日本陸軍の小火器 自動小銃編
日本の同盟国アメリカでは1937年よりM1ガーランドを採用し、第二次世界大戦中の主力小銃として用いた。
一方の日本では自動小銃の配備は戦争後半まで遅れ、全軍に配備することは戦後になるまで叶わなかった。
今回は日本における自動小銃の開発史と苦難について見ていこう。
・初の自動小銃
日本陸軍が初めて自動小銃を所持したのは、意外にも第一次世界大戦中であった。
1918年になると陸軍航空隊はヨーロッパ方面への作戦を行うべく、機材と武器の配備に勤しんでいた。だが当時は航空機の国産は不可能であり、機関銃も地上部隊向けの生産で手一杯だった。
そこで陸軍航空隊はイギリス・フランスからの供与に頼り続ける事になる。
その供与品の中に数丁のモンドラゴンM1908が混じっていた。
これはドイツからの鹵獲品であり、イギリス・フランスでの技術調査終了後、不用品処分代わりに日本へ押し付けたものであった。当時の自動小銃は戦争初期に航空機に搭載された程度であり、貧乏な日本陸軍航空隊なら有り難く使うだろうという偏見も混じっていたのだろう。
もっともモンドラゴンM1908は弾薬の数もほとんど無く、状態も非常に悪かったため、そのまま倉庫に放置されて忘れ去られることになる。
余談となるが、死蔵されたモンドラゴンの一丁が1960年代に再発見され、現在は陸軍練馬駐屯地の資料館に公開展示されている。
・進まない自動小銃開発
なんとも残念な形で終わった自動小銃の所持だが、陸軍は自動小銃の有用性を十分理解していた。
塹壕戦の経験から、歩兵一人の火力を底上げできる銃は魅力的であり、有用であった。
そこで1920年には自動小銃の開発を決定した。
だが、自動小銃開発の予算は中々下りなかった。
というのも当時は機関銃の開発・配備が重視されていたため、予算が機関銃の方に回されたためである。
結果、自動小銃開発の予算は1932年にようやく下りる事になる。
・いくつもの試作銃
自動小銃は陸軍の小倉工廠、東京瓦斯電気工業、日本特殊鋼合資会社の3社によって製造された。
これら小銃は製造時期などによって多数の種類が存在するが、本稿では分かりやすさを重視して簡単な説明に留めておく。
小倉工廠製の試製自動小銃甲は、ピダーセンライフルを基に設計したものであった。この銃の設計者は後の小倉工廠所長である銅金義一少将(当時は大佐)であった。彼はレミントン社からペダーセンライフルの実物とパテントを買い、口径を三八式実包に合わせるなどの改良を施した。
ピダーセンライフルは機関の都合上、威力の弱い弾しか使えなかった。逆を言えば威力の弱い弾なら正常に作動することになり、これが当時の日本陸軍の主力弾薬である三八式実包に適していると考えられた。
他にもオリジナルなら300点を超える部品数を117点に減らすなど、少しでも製造の手間を省くよう工夫を重ねていた。
試製自動小銃甲は命中精度は高かったものの、ペダーセンライフルの欠点まで引き継いだため、ジャムや弾薬の焼付きが多発した。
一説によると、途中から三年式機関銃を模した塗油装置を追加して弾薬に油を塗るようにしたとも言われる。ただしこの塗油装置付きの試作銃の実物は現存しておらず、真偽は不明である。
東京瓦斯電気工業製の試製自動小銃乙は、チェコスロバキア製のZH-29小銃のデッドコピー品であった。
ZH-29は製造ライセンスの取得がされておらず、東京瓦斯電気工業の銃器部門解散に伴う資料の散逸により、何故コピー品が製造されたのかが長年謎とされてきた。
現在では中国国民党向けに輸出されたZH-29が満州国を経由し、東京瓦斯電気工業に渡ったのではないかという説が有力である。
試製自動小銃乙は日本の低い冶金・工作精度で作られたため、オリジナルのZH-29ほどの命中精度・信頼性を得ることができなかった。
日本特殊鋼合資会社の試製自動小銃丙は試製自動小銃甲と同じトグルアクション式を採用していたものの、作動方式に機関銃での採用実績のあるガス圧利用式を採用していた。
