-5- ラルス・カヌス (完結)
<5> -ラルス・カヌス-
俺はまだ自動車を走らせていた。
もう海への距離はそれほどないだろう。
昼時を過ぎても、俺達は、薬と飲み物以外、口にしていなかった。
多少空腹感はあるものの、気にせず走る。
最初から、食事はしないつもりだった。
食べられる体調じゃないこともあったけれど、もうみんな自分たちの到着点を見据えているようだった。
もう夕暮れに差し掛かるという所で、問題が発生した。
休憩も入れずにずっと走り続けていたら、急にスピードが落ちてきて、車が停止してしまったのである。
車を飛び降りて、コウと俺で車を調べる。
「…分からないな。なんで急に止まっちゃったんだろう。」
「エンジンはおかしくないようだけど…走り、過ぎたか?」
「…原因が分からないなら、どうしようもないな。」
そう言って、車内へと戻る。
マコが心配そうにこちらを見てきたけれど、とりあえず黙ってそのままキーを差し込む。
もう一度、エンジンをかけてみる。
渇いた音が、細かい振動と共に響くだけで、車が動く気配はない。
「…とりあえず、一旦休憩にしようか。」
待ってどうにかなる問題ではない。
けれど、他に方法がある訳でもなかった。
深刻な顔のまま俺は言って、暫く止まった車内で、息をつく。
(…どうしよう。)
みんな、考えている。
残された時間のこと、自分たちの希望のこと、見えてきた旅の終わりのこと。
一時間ほど経っただろうか。
急に咳き込んだコウが、みんなの心配を制してこう聞いた。
「みんなには、悪いけど…我侭、言っていいか?」
みんな、重たい沈黙で答える。
「……。僕、見たい、ものがあるんだ。
ここまで、一緒に来たけれど、ここまで来られたからこそ、見たいものがあるんだ。
アヤ、シュウ、ダイスケ、マコ。ごめん。
僕だけ、別行動でいいから、行かせてくれないか。」
今までの五人が欠ける。
この五人だからこそ、ここまで来られたし、ここまで笑い合えたのだろう。
しかし、カモメを見るために海を目指すことは、共通の目的ではなかった。
アヤの願いを、俺が叶えてやりたかったから。
同じように、みんなはそれぞれに外の世界での希望を持っていたのだろう。
それに、コウの頬は出発前とははっきり分かるぐらいに痩せていたし、目の下には大きな隈もできていた。
どう見たって深刻なその姿を見て、常識なら止めるべきなのだろうが、俺達には止められる訳がなかった。
残された時間が、はっきり分かってしまったから。
ここで引き止めても、きっとコウは幸せにはなれない。
そう思った俺達は、迷いもなくコウの申し出を聞き入れた。
一人コウが車を降りようとしたとき、ダイスケが言う。
「…おいっ。コウ。まだ待ってろ。
みんなで、記念写真撮っておこうぜ。」
「写真?いいけど、カメラがないだろう。」
コウがあっさり返すと、ダイスケはジャーンと言いながら、黒いカメラを取り出す。
「…なんで、持ってんの?」
驚きながら、俺が聞く。
「車のシート下に落ちてた。
古い型だけど、撮ることはできると思うぞ。」
みんな一斉に車を降りて、道路脇に並ぶ。
ダイスケが車のボンネットにカメラを置いて、タイマーをセットする。
マコとアヤが前に座って、男三人は後ろで立ってポーズを決める。
ピースサインを出しながら、俺はこれが最初で最後の記念写真だと思って、少し顔を歪ませる。
横からコウが俺の肩に手を乗せて、
「笑えよ、シュウ。」
と、弱りながらも、笑顔で言った。
「そろそろだぞ、シュウ主催の、脱出旅行記念!」
ダイスケが言って、みんな飛び切りの笑顔をカメラに向ける。
パシャッっと小さい音がして、フラッシュが焚かれた。
撮り終わった後、俺とコウ以外の三人はカメラへと駆けていった。
