魔術師 チュウリィ・20 手にしたもの
僕は、宮殿の端の狭苦しい物置部屋に連れ込まれた。
文句を言う間もなく、チーリンが胸ぐらをつかんでくる。
「何をする」
僕はその手をはねのけようとしながら言った。
「文句があるのは僕の方だぞ。いったい何なんだ。僕の試験はどうなるんだ」
「お前さんの試験だ? よくそんなふざけたことが口に出来るな」
というのが、チーリンの返事だった。
「まさかと思うが、気付いていないわけじゃないだろうな。俺の知っている限り、陛下にあんな無礼な受け答えをしたのはあの方がお生まれになって以来、お前が初めてだろうよ」
え?
今、なんて言った。
チーリンの言葉の意味が、理解できない。
シュラハの話すぶつ切りの言葉のように。夜、ランプの灯りでこっそり読んだ蛮族の言葉の本のように。
言葉の意味が、頭の中に入って来ない。
「へいか、だって? あの男が、まさか、国王陛下?」
呆然とした、力のない声が僕の口から洩れた。
チーリンが舌打ちをした。
「冗談だろ。まさか、本気で気付いていなかったのか。そりゃあ、陛下のご尊顔なんぞ宮廷の外の人間は知り様がないが、あの状況だろ。フツウ気付くぞ」
「ウソだ」
僕は、ばかのように繰り返していた。
「陛下は、英明で公正な立派な方だって。父上が、何度も」
「アホか。そりゃ、馬鹿で無能だなんて言えるかよ、自分の館の中だって」
チーリンはつけつけと言った。
その言い方で、初めて。
疑いなく、あのよたよたと歩く肥った不様な男が、僕の憧れていた国王陛下なのだと。
理解が出来た。
「本気かよ」
自分の喉から、低い音が出た。
僕は頭を上げ、チーリンを正面から睨みつける。逆に相手の胸ぐらをつかむ。
「お前ら本気で、あんなヤツに仕えているのか? あんなヤツ。あそこがどんな場所なのか、分かってさえいるように見えなかったぞ。自分の遊びのことだけで頭がいっぱいで。あんなヤツに、この広い王国を治めることなんか出来るように思えない。あんなヤツが国王だなんて、僕は信じない」
「やれやれ」
チーリンは呆れたようにため息をついた。
「あのな。考えてもみろ。陛下がああいう方だから、ご即位から三十年以上、ウチの親父殿が好き勝手に権勢を振るっていられるのじゃないかよ」
あ。え?
「陛下御自身が有能でいらしたら、補佐役なんて要りやしない。要ったとしても、あんな風に国庫の財政をほしいままにして、私腹を肥やすなんて出来るわけないじゃないか。お前さんも、それくらい分かれ」
そうなのか。僕が今まで享受してきた豪華な暮らしも。
あの男が、ああだから。父が政権を私しても気付かないくらい、目が曇っているから。
「親父殿に言われなかったか。陛下に何か言われたら、それがどれだけ無理なことでも正面から否定してはならない、って。あの方はな、生まれた時から誰にも否と言われたことはないんだよ。何せ、ご誕生のみぎりには陛下の父上は既に病に臥せられており、その祖父である先代国王陛下も、寄る年波で明日をも知れぬ状態だったからな。結局、生まれて一年で国王としてご即位だ。幼くして国の頂点に立った陛下に対し、いったい誰が反論など申し上げるよ」
そんなヤツに、僕は。
あんな対応をしてしまったわけか。はは。笑える。
僕は肩を落とした。
チーリンは肩をすくめた。
「状況は理解したか。んじゃ、会場に戻るか。お前さんの無礼な受け答えは、父上さえ擁護してくれる気があればどうにでもなるだろ。緊張のあまり舌ったらずになりました、とかなんとか。あの陛下も、親父さんがいなければ自分の地位なんか一日だって持たないってことだけは理解してるからな。あの広間じゃ火の術は使えない、ってことだけは掛け値なしの本当なんだし、とにかく頭を下げて、下げまくって、後は親父殿に任せとけ。お前が罰を受けるようなことになっちゃあ、親父殿だって困るんだ。そこはうまくやってくれるだろ。だから、後は、陛下がお望みの炎の術を見事に再現して差し上げることだな。うまくいけば、さっきのことは水に流してお気に入りにしてくれるかもしれんぞ」
お気に入り?
