5話 消えた、ミセス
「何で探偵になろう思たん? しんどいし、ええ事無いよ? 」
ふとした弾みで鉄板を挟んで二人きりになってしまい、黙り込んだ私に小栗さんはいつもの平穏な声で質問した。
「言いたくないなら別に言わんでええねんで」
「いえ…。ちょっと事情があって、人を探しているんです」
「人探し? ほんで探偵雇わんと、自分が探偵になったんや」
「探偵って高いんですもん。そんな大金持ってなくて」
「えらい行動力やなあ。よっぽど会いたいねんな? 」
「はい、まぁ…」
「初恋の男? 」
「違いますよ。そういう人じゃないです」
「ホンマに? 」
「はい。ちょっと、えーと…おとうさんを、です」
向き直ると、“えらい事訊いてもうた”とバッチリ顔に書いてあった。案の定の反応だった。こちら側としてはそんな事で嫌な気分になったりはしないのだが、そんなにストレートに戸惑われると、どんな顔をしたらいいのか分からなくなってしまう。
「………なるほど」
長い間の後で出てきたのは、あまりに素っ頓狂で簡素な相槌だった。私はそれを聞いた途端、何故だか頬が真っ赤になってしまった。
たまらず視線を落とすと、メロンソーダの泡がちらほらと上に昇って行くのが見えた。鉄板の間近に置かれているせいで、冷たいグラスの外側にはもう小さな水滴がびっしり付いていた。
「太田さん、まだ電話ですかね? 」
「いらん気ぃまわしたんちゃう? ホンマに気にせんでええで。人をおちょくるのが好きやねん」
低いテーブルに頬杖をついて、照れたように、呆れたように微笑んだ。
不思議と、私の頬も緩んだ。
「自分、研修いつまでかもう聞いた? 」
「え? いいえ。私も知りたいんですけど、なかなか訊けなくて」
「太田さんのさじ加減やろうけど…まぁ、帰りたいときに言うたらええよ。研修言うても、どの案件にも共通するような注意点なんて少ないと思うしな。ケースバイケースやねん、正味な話」
「帰りたい時に、ですか」
「そやねん。いつも適当やで」
スマホを手に席を外した太田さんはまだ戻ってこない。まさか本当に変な気を遣っているのだろうか?私は、ただひたすら視線の置き場を探していた。
「名古屋支社で面接受けたらしいけど、ここに居たかったら好きなだけ居てもええねんで」
「―――なんや。男前なセリフやなあ」
借金取りを彷彿とさせる言い回しで、太田さんが割って入った。いつの間にかテーブルの傍に来ていたようだ。
「ホンマ趣味悪いっすわ、太田さん」
「お電話もう済んだんですか? 」
顔を見上げて、私は驚いた。珍しく顔色が良くない。
「…太田さんどうしたんですか? 」
太田さんはすぐに答えなかった。何か、良い言い回しを探しているようにも見えた。
「何の電話やったんすか? 仕事っすか? 」
「仕事や」
「クレームか何かすか? 」
「ちゃうちゃう。クレームちゃうねんけど…」
言ったあと、暫く私と目が合った。嫌な予感がじわじわと体中に広がった。クビになるのだろうか?
「あの、何や。ミセスが消えたらしい」
「…ミセス、ですか? 」
「ミセス・ハイブリッドや。財布もケータイも置いて、どっか行ってもうたらしいわ」
私の脳裏に、あの、どこにでもいる真面目そうな主婦の画像が浮かんだ。
「男んとこちゃいます? GPS付いてますやん」
「プリウスもワゴンRもあの後動いてへん。依頼主も車家にあるって言うてたで」
「お財布忘れて買い物行ったんちゃいます? 」
いまいち深刻なテンションになれない小栗さんを、太田さんが諌めた。
「いちびるなや。金もケータイも無しでどこ行くねん」
「でも、まだ夕方の6時半ですよ? 失踪とかって言うにはまだ早くないですか? 」
現在時刻は18時32分。確かに大体の主婦は家に居る時間かも知れないが、この時間に家に居ないからと言って騒ぎ立てる事は無いはずだ。小さな女の子じゃないんだし。
「今日、子供らが帰ったのは夕方4時くらいって言うてた。ミセスは専業主婦やから、子供が帰る時間には絶対おるはずやねんて。さっき依頼主が家に帰ったら、兄弟揃って泣いてたらしいで」
ミセスの行先など私には皆目見当も付かなかったが、兎角私達が知るべきはひとつだった。
「依頼主は何て言わはるんすか? 」
「一刻も早く探して欲しいねんて。離婚するってあんなに息巻いとったのに、めっちゃ心配してたで」
「今からっすか? うそぉ~! せめてメシ食うてから行きません? 」
「メシ食うてる場合ちゃうねん。俺、なんか嫌な予感がする」
太田さんの声色に、空気がこわばった。
「……どないします? ロープ持って公衆トイレ行ってたら」
「アホ! シャレにならんわ」
小栗さんの冗談とも本気とも取れる推理に、私はもはや震撼していた。まさか、ミセスは私たちに気が付いたのだろうか? しかし、だからと言ってすぐに自殺という決断に至るだろうか?
「太田さん…」
声が震えてしまった。まさかとは思っていても、考えれば考えるほど恐ろしくなった。
「心配あらへん。失踪した主婦を探すなんて朝飯前や。俺らは腐っても探偵やで」
「太田さん? 明日の神戸の案件、高野に任してええっすか? 」
「そやな、そうしよ。俺から言うとくわ。そしたら小栗はいっぺん男の家に。俺とちーちゃんはミセスの自宅で手掛かりを探してみるわ」
「刑事ドラマですやん。終わったら飲んでええっすか? 」
「かまへん。俺の奢りや。ただ、手ぇ抜いたら承知せんで」
流石は長年上司である太田さんだった。小栗さんへの鞭の入れ方は熟知していた。俄然やる気を出した小栗さんは一瞬だけ私を見てニヤリと笑うと、慌ただしくお店を出て行った。
「さぁ、俺らも行くで! あのエロ坊主に負けられへんからな」
「…はい! 」