐに作ってしまう。

 自分に友人がいない事に引け目を感じたセルフィーユは、思わず言葉を濁した。

 すると、その男の子がニッコリと微笑む。


「なら僕と一緒だ。僕も今日のお茶会が初めてなんだ」

「そうなの? 私よりも年上なのに?」


 そのセルフィーユの言葉に何故か男の子が、悲しそうな笑みを浮かべた。


「僕は体が弱くてね……。あまりこういう場には今まで参加させて貰えなかったんだ。いつもは僕の代わりに弟が参加させられていたのだけれど、今日は、嫌がってどこかに隠れてしまって……。それで急遽僕が参加する事になったんだ」

「あなたにも弟がいるの? 私にも可愛い妹がいるの!」

「へぇ~。どんな妹なの?」

「私と違って、明るくて元気いっぱいで、凄く可愛いの! でもこの間からずっと絵本の『女神様の赤い糸』ばかりを読んで欲しいとおねだりしてきて……。一日に五回も読まされるから、それはちょっと大変なの……」

「妹さんは絵本が好きなんだ」

「いいえ。好きなのはその『女神様の赤い糸』の絵本だけ。他の絵本も面白いお話がたくさんあるのに……妹は、その絵本しか好きではないの」


 妹の話になると、つい瞳をキラキラさせて語り出してしまうセルフィーユ。

 それだけ妹のシャーロットは、セルフィーユにとって太陽のような存在なのだ。

 そんなセルフィーユの様子に男の子は、更に目を細めて微笑む。


「それでは君の方が絵本を好きなの?」

「ええ。絵本だけでなく、絵のない普通の物語の本も読むのは大好き!」

「そうか。じゃあ『ミシェルの魔法の靴』は読んだ事ある?」

「あの空飛ぶ靴を履いて冒険するお話でしょ!? 私、あのお話大好き!」


 今まで自分の周りには本好きな子がいなかったセルフィーユは、嬉しさのあまり初めて会ったその男の子に夢中になって、今まで読んだ本の話を語った。

 そして男の子は、セルフィーユ以上に読書家で、まだセルフィーユが読んでいない面白い本をたくさん教えてくれた。

 人見知りで初対面の人間と話す事が苦手なセルフィーユだが、何故かこの少年だけは、スッと心の中に入って来て、すんなりと打ち解けられた。


 しかしそんな楽しい時間は、あっという間に過ぎてしまう……。

 二人で本の話で盛り上がっていると、男の子の後ろから二十代前半くらいの品のある美しい貴婦人が姿を現したのだ。


「まぁ、シス! こんなところにいたのね!? 迷子になってしまったかと思って、お屋敷中を探したのよ!?」


 呆れと優しさも感じられるような困った笑みを浮かべた貴婦人に窘められ、その男の子が少し肩をすくめた。


「叔母上、申し訳ございません……。少し人の多さに酔ってしまい、こちらで少々休んでおりました」

「そうだったの……。ごめんなさいね。あなたの体調不良に気付けなくて……。ところで……そちらの愛らしいお嬢さんは?」

「先程、ここで偶然一緒になり、彼女も読書好きだったので、つい本の話で盛り上がってしまいました。叔母上には、ご心配をお掛けしてしまい、本当に申し訳ございません……」


 すると何故か、その貴婦人が瞳を煌めかせながらセルフィーユを見つめてきた。


「まぁまぁまぁ! こんな美しくて愛らしいお嬢さんと、ずっとここでお話をしていたの!? シス、あなたは本当に運がいいのね! こんな愛らしいお嬢さんが一人でいる場所に偶然出くわすなんて!」