このため信頼性は甲・乙を上回るものの、命中精度が劣っていたとされる。
以上3種の自動小銃はテストを重ね、途中で試製自動小銃乙を不採用とし、甲と丙の改良に明け暮れる事になる。
・開発中止令
自動小銃開発は1937年に急展開を迎える。その原因は、この年より始まった対ソ戦に向けた陸軍大増強である。
それに伴う陸軍師団数の増加、戦時編成適用による人員増加に伴い、機関銃の大増産が決まったのだ。
さらに三八式実包の威力不足問題を解決すべく、小火器の口径を7.7mmの九九式実包へ統一する事とした。
これらの結果、メーカーは機関銃の生産と改良、九九式実包対応の新小銃と新機関銃の開発に忙殺され、自動小銃にまで開発リソースを割けなくなる。
さらに試製自動小銃甲・丙の両者とも、機関が口径の大型化に耐えられるものではなく、将来の発展性が無いと切り捨てられる。
こうして1937年末には自動小銃開発は中止となり、一度は闇に葬られることになる。
・M1ガーランドの衝撃
さて国産の自動小銃開発は失敗に終わったが、同時期の同盟国アメリカではM1ガーランドという形で自動小銃開発に成功していた。
満州帝国はM1ガーランドのパテントを買い、奉天造兵廠にて量産する準備を進めつつあった。
当時の満州国は1930年代を通じてアメリカの資本が大量に投資された結果、アメリカ製の武器のライセンス生産体制が整うようになり、新型の武器でも比較的容易に製造できる体制が構築されていたおかげだった。
日本陸軍でも1938年にM1ガーランドを数丁輸入し、テストを行った。そしてテストの結果、反動は強すぎるものの信頼性・命中精度も優秀であると判断された。
この結果に日本陸軍は恐怖と焦りを覚えたという。
もしもM1ガーランドのような自動小銃がソ連軍にも配備された場合、歩兵火力で負けるとされた。
おまけに東鉄の情報部を通じて、各国が自動小銃開発を進めているという情報が舞い込んできた。特にソ連の自動小銃開発へ傾ける熱意は凄まじく、先行研究も10年以上前から進めていたこともあり、早ければ再来年にも自動小銃を量産するようになるだろうという情報ももたらされた。(事実、ソ連はM1ガーランド以前から自動小銃の開発に力を注いでおり、SVT-40の登場によって戦時中には米満日に次ぐ世界4位の自動小銃保有国となる。)
これもM1ガーランドの出現により、各国が対抗措置として自動小銃の開発を進めるようになったと陸軍は判断した。つまり、M1ガーランドの出現は、ドレッドノートのような自動小銃開発競争を引き起こしたと日本陸軍は結論づけた。
なによりの恐怖は、同盟国が自動小銃を配備している中で旧式の小銃を配備し続ける事実を政治家や国民から指摘され、陸軍が非難を浴びて上層部の首が飛ぶことであった。
もっとも各国は日本と同じようにM1ガーランド以前から自動小銃の開発を進めていただけであり、東鉄からもたらされた情報は一部を除けば、かなりの誇張を含んでいたと後世では明らかになっている。
つまるところ、M1ガーランドの登場で一番ショックを受けたのは、他でもない日本陸軍そのものであった。
・九九式自動小銃
こうして日本陸軍は中止した自動小銃開発を1939年中頃には慌てて再開し、小倉工廠に試作を命じた。
小倉工廠では銅金義一氏の下、試製自動小銃甲のさらなる改良を進めた。
銃は製造費を少しでも安価にするべく、九九式小銃をベースに開発するものとした。
さらに日本特殊鋼から技師を招き、試製自動小銃丙のノウハウまで吸収した。これは第二次世界大戦勃発により、一刻でも早く自動小銃を配備できるよう陸軍が手引したものだった。
この試作銃開発に途中から中央工業も参加した。
中央工業製の試製自動小銃は、九九式実包に対応したM1ガーランドそのものであったという。
だが九九式実包のパワーではM1ガーランドの機構を動かすには不十分であり、動作不良やジャムが頻発することになる。この経験は後に四式自動小銃で活かされることになる。