「そういえば、現像しないと写真みれないじゃん。」
「いいじゃないか。こういうのは、撮るっていう行為自体が大切なんだよ。」
「……うん。そうだよ。」
「そっか。そうだよね。」
みんながわいわい騒いでいる中、コウはそっと俺に、
「アヤを頼んだ。」と言った。
俺が何か言おうと思ったときには、もうみんなの輪に入って別れの言葉を述べていた。
コウは最後に、「本当に、我侭言ってごめん。」と、深く頭を下げた後、一人で夕暮れの道を歩いていった。
その姿が見えなくなるまで、無言で見つめた後、俺達はとりあえず車へ戻ろうとする。
そんなとき、アヤが言った。
「……マコは、いいの?」
急なアヤの問いかけに、マコは少しビクッとなる。
「夢、だったんでしょう?」
アヤが、マコの顔を少し寂しいような顔で見つめる。
沈黙の間、マコは複雑な表情をしていた。
マコが、少しアヤと話がしたいと言ったので、先に車の近くで待つことにする。
遠くで、何やら話をしているのは分かるが、内容は聞き取れない。
長時間の運転で疲れた身体をマッサージしていると、横からダイスケが急に聞いてきた。
「シュウ、アヤのこと、好きか?」
いきなりの質問に吹き出しそうになったけれど、ダイスケの顔は真剣だった。
俺も、真剣に答える。
「…ああ。好きだよ。自分でも、びっくりするぐらいに。
こんな計画、普通人間だった俺が、よくやってるなと思うよ。」
「……そうか。
俺は、マコが好きだ。」
「分かってるよ、なにを今さら。」
「俺は、お前の男らしさが羨ましかった。」
…何を言ってるんだ?俺なんかよりダイスケはずっと頼りになるし、面倒見もいい。
(というかそれ以前に、会話が噛み合ってないんですが…)
「出発を決意したときの、お前の言葉だよ。
あんなこと、余程相手のことを想っていないと、なかなか言えることじゃない。
勇気も、いるしな。
…シュウ、俺は最期に、マコの前でカッコつけてやりたいと、そう思ってんだよ。」
つらつらと、ダイスケが言う。
俺はとびとびのダイスケの話に、ずっとハテナのままだったけれど、ダイスケの訴えは理解していた。
「二人には悪いけど、俺達も憧れていた所があるんだ。
俺は、マコをそこに連れて行ってやりたい。
シュウと同じ気持ちなんだよ。
あいつを、少しでも笑顔にしてやりたい。」
笑顔のまま語るダイスケの顔。
輝いて見えるその顔には、たくさんの汗をかいていた。
我慢、しているのだろう。
ダイスケの身体のどこかが、悲鳴をあげているのは簡単にわかった。
「そっか。それじゃ、もうお別れだな…。」
「……まあな。
…。アヤの前で、そんな顔すんじゃねえぞ。
お前は十分カッコいいんだから、最期ぐらい、きっちり決めろ。」
笑顔のまま、ダイスケが俺に言う。
(決めるって、なにをだよ…)
そう思いながらも、変な想像をして顔を赤らめる俺に、ダイスケは続ける。
「お前は、本当にすごいやつだよ。
あの病棟から、俺達を連れ出してくれた。
死ぬ前に、シュウみたいなやつに会えて、本当によかった。
感謝してる。」
『死』という言葉を口に出したダイスケの姿に、余りにも儚い、残された時間を感じる。
涙が出てきそうだったけれど、堪えて、俺も言う。
「俺も、ダイスケみたいなやつに会えてよかった。
こんなに仲良くなれる人がいるんだって、びっくりしたよ。
感謝してる。
ダイスケにも、マコにも、コウにも、アヤにも。
最高の仲間達だよ。」
言い終える頃には、やっぱり涙が一筋頬を伝ったけれど、俺は顔を崩さずに、ダイスケを見つめる。
ダイスケがヘッと小さく笑ったので、俺も小さく笑い返す。
最後にお互いの拳をゴンッと合せて、約束した。
「絶対に、アヤにカモメを見せてやれよ。」