「ええ。本当に」


 たとえ社交辞令とは分かっていてもセルフィーユは、思わず顔を赤らめてしまう。

 同時に叔母とは言え、大人と対等に会話をしているこの男の子の利発そうな雰囲気から、自分よりもずっと爵位の高い家柄の子ではないかとも思った。


「でもね……。とても残念なのだけれど、あなたのお父様があなたの事を血眼になって探しているの。早く連れ戻さないと血管が切れそうな程、取り乱しているから……」

「分かりました。すぐに戻ります」


 苦笑しながら、自身の叔母にそう伝えた男の子は、改めてセルフィーユの方に向き直る。


「今日は僕の話し相手になってくれて、ありがとう。それじゃあ……」

「待って!!」


 叔母と一緒に立ち去ろうとしていた男の子をセルフィーユが引き留めた。


「あ、あの……。またどこかで会える……?」


 そのセルフィーユの言葉に男の子が、大きく目を見開いた。

 しかし次の瞬間、男の子は酷く悲しそうな笑みをすぐに浮かべる。


「ごめんね……。恐らく僕がこういう社交場に参加するのは、今日が最初で最後だと思う。だから、もう会う事は難しいかも……」

「そ、そんな……。折角お友達になれたのに……」


 それを聞いたセルフィーユは、ギュッとドレスを握りしめ、今にも泣き出しそうな表情で俯いてしまった。そして男の子の方も悲しそうに目を伏せる。

 すると、そんな二人の様子を察した貴婦人が、ある事を提案した。


「それならば二人でお手紙のやり取りをしたら、どうかしら?」

「叔母上……そのような事、父が許しくれるはずが……」

「そうね。でも間にわたくしが入れば、どうかしら?」


 まるで、いたずらでも企むような楽しそうな笑みを浮かべた貴婦人の提案に男の子の瞳に光が宿る。

 だがセルフィーユには、まだ貴婦人の言葉の意図がよく分からない。


「いいのですか……? もし父に気付かれでもしたら……」

「大丈夫よ! だって今日からあなたはわたくしの元で生活するのだから。流石にその状況ならば、あなたのお父様も監視は出来ないでしょう?」


 二人の秘密の話し合いに一人参加出来ていないセルフィーユは、少し戸惑う。

 そんなセルフィーユに気付いた貴婦人が、ニッコリと微笑みかけてきた。


「今お話しているのはね、あなたと甥がお手紙のやりとりをする際、わたくしが二人のお手紙の送り先になるという事なの。甥の父は、とても厳しい人だから、見知らぬお嬢さんとお手紙のやり取りをする事にいい顔をしないの。そしてあなたの方でも見ず知らずの男の子とのお手紙のやりとりをする事は、あなたのお父様が、あまりいい顔をなさらないと思うわ。でも手紙の送り先が、お茶会で親しくなった伯爵夫人ならば、安心してくださるでしょ?」


 その話で、初めてセルフィーユが、この貴婦人が伯爵夫人である事を知る。


「もしよければ、わたくしの甥とお手紙のやりとりをして頂けないかしら?」


 その伯爵夫人の申し出にセルフィーユが頬を紅潮させる。


「は、はい! 是非!」

「まぁ。それではあなたのお名前を教えてくださる?」

「わたくしは……」

「叔母上、少しお待ち頂けますか?」


 セルフィーユが名乗ろうとした際、急に男の子が被せる様に口を挟んできた。


「その……お互いの素性は、内密のままでやり取りをした方が良いかと……」

「シス? でも折角……」

「この先、僕に何が起こるか分かりません。それに今は幼い身なので問題はございませんが、時が経てばこちらのご令嬢もしかるべきお相手が現れるかと。その事を考えれば、このままお互いの事は知らぬ状態の方が、手紙のやりともりもやりやすいのではと思いまして……」


 男の子のその言葉に伯爵夫人が、酷く悲しげな表情を浮かべた。


「シス……あなた、まだそんな事を……」

「手紙のやり取りは、僕にとってはこの上なく喜ばしいご提案です。ですが、彼女がどこの誰かを知ってしまえば、色々と覚悟しなければならない未来がやって来てしまう気がして……。ですから、そのようにご配慮頂けませんか?」


