シュウマツ
暗い夜の道を一人で歩いていた。
陽の光はずいぶん前に冬の空から姿を消して、寂しい路地に残っているのは僅かな人工の明かりと心まで悴んでしまいそうな冷たい空気だけだ。
足を進める先に広がる重たく冷たい暗闇に思わず吐き出したため息がなけなしの街灯に照らされて白く染められた。
「……帰りたい」
まあ、今から帰るんだけど。というか、家に向かっている真っ最中なんだけれど。
やっとの事で仕事を終わらせて、会社を出ていくつかの電車を乗り継いだ。最寄り駅の改札を出て、あとはマンションまでの道のりを歩くだけ。それなのにその距離がひどく長いものに思えてしまって、暗がりを進む足取りが鉛みたいに重たい。
今日も、部屋に帰っても布団に入って寝るだけだなぁ。
早く帰って休みたいはずなのに、家に帰ってからの事を考えてなぜか憂鬱な気持ちになる。毎日が同じように始まって、同じように終わっていく。朝起きて、会社に行って、家に帰って寝る。……わたし、何が楽しくて人生なんかやってるんだろう。
そんな事を考えてまた、大きな白い空気の塊が口から吐き出された。
あぁ、だけど。
今日はいつもとは少し違うんだった。何せ今日は金曜日。……家に帰り着く頃には、もう土曜日かもしれないけれど。とにかく、今日頑張って家まで帰れば、明日と明後日はゆっくり出来る。そしてまた、月曜日からは会社で仕事が待っている……。
あれ、どうしてわたしは休みの日のことを考えてまで気分を落ち込ませているんだろうか。それもこれも、毎週毎週が同じように過ぎていくのが悪い。月曜日から金曜日まで働いて、2日休んで、また月曜日から仕事をする。
本当に、何が楽しくて人生なんかやってるんだか。
わたしは寒くて暗い帰り道をゆっくりと歩きながら、この短い間でもう何度目かのため息を吐いた。
*
翌朝、自分の部屋のベッドの上でわたしは目を覚ました。
ぼんやりと天井を眺めながらのんびりと起き出した脳みそが完全に覚醒するのを待つ。そろそろ体の方も起き上がらせようかと思ったところで、自分が昨日会社から帰ってきたときの服装のままであることに気付いた。
そう言えば昨日はヘトヘトで家に帰ってきて、そのままベッドの上に転がって眠ってしまったんだった。よく考えるとわたしは掛け布団すら使わずにその上で横たわっているようだ。道理で寒いと思った。
……今、何時だろう?
もぞもぞとスーツのポケットからスマートフォンを取り出してディスプレイを呼び出す。画面に表示されたデジタルの数字が、薄暗い部屋の中で眩しく光を放って寝ぼけた瞳に突き刺さる。目を細めて時計を確認すると時間は7時を少し過ぎたあたり。寒さのせいで眠りが浅かったのか、昨日帰ってきた時間を考えると少し早い時間かもしれない。
まだ頭は何となく重たいし、もう少し寝ていたい気持ちもあったけれど、せっかく休日の朝に目を覚ましたのだから眠って過ごすのも勿体ないかと思い直す。服も着替えたいし、お風呂にも入っていないしね。
のっそりと体を起こしたわたしは、部屋の明かりを灯してエアコンのスイッチを入れる。着ていたスーツをきちんとハンガーに掛け直し、シャツやら何やらを洗濯かごに放り込むと浴室に向かう。今から湯船にお湯を張って浸かる気にも何となくならなかったので、簡単にシャワーを浴びるだけで済ませる事にする。頭からぬるいお湯を被り体の汚れと疲れをザッと洗い流した。お風呂場を出て私服に着替えたあと、今度は朝食の準備に移る。昨日の昼から何も食べていないせいで、朝からちゃんとお腹は空いている。冷蔵庫の前までやってきて、その上に乗っかっている電子レンジの扉を開ける。一人暮らしなので冷蔵庫はそこまで大きくない。電子レンジはちょうどわたしの顔の高さくらいにある。中から丸い耐熱皿を取り出す。トーストを焼くには必要のないものだ。キッチンの片隅にそれを追いやって、冷蔵庫から取り出した二枚の食パンをレンジ内に並べる。オーブントースターにモードを切り替えてスタートボタンを押した。
今日は何だか静かだと思っていたら、テレビを点け忘れていた。まぁ、いつも起きたら一番に電源を入れている割に半分もまともに聞いていないから別にいいか。
機械が食パンをこんがり焼き上げてくれている間に、わたしは冷蔵庫から卵とケチャップを取り出す。調理台へ向かい、ケチャップを置くとコンロの上のフライパンに油を垂らして加熱を開始。小さめのボウルに卵を割り入れ、料理用の長いハシでかき混ぜる。そうしている間にいい具合に熱されて白い煙を上げ始めたフライパンへ溶き卵を流し入れる。すぐに固まり始めたそれを菜箸でかき集めてオムレツに整形していく。わたしはあまり火が通りきらない方が好きなので、適当なところで火を止めた。調理に使ったボウルとお箸を洗い終わったあたりでタイミングよく電子レンジがトーストの焼き上がりを知らせる。焼けた食パンを一枚取り出してコンロの前に戻り、フライパンを傾けて卵をトーストの上に乗せる。調理台の上のケチャップを取り上げて卵焼きに冷蔵庫の前まで戻って、使い終わった調味料は冷蔵庫にしまう。レンジに取り残してきたもう一枚の食パンで卵を挟み込んで取り出した皿に置く。それをベッドの横に設置された足の短いテーブルに配膳して、もう一度キッチンへ戻る。食べた後に洗い物とかはなるべくしたくないから、先にフライパンを洗っておこう。
調理器具を洗い終えて、テーブルの前へ。
「……いただきます」
誰にともなく手を合わせて、朝食を口に運ぶ。
サックリとしたトーストの食感と香ばしい香り。その先にケチャップの酸味と半熟の卵焼きが食パンの自然な甘みと混じり合う。
パンの間から卵がはみ出してきて少し食べづらいのが玉にキズだけど、わたしにしてはよく出来たほうだと思う。あ、コーヒーも淹れとけば良かったな。
卵トーストを一旦お皿に置いて電気ケトルでお湯を沸かすと、インスタントコーヒーを作った。
野菜の足りていない朝食と熱いコーヒーを胃の中に送り込みながら今日の予定を考える。とは言え、特にやりたいことがある訳でもない。いつかやろうと思って買っておいたゲームも、撮り溜めておいたドラマも、今は気分じゃない。他にこれと言って趣味と言えるものも無いし、ネットの向こうにいる、自分よりも楽しく日々を生きてる人たちの生活を覗き見る気にもなれない。……やっぱりもう一度寝ようかな。
早くも後ろ向きになり始めた思考を、頭を振って追い出す。
人間は長めに寝たからと言って睡眠を貯金することは出来ないし、必要以上に眠ったところで残るのは鈍い頭痛と時間を無駄にした事への後悔だけだ。
そうだな、いつもの休日は結局部屋に引きこもって月曜日がやってくるのを待つだけで終わってしまうし、たまには外を出歩いて見るのも良いかもしれない。
強引に少し前向きな決意を固めて、朝食の最後の欠片を頬張った。




