4話 探偵、気になる
雨は、あの後間もなく止んだ。
ミセス・ハイブリッドの件から戻った後、事務所の応接机で盗聴器だの小型レンズだの、冗談のようなスパイグッズの使い方を教えられ、午後2時にはもうやることが無くなってしまった。結局今日のところはアパートで待機との上司命令が下り、雨上がりの空の下、私はトボトボとアパートへ戻ったのだった。
しかし戻ってみてもそこは所詮戦場のテント。どっしり落ち着ける気分にもなれず、私はベッドに入って所為なくスマホを弄るばかりだった。
一方、事務所には小栗さんと、もう一人の若い調査員である高野さんが戻って来ていた。
関西チームの中で唯一シャイな、ちょっと暗い感じの22歳だ。
小栗さんが相変わらず自分のデスクでチョコをむさぼりながら書類を作っているその後ろで、彼はやや神経質そうな細い声で太田さんに調査報告をしている所だった。
「…以上です。尼崎の件はこれでおしまいですか? 」
「うーん…、せやね。もうこれでええやろ。なんぼ出しても、もう同じモンしか撮れへんやろなぁ」
「言うても3週間同じ場所ですからね。もう疲れました」
「ご苦労さん。ほんならもう帰ってええで」
「…ほな、帰らせて頂きます」
「おう。ほなねー」
事務所の中はいつものふたりだけになり、しばらく無言が続いた。
小栗さんがキーボードを叩く微かな音だけが、ノスタルジックなオフィスに響いていた。
「小栗」
「はい? 」
暫く無言だった為か、小栗さんが二、三度咳払いをした。
「自分、最近ヴィッツ乗った? 」
「おれ、最近アルトばっかですわ。何か調子悪いんすか? 」
「いやな、今日ハイブリッドの件で使たんやけど、えらい事になってんで。香水臭くてしゃあない」
太田さんが言い切る前に、小栗さんがクスクスと笑いだした。
「吉住さんちゃいますか? 」
「確実にそうやわ。今日雨やねんか? 窓開けられへんから、最悪やった。もう、肺が浸食されて息までマダム臭くなりそうやった」
「そら大概でしたね」
「ちーちゃんの髪の毛まで甘ったるい香りになってしもて。かわいそうやったわ」
「―…あぁ。ホンマっすか」
「サラッサラで綺麗な黒髪やのになぁ。色白で、ちぃこくて、可愛い子やのに、な? 」
「…」
わざわざ目の前に回り込み、小栗さんが苦笑いするのを見届けると、さあ用が済んだと言わんばかりに太田さんはニヤつきながら帰り支度を始めた。
「今日は早いっすね? 」
「何もやることあらへんもん。自分もそれ終わったら、事務所の鍵閉めといて。今日はもう彼女の所行ってもええで」
「ういっす。ほな、お疲れ様です」
「おう。あと頼むわ」
古いスチール製のドアが閉まると、完全にひとりになった小栗さんはパソコンでお気に入りの音楽をかけ、太田さんとは対照的にごちゃごちゃしたデスクの引き出しからミルキーウェイ(チョコレートバー)を2本取り出した。
それから何か考え事をするように暫く動きを止めた。
デスクの上のスマホを手に取り、考えて、再びデスクに戻す。
そんな事を何度か繰り返し、やがて決心したようにデスクから立ちあがると作成中の調査報告書を上書き保存し、パソコンの電源を切って彼は事務所を後にした。
私はあれからすぐに眠ってしまったようで、漠然とした夢の途中で何の前触れもなく目が覚ると、いつのまにか午後5時半だった。着信が2件入っている。太田さんからだ。
そうだ。私はアパートで“待機”と言われた筈だ。寝過ごしてしまったが、何か参加できる案件があったのかもしれない。着信があったのは今からほんの10分前…多分まだ間に合うだろう。
「―――もしもし、太田さん? すみません! ちょっと出られなくて」
「お。おはようちーちゃん。いや、別にそんな慌てんでもええよ。大した事あらへんねん」
声で、だろうか。あっさり寝ていたことを見破られた。
「今から行っても間に合いますか? 」
「おう。仕事ちゃうで。今小栗と居てんねんけど、ご飯一緒に行かへんかなって。何でも好きなとこ言うてええから」
お腹が空いているかどうかは微妙だったが、非常に嬉しいお誘いだった。妙な時間に目が覚めてしまい、この時間から独りきりでは、あまり楽しい事もない。
「本当ですか? 私も行きます! 」
「ホンマに? ほな今から迎えに行くから支度しといて。あと財布は持って来んといて。俺、変な空気になるの嫌やねん」
「そうなんですか? ふふっ…了解です。わかりました」
「ほな後でね」
一息の後電話が切れると、私は迅速に動いた。
まず寝癖だらけの頭にスプレーを振りかけ、まるで犬をシャンプーするように勢いよく手櫛をかける。私の髪は細くないので、多少乱暴にしても絡まない。これでブラシを掛ければ、もういつも通りの髪型だ。服装は朝出掛けた時のパーカーにデニムだったので着替えるべきかどうか少し迷ったが、そうこうしている間にドアの向こうから二人の話す声が微かに聞こえ始めた。事務所にいたのだろう。たった2分あまりで到着されては(私だって仮にも女なのに)準備も何もあったものではない。
「こんばんわー。あ、何か部屋が女の子っぽい匂いや。シャワー浴びたん? まぁ、心配せんでもそないな事にはならへんで? 」
「何言うてるんすか。セクハラですよ」
「何で自分にセクハラ言われなアカンねん。
嫌やわもう、小栗さんたら私の前やから紳士ぶってはるわ。下心が見え見えやわぁ
ってちーちゃん今思ってるで」
「気にせんといてな。この人、ちょっとテンションおかしなってんねん。邪魔くさいやろ? 」
「いえ、大丈夫です」
「“大丈夫です”て、どういうこっちゃ。もう行くで」
急いでバッグを肩に掛ける。余談だが、こういう時に活かされる私の数少ない長所の一つ。それは、“何食べたい?”の質問にすぐさま答えられるところ。
「ほんで何食べたい? …言うても、この辺に何があるか知らんか」
「鉄板焼き行きたいです! せっかくなんで」
「おお、自分ベタやなぁ~! まぁええわ。小栗、鉄板焼きやて。ほな伊勢屋いこか。ヨドバシの近くの」
「車すか? おれ、帰りの運転できませんよ? 」
「何で飲む気満々やねん」
「あきませんの? 」
「アカンて。明日、朝早いねんで」
「別に朝まで飲むんとちゃいますやんか~」
「アカン言うてるやろ! 明日起きひんかったら、ドつき回すからな」
この二人と居ると、気まずい空気になる事が無い。二人とも思ったことをすぐに、それも上手に口にできるタチなので、口にしていない事については無視して良いのだと何となくわかる。しかし、所々ボケを挟むので注意が必要だ。
例の黒セダンの運転席に太田さん、助手席に小栗さん、そして後部座席にわたしが乗り込んだところで車体後部からドスの利いたエンジン音が発せられた。街には、すでに夕闇の気配が漂っていた。雑貨屋の入り口に吊るされたジャックランタンがぼんやり光って、通り一帯を和やかな雰囲気にしていた。
私はその時、久しぶりに今が10月下旬である事を思い出した。
続く