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3話 傍観者、思う

 

 男性の場合はまだいい。


 最悪、ちょっと壁に向かって立って、急いで済ませれば1分も掛からないのだから。

 しかし女性は色々と勝手が違う。ましてや、万が一誰かに見つかった時の深刻さは、男性のそれを遙かに凌ぐのだ。こうした問題についての最良の手立ては、起こってしまう前の予防―――

 即ち、前もって行っておく事だ。


 「ちーちゃんトイレ行った? 何も出なくても座っとき。この先しばらく行かれへんで」


 「あ、はい。わかりました」

 

 太田さんに“ちーちゃん”と呼ばれたのは今が初めてだったが、特に嫌でもなかったので異議は唱えなかった。


 本日、外はあいにくの雨で、おまけに台風並みの強風まで吹いていた。こんな嵐の日に、件のミセス・ハイブリッドは浮気相手の許へ行くのだろうか?

 画像を見た限り彼女の容姿は十人並みで、可もなく不可もなくといった感じだった。これといって目を引くところもない、いたって普通の主婦だ。相手の男性がどんな人か私はまだ聞いていないが、ふたりが出会ったきっかけはどうやらSNSらしい。ふたりの間に金銭の授受があるかどうかも、今のところ不明。しかし離婚事由にするには、体の関係が証明されれば十分だそうだ。

 そう。この案件にとって必要なのは事実の証明であり、真実を掘り起こす事ではない。


 「済ませた? 出た? 手ぇ洗た?? 」


 「そんな細かく訊かないで下さい。ちゃんと洗いましたよ」


 「よっしゃ。ほな行こ」

 

 今日は黒セダンでも白いアルトでもなく、シルバーのヴィッツだった。ドアを開けると、甘く濃厚な芳香剤の匂いが鼻をついた。太田さんが顔を顰める。


 「うっわ! アカンこれ。換気せな換気」


 言うなり降りしきる雨を完全に無視して、運転席側のドアをうちわのようにバタバタと開け閉めして空気を入れ替えていた。太田さんはドリンクホルダーから匂いの原因と思しきオシャレな小瓶(何故か木の棒がたくさん刺さっていた)を手に取り、躊躇なく駐車場の地面に放った。キーン と高い音がして、小瓶がコロコロと向こうへ転がって行く。


 やれやれという風に濡れた傘を畳んでそれを乱暴に後部座席に投げると、エンジンを掛けてエアコンの送風を全開にした。それからバックミラーとシートの位置を調節して、すでに助手席に乗り込んでいた私にため息まじりに悪態をついた。


 「ひとりな、工作員の女の人がおんねんけど」

 

 車が、ゆっくりと動き始めた。真横のガラス越し、不意の疾風が雨を鋭く叩きつけた。


 「工作員ですか? 」


 「そやねん。まあ…おんねんけど、俺のいっこ下で…もうそろそろオバちゃんやけどな、色々と趣味が酷いねん」


 「この匂いも、そうなんですか? 」


 「絶対そうやわ。吉住さんや。あの人男を引っかけるのめっちゃ巧いけど、俺は無理やわ。もう、この匂いだけで頭痛なってきた」


 よくある、香りのつよい柔軟剤をさらに濃縮させたような甘ったるい花の香りが、すでに私の髪にも染みついてきた。頭痛がする程パンチの利いたフローラルな香りは、確かにちょっといただけない。


 「アルトは今日小栗が使てるし、俺の車で行ったら憶えられてまうからなあ」


 「小栗さん、今日も西中島ですか? 」


 「今日はちゃう。おつかい行かせてんねん。…気になる? 」


 「え? いや、そんな事ないですけど…何となく」


 「悪いなあ、こんなオッサンと二人っきりになってしもて。また今度小栗より男前でもっと真面目なの、紹介したるから」


 「いいですって、そんなの」


 フロントガラスに襲い掛かる雨粒は、勢いを増してきた。現場の四条畷(しじょうなわて)に着くころには、どうにか弱まっていると良いのだが。

 未だやれることなど無い私は、会話が途切れた後もぼんやりと車の外を眺めていた。

 運動靴に、デニム、長Tシャツ、ちょっと大き目のパーカー。昨日の夜自分なりに必死で考えた、それなりにオシャレで動きを邪魔しない、そしてどんな意味でも目立たない服装だ。それと重要なのは、絶対にスマホをマナーモードにしておく事。


