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第三幕 仏法  第一場面 矢の喩え

No.107

第三幕 仏法


第一場面 矢の喩え


   竹林。


作家 (上手より登場し、客席に語りかける)魂や死後の世界、その他もろもろの疑問があります。そして、このような疑問を持った人物がいたとして、これらの疑問を仏陀に尋ねたとしたら、どのような答えが返って来るのでしょうか。それを私の考えに基づいて再現してみたいと思います。

 そして、この場面での私は、仏教の僧団に属していながら、その教えに疑問を持ち、且つ、自らの道が分からなくなっている、その様な僧を想像して演じてみたいと思います。

 では、始めましょう。


   暗転。

   スポットライトが作家に当たる。

   作家は僧侶の格好をしている。


作家 (モノローグ)私は、世尊の教えを信じてはいるが、しかし、それでも私の疑問は解決されない。私はこのまま、修行を続けるべきか、それとも辞めて、世俗へ還った方が良いのであろうか。


   スポットライト消える。

   夕方の竹林。

   仏陀、中央で客席側を向いて、座禅をしている。

   作家、上手より歩いて行き、仏陀を礼拝して、傍らに座る。


作家 世尊よ、私は、世尊の教えを信じているつもりでありますが、どうしても、私の中に疑問があり、それが私の念の障害となっております。その疑問を世尊にお尋ねしてもよろしいでしょうか。

仏陀 (眼を開ける。沈黙して同意する)

作家 この世界は永遠なのでしょうか。

   この世界は虚無なのでしょうか。

   この世界は有限なのでしょうか。

   この世界は無限なのでしょうか。

   魂は有るのでしょうか。

   魂は無いのでしょうか。

   人は死後存在するのでしょうか。

   人は死後存在しないのでしょうか。

   人に罪は存在するのでしょうか。

   人に罪は存在しないのでしょうか。

 世尊はこれらの事を私の為に説いては下さらず、その為、これらの事が私の中で疑問として残り、私の念の障害となっております。

 私は世尊が、これらの事を私の為に説いて下さらないのが残念であります。不満なのであります。

 その為、私は、今世尊の所に参りまして、これらの事をお尋ねするのでございます。

 もし、世尊が、私の為に、

   この世界は永遠であるのか。

   この世界は虚無であるのか。

   この世界は有限であるのか。

   この世界は無限であるのか。

   魂は有るのか。

   魂は無いのか。

   人は死後存在するのか。

   人は死後存在しないのか。

   人に罪は存在するのか。

   人に罪は存在しないのか。

 と、これらの事を明らかにして下さらなかったならば、私は、以後、修行を拒否して、世俗に還るつもりでいます。

 しかし、もし世尊がこれらの事柄を明らかにして下さったならば、私の疑問は取り除かれ、私は、今後も修行を続ける事ができます。

 そして、もし世尊が、これらの事を知らなかったならば、その事を含め、正直に私に説いて頂きたいのです。その事によって、私の疑惑が、少しでも取り除かれると思われるからです。


   間。


仏陀 作家よ、かつて私は、『来たれ、作家よ、汝は、私の所に来て清浄の修行をするがよい。さすれば、私は、汝の為に、

   この世界は永遠であるだとか、

   この世界は虚無であるだとか、

   この世界は有限であるだとか、

   この世界は無限であるだとか、

   魂は有るだとか、

   魂は無いだとか、

   人は死後存在するだとか、

   人は死後存在しないだとか、

   人に罪は存在するだとか、

   人に罪は存在しないだとか、

その様な事を、汝に説くであろう』等と汝に言ったであろうか。

作家 その様な事は言われませんでした。

仏陀 それでは、汝が、私に、『世尊よ、私は世尊の御許において、清浄の修行をします。それ故に、世尊は、私の為に、

   この世界は永遠であるだとか、

   この世界は虚無であるだとか、

   この世界は有限であるだとか、

   この世界は無限であるだとか、

   魂は有るだとか、

   魂は無いだとか、

   人は死後存在するだとか、

   人は死後存在しないだとか、

   人に罪は存在するだとか、

   人に罪は存在しないだとか、

その様な事を、私に説いて頂きたい』等と私に言ったであろうか。

作家 確かに、私は、その様な事を言いませんでした。

仏陀 そうであるならば、愚か者よ、私は、汝の為にこれらの疑問について説くであろうとは言わなかった。また、汝も、これらの疑問について説いて頂きたいとは言わなかった。