中央工業の参戦と言った混乱はあったものの、1940年度中には最終試作銃が完成し、1941年初頭に「九九式自動小銃」という名で仮制式採用されることになった。(制式採用および量産開始は1942年6月)
・九九式自動小銃の特徴
九九式自動小銃は全長1,118mmと、九九式小銃と同じ長さになった。これは九九式小銃がベースとして開発された名残であり、事実木製部分は九九式小銃と同じ生産ラインで製造されたという記録がある。
弾薬は九九式実包を使用する。装弾数は5発のみだった。
特徴は別物と言って良いほど改造されたピダーセン機構であり、これをガス圧利用式で動かす。
試作段階では反動利用式、ショートリコイル式などがあったが、戦場での確実な動作を重視した結果、ガス圧利用式のみが採用となった。
外見上の特徴では、九七式狙撃銃や九九式狙撃銃と同じ2.5倍率のスコープが標準搭載されている事である。これは弾の浪費を抑えるためとも、狙撃銃として使用できるようにしたためとも言われている。
また九九式小銃の初期型と同じ一脚も装備されている。これは連射時の反動を抑えるための装備である。
よく言われる謎として、九九式自動小銃の名前自体が挙げられる。本来なら一式と名付けられるべきだが、何故か九九式のままだからだ。
これは九九式小銃の派生型として開発されたため名前も九九式を流用したという説、予算確保のため九九式小銃と同じような名前を採用した説、陸軍としては本命の銃では無かったので仮の名前を使い続けた説が挙がっている。ただ本当の理由は現代でも不明である。
・九九式自動小銃の実戦
九九式自動小銃は1942年より量産が開始され、特殊部隊を対象に部隊配備が進められた。
最初の配備部隊は第2特別陸戦旅団であり、1942年末のカッダロール上陸作戦にて初めて実戦で用いられた。
以降は海軍陸戦隊、空挺挺身隊に限定配備され、一般兵科に配備されることはなかった。
実戦部隊では狙撃銃や、選抜射手用の高精度小銃(現代のマークスマンライフルと運用が似ている)として用いられた。
だが評判は総じて悪かった。
まず機構が複雑で整備に手間がかかる事、ペダーセン機構特有の欠点を解消しきれなかったため薬莢の張り付きや破断が多発したこと、装弾数が5発しか無いこと、一脚の安定性が悪いなどが問題点として挙げられた。
しかも部品の互換性を有しておらず、一つの部品の故障が廃銃へと即座につながった。
このため部隊からは他の小銃(特にM1カービン)への更新を絶えず求めることになり、実際に戦争末期になるほど九九式自動小銃の配備数は減少していった。
対策として、とにかく銃の整備を徹底して行うこと、銃の構造を知り尽くす事などが行われた。
そのため九九式自動小銃の射手には技術者並みの知識が叩き込まれ、射手同士の意見交換や、それを基にしたマニュアルの作成・配布などが行われる事となった。
このため射手の中には、戦後になってその経験を買われ、技官として転属した者まで居た。
それでも銃本体の抜本的な改良は行われなかった。何故ならM1カービンのライセンス生産や、四式自動小銃の開発・生産に忙殺されたためだ。
それにピダーセンシステム自体が既に完成の域に達しており、改良の余地がなかったのも理由として挙げられる。
そのため現場からは九九式自動小銃は改良するに値しない欠陥兵器と捉えられ、メーカーからも半ば忘れられた存在となっていった。
それでも現場兵士の度重なる努力により、九九式自動小銃は使われ続けた。四式自動小銃の配備が一般兵科に優先され、特殊部隊に中々回って来なかったためである。
部隊単位での軍規無視の改造はザラであった。終戦後に調べた結果、オリジナルの状態を保ったままの九九式自動小銃は一丁も無いという結果も、その努力を物語っている。
事実、現存するほとんどの九九式自動小銃が、一脚を外して九九式軽機関銃から流用した二脚を装備している。他にも4倍率スコープの装着や、ライフルグレネードの装着に対応したもの、中にはドイツ製のスコープを無理やり装着したものまで存在する。
総生産数は7万丁から8万丁の間とも言われている。これは制式採用された銃の中では極めて少ない数字である。