 そう伯爵夫人に告げながら、自分に視線を向けてくる男の子の様子から、何か深い理由があると感じ取ったセルフィーユ。

 そしてその理由は、何故か深く追及してはならないと感じてしまった。


「わたくしは、構いません。シス様とお手紙のやり取りが出来るのであれば、そちらの条件を守るとお約束いたします」

「でも……」

「叔母上、どうかお願い致します」


 その甥の願いをどこか悲しげな笑みを浮かべながら、伯爵夫人が受け入れる。


「二人共、本当にそれでいいのね……? 分かったわ」


 そう言って伯爵夫人は、再びセルフィーユに向き直る。


「お嬢さん。わたくしにだけ、あなたのお名前を教えてくださる?」


 少し寂しさをまとった笑みを浮かべながら、優しくそう尋ねて来た伯爵夫人にだけ、セルフィーユはそっと自身の名前を告げ、そのまま三人は別れた。



 それからは夫人の協力によって、セルフィーユと『シス』という少年との手紙のやり取りが始まる。


 間に入ってくれている伯爵夫人は、レウリシア・ポレモニウムという名で、王都から離れた領地を持つポレモニウム家の若き伯爵夫人だった。

 そんな夫人が、あの日のお茶会に参加していたのは、訳あって甥をしばらくポレモニウム家で預かる事になった為、たまたまシスを迎えに来たついでにあのお茶会に参加したのだそうだ。

 その状況は、初めてシスが社交場に参加していた事や、協力的な叔母である伯爵夫人がその場にいた事が、二人にとっての奇跡が偶然重なりあった状況だった。


 そしてそのお茶会から二日後、早速アデレード家の父の元にポレモニウム伯爵夫人から、セルフィーユとの文通の許可を求める手紙が届く。

 そして夫人は、手紙と一緒に自身のお薦めの本を贈ってくれた。

 その手紙には、あのお茶会で読書好きなセルフィーユと親しくなったので、今後お薦めの本を贈るなどして手紙で交流をしたいという内容が書かれていた。


 初めはその申し出に驚いていた父だが、それらの夫人の行動から、二人はかなり親しくなっていると感じてくれたようだ。

 長女の読書好きをよく知る父は、あっさりとその申し出を受けてくれた。

 そもそも妹と違い、友人があまり出来ない長女の事を父は心配していたのだ。

 親子ほど年齢が離れている女性とはいえ、娘にとっては初めての友人的存在である。父は二つ返事で、その申し出を受けてくれた。


 しかしその手紙のやり取りは、二通目からは夫人の手紙は便箋一枚のみ。

 そしてその便箋に守られるように包み込まれているのが、本来の文通相手でもあるシスからの手紙だった。

 そんな婦人からの手紙をキラキラした瞳でセルフィーユは、勢いよく開封する。


 シスからの手紙には、セルフィーユと文通出来る事が嬉しくてたまらない事と、素性をお互いに隠してやり取りする事に承諾した事への感謝の言葉が綴られていた。

 だが最後の方には、もし文通する事が負担になってきたら遠慮なく申し出て欲しいとも書いてあった。そして万が一、自分からの返信が来なくなるような事があったとしても、それはセルフィーユの所為ではなく、シスの方でそうせざるを得なかった状況だと察して欲しいとも……。

 その最後の文章だけは、セルフィーユを少し暗い気持ちにさせた。


 しかしその後の二人の手紙のやり取りは、何の問題もなく順調に行われた。

 まずセルフィーユが、初めてシスに返事をした手紙の内容は、あのお茶会で意地悪をしてきた男の子の事だった。

 あの男の子はその後、別のお茶会で再び顔を合わせたのだ。

 すると案の定、またセルフィーユに絡んで来た。

 そこでセルフィーユは、シスから受けたアドバイス通りに対応した。


「あなたは私の事を好きではないのでしょう? ならばどうして一生懸命、私に話しかけてくるの?」


 そのセルフィーユの質問に男の子は、セルフィーユを嘲笑いながら「お前が生意気で気にくわないからだ」と言って来た。

 だからセルフィーユは、シフの助言通り、しっかりと自分の気持ちをその男の子に伝えた。


「どうして嫌いな相手にわざわざ話しかけてくるの? 私はあなたの事はあまり好きではないから、話しかけて来て欲しくない……。髪にも触れないで欲しい。それなのに何故あなたは嫌いな私に話しかけ、平気で髪を掴めるの?」


