-4- 彩
<4> ‐彩‐
静かな闇の中俺達は、以前計画したときに見つけた脱出ルートという所を、息を潜めて進む。
避難経路と、関係者専用の通路の、出来るだけ死角を辿って考えられた通路。
さほど大きくはないZ棟だけに、案外あっさりと出られそうだ。
コウが先頭を進み、ダイスケがしんがりにつく体制で、慎重に進む。
昨日の夜、発作を起こしたマコは、いつも通りとまでは行かないものの、元気な顔を見せてくれていた。
(昨日のアレは、びっくりしたけどな……。)
と、頭の中を鮮明なイメージがよぎって、一人赤くなる。
ダイスケはあの後、呼吸のしすぎで、過呼吸になるだとかくだらない言い訳をしていたけれど、アレの後、マコが落ち着きを取り戻したのも事実で。
コウが無表情で、「ま、そういうことなんだろ?」
と聞いたとき、ダイスケは頭をかきながら、首を縦にゆっくり振っていた。
(感じよかったもんなー。あの二人。)
そう思いながら、自分の後ろをトコトコついてくるアヤを見る。
アヤは、これから広がっていく世界を想像して、少し笑みをこぼしているようだった。
なんか、遠足を楽しみにしている小学生みたいだなと、そう思った。
マコがあんなことになっても、翌日こうして計画が実行されたのは、正気に戻ったマコが、どうしても行きたいと言ったからだ。
みんな残された時間を、様々な形で実感しているだろうから、マコの意見に反対する人はいなかった。
不安は、まだまだある。
俺は、一番体力が残されているであろう自分の体が、悪くならないよう祈った。
心さえ強く持てば、きっと俺はみんなの役にたてるだろうから。
病棟の『裏口』と思われる場所に到着した。
夜中なにが起きても、すぐ看護士が駆けつけられるようにか、鍵はとても簡易的なものだった。
コウが鍵を開け、扉をそっと押す。
病棟の中よりも深い闇が、向こう側に見えた。
少しずつ気持ちが高揚していく中、みんな息を殺したまま、外へと足を踏み出す。
やった。
そう、心の中で呟いたけれど、安心はできない。
「車、あれはどうだ?」
小声で、ダイスケが聞いてくる。
アゴで指された、白が少し濁っている軽自動車に近づく。
カギは…開いていた。
体を車内に滑り込ませ、シガーライター下の、ボックスを漁る。
(……あった!!)
こんなあっさり見つかるものなのかと、拍子抜けしながらも、急いでみんなに合図を送る。
みんな音を立てないように小走りをして近づき、同じように体を滑り込ませる。
助手席にはコウが、後部座席にはダイスケ、マコ、アヤの順で乗り込んだ。
パンダのキーホルダーがついたキーを差込み、エンジンをかける。
鈍い振動を響かせながら、車は息を吐き出す。
「…よし、んじゃ、行きますか。」
みんなの顔を見渡したあと、アクセルを踏む。
俺達の希望が、ゆっくり、走り始めた。
病院の敷地内を進み、道路へ向かう。
夜中ながらも、車の量はそれなりにあった。
コウに左を指示されて、ウィンカーを灯す。
少し車の頭を出して、道路に出ようとするが…
…タイミングが、わからない。
思えば、免許をとったあとすぐ入院となった俺は、国道での運転経験はないに等しい。
教習所の練習で走ったりはしたけれど、今は夜中だ。
存在を示す二つのライトが、迫って、遠ざかってを繰り返す。
何台、通り過ぎただろうか。
ウィンカーが灯っていることを教える、カチッ、カチッという音だけが、車内に響く。
「…シュウ?」
コウが、不思議に思って尋ねてくる。
俺は、ほとんど運転の経験がないことを言おうとしたけれど、流石にそれはカッコ悪すぎると思って、思い切ってハンドルをきる。
道路に、出た。
少し急にハンドルをきりすぎたかもしれないけれど、ぶつかることもなく、一安心。
病院付近には明かりが少なく、視界は不安だったけれど、他の車の流れに沿って走っているうちに、段々と慣れてくる。
少し不安げに俺を見ていたコウも安心しているようだった。
「とりあえず、この病院から離れるべきだな。」
ダイスケの声が後ろからして、少しスピードを速める。
「…服。」
アヤがボソッと言ったのが聞こえて、笑って言う。
「大丈夫。忘れてないから。
それに、今はまだ、店開いてないからさ。」
「……分かってる。」
余りにも子供扱いしているような俺の口調に、アヤはムスッとして答える。
(なんか最近、やけに小さい子みたいな仕草が多かったからな…