 故に、愚かなる作家よ、汝が説明を求める道理は存在しないのである。

 ここで一つの喩え話をしよう。作家よ、よく聞くがよい。

作家 はい。(頷く)

仏陀 ここにある人がいる。その人がこう思ったとする。『世尊が、私の為に、

   この世界は永遠であるのか。

   この世界は虚無であるのか。

   この世界は有限であるのか。

   この世界は無限であるのか。

   魂は有るのか。

   魂は無いのか。

   人は死後存在するのか。

   人は死後存在しないのか。

   人に罪は存在するのか。

   人に罪は存在しないのか。

という、これらの疑問に答えて下さらないうちは、私は、世尊の御許において清浄の修行をしないであろう』と。

 そして、作家よ、私は、その人にこれらの事を説く事において、何らの道理も存在していなかったとする。

 つまり、私は、それらを汝の為に説くであろうと言わず、その人は、それらを私の為に説いて頂きたいと言わなかったのである。

 その結果、その人はどうなるのであろうか、作家よ、答えなさい。

作家 その人は、清浄の修行をしない為、無明に覆われたまま生きなければなりません。

仏陀 そうであろう。そして、その人は、そのまま、清浄の修行を知る事なく、学ぶ事なく、その疑問・疑惑が取り除かれる事なく、死ななければならない。

 作家よ、この様な状態は、ちょうど、人間が何者かに、毒矢で射られた状態に喩える事ができる。

 そして、人間がその様な状態、すなわち、毒矢が身体に刺さっている状態である時、作家よ、汝ならば、どうするであろうか。

作家 まず、その身体に刺さった毒矢を抜き、医者に治療を依頼します。

仏陀 そうであろう。しかし、その人は、医者にかからず、心の中でこう思ったとする。

  『この私を射た犯人は、何の階級に属し、何の職業であるのか。

   この私を射た犯人は、何という名前であるのか。

   この私を射た犯人は、歳は幾つで、どんな容姿であるのか。

   この私を射た犯人は、何処に住んでいる者であるのか。

   動機は何であるのか。

   何故私がこんな目に会うのか。

   そもそも、弓とは何なのか。

   そもそも、矢とは何なのか。

   そして、毒は何故存在するのか。

   そして、何故人は矢で射るのか。

これらの疑問に解答が出ないうちは、私は、医者の治療など受けない方がよいのである』と。

 さて、作家よ、この様な人は、この後どうなるであろうか。

作家 その人は、それらの事柄全てに解答を得る事はできず、従って、医者にかかる事なく、身体に毒が回って死に至る事になります。

仏陀 そうであろう。この人は、このまま、その数々の疑問とその信念の為に、医者にかかれず、毒が身体に回り、死ななければならない。

 作家よ、この人のこの様な心の根本には、何があるであろうか。

作家 この人の根本には無知があります。

仏陀 それはどの様な無知であるか。

作家 身体の矢傷に関する無知と毒に関する無知があります。

仏陀 うむ、そうであろう。この人の根本には無知がある。故に、この状態での原因、すなわち、本当に死に至らしめたものは無知である、と言う事ができる。

 では、作家よ、身体とは何か、矢傷とは何か、毒とは何か。

作家 ……。身体とは、六内処の事であります。眼・耳・鼻・舌・身・意であり、矢傷とは、その六内処の対象である、六外処への渇愛です。即ち、対象としての物体への渇愛、対象としての音への渇愛、対象としての香への渇愛、対象としての味への渇愛、対象としての接触への渇愛、対象としての法への渇愛であり、毒とは、その対象を歓喜であると認識する事であります。即ち、この物体は歓喜であるという認識、この音は歓喜であるという認識、この香は歓喜であるという認識、この味は歓喜であるという認識、この接触は歓喜であるという認識、この法は歓喜であるという認識であります。