 セルフィーユのその言葉に何故かその男の子は酷く傷ついた表情を浮かべ、口をパクパクさせた。その瞬間、セルフィーユに罪悪感が生まれる。

 しかし、しばらくするとその男の子は真っ赤な顔をして、セルフィーユを罵倒してきた。男の子のその行動をセルフィーユは、静かに見つめていた。

 そしてやっと気が済んだのか、男の子の罵倒が終わる事を確認したセルフィーユは、ゆっくりと口を開く。


「あなたは、自分が私の事を嫌っている事にあまり気付いていないのね……。でもそこまで怒鳴りたくなるという事は、それだけ私を嫌いって事だと思うの。お互い嫌い合っているのなら、もう私には話しかけない方がいいと思う……。私も二度とあなたを見たり、話しかけたりしないよう気を付けるから」


 良かれと思ってそう告げると、その男の子は何故かこの世の終わりのような表情をした。セルフィーユは、その言葉で相手がある程度は傷つくであろうとは察していたが、まさかここまで深く傷付くとは思わなかったのだ。

 出来るだけ優しい言い方をしたつもりなのだが、男の子はブルブルと震え出す。

 そしてそのまま捨て台詞を吐いて、目の前から走り去ってしまった。


 その事をシスの手紙に書くと、かなり楽しそうな雰囲気が伝わってくる文面で、手紙の返事が返って来た。

 セルフィーユにしてみれば、その意地悪な男の子をかなり傷付けてしまった事への罪悪感を綴った手紙内容だったのだが……。

 何故かシフからは、賞賛の言葉で返事が来てしまう。


 この文通でセルフィーユは、家族にもなかなか話せない悩みを何故かシスには、すんなりと相談する事ができた。

 そしてそれ以外にもセルフィーユは、妹のシャーロットの事をたくさん書いた。

 幼い頃からシャーロットは明るく活発で友人も多く、自分の気持ちにも正直だった為、感情を押し殺しやすいセルフィーユにとっては、太陽のようにキラキラしている存在だった。

 そしてその太陽のような妹は、全力で自分の事を慕ってくる。


 内気で人との交流が苦手なセルフィーユの代わりにシャーロットは、無自覚で前に出てくれる。それは新たな交流関係をもたらしてくれる時もあれば、姉に危害を加えようとする相手に立ち向かって行ってしまう事もあった。

 その度にシャーロットは父の説教を受けることになるので、セルフィーユは必死で妹の弁護をした。


 全力で姉の為に動いては、ひと騒動起こしてしまうシャーロットだが、そんな妹にセルフィーユは何度助けられ、支えられたか分からない。

 妹のその行動に感謝しかないセルフィーユは、シスとの手紙のやり取りの際、その事をかなり手紙に書いた。

 そしてその妹の武勇伝は、セルフィーユが十代半ばになると更に増えて行く。

 それだけセルフィーユには、見ず知らずの相手からの婚約の申入れや、他の令嬢達から受ける身の覚えのない辛辣な対応で悩む事が多かったのだ。


 実際セルフィーユが十五歳の頃、幼少期に嫌がらせをしてきた伯爵家の令息から、婚約の申し入れがあった。もちろん、面会する事も無く断ろうとしたのだが、どうしてもある夜会に参加して会って欲しいと手紙が来てしまったのだ。

 その事をシスに相談すると、今までこの手の相談には警戒を促すようなアドバイスが多かったのだが、今回は何故か会った方がいいという返事が返ってきた。


 シスからのいつもと違うアドバイスに戸惑いながらもセルフィーユは、その指定された夜会に参加する。 すると、その令息から昔セルフィーユにした事をどうしても謝りたかったと言われた。

 彼はあの時、どうしてもセルフィーユの気を引きたかったらしい。だが、それならば何故あんな意地悪をしてきたのか彼女には理解出来なかった。

 彼は過去セルフィーユにしてしまった行いを後悔していたと告げ、謝罪が出来た事に満足しながらも悲しそうな顔で去っていく。


 彼にとっては、自分が誠実な振る舞いをしたという満足感が得られたかもしれないが、幼少期に嫌がらせをされかけたセルフィーユにとっては、誠実どころか卑怯な行動としか思えない……。