だが九九式自動小銃の開発、量産経験のおかげで四式自動小銃の開発・製造が進むことになる。
何より、九九式自動小銃の経験は戦後の国産自動小銃開発に活かされたことは、この銃の最大の功績とも言えるだろう。
・M1カービンの量産
九九式自動小銃は日本で初めて量産・部隊配備までを行った自動小銃である。一方で最も使われた自動小銃は、アメリカ製のM1カービンである。
M1カービンは1941年10月に採用された自動小銃であり、専用の.30カービン弾を使用した。
ウィンチェスター社はロイヤリティフリーとして他社でのライセンス生産を認めており、実際にアメリカでは他の銃器メーカーやGMなどの大企業が製造を担当した。
そのM1カービンに目をつけたのが、日本の豊和工業である。豊和工業は当時、九九式小銃の下請けや手榴弾の部品の生産を行っており、利益を上げていた。さらにアメリカや満州国から技師を招くなど、技術力も着実に増していた企業であった。
事業拡大のため機関銃の代理生産を検討していたところに、M1カービンの話が舞い込んできた。
豊和工業はウィンチェスター社の代理として軍にM1カービンを売り込んだ。1942年中頃の事である。
当初、日本陸軍はM1カービンの採用に否定的であった。というのも生産設備を自作できず、ましてや専用弾も必要となる銃を採用したところで、まともな生産・維持・補給を行える自信がなかったためである。
しかしテストで示した良好な性能、空挺部隊の強い要望もあって採用に踏み切った。
空挺部隊では小型で火力のある銃を求めており、それがM1カービンにピッタリ当てはまったのである。
採用の知らせを受けると、豊和工業は早速ライセンス権と生産設備をウィンチェスター社より買い取り、かなりの短期間で銃・弾薬の生産ラインを整えた。
豊和工業での生産開始は1943年初頭からであるが、それまでにアメリカからM1カービンを数百丁、弾薬も10万発以上をレンドリース法により提供された。
そしてM1カービンは空挺挺身隊に配備され、1942年末のインド侵攻作戦より実戦に供されることになる。
配備されたM1カービンは実戦で高い評価を得た。銃の大きさも反動も小さくて扱いやすく、なにより部品の互換性があったことが評価された。しかも豊和工業は工作機械を全てアメリカから輸入し、ウィンチェスター社から専門の技師を招いた事で、国産のM1カービンもアメリカ製のと同等の質を維持した。
さらにM1カービンの評判を聞きつけた歩兵科や海軍陸戦隊、機甲科までもがM1カービンを欲しがるようになり、陸軍もこれに応えるべく、M1カービンの大量生産を命じた。
このため中央工業、東京瓦斯電気工業、日本特殊鋼などのメーカーがM1カービンの生産に参加するようになり、後には中島や豊田などの他分野のメーカー、無数の中小企業までもが参加した。
こうした量産体制の確立は、アメリカ製工作機械を大量に輸入した事や、満州国からの技術者の派遣で達成できた。さらに部品の規格化という概念が生まれ、これが四式自動小銃の開発や、戦後のJISの設立などに活かされる事となる。
こうして好評を得たM1カービンは1943年中頃になると国内での量産体制が整ったことにより、一般兵科にも配備され始めた。
特に分隊長用の武器として人気があり、M1カービンは軍刀に代わるシンボルマークとして人気を集めた。
さらに銃床を折りたたむことが出来るM1A1カービンの製造、供与が行われ、空挺部隊への配備が完了すると、砲兵などの後方部隊や機甲科に回された。
こうしてM1カービンは短期間のうちに日本陸軍の装備に組み込まれ、各兵科に配備された。
M1カービンシリーズ全体の生産数も、1943年末には月産5万丁、1944年には月産7万丁を記録し、終戦時までに約300万丁が生産された。
外国製の銃がここまで大量生産されるのは日本建国以来初めてであり、それだけM1カービンが前線で必要とされた証拠である。またこの実績のため、日本陸軍にはびこっていた国産銃絶対神話も崩壊することになり、戦後にNATO規格導入がスムーズに行われた要因ともなった。