「もちろんだ。そっちこそ、マコを幸せにしてやれよ。
マコは笑顔が一番だ。」
「ヘッ。いい顔してんじゃねえの、シュウ。
なら、勝負な。
惚れた女をどれだけ幸せにできるか、勝負だ。」
「…ヘッ。望むところじゃねえの。」
ダイスケに比べて、アヤに気持ちも伝えていない俺。
だけど、俺は力強く言い切った。
これからはもう迷わないという、決意の表れだった。
俺とダイスケが話し終えた頃、ちょうどアヤとマコも戻ってきた。
二人とも、ほんのり目が赤くなっている。
この二人は、同姓だけあって普段から一緒だったし、俺達には言いにくいことも相談し合っていたのだろう。
姉妹のような関係だけに、別れはとても寂しいようだった。
けれど、二人とも涙を溜めながらも笑っていた。
クスクス笑う度に、小さな涙が一粒こぼれて。
これから夢を叶えにいくのだから、悲しい別れのはずがなかった。
車を離れていくとき、ダイスケは見せ付けるようにマコの手をギュッと握っていた。
マコは照れながらも、こちらを向いて、名残惜しそうに手を振っていた。
先程のコウと同様に、二人は荷物を持っていかなかった。
もう、必要はないのだと分かっているからだ。
アヤと二人で見送った後、少し沈黙が流れる。
「二人きりに、なっちゃったな。」
そっと、俺が言う。
「……うん。」
「…寂しい?」
「……うん。
…でも、シュウがいるから、大丈夫。」
そう言って、俺に笑顔を向けてくれる。
(守るんだ、俺が。)
もう、頼りになる仲間は、それぞれの道を行った。
俺達は、海を目指して進むだけだ。
とりあえず車内に戻って、一通り荷物だけは見ておく。
残りの時間を考えると、必要性を感じるものは、やはりなかった。
差したままのキーを引き抜き、元々あったボックスの中へ返す。
外へ出て伸びをして、アヤの準備が終わるのを待つ。
少しして、アヤが車から出てきた。
けれど、なにやら後部座席をジッと見ているので、気になって近づく。
後部座席には、旅の間もほとんど抱いていたウサギのぬいぐるみが、穏やかな夕焼けに染められながら座っていた。
「置いてく、のか?」
俺が聞くと、アヤはゆっくり頷いた。
それは、別れの決意なのか、ここへ戻ってくる決意なのかは分からなかったけれど、俺は何故かアヤの頭を撫でていた。
また子供扱いされていると思ったのか、アヤが頬を膨らませたけれど、俺はそれに笑顔で返す。
アヤは最後に、ぬいぐるみのおでこにそっとキスをして、車のドアを閉めた。
「行こ」
そう言って先に歩き出すアヤ。
俺はその小さな背中にすぐに追いついて、横に並んで歩き始める。
旅は、終わりに近づいていた。
いつもよりは少し静かだけど、変わらない調子で言葉を交わす。
やはり音楽の趣味が合うので、自然と二人でお気に入りの曲を小さく口ずさんだりもした。
海に近いこの辺りは観光地なのか、旅館やホテルが目に付く。
そんな建物の駐車場に、変わった開き方のドアをつけた車を見つける。
「あれ、すごいだろう?」
「…変な開き方するんだね。あのドア。」
「あの姿、なにかに似ていると思わない?」
「うーん…、何?」
「片側だけじゃ分かりにくいかな。
あれ、上に両ドアが開いた状態がカモメの姿に似ているから、ガルウィングドアって言うんだ。
もうカモメ見ちゃった感じしない?」
教習所のときに聞いた豆知識を、急に思い出して披露する。
「…カモメはあんなのじゃないよ。」
「…鉄のカモメじゃ、お気に召さなかったでしょうか。」
俺がふざけると、
「…ふふ。シュウも、物知りなんだね。」
たしなめる代わりに、笑いかけてくれた。
他愛もない、会話。
けれど、俺はこうしてアヤに届ける一言一言を、噛み締めながら話した。
暗くなっていく外の世界を、アヤと二人で歩く。
