もりのくまさん
ある日、突然思い立って、ハイキングに来るべきじゃなかったと、私は後悔している。
思い立ったが吉日、善は急げ、というが、今日に限っては例外だ。
いつもの如く、優柔不断な性格を遺憾なく発揮しきれなかった自分自身が恨めしい。
「森のくまさん」というアメリカ民謡を、誰もが小学生の頃に歌ったことがあるだろう。
少し埃っぽい音楽室。
軽やかに踊る十本の手指と、軽快な調を奏でるグランドピアノ。
音楽の先生は朗らかな表情で合図を送ると、あどけない少年少女たちが、ふっ、と空気を吸い込んで、元気よく口ずさみ始める。
「ある日森の中くまさんに出会った」と。
まさに歌詞の通りの状況。
私は花咲く森の道で「くまさん」に出会ってしまった。
歌の中のくまさんのイメージ像は、紳士的で可愛らしい、くまさんである。
もちろん私の勝手なイメージなので、他の人は違うのかも知れない。
しかし、眼前のくまさんは、くまさんと呼べるほど愛らしくはない。
強靭な四肢に、巨大な体躯。
立ち上がれば、私よりも大きいことは想像に難くない。
檻に遮られることない自然界で出会えば、彼はハンターで私はただの餌なのだ。
もちろん熊と遭遇しないように、熊よけの鈴は腰に付けていたが、どうやら今回は役に立たなかったようだ。
私は鈴を手で押さえ、息を殺して少しずつ後ずさりする。熊との距離はだいたい六メートルほど。
熊は唸り声を上げながら、こちらの様子を伺う。
この唸り声が「御嬢さんお逃げなさい」と言っているのなら、すたこらさっさと逃げ出していただろう。
だが、熊の目の前にいるのは、御嬢さんではなく、健康診断でメタボと診断された三十代のおっさん。
運動不足と不摂生によって作られた肉体には程よく脂が乗る。
きっとA5ランク相当の霜降り肉だ。
こんな上等な肉を見逃してくれるはずはないだろう。冷や汗と手の震えは、収まる気配がない。
不意に腰に付けていた鈴の紐が解け、手から零れ落ちる。鈴は地面に落ちると、ちりんと音を鳴らした。
それを皮切りに私は熊に背を向け走り出す。
後ろを振り向く余裕は無い。
必死の思いで地面を踏み蹴る。
聞こえるのは熊の鉤爪に引っ掛かった鈴の音と、熊の呼吸音。音はどんどん迫ってくる。
走馬灯だろうか。
小学生時代の音楽の時間に、クラスメイト達と「森のくまさん」の輪唱を楽しげに歌っていた光景が思い出される。
あの頃の熊のイメージは決して恐ろしいものではなかった。
むしろ力強さと優しさを兼ね備えた、ライオンも目じゃないくらい大好きな動物だった。
動物園に遠足に行ったときも、芸を披露して餌をたくさん貰おうとする姿は可愛かった。
それがいつからだろう、私の中で熊は危険な動物に変わっていったのは。
テレビで報道される熊のニュースといえば、人を襲ったニュースばかり。
まるで悪者のように取り上げられる。
木を切り、山を開拓し、私たちの暮らしは豊になった。
代わりに山の生き物たちが犠牲になる。
初めはそんな彼らに、哀憐の情を抱いていたが、歳を重ねる毎に、私の感覚は麻痺し、何も感じなくなった。
インターネットにより、熊による過去の凄惨な事件を目の当たりにして、やっぱり熊は恐ろしい生き物だと認識する。
そうして、熊は大好きな動物から、危険な生物へと私の中で次第に変わっていった。
私は必死に動かしていた足を止めた。
これは罰だ。
臆病な熊が人を襲うようになったのは人間の罪だ。臆病な熊が、人間に手を出さざる負えない状況を作り出した責任が、間接的ではあるが私にもある。
今まではそんな現実に目を背けて生きてきた。何の問題提起も起こさなかった。
これはしかるべき罰だ。
私は自然の摂理によって裁かる運命にあるのだ。
背後に熊の気配をしっかりと感じる。
さあ、好きに私を食らいたまえ。
背中に生暖かい感触。
瞼をぎゅっと閉じ、死を受け入れる。
「あの、これ落しましたよ」
渋めの声が鼓膜を振動させる。
振り返ると先程落した鈴を、器用に指に引っ掛けて、私に差し出す熊。
理解不能な出来事に、私は開いた口がふさがらない。
「大丈夫ですか」
熊は心配そうに私を見下ろす。
あまりに人間じみた動作に思わず、中に人が入っているのかと疑う。
「じゃあ落し物は渡しましたからね。さようなら」
立ち去ろうとする熊を私は呼び止める。
「待ってくれ、君は本当に熊なのか」
「ええ、そうです。驚かれたでしょうが、熊です。私たちだって日々、人間と同じように進化していますよ。それじゃあ、これからダンスパーティーがあるので、失礼させて頂きます」
「待ってくれ。急で悪いのだが、良ければ私も連れて行ってはくれまいか」
「申し訳ないのですが、御嬢さん以外はご遠慮いただいております」