大量生産の結果、1945年後半には小銃がM1カービンで統一された歩兵連隊が現れるほど、自動小銃の普及が進むことになる。そのおかげでドイツのGew43やStg44になんとか対抗できるようになったとも言われている。特にStg44相手だと交戦距離が比較的短かったおかげで、遠距離での威力不足をカバーできたとされる。
・四式自動小銃の誕生
こうして九九式自動小銃が失敗し、M1カービンが成功する中、国産の自動小銃開発は停滞したのだろうか。
答は否である。
M1カービン成功の裏で、歩兵向けの自動小銃開発が進められた。
ベースとなったのはアメリカ製のM1カービンである。M1ガーランドは1938年度のテストで好成績を収め、一時はライセンス生産すらも検討されていた。
しかし、.308弾の反動の強さや、独自規格の弾薬の導入に抵抗があり、実現しなかった。
そこでM1ガーランドに独自の改良を施すこととした。
この国産M1ガーランドの開発は中央工業が担当することになった。
中央工業はM1ガーランドの機構のライセンスをいち早く買い取り、実際に九九式実包対応のM1ガーランドを試作していたためである。
こうして1942年初頭より始まった国産自動小銃開発であったが、やはり使用弾薬の問題から暗礁に乗り上げた。九九式実包では銃の機構を動かすためのパワーが足りず、動作不良が多発したのである。
これは前例から分かりきったてたハズなのだが、陸軍からの強い圧力で九九式実包を使わざるを得なくなったという事情がある。
このため同年末の第一次試作品の完成度の低さから小倉工廠が開発チームに加わる事になる。さらに陸軍でも独自規格の弾薬を開発する許可を与え、開発を促すことになる。
この異例とも言える措置は、他国に比べて遅れすぎている自動小銃開発をなんとか成功させたいという思惑があったとされている。さらに言うと、この頃になると日本陸軍の兵站は格段に進化しており、弾薬の種類が一種類増えても現場での混乱が避けられるという判断もあった。
環境が整った結果、新型自動小銃には重機関銃用の九二式実包を基に改良した弾薬を使うことを決定。そのおかげで動作不良は減り、他の部品の改良に着手できた。
そして1943年中頃の第二次試作品、同年末の第三次試作品を経て、1944年1月に「四式自動小銃」として仮制式採用された。
・四式自動小銃の特徴
四式自動小銃はM1ガーランドの機構をほぼそのまま模して作られた。
そのためアメリカ人からは「M1タロウ」と呼ばれることになる(日本人名によくある名前をつけることで、コピー品であることを揶揄した)
特徴として新開発の四式実包を使用することにある。この実包は重機関銃用の九二式実包を基にしており、口径は7.7mmのまま薬莢長を62mmとした。これにより装薬の量が増加し、機構を動かすのに十分なパワーを有した。また四式実包の弾頭は基となった九二式実包と同じ13.0gで、九九式実包の11.8gよりも重く、その分威力を増した。
さらに新造された日本製の小銃としては初めて部品の互換性を有した。これはM1カービンの量産のおかげでノウハウが蓄積したこと、アメリカ製工作機械の大量導入による恩恵だった。
他にもM1カービンでは不評だった8発クリップによる装填を、リー・エンフィールド小銃のような脱着可能弾倉に5発クリップを2つ差し込む方式へと変更した。
照準器も日本陸軍伝統のタンジェントサイトを備えるだけでなく、狙撃銃に使われる2.5倍率のスコープを装着できるように予めマウントレールも備わっていた。これは九九式自動小銃の経験から、自動小銃にスコープを付ける事は有用であると判断されたためだ。ただし製造単価を抑えるため、スコープは標準装備されていない。
また反動軽減の策として、九九式軽機関銃と似た二脚が採用されている。この二脚は好評を得たため、戦後の銃も引き続き二脚を採用することになる。さらに生産簡略化のため菊の御紋が省略されており、本銃を受領した古参兵に大変驚かれたという。この菊の御紋の廃止は、九九式小銃後期型ともども日本軍の体制変化(天皇の軍隊から日本国の軍隊へ)の象徴とされている。