「花火師としてか。陛下のお気に入りの花火を、繰り返し再現する芸人として、か?」
「まあ、それほど悲観したものじゃあない」
チーリンは言った。
「ああ見えて、陛下はそれほど付き合いにくいお方じゃあないし。お気に入りのオモチャを差し出してあげさえすれば、いくらでもご褒美をくださるぞ。陛下のお気に入りになりたい人間は山ほどいるんだ。いきなりその地位をつかめるチャンスが来たんだから、お前さんついてるんじゃあないのかい」
僕は。しばらく黙りこむ。
「僕は、魔術師になりたかったんだ」
ようやく、それだけを言った。
「花火師や、太鼓持ちの芸人になりたかったわけじゃない」
「生憎だな。陛下が必要となさっているのはそういう種類の人間なんだよ」
チーリンは容赦なく言った。
「お前はどうなんだよ」
僕は、チーリンをにらみつける。
「魔術師として、厳しく自分を律して、山ほどの勉強をして、それであんな扱い。そんなのに耐えられるのか? よく、そんなことをしていられるな」
「俺やタイスー三兄殿は、陛下に気に入られていないからな」
というのが、チーリンの返答だった。
「陛下に気に入られなければ、宮廷に山ほどある雑事に携わっていればいいわけであって。まあ、目を付けられたのが災難といやあ災難だな、陛下は傍に置くモノは美しいモノが好きなんだ。女だろうが男だろうが、人間だろうが物だろうが関係なく。お前さんの術もお前さん自身も、陛下の審美眼にかなったってことだろう」
今、チーリンが言った雑事というのは。
要するに、魔術庁本来の職務のことだろう。
陛下の側近になることが出来ない魔術師たちは、淡々とその本来の任務をこなし。
気に入られた僕は。
「一生、花火師か。アイツのために、綺麗な花火を考えて終わるのか」
「やりたきゃ、他のこともやればいい。綺麗な声で鳴くオモチャの鳥を作るとかな。あの方を喜ばせるモノをいろいろ考えてやりゃあいいだろう」
何でもないことのようにチーリンは言う。
宮廷に仕えるということは、そういうことなのか。民のため、天下国家のため働くのではなく。
ただ、あの肥った男ひとりを喜ばせるために大勢の人間が動く。
そんな場所なのか。
「そんな顔をしなさんな。俺は、事前に警告してやったはずだぜ。お前さんには向かないぜ、とな」
チーリンは冷淡に言った。
「さ、今はそれより術の方だ。お前さんの首をつなぐには、何よりあの二次試験の時の花火を再現してもらわにゃな。もちろん、出来るんだろうな」
「出来ない」
僕は首を横に振った。チーリンが、何だと、と目を剥く。
「シュラハがいないとダメだ。あの術は、シュラハの部族の伝統の花火を元に作り上げたんだ。彼女の力がなきゃ、僕の術だけでは再現したことにならない」
「そうか。そういえば、あの時お前さんはあの娘と協力してたな。しかし、そりゃ厄介だな」
チーリンは腕組みをした。
「あのモク族の女魔術師なあ。棄権してくれて助かったと思ったが。お前、あの娘とは完全に切れたのか。居場所も分からないのか」
って、お前がシュラハと僕を引き離そうとしたくせに。
と言いかけて、僕は。
シュラハが宮殿広場前の茶店で僕を待っていることを思い出してしまった。
「居場所は、分かってる」
僕は力なく言った。
「だけど、彼女が力を貸してくれるかは分からない」
術の秘密は、魔術師の生命だ。どんな術をどれだけ知っているかが、魔術師としての力量につながってくる。
その大切な術を。あの男を喜ばせるためなんかだけに人前で披露してくれるだろうか。
シュラハにとっては、国王なんて何の価値もない。
「都人の走狗にはならない」
と。
彼女は誇り高く言い切ったじゃないか。
「何だ、だったら話は早い」
チーリンは意気揚々と言った。
「何をぐずぐずしてる。さっさと行くぞ、時間との勝負だ。陛下が正気を取り戻すまでに、全ての段取りを済ませておかんと。お前さんも、自分の首を体につなげたままにしておきたかったら、しゃきしゃき動くことだな」
チーリンは、すぐに僕を王城の外に引きずり出し、茶店でシュラハと合流した。店主に金をつかませ、奥の個室に陣取る。
シュラハは僕とチーリンの取り合わせに怪訝そうな顔をしたが、個室に入るなりチーリンがサッサと話を始めてしまった。
僕がどんなヘマをやったか。その結果、僕の命が風前のともしびとなったことを、平易な表現で簡潔に述べる。
この男、話をするのが意外にうまいんだ。そんなことに、僕は初めて気が付いた。
「チュウリィ、殺される?」
シュラハは話を聞いて真っ青になった。
「行く。私、行く。あの花火なら、全て覚えている。火薬さえあれば、いつでも出来る。補助者がいないけど、時間かければ大丈夫」
椅子から立ち上がり、僕とチーリンを交互に見比べる。今にもこの部屋から飛び出しそうな勢いだった。
何だよ、シュラハ。
そんなに簡単に、承諾していいのかよ。
言われてる意味、本当に分かっているのかよ。
知らない人間の前で、あの男を満足させるためだけに術を使え、って言われてるんだぞ。
「そうか。話の分かるお嬢さんで良かった」
チーリンは嬉しそうにニヤついた。
「何か必要なものがあれば今言ってくれ。用意する。モノの準備が終わったら、すぐに宮殿へ戻るから。アンタも一緒に来てくれ」
一緒に。
その言葉が、僕の呼吸を詰まらせる。
シュラハも、あの場所に?