少し前までは考えられないことだったけれど、ここまでアヤを連れてこられたことを、俺は少しぐらい誇ってもいいのだろう。
あと、少し。
自分の心に再び、気合を入れる。
急にみんなの笑顔が頭に浮かんで、少し暖かく感じる。
二人きりだったけれど、あの五人でいたときの居心地の良さは、ずっと俺の胸に残っているようだった。
ほとんど夜といえる時間だろう。
周りの家屋には明かりが灯っている。
海に近づくにつれて、その家屋も少なくなってくる。
ここまでくると、細かい地理はわからないとコウは言っていた。
けれど、もうすぐ見えるはずの河を辿れば、すぐに着くだろう。
俺は、少し不安を抱きながらも、足を進める。
先ほどから広がってきた、体全体の倦怠感が、無視できなかったからだ。
アヤとの会話も、少なくなっていた。
俺が苦し紛れに曲を口ずさむと、少し落ち着いた空気が流れたようにも思えた。
どんどん、闇が深くなってくる。
これは、今日中には到着できないかなと感じたとき、隣にいるアヤの呼吸が乱れた気がした。
マコのときのような深いものではなく、リズムが崩れて呼吸と呼吸の間に、ひゅっひゅっという風の音が切れるようにしていた。
「…大丈夫か、アヤ?」
返事をするのが辛いのか、強がって頷くだけで、乱れた呼吸は元に戻らない。
どこか休憩できる所を探していると、今度は大きく咳き込み始めてしまった。
焦りながらも周りを見ても、なかなか見つからない。
仕方なく、前方にある橋の下を目指して、歩きはじめる。
一歩進むごとに、アヤの咳は酷くなっていくような気がして、俺は慎重に進んだ。
橋の下に到着し、アヤを横にする。
咳は少し軽くなっても、呼吸の間に起こる風の音は鳴り止まなかった。
「…もう、充分、だよ」
苦しそうにしながらも、アヤは笑って言う。
「もう、いいよ…」
弱弱しく、笑って言う。
弱気のアヤは、珍しかった。
いつもおっとりしていて、子供みたいな一面もあるけれど、とても強い芯を持っていたから。
そんないつものアヤに呼びかけるべく、俺は声を張り上げる。
「何言ってんだよ!見に、行くんだろ?カモメ。
ずっと、ずっと、楽しみにしてたんだろう!?
あと、少しなんだ。あと、少しだから…!」
「…なんで、そこまで、してくれるの?
一人の、我侭のために。
……私は、もう……。」
少し涙を溜めながら、未だに弱気なアヤ。
そっと目を閉じようとしたのが、俺の瞳に映って、俺は思わず叫んだ。
「……好きだから、だよ!!
アヤのことが、好きだから…!!
男は、好きな女の子の笑顔を見れるのが一番幸せなんだ!
ダイスケとも、コウとも、約束…したんだ!
俺が、俺が……アヤを笑顔にするって……!!!」
頭に浮かぶまま、口から告白の言葉が溢れる。
恥じらいなんて、なかった。
恋愛に疎い俺の人間性も、関係ない。
今の俺には、アヤとカモメを見ることが全てで、アヤの笑顔が全てだから。
「だから、アヤ……!!!」
目を閉じようとしていたアヤが、そっとこちらを見つめて、
「…ありがと、シュウ。
私も、シュウのこと、好きだよ。
…こんな私に構ってくれて、ここまで連れてきてくれて…
ホント、ありがと……。」
いつもよりさらにゆったりした口調で、アヤは言った。
言い終わった瞬間、アヤは目を閉じてしまう。
「……アヤ?」
恐ろしくなって、名前を呼ぶ。
「……アヤ?…アヤ!?」
胸の奥から、激流のように迫り来る不安が、俺の心臓の動きを一気に速めていく。
俺は、アヤの身体を揺すりながら、狂ったように呼ぶ。
「アヤ!…アヤ!!」
すると、余りにも声を張り上げすぎたのか、自分が咳き込んでしまう。
初めて味わう程の、激しい咳。
(俺は、アヤを守るんだ…!!