他にも九六式軽機関銃より採用された銃身のクロームメッキ加工も行われており、まさに和製ガーランドと言えるほどの改造が施されていた。
・四式自動小銃の実戦
四式自動小銃の量産開始は1944年半ばからだった。なお量産開始は九九式小銃後期型より遅かったため、日本初の規格化小銃という名称を逃すことになる。
量産は小倉工廠、中央工業で行われた他、豊和工業なども他メーカーも下請けとして参加した。
量産された四式自動小銃は主に歩兵科へと配備された。
特殊部隊への配備が後手に回ったのは、九九式自動小銃とM1カービンが既に配備されてたことと、一般兵科の火力底上げを図ったためである。
四式自動小銃は本土で編成中、または休養中の連隊に優先的に配備された。これは複雑な機構を有する自動小銃の取り扱いは高度な教育が必要なので、教育設備が整った本土でしか教育を施せなかったという事情が存在する。後に前線後方に教官や教育機材を派遣し、臨時の教室を開くことで、この問題を徐々に解決していった。
四式自動小銃の配備が本格化したのは1945年初頭からであり、1946年4月頃になってようやくM1カービンからの置き換えも始まった。しかし戦時中に全兵士を四式自動小銃で武装させることはついに叶わず、多くの兵は九九式小銃のまま終戦を迎える事になる。
戦時中の量産数は約40万丁とも言われている。戦後も量産が行われ、後述する一七式自動小銃と合わせると合計で130万丁が製造されたという。
・自動小銃の派生型
このように前線で多用された自動小銃は、当然ながら派生型も生産された。
M1カービンでは、M1A1カービンとM2カービンが用いられた。
M1A1カービンはM1カービンのストックを折り畳み出来るようワイヤーストックにしたもので、主に空挺と機甲科に配備された。後に三八式騎銃の後継として、後方部隊にも大量配備されることになる。
M1A1カービンは小回りがきくこと、生産がM1カービンより容易な事から、大戦末期ではM1A1カービンの方が量産されるという珍現象が日本にて発生した。
M2カービンはM1カービンにフルオート機能を実装し、さらに30発マガジンを搭載したものである。これは前線での不満点を解消するための改良であったが、結果としてドイツ軍のStg44の対抗馬となった。
M2カービンは機構の複雑化を招いただけでなく、フルオート射撃時の制御が困難という欠点も抱えてしまった。特に機構の複雑化は信頼性の低下を招き、大戦末期の冬のイタリア戦線にて酷評されることとなる。
それでも火力の上昇はそれらを補って余りある利点であり、少なくない数が量産された。
日本では既存のM1カービンシリーズの生産で余力が無かったため、M2カービンはアメリカからの供与のみとなった。
戦後になると、既存のM1カービンシリーズをM2カービン準拠にする改造が行われた。そのため現役のM1カービンシリーズは全て、M2カービン仕様となっている。
四式自動小銃にも派生型が存在する。それは五式狙撃銃である。
元々四式自動小銃自体がスコープ装着用のレールを予め取り付けるなど、狙撃銃としてのポテンシャルを秘めていた。そのため製造も、四式自動小銃の精度の良い個体を改造する形で行われた。
その外見はスコープを付けただけの四式自動小銃であったため、海外では四式自動小銃と混同する事例が続出。終いには「五式自動小銃」という名称で、四式自動小銃の本格的量産型という間違った見解が戦後しばらくの間、定着した。
連射できる狙撃銃は前線では歓迎されたものの四式自動小銃の方に生産割当が割かれたことから生産は遅々として進まず、戦後になってようやく配備が本格化したほどだった。
だがいくら狙撃銃として改造を施されても精度の良い自動小銃に過ぎなかった本銃は、時代が下ると性能が見劣りするようになり、九九式狙撃銃を代替することなく1980年代に退役することとなった。
