1話 サボリ、小栗
「自分、万引きしたことある? 」
お客さんが残していったお茶菓子を食べていた太田さんは、不意にとんでもない事を訊いてきた。
「いいえ! まさか!! 」
「別に正直に言うたらええねんで」
「ありませんよ! そんな風に見えますか? 」
「いや、全然。コソコソするの、苦手そうやん」
「え…まあ、苦手です。確かに」
「俺らの仕事は、コソコソ付いてって写真撮ることや。出来るだけええやつを、たくさん」
そこまで言われて、やっと質問の意図を理解した。
「ああ、なるほど」
「対象者にバレるくらいなら失尾(見失うこと)した方がまだマシや。でも毎度毎度、そんな事になってたら話にならへんやろ」
応接テーブルがお菓子の包み紙だらけになると、太田さんは事務所の小さな冷蔵庫からセブンアップのペットボトルを取り出して一気飲みした。
「調査に必ず持っていくものは、ハンディカム、スマホ、デジカメ、予備の電池と充電機器、それと十分な現金や」
「録画もするんですか? 」
「せやで。ビデオ回しとけば、最悪でも動画からキャプチャーすればええし。電池だけはホンマ気いつけてや。一ぺん小栗がやらかしてな、淡路の温泉まで行ったのに結局俺のスマホで写真撮ったんやで? もう、俺、キレたで。瀬戸内海に沈めたろかと思たわ」
苦笑いとも愛想笑いともつかない笑顔で居ると、簡素なついたての向こうから独特の気だるい声が聞こえた。
「太田さんかて同じ事やりましたよ」
「俺のは近所や。あんなの全然重要な局面ちゃうやんか」
「やった事は全く同じやないすか」
「ああ言えばこう言う。もう! 言い訳ばっかやねん。あいつ給料泥棒やで」
ついたての向こう、パソコンのキーを叩きながら小栗さんは低く笑った。
太田さんは私に応接テーブルの上の片付けを命じると、悠々と自分のデスクに戻っていった。
壁に掛けられた時計を見ると、朝の9時半だった。私が出勤してきてまだ1時間半しか経っていないが、すでに他の調査員たちは朝一番の調査から戻ってくる所だった。
関西チームは現在私を除いて6人いる。
相談役兼調査班チーフの太田さん、事務兼調査員の小栗さん、その他調査員が4名。全員20代から40代の男性だが、不安は無かった。この事務所の面々は軽口こそ叩くが、田舎の駅をうろついているような、ギラついたナルシストのようなナンパっぽい匂いは微塵もしなかった。
単に、私に魅力がないだけかもしれないが。
「太田さん、ほんで今日、この子どないするんですか? 」
小栗さんが書類作りを終え、立ち上がった。また、何か甘い匂いがした。今度はチョコレートだ。
「どないもこないも、何もでけへんのやから、とりあえず調査に付いてってもらうしかないな。メモを取るんやで。いっぱい取りや」
「あ、はい! 」
「誰とですの? おれ、これから彼女とデートせな…」
「アホ。自分の彼女が愛しとるのはな、金とグッチだけやで。もっと言うなら付き合うてもないしな」
「殺生やぁ~。言わんといて下さい! ユウリだけは違います! 」
「どうでもええわ。ただ、キャバ嬢に会うのは夜だけにしとき。仕事中に邪魔くさい場所に行ったらアカンで、ホンマ」
「ちょっと太田さん何言うてくれますの! 未成年の女の子の前で! ほら、ドン引きしてますやん! 」
無論、私が茫然としていたのは“邪魔くさい場所”の意味がよく分かっていなかったせいだが、小栗さんの様子を見ると、健全でない場所であるのは確かなようだ。
「は~…。しゃあないな、ほな行こか? おれが持ってる案件で、いっちゃん簡単なの行こ」
「よろしくお願いします」
「うん。車は……あ、太田さん車どないします? 」
「白のアルトでええやん。西中島の案件やったら、今日はどっこも行かへんやろ」
「おいーす。ほな行ってきますわ」
「帰りにマクド買うてきて」
「おいーす」
事務所のドアが閉まるなり、小栗さんは小声で言った。
「今から行く案件、じつはもう済んでんねん。どっか行きたい所ある? 」