うっかりしてた。気をつけないと。)
珍しく怒ったアヤを見て、少し反省しながらも、俺は小さく笑っていた。
車を二時間ほど走らせて。
コウは数回方向を指示しただけで、後はただひたすら真っ直ぐに進んできた。
未だに俺達を呑み込むように広がる闇は深くて、普段の運転の何倍も疲れる気がした。
車内の時計を見ると、午前二時五十分。
後部座席で、マコとアヤはお互いの頭で支えあいながら寝ていて、コウはずっと地図を広げたまま睨み合っている。
ダイスケはというと、暗くてほとんど何も見えない外の世界を、窓越しに見つめていた。
…無言。
病棟の中での、優しい沈黙とは違う。
みんな、脱出して、それぞれ思うことがあるのだろう。
寝ている二人を起こさないようにしているのもある。
けれど、運転しているこちらからすると、あまりに静かなこの状況は…疲れる。
一刻も早く、海を目指さなければいけないのは分かっている。
ただ、無理は禁物だと思った。
少し、情けなく思いながらも、提案する。
「……そろそろ、休憩にしないか?」
……無反応。
呆れているのかと、少し恐れる。
「で、でもさ。あんまり無理して体調崩すのも…」
段々小さくなる声で訴える。
……無反応。
「……コウ?」
恐る恐る聞いてみる。
「……コウ?ダイスケ?」
……もしかして。
「おーい、コウ!ダイスケ!」
…無反応。
…二人とも、寝ていた。
「…ちくしょ。」
一人で毒づいて、前に向き直る。
ちょっと腹が立ったけど、まあ、仕方ないことだと思った。
みんな、俺よりもキツイ状況だろうから。
(それに、この計画の責任者は俺だしな…)
眠気に負けそうな瞼に気付いて、頬をペシッと叩く。
それから三十分ほど走らせて、路肩に止める。
車内の温度は、暑くもなく、寒くもなく。
この季節でよかったなと思いながら、俺も目を閉じた。
朝。目が覚める。
薬を飲む時間だった。
この感覚は、どこにいてもなくならないのだろう。
自分の持ってきたカバンの中から、錠剤を取り出そうとしたとき。
「…おはよう。」
アヤが、声をかけてきた。
「おはよう。朝、やっぱり目が覚めちゃうな。」
「…うん。癖、だからね。」
「…だな。」
まだ半分寝惚けている状況で、挨拶を交わす。
もうすぐみんなも目を覚ます頃だろう。
薬を、飲まなければいけないから。
自分の錠剤を並べて、ミネラルウォーターのキャップを捻る。
次々と口に薬を放り込みながら、俺は、点滴のことを思い出していた。
あれは、なんだったのだろうか。
自分のどこが悪いのか知らないから、分かるはずもないのだが。
点滴を常につけていたのは、俺と、コウ。
出発前に、コウは自分の点滴を、たいしたものじゃないから大丈夫だと言っていた。
嘘に、決まっている。
(何もなければいいけどな。コウも、…俺も。)
全ての錠剤を飲み干す頃には全員が目を覚まし、挨拶を交わしながらそれぞれの薬を口にする。
車内のその光景は、きっと異様だったに違いない。
最後に起きたのはダイスケで、薬の量はそれほど多くなかった。
ダイスケの病気のことを聞こうかと思ったけれど、今の時間は外の世界にいても、病気を認識させられる時間だ。
余計なことをいって、さらに気分を悪くするのは嫌だろう。
全員薬を飲み終えたことを確認して、車を走らせる。
少し座ったままの尻が痛かったけれど、今は走ることが大切だった。
全然知らない町並みの中を、ひたすら走る。
コウの情報によると、海までの距離はそれなりにあるらしく、無理はしないように言われた。
時刻も午前九時を回って、賑やかになってくる。
店なんかも開いたりしていて、『普通』の空間に、この五人でいられることが嬉しかった。
「ここら辺で、捜そうか、服。」
俺が提案すると、眠そうだったアヤが、少し目を輝かせた。
「あの店でいいんじゃない?もう開いてるし…」
マコが指差した店へ、車を近づけていく。
少し狭い駐車スペースに、そっと車を止める。
(俺、案外運転上手いかも。)
そんなことを思いながら、車を降りようとする。
「…ちょっと待った。」
コウが言った。
「…ん。どした?」
「アヤの服買うのはいいけど、二人以上で行くと怪しくないか?」
なんで?と思っていると、ダイスケが指差した。
「これか。」
黒い、テープ。
「そう。何人もこんなものを手首に巻いてるのは変だろ。」
確かに。