 「自分、今日化粧してる? してるかどうかわからへんわ、いつも」


 少し沈黙した後でも全く緊張せずに会話を始められる能力が、太田さんには備わっている。羨ましい限りだった。


 「いえ、今日はしてないです。お日様出てないんで、何も付けなくて良いかなって」


 「ふーん。ま、必要無いもんな? シミもシワもあれへんし。…あれ? 」


 現場に到着すると、対象者自宅前に軽自動車が停まっていた。

 黒いワゴンR―――依頼主(夫)のものでは無かった。


 「何やあれ?? 今日は迎えに来たんか? 」


 見た途端、太田さんは興奮気味にデジカメのシャッターを何枚も切り、ハンディカムをRECにして小脇に挟んだ。

 もう、始まったのだ。今まさに、突然、調査が始まった。


 「ちーちゃん、よう聞きや。ミセスは毎週月曜に、自分のプリウスで待ち合わせ場所に行きよんねん。そこのショッピングモールの駐車場に車停めて、近くのホテルまでは男の車で行くんやけど、今日は多分直で行きよるわ。徒歩尾行は無くなったかもしれへん。いつもは一通りモールの店を見るんやけどな」


 「そうなんですか…」


 「あ、あれ対象の男やで! いま家から出てきたやろ? 」


 と、言ったところで私たちは顔を見合わせた。


 「…あれ? 何で対象の家から男が出て来んねん? 」


 「―――え? …あ! 」


 「…」


 「…」


 「…事後か? 嘘やん。家に連れ込んで? えらい事しよるわ」


 スマホの時計はまだ朝の10時過ぎだった。子供たちを見送って、まだ3時間も経っていない筈だ。


 「あ…帰る帰る! 男、もう帰るわ」


 「追いかけるんですか? 」


 「いや、発信機付けてるから心配あらへん」


 飄々と言ってのけたが、いよいよ探偵らしい道具が登場して、私は戦慄していた。


 「いやー、どないしよ。やること無くなってもうたなぁ。しっかし朝の10時やで! 俺そんな元気あらへんわ。

男の家、こっから車で30分くらいやから…

今日、ミセスは子供出してすぐに電話したんちゃうか? 男に」


 「何だか、深入りしたらこっちがぐったりしそうですね」


 「せやな。まぁ、依頼人にも落ち度が無いとは言えへんし。人生はドラマよりも複雑やなぁ。

ほな、まぁ一旦帰ろ。子供が帰るまで、プリウスの位置だけGPSでちょいちょい確認すればええわ」


 一応の収穫を手に、私たちは折り返し事務所を目指した。

 初調査はたった5分で終了してしまった。こんな事で給料を貰っていいのだろうか、と心配になるほどあっけなかった。


 「あの男もな、奥さんも子供も居てるんやで」


 少しだけ弱まった雨の音に、低い呟きが混ざった。


 「家は小さなアパートやった。子供もまだ保育園やろか? 奥さんもパート出てな。あまり裕福では無さそうやったわ」


 気になってはいたが、それを聞いた私は再び胸が痛くなった。私たちが撮った写真は、ふたつの壊れかけた家庭に、同時にとどめを刺す事になる。しかし話し方から察するに、やりきれない気持ちなのは太田さんも一緒だった。


 「俺はもう慣れたけど、やっぱり子供が居ると思うわ。しっかりせえよって。

依頼人かてもう少し、連れ合いの気持ちを考えられへんかったんかなって」


 考えてみれば、大人の事情は所詮大人だけに通用するものだ。ひとつの家庭に従って生きるしかない子供の事情など、酌むも酌まぬも保護者次第になってしまう。そうした環境で強く生きる決心をして、時に道を間違えてしまった子供に“グレた”だの“偏屈”だのというラベルを張り付けるのも、また自由すぎる大人たちなのだ。

 そう、私の両親のように。


 「今日はこのまま事務所に戻って、器具の説明でもしよか。帰りマクド寄るけど、何食べたい? 」


 「え、ほんとですか? じゃあ、フルーリーとアップルパイで! 」


 「女の子やなぁ」


 ふと気が付くと、お腹が減っていても前傾姿勢になっていない自分が居た。

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