 本当に反省しているのであれば、平然と婚約の申入れなどせず、一生その事で後悔し続けて、二度と自分に関わって来て欲しくなかったからだ。

 それだけその令息には、人を傷付けてしまう行為を軽はずみに行おうとした事への責任を感じて欲しいとセルフィーユは思ってしまった。


 しかしセルフィーユは、その気持ちを堪え、その令息の謝罪を受け入れた。

 だが恐らく自分の中では、あの令息の印象は一生上がる事はないだろう。

 それだけその令息は、幼少期のセルフィーユに社交場に参加する事への恐怖心を植え付けたのだ……。

 その為、どうしてもその令息の事を許せる気など生まれなかった。

 そしてそんな自分は、なんて心が狭いのだろうとも感じてしまう。


 そのモヤモヤした気持ちをシスの手紙に書き綴ると、シスは「それでいい」と返してくれた。

 シス曰く、相手を傷付ける行為をした方には、あまり記憶には残らないが、やられた方は一生忘れられない傷になるのは当たり前なので、罪悪感を抱く必要はないという意見だった。

 それよりも婚約の話を断る事が出来たかという部分で心配をされてしまった。


 そんなシスの反応から、もしかしたらシスも自分に特別な感情を抱いてくれているのではないかと、仄かな期待をセルフィーユは抱き始める。

 年上であるシスは、毎回手紙でセルフィーユを気遣いながら励ます言葉をくれ、特に人間関係の壁でぶつかっている時は、とても的確なアドバイスをしてくれた。


 だが、そのセルフィーユに対するシスの接し方は、まるで自分の事を見守ってくれているような保護者的な接し方にしか感じられなかったのだ。

 しかし今回、セルフィーユに本格的に婚約の申入れの話が来ている事を相談した事で、シスの反応にやや変化を感じた。

 これを切っ掛けに手紙の内容が、セルフィーユの縁談関係の話題が多くなる。


 そしてそこで大活躍をしていたのが、妹シャーロットによる振い掛けだった。

 シスは毎回セルフィーユにアプローチをしてくる令息達を撃退しているシャーロットに賞賛の声を上げていた。

 しかしその妹の撃退方法は、かなりユニークだった為、シスだけでなくポレモニウム伯爵夫人やシスの弟の間でも話題に上がってしまっている様子だった。


 特にポレモニウム伯爵夫人は、実際にシャーロットに会った際、明るく人懐っこい愛くるしさをすっかり気に入ってしまったらしい。

 たまに送られてくるシスの選定した本と一緒に夫人は、シャーロット好みのロマンス小説も送ってくれるようになった。


 しかし、そんなセルフィーユの元に絶対に断れない縁談の話が持ち上がった。

 アデレード家の絹糸の独占を狙うエルネスト家より、家業を守らなければならない為、妹のシャーロットに来た縁談だが何としてもセルフィーユが、その次男の心を射止めなければならない状況になってしまったのだ。

 手紙のやり取りの中で、シスがこういった交渉術に長けている事を知っていたセルフィーユは、早速その事を相談する内容で手紙を書いた。

 しかしシスの返事には、その縁談を前向きに捉えるようにと書かれていた……。


 その手紙の内容は、セルフィーユに大きなショックを与えた。

 十年間の手紙のやり取りで、ここ最近はシスの方でもセルフィーユに特別な感情を抱いてくれていると期待を抱いてしまっていたセルフィーユ。しかしそのシスの返事で、それは自分の独りよがりだった事を痛感してしまったのだ。


 その為、父からその縁談の話を聞かされてからは、シスへの手紙の返事が書けなくなり、ぼぉーっとする事が多くなってしまった。

 そんなセルフィーユの事を妹のシャーロットは、かなり心配してくれた。

 しかしセルフィーユは、誤魔化すような曖昧の笑みしか返せなかった。


 そんな日々を一週間程過ごしていたら、ついにエルネスト家に向かう日が訪れてしまう。

 出来るだけ平静を装うとしたセルフィーユだが、どうしてもシスへの想いが断ち切れず、父からの要望に取り組む事へ集中出来ない……。

 もしこの訪問で、すぐに自分が縁談相手のクラウスに選ばれる様な事になれば、もうシスとの文通も経たなければならないだろう。

 果たして自分は、シスへの未練を抱いたまま、別の男性と添い遂げる事が出来るのだろうか……。


 そんな暗い未来しか想像出来なくなってしまったセルフィーユは、どうしても前向きにはなれなかった。そしてその間、馬車の中ではずっと妹のシャーロットが心配そうな視線を投げかけてくる。