警察では中央工業社でのオーバーホールを行った上で、1960年代より軍から退役した五式狙撃銃の受領が始まった。これら警察仕様の五式狙撃銃は、専用の狙撃銃に代替される形で一線を退いているものの、射撃訓練用として現在も使われ続けている。
・戦後の自動小銃たち
1946年に第二次世界大戦が終結すると、多くの九九式小銃が退役を開始した。その後釜となったのが、M1カービンと四式自動小銃である。
九九式自動小銃は終戦直後に退役が行われ、その多くが廃銃となるか、教練銃として学校で再利用された。確かに九九式自動小銃は日本の銃器開発に多大な貢献をしたが、使いづらい銃である事に変わりなかったからだ。
その後、教練銃となった個体は多くがアメリカへと渡る事になる。これは1970年代の改革開放政策と、それに伴う学校での軍事教練廃止によるものだった。余剰となった教練銃の扱いに困った銃商達が、無可動実銃に改造の上、アメリカに輸出されたのだ。
アメリカでは不格好さが逆に人気を呼び、無可動実銃になっているにも関わらず、状態の良いものが高値で取引されているという。
また日本でも技術的な功績が大きいことから、産業遺産として国内に残存している九九式自動小銃の保存に注力している。近年では小倉工廠がかつて使用した倉庫にて放置されていた九九式自動小銃の試作銃が再発見され、上野の国立科学博物館に慌てて収容されたというニュースがツイッター上で話題を呼んだのも記憶に新しい。
M1カービンは生産数の多さから多くの歩兵部隊に配備され、一時期は名実ともに日本陸軍の主力小銃として君臨した。
しかし1947年から四式自動小銃への置き換えが行われ、第一次支那戦争を機にこの流れが加速した。
結果、多くのM1カービンが後方兵科に回されるか、予備兵器として保管された。
それでも第一次支那戦争では多数のM1カービンが参加し、インドネシア戦争でも少なくない数が木製部品の腐食に悩まされつつ、基地警備隊などによって使われたという。
中にはインドネシアのジャングルではカービンの方が都合が良いと言って、基地警備隊からくすねたM1カービンを使う熟練兵まで居たという。これは当時の日本陸軍の主力小銃が威力を重視したバトルライフルであり、ジャングルでの近接戦には不向きだったのが理由である。
こうしてM1カービンは1980年代末まで細々と現役を維持した。
なお戦後に使われたM1カービンシリーズは、全てM2カービン準拠の仕様へと改造されたものである。
M1A1カービンはM1カービンよりも長く使われることになった。
機甲科は予算が戦車や兵員輸送車などの重装備に優先されるため、下車戦闘時にしか使わない備品に余り予算は割かれず、結果未だにM1A1カービンを使い続けているのだ。本来はNATO弾導入によって急速に退役する予定だったが、他の兵科がM1カービンを使わなくなったことで弾薬や予備部品が余るようになり、それらを倉庫に死蔵するくらいなら機甲科で使い潰す方が良いと主計科が主張し、結果それが受け入れられて現代まで続いている。
その数は尋常ではなく、退役した二式小銃の後継がM1A1カービン、壊れたサブマシンガンの代わりがより古いM1A1カービン、数が多すぎて倉庫に入らないから兵員輸送車には必ず一個分隊分のM1A1カービンが備え付け、という数々の伝説?を生み出し、いつしか付いたあだ名が「不死身のカービン様」である。
その伝説は今も更新中である。
例えば、2010年代に壊れたM1A1カービンの代わりの銃を要請したら、ピカピカに整備された第二次世界大戦中製造のM1A1カービンが送られてきたという。そのため現場では「カービン様は生殖して勝手に数を増やしている」という冗談さえ言われているという。
カービン様は恐らく最低でも四半世紀は日本陸軍にて使われることになるだろう。
四式自動小銃は、戦後も引き続き生産が続けられた。カービン銃では他国の自動小銃にアウトレンジされる可能性が高いし、何より国産の銃のほうが陸軍上層部に好まれたからだ。
