プロローグ
不在着信。画面に表示された番号には、心当たりが無かった。
しかし、そろそろ電話が来るような用事が一つあった。
迷うことなく電話をかけ直し、メモ帳とボールペンを用意した。
コール音はすぐ途切れ、男が出た。ほんの一週間前に直に聞いたちょっと怖い、若い男の声だ。
「あ、先日面接をさせて頂いた田島です。えーと、まぁ、採用という事になったんで…
明日、ちょっと大阪の支社に行ってほしいんですけど…大丈夫ですか? 」
「―――大阪ですか? 」
「はい。あの、研修という事で。関西チームに太田さんって人が居るんだけど、その人に聞けば大丈夫だから。メモ取れる? 」
大阪府大阪市北区梅田2丁目
それと、一件の電話番号。メモの中身はそれだけだった。
まだ成年すらしていない小娘は、かくして新人の調査員になった。
新幹線を降りると、そこは空気自体がざわめいているような気がした。駅員も、警察官も、道行く人も皆、心もち速足だ。地元の岐阜県では道を訊くなんて“人さえいれば”簡単なのだが、この人だらけのJR新大阪駅で私は誰かを呼び止めるのにも10分以上まごつく有様だった。すれ違う人の視線が恥ずかしい。
「こんにちわ」
ほぼ真横で低い声がした。
関西のイントネーション。いつのまにか、隣に高そうなスーツを着た男が立っていた。
私は、自然と二歩下がった。
「売春とちゃうで。お姉ちゃん、どこ行きたいの? 」
30代中ごろだろうか? スナックやキャバクラではやたらモテそうなスレ具合だった。
「…梅田です」
「は? 」
「梅田」
「梅田? 普通の梅田? ほな、御堂筋線やわ。天王寺行きのやつ乗ったらええねん。ほら、あっちの方に路線図あるやろ。よう見て乗りや」
指さす方には、蜘蛛の糸のように張り巡らされた色とりどりの路線と無数の駅名があった。
バスの時刻表くらいしか見たことがない私は、頭がくらくらしてきた。
「ありがとうございます」
私はそれ以上何も訊けなかった。
とりあえずお辞儀をした。
と、目の前に手のひらが現れた。
「5000円でええわ。いや、可愛いから負けて3000円や」
「………えっ? 」
「嘘やて! 」
闇金業者かと半分本気で疑って固まる私の肩を小突いて、男は空気を響かせ大笑いしながら去って行った。
にわかに緊張は解け、私は溜息を吐き、ふて腐れた。
さっぱり分からない路線図を眺めると、わりと近くに梅田駅を発見した。
…が、それは実に不可解だった。
阪神・梅田 梅田 西梅田 東梅田 阪急・梅田
梅田ってどこだろう。梅田って何なんだろう。
阪神・梅田駅は阪神駅と梅田駅が合併しているのだろうか?
…そうだよね。梅田駅って3つもいらないし。訳わかんないもん。
そうだ、近いならもうタクシーを使おうか? タクシーでも経費で落としてくれるだろうか?
ポケットのメモを取り出し、昨日メモした関西チームの太田さんの電話番号を押した。
コール音が鳴り、それと同時に真後ろでけたたましい音量で流行りのJ-POPが鳴り響いた。
振り返ると、さっきのチャラチャラおじさんがニヤつきながら立っていた。
「太田さん、援助交際ですやん! 」
「もう、聞いて。俺この子に梅田までの電車教えてん。ほんで“5000円やで”ボケたら、真顔で固まってもうて。もう俺、警察呼ばれるかと思たわ」
「田舎の娘相手に何をイキってるんすか。手ぇ、出したらあきませんよ」
こぢんまりとした昔風のビルの2階が、アイビー探偵社の大阪支部だった。
ドアを開けるなり笑ったのは20代くらいの茶髪のお兄ちゃんで、こなれた話し方から察するに、ここで働いて何年か経っているようだった。
「これ、小栗。26歳。キャバクラ大好きやで」
太田さんが、彼を指さしてぶっきらぼうに教えてくれた。
「いらん事言わんといて下さい」
「宜しくお願いします。渡来千春です」
「うん、よろしく。緊張せんでええで」
不意に小栗さんが口元を緩めると、甘い匂いがした。自分もよく知っているはずの、朝とかおやつの時間とかに食べるような、あのふんわりとした良い匂いだ。
2、3秒考え、思い出した。そうだ、メイプルシロップだ!