とにかく、アヤを他の場所に……)
そのままパニックに陥りそうな心を叱咤し、俺は頭を働かす。
咳が止むのを待つが、なかなか止まらない。
急に口の中に、懐かしい味が広がった気がした。
咳が一度止んだところで、口を抑えていた手を見る。
やけに暖かく感じるその手には、真っ赤な血が、嘲笑うように付いていた。
意識が、強い力でどこかへと引っ張られていく。
視界が夜よりも暗い闇で塞がれていく中で、手首についている黒だけが、憎たらしくその存在を訴えていた。
目が、覚めた。
俺の髪を撫ぜる、優しい手。
頭の下には、とても心地良い感触。
目の前に、アヤの顔。
(これって、膝…枕?)
…一瞬、固まる。
次の瞬間、俺はガバッと身体を起こす。
急に動いたので、アヤは驚いてしまっているようだ。
謝ろうとしたけれど、ついさっきまでの状況に加えて、意識を失う前の、無我の告白が鮮明に思い出されて、顔が蒸発するのではないかと思うぐらいに火照っていた。
「……!……!」
いつかの声にならない悲鳴を、情けなく上げていると、アヤはクスッと笑いかけてきた。
「……大丈夫?」
それは、まだ口周りに血をつけている俺の体調のことだろうか。
それとも、血よりも赤く染まっている、今の俺の顔のことだろうか。
結局十分ほど会話は成り立たなかったが、やっとのことで、俺は声を出す。
「俺は大丈夫だけど…アヤは?平気、なのか?」
「…うん。一晩ゆっくり寝たら、多少良くなった。」
意識を失ってから、一晩越えていたようで、アヤの顔色も少し良くなっているように見える。
ふぅ、と安堵のため息を付く。
頭の中が半分寝ている状態で、少しの間沈黙が流れる。
「…昨日は、ごめんね。
ここまで来たのに、……弱音、吐いちゃって。」
申し訳なさそうに、アヤが言う。
「別にいいよ。今、こうしてアヤが元気なら、なんでもいい。」
半分寝ているだけあって、何も考えず口にする。
「昨日の、コトなんだけど…、その…ありがとう。」
照れながら言うアヤの姿に、昨日の台詞が浮かび上がるように、頭に再び響く。
また赤くなってしまったけれど、ダイスケと約束したときの言葉を思い出して、少しは男らしく振舞おうとする。
俺は、大きく笑みを作って立ち上がり、
「カモメ、見に行こうよ。」
と、アヤの手を引いて立ち上がらせる。
もう完全に弱ってしまっているアヤの体は、勢い余って、俺の腕に抱きつくような格好になってしまう。
少しの間、二人とも静かになって俯いていたけれど、その格好のまま、歩き出した。
海はもう、すぐそこだ。
最初は、腕にしがみつくアヤのことを意識してしまって歩きづらかったけれど、今はもう、それを気にする余裕もなくなってきていた。
十分に一度ほどの周期で来る、咳。
アヤの呼吸も昨日ほどではないにしろ、この距離だと多少の乱れが俺の耳によく届いた。
二人とも、お互いに迫る終わりを、確かに感じていた。
周りには何もなく、朝で人気もない道の中、一歩ずつ足を進める。
どれだけの時間、歩いているのか分からなかった。
けれど、繋いだ手の感覚が、これ程まで俺の心を奮い立たせてくれるとは。
ボロボロの身体でも、心だけで歩いていける。
俺は、そう思った。
いつの間にか、俺の鼻は潮の香りに慣れてしまっていたようだけれど、さらに強い潮の香りが、前方からしてくる。
俺もアヤも、それに気付いて、自然と歩を進める速度が上がる。
視界が、広がっていく…!