第一次支那戦争が勃発すると、四式自動小銃は第二次世界大戦時並の量産体制が整えられ、戦争末期にようやく名実共に主力小銃の座を得る。
四式自動小銃は第一次支那戦争に従軍した後、1957年頃からNATO弾への対応、ダブルカラム式20発弾倉の装備、フルオートの実装、可倒式の新型サイトへの交換と言った改造が施されるようになる。
この大改造された四式自動小銃は実質別銃と扱われ、「一七式自動小銃」という制式名称が与えられた。
一七式自動小銃はM14ライフルに相当する主力小銃として多数が改造された。またM1カービン等の既存銃の代替も行うため、少なくない数が新規製造されることになる。
インドネシア戦争では他の銃同様、木製部品による腐食問題が発生した他、ジャングル内での接近戦が多発する戦場では、制御できないフルオート射撃で弾をばら撒くしか能が無い本銃の扱いづらさが問題となる。
そこでインドネシア戦争中に、当時の主力小銃を急遽改造。
木製部品のプラスチック化や3連バースト機能を備えるなどの改良を施した二四式小銃二型(FALのようなバトルライフルに近いアサルトライフル)への更新が始まり、主力小銃としてはリタイアすることになる。
だが命中精度の高さから選抜射手用の銃として使われる。
インドネシア戦争後も、二四式小銃二型に行われた改良を一七式にも適応した改修型が作られ、それが現在もマークスマンライフルとして現役である。
・民間での自動小銃たち
最後に民間での彼らの活躍を追っていこう。
民間でもM1カービンは人気を呼んだ。猛獣狩りでもなければ.30カービン弾は獲物を仕留めるのに十分であり、さらに連発できる事で外した後のリカバリーが効きやすかったのである。
そこに目をつけた豊和工業がM-300という名でM1カービンの民生型を日本向けに売り出した。
M-300は村田猟銃からの買い替え需要や、九九式小銃の民生型であるM-100で威力過剰と感じた猟師達の需要に非常にマッチし、国内でかなりの好セールスを記録した。
このM-300と、M-100のアメリカ市場での成功により、豊和工業は日本最大の銃器メーカーとして成長することになる。
一方で簡単に高い火力が出せるM-300は凶悪事件に使われることが多々あった。特にこの手の犯罪は、暴力団同士の抗争が激化した1950年代や、低迷する日本に絶望した若者による凶悪犯罪が流行した1970年代前半に多発する事になる。そのため警察はカービン銃対策に苦悩し、対凶悪犯罪用の特殊部隊を編成することになる。前述した五式狙撃銃の警察への譲渡も、その対策の一環である。
四式自動小銃も1950年代末より、中央工業にて外国向けのモデルが生産された。
このモデルはM1-Jと呼ばれ、.308ウィンチェスター弾が使えるようになっている。また二脚の廃止や、照準器をM1ガーランド準拠の物に交換したため、ますますM1ガーランドに似ることとなった。
ただし威力が過剰すぎるという理由からアメリカですら購入規制がかけられ、猟銃としても威力過剰という理由からほとんど使われず、失敗作という烙印を押された。そのためM1-Jは米軍規格の弾を利用する中小国の警察向けに売られ、ブラジル警察やアルゼンチン警察など数カ国が採用した。
他にも1960年代に流行した戦争映画の小道具として、国内の映画業界やTV会社がそこそこの数を買った他、1970年代初頭に支那連邦共和国向けに数万丁単位での輸出に成功したおかげで、中央工業はなんとか開発・製造費を回収したとされる。
ただし中央工業は、支那連邦共和国への輸出は余剰となった一七式自動小銃の輸出であるとして否定している。
こうしてみると、日本の自動小銃はアメリカからの影響が強い。
しかしこれは不思議なことではない。
九九式小銃も基を正せば、ドイツのモーゼル小銃に行き着く。
日本は模倣を続けることにより、銃を進化させ続けてきたのである。これは殆どの国が辿る道であり、恥ずべきものではない。
次回は同じように模倣を続けた機関銃について見ていこうと思う。