「ホットケーキ、好きなんですか? 」
全く悪びれずに質問した。言い切ってから、ちょっと失礼な質問のような気もしてきた。
「ええ匂いした? ちゃうねん。ケンタッキー買うてきてん。おれビスケット好きやねん」
「俺の分は? 無いの? 」
「いや~、帰りに買うたら残しといたんすけど…」
「うそぉ、無いの? ほんなら買うて来て! 」
「ほな5000円で」
「アホか! いくつ買うて来んねん」
「タクシー代ですわ」
「しばくぞ! 」
日常会話なのか漫才なのか判別がつかない二人の会話を、半ば感心しながら聞き入っていると、思い出したように太田さんが私に尋ねた。
「あ。そや、新幹線の領収書ある? 」
「あ、はい! これ、お願いします」
移動代は全て経費で落ちると聞いていたので躊躇なく支払ったが、新幹線に初めて乗った私はその片道の値段に驚愕した。たった2時間半で、新幹線はいくら稼いでいるのだろう。
「うん…これな、ホンマは給料と一緒に月末にもらうんやけど、この仕事はとにかく移動代が掛かんねん。
それと当座の生活用品も揃えなあかんし、とりあえずこんだけ渡しとくわ。足りなくなる前に言うんやで」
太田さんのデスクは、何の変哲もない普通のオフィスに置いてあるような事務机だった。
几帳面なのか、A4サイズの白い紙箱とボールペン2本以外、何も出ていなかった。
ともあれその机の引き出しからポンと出てきたのは、皮膚が切れそうな程真っ直ぐな一万円札20枚だった。
「寝るところはここから歩いてちょっとの所にあるアパートや。最近誰も使てないから、埃っぽいかもしれへんけど」
「泊りですか?! 」
「え? そやで? 毎日新幹線で通勤されたら破産してまう」
「毎日?! 私、研修ってことで来て…」
「一日で何を研修すんねん。もう今5時やで。今日はどこも行かへんよ」
私は軽装備もいい所だった。着替えはおろか化粧直しの道具さえ持って来ていない。財布と、スマホと、ハンカチ、それから途中のコンビニで買った飴くらいしか持っていないのだ。
「今から取って来ちゃ…ダメですか? 私、着替えとか化粧品とか、ホントに何も持って来てないんです」
狼狽丸出しの私に、太田さんはすっぱりと答えた。
「ほな今から買いに行こ。服かてどうせ田舎っぽいやつやろ?
この辺に溶け込む格好やないと逆に目立つで? 経費にならへんかったらおっちゃんが買うたるわ! 」
「…えっ!? いや、そんな、大丈夫です! 可愛い服、ちゃんと持ってますって! 」
「ええて。どのみち往復の新幹線代掛かんのやったら一緒やて。それに…」
自分の全身に、視線を感じた。いやらしくはないけど、決していい意味でもないような視線だ。
「そのセンスはアカン。量販店の匂いがするわ。もっとええ服買わな」
そう。バカにされつつ、小栗さんには笑われつつ、その後夜まで太田さんと様々なものを買出しに出掛けた。
梅田駅に停めてあった時には怖い人しか連想できなかったこのセダンも、私の荷物でいっぱいになる頃には少し落ち着いて助手席に乗れるようになった。
たくさんの紙袋を抱えてアパートに着くころには夜の11時になっていた。
ごちゃついた袋の山から、薬局で買ったクレンジングオイルと洗顔フォームを取り出し、顔を洗ったところで私は疲れ切ってしまい、その日はせっかく買った毛布も使わず倒れるように眠りに落ちた。