みんな地味な格好をしている中で、この黒のテープは似合ってないし、怪しい。
一人だけなら、なんとかなるかもしれない。
そうなると問題は、誰が買いにいくか。
やはり同姓であるマコ、となるところだったけれど、出発前のこともあって、ダイスケの傍にいたほうがいいと判断。
同じ理由でダイスケも却下。
となると、俺か、コウ。
どっちにするか迷っていると、マコが、「ジャンケンでいいじゃん。」と言って、
アヤが、「なんか罰ゲームみたい…」と、少し不満そうな顔。
その後の、ダイスケの「勝ったほうだよな。」という一言の意味を理解した俺とコウは、お互いに顔を赤くしたまま声を張り上げて、構える。
「ジャンケーン……!!」
(……。)
俺は、女物の服が並ぶ、慣れない光景に戸惑いながらも、服を選んでいた。
(アヤに、似合う服か〜)
頭の中で、アヤの姿を思い浮かべる。
目の前にある服を着ている姿を、想像して、想像して…
顔は、何故かウサギのぬいぐるみを自慢したときの笑顔だった。
(というか、俺、変態みたい…)
苦悩しながらも、服を選ぶ。
何着も買ってやりたかったけれど、悲しいことに、短い旅だと分かっていたから、アヤに一番似合うと思った服を、一式だけ買っていく。
頭の中では、アヤと一緒に服を選ぶ景色を夢見てしまったけれど、そんな幸せは望んじゃいけなかった。
カモメを見て笑顔を溢すアヤを見ることができれば、それでいいのだから。
少し時間がかかったけれど、俺はやっと車へ戻る。
アヤに、今買ったばかりの洋服を渡す。
洒落た袋の中に、明るめに彩られた模様を認めて、アヤがにっこり笑う。
俺の趣味が全面に出ている気がして恥ずかしかったけれど、喜んでもらえて素直に嬉しい。
すると、今までの患者用の服が嫌だったのか、新しい服が気に入ったのか、急に今から着替えたいと言い出した。
困った挙句、マコがいつもの調子で、「目を瞑れ、野郎共!」と叫んで、男三人は体を小さくして目を瞑る。
後部座席のダイスケだけ、タオルの目隠しつきだった。
少し静かになった車内で、アヤと、手伝うマコの動きが気になる。
ほぼ無音の中に起きる、衣擦れの音を意識しすぎてしまうあまり、顔が真っ赤になっているのが分かった。
(やっぱ変態みたい、俺…)
それからは、ひたすら無心になろうと、頭の中を空っぽにしようとする。
結局、アヤの着替えが終わるまで無理だったけれど。
「もういいよ〜」
マコの声が聞こえ、目をそっと開ける。
後ろを見ると、新しい服に身を包んだアヤが、うきうきしながら座っている。
小柄な体に加え、それが細くなっているのだから、少し服が大きく見えた。
それでも、俺にはアヤが一気に元気になったように思えた。
「とても、似合うよ。」
思ったまま、口にしてしまう。
まだ顔を赤らめたまま言った俺に、
「ありがと。シュウ。」
アヤは、笑顔で言ってくれた。
その笑顔は、とても可愛らしくて。どこか、儚くて。
ぬいぐるみを自慢したときと同じくらい、俺には輝いて見えた。
暖かい日差しの中を、白の軽自動車が進む。
車内では、目に飛び込んでくる、外の世界の色彩に、歓喜の声が響き続ける。
みんな、一度は失った空間。
それが、こうして共有できるなんて、こんな素晴らしいことはなかった。
長いドライブも、いつものノリで談笑が続いて、苦になることはなかった。
そろそろ話題も尽きてきて、一段落というときに、ダイスケが
「そういえば、この車音楽とか流せねーの?」と言った。
コウが座席前をいろいろいじった後、
「この車の持ち主は、余り聴かないのかもね。
カセットとCD聴けるけど、肝心のカセットとかが無い。
あ、でも、ラジオならあるよ。つけてみよっか。」
そう言って、ラジオのスイッチを入れる。
カーステレオから、陽気なDJの声が聞こえた後、聴き慣れたメロディが響いてくる。
偶然、だった。
俺の大好きな、バンドの曲。
無性に嬉しくなって、流れてくる曲と共に、口ずさむ。
壮大なメロディに、英語だからちょっとしか分からないけれど、力強い歌詞。
一人で酔いしれていると、みんなも口ずさみ始めた。
(なんだ、みんな見てたんだ。あの番組…)
ずっと教えてやりたかったけれど、話しそびれていたバンド。
結局は、みんなで大合唱をしていた。
ミラー越しに見た後部座席のアヤも、小さく口を動かしていた。
その仕草が、とても愛おしく、感じた。