海、だ。
歩き続けた先に見つけた、どこまでも広がる海。
体が一気に軽くなった気がして、腹の底がくすぐったく感じる。
俺とアヤは、笑った。
目の前に広がる、俺達の終着点。
やっと、ここまで来た。
ありったけの力を振り絞って、堤防へ登る。
俺が先に登ったので、後でアヤを引っ張り上げる。
どう見たって軽いアヤの体が、弱った俺にはとても重く感じてしまう。
やっとの思いでアヤを引っ張り上げると、二人ともそのまま大の字に寝転んでしまった。
すぅっと香る潮の匂い。
どこまでも広がる、蒼、蒼、蒼。
そんな世界を飛び回る、白い鳥。
「あ、カモメ…!!」
アヤが、歓喜の声を上げる。
「やっぱり、…可愛いなぁ。」
やっぱり?アヤは前にも、カモメを見たことがあるのだろうか。
聞こうと思ったけれど、止めた。
それはずっと気になっていた、アヤがカモメを見たかった理由と、きっとイコールなのだろうけれど、それを聞くのは、アヤの過去を聞くのと同じことだろうから。
それに。
「…ありがと!シュウ!」
ここにあるアヤの笑顔さえ見られれば、俺は幸せなのだから。
しばらくの間、カモメを見上げた後、あの頃のような優しい沈黙が、俺達を包んでいた。
すると、寝転んだまま、どちらからともなく、お互い顔を近づける。
直前で目が合ってしまい、流石に顔が熱くなる。
少し戸惑いが混じりながらも、俺達はキスをした。
ほんの一瞬だったけれど、とても、とても、優しい時間だった。
終わった後にまた目が合ってしまって、再び沈黙が続いたけれど、俺達はお互いの手を握って離さなかった。
潮の流れを聞きながら、何十分かを過ごす。
寝転んで空を見上げたまま、俺は言う。
「アヤがさ、カモメ好きだって知ったとき、俺、こっそり調べてたんだぜ。
カモメのこと。
あの時コウが思い出せなかった学名も、しっかり覚えてる。」
アヤは、何も返事をしなかった。
涙をその目に溜めながら、震える声で、俺は続ける。
「カモメ。
海の周りで生活する、人懐っこい渡り鳥。
日本産には、オオセグロカモメ、シロカモメ、ウミネコなどがいる。
学名、ラルス・カヌス。
…アヤの、夢。
…俺の、希望。」
なぜ俺の体が壊れてしまったのか、分かった気がする。
それは、神様の暇つぶしでも、友達欲しさの幽霊の悪戯でもなくて。
あの病棟で、仲間たちに出会うためだったのだ。
……そして、アヤの夢をこうして叶えてやること。
これは、ずっと前から決まっていたことなのかもしれない。
強い風が吹いて、カモメが流れるように羽ばたく。
蒼の世界を巡る、自由な渡り鳥。
このカモメ達は、俺達をどこへ連れて行ってくれるのだろう。
そんなことを思いながら、俺は、目を閉じた。
-ラルス・カヌス- 完
完結しました。
自分にとっては、かなり長い物語でした。
最終章なんか、急展開すぎて内容スカスカですが・・・
病気の知識も皆無といっていいほどで、詳しい病名は全くでてこず。
ただ、想い人が不治の病だったりする物語は、結構あると思うので、少し違った形にできないかと考えまして。結果、こんな登場人物全員が病を負っているという鬼畜な小説に・・・
まあ、現実味は全くないのですが。
こんな稚拙な文章を、最後まで読んでくれた方、本当にありがとうございます!
評価だけでも残していただければ、まだ書き始めたばかりの自分としては、これから少しでもいい作品を作り上げる力になると思いますので、よろしくお願いします。