「は…? え、ホントですか? 」
事務所に居た時は眠たげだった瞳が、急に生き生きとしていた。サボる気満々だ。
「ホンマやで! 車行こ、車」
駐車場までの道のりは案外長い。信号を三つ超えた先なので、歩いて5分くらいかかる。しかしこれから行く先が仕事でないなら、その距離も煩わしいものではなかった。
「岐阜なんて何も無いやろ。ジャスコ族なんちゃう? 」
「ジャスコすらうちの近くにありませんよ。コンビニだって車で10分ですから」
「うっそ?! ホンマに? ガチの田舎やん! 考えられへんわ。友達と遊ぶ時どこ行くの? 」
「バスで駅前行ってましたよ。駅にもあんまり何も無いですけど」
「へぇ~。おれ、そんな所でよう暮らせんわ。出家やん、もう」
「でもキャバクラありましたよ? 」
「田舎のキャバなんてよう行かへんわ。オバちゃんしかおらへんもん」
三つの信号のうち二つは赤だったが、生粋の大阪人である小栗さんは当然のように渡って行き、私も恐る恐るついて行った。
白いスズキアルトは、太田さんの厳ついセダンの隣にちんまりと停められていた。なるほど、地味で無個性で、印象に残らない。探偵の車としては非常に優秀な見た目だ。
「何でわざわざ後ろに乗ろうとすんねん。何もせんから助手席乗れって」
指摘され、私は慌てて助手席側に回り込んだ。
緊張気味にドアを開ける。世間的に見ても、私的にも、小栗さんはどちらかと言えばいわゆるイケメンなのだ。優しげな二重の目に、高いのに不思議と主張しない鼻。いつもちょっと面白そうに笑っている唇。とても、太田さんが言うようにキャバクラ嬢に貢いでいる男には見えない。
「メシ食い行こ。朝、食うてないやろ? 」
「えっ…はい。お腹、鳴って…ました? 」
「ううん、勘。自分、わかりやすいで。鳴らないように前傾姿勢になってるやろ」
恥ずかしくて居てもたってもいられなかったが、取りあえずシートベルトを締めた。
「近くにごっつオシャレなパン屋さんあんねんで。おれ、そこのクリームデニッシュ食いたいねん」
「甘いもの、好きなんですね? 」
「好きやねん。チョコレートがないと生きていかれへん…」
エンジンを掛けた途端、小栗さんの動きが止まった。
…と、急に険しい目つきになり、ダッシュボードを開けた。
「どうしたん…」
小栗さんは真顔で私を見て、口の動きだけで“喋ったらアカン”と言った。
一体何だと言うのだろう?
ダッシュボードを閉めると、わずかに逡巡して運転席側のシート下を覗きこんだ。その途端に、何かを発見した様子で私にも目配せしてシート下を覗かせた。
見たところで私には何が何だかわからなかったが、とにかく小栗さんはシート下に両手を突っ込んで何やらゴソゴソしていた。
「うわ~! もう信じられへん!! 絶対太田さんや! 」
雰囲気でもう言葉を発していいと気付いた私は、一体何事かと尋ねた。
「録音機器やねん。趣味悪いわ~! 何もせえへんっちゅうねん! 」
「サボるの、見抜かれてたんですか? 太田さん、すごいですね…」
レコーダーと思しき小さな黒いプラスチックの箱を後部座席に投げ込みながら、有能な探偵は首を横に振った。
「おれが仕事をサボるのは毎度のことやから、そんな事でここまでせえへんやろ。太田さんが心配してんのは、もっと下衆なことやで」
「げす? 」
「せやねん。その…」
エンジン音が断続的に聞こえる。珍しく言葉に詰まっていた。
「神に誓ってせえへんぞ、おれは! でも…あの人アホやねん。せやから自分にいやらしい事せえへんか監視しよんねん! もう、ホンマあほちゃうかあの人」
駐車場から戻って五分の距離にある事務所のデスクにふんぞり返り、調査班チーフの太田義和(37)はその瞬間爆笑していた。耳には片耳イヤホンが付いている。
「何笑てるんですか? 太田さん」
「小栗でも照れるんやなあ。何や気ぃ抜けたわ」
かの無個性な白いスズキアルトの助手席側のシート下には、もう一つ盗聴器が付いたままだった。