 姉である自分がしっかりしなければと思い、出来る限り明るく振る舞おうとしたセルフィーユだが、どうしてもふとした拍子に表情が曇ってしまう……。

 そんな状態のセルフィーユは、逆に妹のシャーロットに励まされてしまった。


 そのような葛藤を抱きながら馬車に揺られていると、ついにエルネスト家に到着してしまう……。

 そしてそのまま、妹シャーロットと共に客間で待たされる事となった。

 シャーロットは、エルネスト家の事をあまり知らなかったようで、室内の見事な家具や調度品に驚き、部屋全体を物珍しそうにキョロキョロと物色している。

 そんな妹を軽く窘めると、丁寧なノック音が部屋に響き渡った。


 それと同時に長身で容姿の良い社交性の高そうな好青年が、二人を出迎える。

 しかしその瞬間、妹のシャーロットが急に不可解な反応をしめす。

 その様子から、縁談相手のクラウスに一目惚れでもしてしまったかとも思ったのだが……どちらかと言うと、慌てふためいているという様子だ。


 そんな妹の異変を不思議に思っていると、いつの間にか妹がクラウスによってチーズケーキで懐柔され始めてしまう……。

 しかもクラウスは、何故かシャーロットの大好物でもあるクリームチーズケーキをまるで事前に知っていたかのように準備していた。

 その用意周到さにセルフィーユは、クラウスに対して少し警戒心を強める。

 しかし次の瞬間、急にセルフィーユの好きな物を質問された。


「わたくしですか? そうですね……わたくしの場合、読書になるかと」


 そう答えると、クラウスが満面の笑みで読書家だと言う兄の書斎の利用を勧めてきた。その誘いにセルフィーユは、更にクラウスを警戒した。

 しかし、すでに相手は妹を懐柔し出している。


 そこでセルフィーユはその誘いに敢えて乗り、クラウスの真意を探る事にした。

 一人残してしまうシャーロットには申し訳ないが、今はこの油断ならない雰囲気をまとっているクラウスが、何を考えているのか確認した方がいい。

 そう判断したセルフィーユは、クラウスに書斎まで案内される事にした。

 すると書斎に向かっている際、クラウスが予想外な頼み事をしてくる。


「セルフィーユ嬢。書斎をご案内する前に是非あなたに会わせたい者がいるのですが……お会いして頂けませんか?」

「それは……クラウス様のご家族の方でしょうか……」


 相手の出方を窺うように警戒心を露わにしながらセルフィーユが確認すると、クラウスが少し困るような笑みを浮かべてきた。


「そんなに警戒されないでください。あなたもよくご存知の人物ですから」


 そう言って、ある部屋の前でピタリと歩みを止めた。


「初めは僕も同席しますが……もし退席しても構わない場合は、膝上でもいいので軽く片手を挙げて頂けますか? それを合図に僕は退席致します。シャーロット嬢をお一人にしてしまう事にも申し訳ないので」

「分かりました……」


 セルフィーユの返答を確認すると、クラウスが目の前の扉をノックする。

 そしてそのまま扉を開くと、先にセルフィーユに入室を促した。

 セルフィーユはかなり警戒しながら、その部屋の中へと足を踏み入れる。

 その部屋には男性らしき人物が執務机で何やら作業しているようだが、窓から差し込む逆光で、その容姿はハッキリとは確認出来ない。

 すると、その男性らしき人物はゆっくりと席を立ち、クラウスよりも少し低い落ち着いた声で、セルフィーユに話しかけて来た。


「やぁ、セフィ。あれからちょうど……十一年ぶりかな?」


 家族以外の男性から愛称で呼ばれた事にセルフィーユが、大きく目を見開く。そして逆光から逃れるように近づいて来たその男性の姿が、露わになった。すると中性的で美し過ぎる顔立ちをした男性の姿が、浮かび上がってくる。


 その男性は、穏やかでとても優しい笑みをセルフィーユに向けてきた。しかし男性の顔が確認出来た瞬間、セルフィーユは驚きから両手で口元を押さえ、そして瞳に涙を溜め出す。