 よって、身体の無知とは六内処を知らない事であり、矢傷の無知とは六外処への渇愛を知らない事であり、毒の無知とは六識の歓喜を知らない事であります。

仏陀 うむ、そうであろう。この人は、六内処と六外処と六識による数々の接触とその感受の為に、法を理解する事ができず、無知と貪欲に人生を支配され、そのまま死ななければならない。

 さて、作家よ、それと同じ様に、もしここにある人がいたとする。その人が、こう思ったとする。『世尊が、私の為に、

   この世界は永遠であるのか。

   この世界は虚無であるのか。

   この世界は有限であるのか。

   この世界は無限であるのか。

   魂は有るのか。

   魂は無いのか。

   人は死後存在するのか。

   人は死後存在しないのか。

   人に罪は存在するのか。

   人に罪は存在しないのか。

という、これらの疑問に答えて下さらないうちは、私は、世尊の御許において清浄の修行をしない方がよいのである』と。

 では、作家よ、この人は、どの様な人物であるか、答えなさい。

作家 ……。この人は、六内処と六外処と六識による数々の接触とその感受の為に、法を理解する事ができず、無知と貪欲に人生を支配されます。その結果、自らの身に、嘆き、悲しみ、苦しみ、憂い、悩みが生じますが、それが取り除かれる事のないまま、死ななければなりません。

仏陀 そうなのだ。作家よ。

 この世界は永遠であるとの見解を理解した時、その時に清浄の修行が終わるという事はない。

 また、この世界は虚無であるとの見解を理解した時、その時に清浄の修行が終わるという事はない。

 また、この世界は有限であるとの見解を理解した時、その時に清浄の修行が終わるという事はない。

 また、この世界は無限であるとの見解を理解した時、その時に清浄の修行が終わるという事はない。

 また、魂は有るとの見解を理解した時、その時に清浄の修行が終わるという事はない。

 また、魂は無いとの見解を理解した時、その時に清浄の修行が終わるという事はない。

 また、人は死後存在するとの見解を理解した時、その時に清浄の修行が終わるという事はない。

 また、人は死後存在しないとの見解を理解した時、その時に清浄の修行が終わるという事はない。

 また、人に罪は存在するとの見解を理解した時、その時に清浄の修行が終わるという事はない。

 また、人に罪は存在しないとの見解を理解した時、その時に清浄の修行が終わるという事はない。

 これらの見解を理解しても、理解しなくても、生まれはあり、老いはあり、病はあり、死はある。そして、ただ生きるが故に、無知と貪欲に支配され、その結果、自らの身に、嘆き、悲しみ、苦しみ、憂い、悩みが生じる事となるのである。

 そして、作家よ、如来は人天の医者である。毒を取り除く者であり、真理を説く者である。その如来は、今この現生において、それらを克服する事を教えているのだ。

 それ故に、作家よ、如来によって説かれなかった事は、説かれないままに受持するがよろしい。また、如来によって説かれた事は、説かれたままに受持するがよろしい。

 では、作家よ、如来によって説かれなかった事とは何であろうか。

   この世界は永遠であるとは説かれなかった。

   この世界は虚無であるとは説かれなかった。

   この世界は有限であるとは説かれなかった。

   この世界は無限であるとは説かれなかった。

   魂は有るとは説かれなかった。

   魂は無いとは説かれなかった。

   人は死後存在するとは説かれなかった。

   人は死後存在しないとは説かれなかった。

   人に罪は存在するとは説かれなかった。

   人に罪は存在しないとは説かれなかった。

 では、作家よ、何故これらの事を如来は説かれなかったのであろうか。作家よ、それは他でもない、それらは何の利益にもならず、清浄の修行の役に立たず、厭離、離貪、滅尽、寂静、解脱、正覚、涅槃の役に立たないからである。それ故に如来は、それらの事を説かれなかったのである。

