08
翌朝、というか大分日が高く上りお昼時になった頃、ようやくセレスは目を覚ました。
「こんにちは」
盛大な寝坊をしたセレスに「おはよう」ではなく敢えて「こんにちは」というチェルカである。意地が悪い。
「よく眠れたかい? ……訊くまでもないか」
「……だって何時もは寒くて起きるんだよ……」
あったかかったら起きれないよ、とセレスは眠たげに目を擦りつつ口を尖らせた。野宿暮らしに慣れてしまったが故の悲しき失態である。
「ま、早く顔洗って着替えておいでよ。一泊分しか払ってないから一回此所出なきゃいけないんだよね」
チェルカがそう言うと、セレスは素直に頷き洗面所へと向かっていった。セレスが動く度に揺れるセレスの長い髪とワンピースのフリルを尻目に、チェルカはセレスが起きるまで読んでいた本を閉じて机に置く。それから軽く部屋を見回すと、決して多くはない荷物を手早くまとめた。セレスの分もやってやろうと考えていたのだが、セレスはほとんど手ぶらの状態であったため特にすることはなかった。
やがて洗面所から髪の一部をみつあみにする作業を行いながらセレスが出てくる。
「洗面所でゆっくりやってくればいいのに」
「んー、いつも歩きながらやってるからこっちの方がうまくいくんだよ」
よく分からないが慣れというものはそういうものらしい。確かに、長い髪の毛はみるみるうちに綺麗に編まれていく。最後に持っていた丸い宝石つきの髪留めをすると、セレスは髪から手を離した。洗面所から出てきてみつあみが完成するまで、ほとんど時間がかかっていない。
「その髪留めは?」
「よく分からない。私が気付いたときにはずっとこれをしてたんだよ」
その宝石の色は漆黒で、何もかもを呑み込んでしまいそうな、そんな闇を感じさせる不思議なものだった。そこまでの闇を感じさせるというのに、見ていて畏れや冷たさなどは一切感じず、何故か逆に安心や温かさを感じるというのも特異点だろう。
「私は人に限らず物の記憶も読むことができるんだけど……この髪留めだけは出来ないんだよ。どういうわけか、この髪留めには一切の記憶がない。普通、物にも作られたときとか、触れた人とか、そういった記憶が残るはずなのに」
「へぇ……まさに正体不明の髪留めか。それが何なのか分かるまでは手離せそうにもないね」
「手離すつもりもないよ」
髪留めの宝石を撫で、毛先を指で軽く弄びながらセレスは断言した。ずっと着けているからか、かなり愛着がわいているらしい。そりゃあ、何百年という単位で着けていれば最早身体の一部だと言えるぐらいには情がわくだろう。
髪留めの話がこれ以上広がりを見せるはずもなく、チェルカが「そっか」と返すと会話が途切れ沈黙が流れる。それからやや経って、チェルカが「取り敢えず」と切り出すまで沈黙が破られることはなかった。
「ご飯食べに行こうか。そこで具体的にどこで稼ぐかとか決めよう」
ご飯を食べるという感覚は勿論一日では戻らないためセレスはやや不思議そうな顔をしたが、異論はないらしく素直に頷いた。
宿を出て適当な食堂に入ると、メニュー表の『ブランチセット』の文字が目に入ったため、チェルカはセレスの意見を聞かずにそれを二つ頼んだ。
「私それにするって言ってないのに」
チェルカの暴挙ともとれるその行動に、勿論セレスは不満を漏らす。が、チェルカはそれを「こうでもしないと要らないとか言い出すだろう?」と言って黙らせた。図星だったらしい。
「本日のブランチセットはパニーノになります」
そう言って店員が二人の目の前にパニーノを置いた。切れ込みからはキノコやズッキーニ、チーズなどが顔を覗かせていて、中々ボリュームがありそうである。
「食べきれなかったら残しても大丈夫だから。でも全く食べないのは無しね」
「分かったよ」
それでよし。とチェルカはにっこり頷いてパニーノにかぶり付いた。それに倣い、セレスもパニーノにかじりつく。
モグモグと暫く使っていなかったであろう顎をひたすら動かして、セレスはパニーノを食べていく。表情があまり動かないため、美味しいと感じているのかどうかは微妙だ。
「……これ、結構好きかも」
口に含んだパニーノを飲み込んだセレスの第一声はそれだった。お気に召したらしい。勝手に頼んでしまったとはいえ、好みではなかった場合の不安があったためチェルカはその一言を聞いてホッと安堵のため息をついた。
「それはよかった。ただ、パニーノって結構具材が幅広いんだよね……その中で何が好き?」
「白いやつ」
「チーズだね。じゃあ君は多分、チーズが好きなんだね。夜はなにかチーズがメインのものでも食べに行こうか?」
チェルカの提案にセレスはこくりと頷き、そしてまたパニーノにかじりつく。会話よりもパニーノを食べることを優先したいらしい。
そんなセレスを可愛らしく思いながら、チェルカもパニーノを食べ終わることを優先することにしたのだった。結果、二人が食べ終わるまで会話はほとんどなく、当初の目的は何処かへ行ってしまっていた。