「どう……して? どうして、シスがここに……」

「正式な自己紹介がまだだったね。私の名前はシリウス・エルネスト。そこにいるクラウス・エルネストの兄だ」


 その瞬間、セルフィーユは溜めていた涙を零し始める。すると困った笑みを浮かべたクラウスが、兄の方へと目を向ける。シリウスの方も少し苦笑気味な表情を浮かべながら、弟の退室を促した。

 そして部屋が二人だけになると、シリウスがセルフィーユに近づいてくる。


「すまない、セフィ……。どうやら、この間の私の手紙の返信内容が、かなり君に不安を与えてしまったようで……」


 そう言って優しく頭を撫でられたセルフィーユは、俯いたまま涙をポロポロ零し、頭を大きく左右に振る。


「でもこれで、私が『この縁談を前向きに』と返信した理由が分かった?」


 すると今度はセルフィーユが、大きく何度も頷いた。


「自分から提案しておいて先にルールを破ってしまった事に関しては、本当にすまないと思っている。だが、このまま君が他の誰かと婚約をしてしまう事には、どうしても堪えられなくて……。叔母に君の事を聞き出し調べたら、その相手が弟だと分かり、今回その弟に協力しても貰い、この場を設けて貰った」


 その言葉を聞いたセルフィーユが更にボロボロ涙を零し、そのままシフ事シリウスに寄り添うように体を預けた。するとシリウスがセルフィーユを包み込むように優しく抱きしめる。


「セフィ。私はどうしても直接君に伝えたい事がある。だから弟に頼み、ここへ君を連れて来て貰ったんだ」

「伝えたい……事?」

「弟ではなく、私の婚約者になって欲しい……」


 そのシリウスの言葉にセルフィーユが驚き、大きく瞳を見開く。しかしセルフィーユは、すぐに悲しげな表情をして俯いてしまった


「それは出来ないわ……。そうなってしまえばアデレード領産の絹糸が……」

「その件に関しては、弟のクラウスと話は付けてある。今後、弟がアデレード家の婿養子に入っても取引先に関しては、君のお父上の意向を尊重すると約束してくれた。そもそも私も弟も父に協力する気は、一切ないからね」

「で、でも……私の父がその言葉をすぐに信じるとは……」

「その部分も弟の踏ん張り所だから、君は気にしなくていい」

「クラウス様の?」

「君のお父上に『大切な愛娘をください』と申し出るのだから、未来の義父の信頼くらいは自身で勝ち取らなければならないだろう?」

「それって……シャルの事? で、でも! クラウス様は今日初めてシャルにお会いしたはずよ!? どうしてそこまで……」


 するとシリウスが、ふわりと優しい笑みを浮かべる。


「確かに弟が君の妹君に会うのは、今日が初めてだ。でもね、弟はずっと前から妹君がどういうご令嬢か、よく知っているよ。なんせ、私が彼女の楽しい武勇伝をたくさん弟に話していたからね……」


 そのシリウスの言葉にセルフィーユが驚く。


「そ、それじゃあ、クラウス様はお父上のご意向とは関係なく……」

「弟は絶対に君の妹を不幸にはさせないよ? なんせ私達と同じくらいの間、会った事もない君の妹に無意識に惹かれていたのだから。だからセフィ……」


 そこで一度言葉を溜めたシリウスが、セルフィーユの瞳の涙を掬う。


「弟達の件が上手く行ったら、私からの婚約の申入れを受けてくれないか?」


 そのシリウスの申し出にセルフィーユが、幸福そうな笑みを浮かべる。


「はい。喜んで……」


 セルフィーユのその返事にシリウスも同じくらい幸福そうな笑みを浮かべた。そして両手でセルフィーユの頬を包み込み、そのまま額をくっ付け合う。

 十年以上手紙でしかやり取り出来なかった二人にとって、それはやっと共に過ごせる時間を得た瞬間となる。


 この日以降、セルフィーユはエルネスト家に訪問すると書斎で過ごすという名目で、ずっと恋い焦がれていたシリウスと過ごせるようになるのだが……。

 まさか、この密会が妹シャーロットにあらぬ誤解を与えてしまうとは、この時、誰も予想出来なかった。

 そしてそのシャーロットの為に今度は、弟のクラウスの方が奮闘する事になる。

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