 それでは、作家よ、如来によって説かれた事とは何であろうか。

 如来によって説かれた事とは、四つの真理である。

   これらは苦であると説かれた。

   これらが苦の成立であると説かれた。

   これらが苦の消滅であると説かれた。

   これらは苦の滅尽に至る道であると説かれた。

 これらは苦であるとは、生まれる事、老いる事、病にかかる事、死ぬ事である。そして、生きる事により生じる、貪欲、瞋恚、愚痴であり、その結果としての、嘆き、悲しみ、苦しみ、憂い、悩みである。

 これらが苦の成立であるとは、十二の因縁の成立である。老いる事、病にかかる事、死ぬ事は、生まれる事によって成立する。生まれる事は、この世界に輪廻した事によって成立する。輪廻した事は、取著した事によって成立する。取著した事は、愛を貪った事によって成立する。愛を貪った事は、感受を貪った事によって成立する。感受を貪った事は、接触を貪った事によって成立する。接触を貪った事は、六処を貪った事によって成立する。六処を貪った事は、精神と肉体を貪った事によって成立する。精神と肉体を貪った事は、意識を貪った事によって成立する。意識を貪った事は、意志を貪った事によって成立する。意志を貪った事は、無知を貪った事によって成立する。

 これらが苦の消滅であるとは、十二の因縁の消滅である。無知から離貪する事によって、意志から離貪する。意志から離貪する事によって、意識から離貪する。意識から離貪する事によって、精神と肉体から離貪する。精神と肉体から離貪する事によって、六処から離貪する。六処から離貪する事によって、接触から離貪する。接触から離貪する事によって、感受から離貪する。感受から離貪する事によって、愛から離貪する。愛から離貪する事によって、取著が不成立となる。取著が不成立となるが故に、輪廻する事が不成立となる。輪廻する事が不成立となるが故に、生まれる事が消滅する。生まれる事が消滅するが故に、老いる事、病にかかる事、死ぬ事が消滅する。

 これらは苦の滅尽に至る道であるとは、八つの正しい道の実践である。

   正しい見解を持つ。

   正しい思考をする。

   正しい言葉を用いる。

   正しい行いをする。

   正しい信仰を持つ。

   正しい努力をする。

   正しい目的を持つ。

   正しい心を持つ事である。

 正しい見解とは、この精神や肉体、そしてあらゆる行いは、無常であり、苦しみであり、無我であると知る事である。

 正しい思考とは、自分や他人を害する考えを捨てる事、悪意を持たない事である。

 正しい言葉とは、自分や他人に嘘を付かない事、誠実である事である。

 正しい行いとは、自分や他人を傷つけない事、悪事を為さない事である。

 正しい信仰とは、この苦の滅尽に至る法を根拠とし、それを実践する己を根拠とする事である。

 正しい努力とは、この苦の滅尽に至る法によって証明された事を、自らの身をもって証明する事である。

 正しい目的とは、苦を滅尽する事である。

 正しい心とは、その心に一片の無知も無い事である。

 では、作家よ、何故、如来はこれらの事を説いたのであろうか。答えなさい。


   間。


作家 世尊よ、それらの法は人天の為の利益となり、清浄の修行の役に立ち、無知と貪欲を取り除き、自らの身の、嘆き、悲しみ、苦しみ、憂い、悩みを滅尽させる為であります。そして人天が、この生きるという病から解脱し、安らぎに入る為であります。


   暗転。


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