あの男の前に、彼女を連れて行く?
バカみたいだけど、その時、初めて。
僕は、自分が何をしようとしているのかに気が付いた。
宮殿に戻って。あの男のために花火をする。そして、一生あの男のための道化師になる。
戻るというのは、そういうことだ。
そして僕は、その運命に。今、シュラハを巻きこもうとしている。
自分から魔術師登用試験を拒んだシュラハを。
他人の走狗にはならないと、誇らしげに言い切った彼女を。
そう言った時の彼女のすがすがしい笑顔が、僕の脳裏に点滅する。
「ダメだ」
僕は。
チーリンについていこうとした彼女の腕を、つかんで止める。
シュラハが驚いたように僕を見る。
「行くな、シュラハ。そんなのダメだ」
シュラハが何か言う前に。
「おいおい、正気か」
チーリンが呆れ果てたという顔で口を挟んだ。
「自分の首がかかってるんだぞ。お前さんもいい加減に飲みこめよ。お前さんの運命は決まってるんだよ。命が惜しけりゃ、陛下の前でその娘と一緒に術を披露するしかないんだ」
「王城に帰れば、だろう」
僕は。
チーリンの灰色の目をにらみ返す。
「僕は、あの場所には帰らない。あんなヤツには仕えない」
傍に立つシュラハにちらりと目を走らせる。
彼女みたいに鮮やかでなくても。
「僕にだって、誇りくらいはあるんだ」
「おいおいおいおい」
チーリンは天を仰いだ。
「何言ってんだよ九弟殿。戻らない、ってそれじゃどうするつもりだ。母親のところにでも帰るつもりか?」
帰る?
母のところへ? 母の一族のところへ?
父から財産を引き出す道具としての僕にしか。
いつか宮廷に仕えて、国王陛下のお気に入りになるかもしれない僕にしか。
自分たちの利益を引き出す存在にしか興味のないヤツらのところに、帰る?
父の寵愛も、宮廷に仕える術も失って?
「誰が」
僕はつぶやいた。
「あんなところ。戻ったって、負け犬扱いされるだけだ。絶対にごめんだね」
「ほお」
チーリンは灰色の瞳をまたたきさせた。
「お前さんは負け犬じゃないと」
「当たり前だ」
僕はとっさに言い返した。
そしてすぐに、それが真実だと気が付いた。
僕はまだ、だれにも負けたわけじゃない。あの男にも、父にも、コイツら異母兄たちにも、あの場にいた高官や国家魔術師たちにも。
「国王があんなヤツだと知らされていたら、あんな試験受けようとも思わなかった」
僕は言った。
「宮廷に仕えない息子は要らない、というのが父上の論理なら、父上のところにも帰らないさ。王国は広いんだ。どこでだって生きていける」
それを聞いて。
「こりゃ、大きく出たね」
チーリンが膝を打って、なぜだか肩を揺すって大きく笑った。
「なるほどなるほど。そりゃそうだ。理不尽な宮仕えを強要する両親に反抗する、という精神もなかなか真っ当じゃないか。どうやら、負け惜しみのヤケクソってわけでもなさそうだな。そうだな。確かに、お前さんの戦いは、まだ始まってもいないんだものな」
って。なんか、果てしなくバカにされてる、というか、子供扱いされている気がするのは僕のヒガミか?
「しかしなあ」
チーリンは、首をひねって僕の顔を眺めた。
「その決意は立派だが、九弟殿よ。今まで乳母日傘で育ってきたお坊ちゃんのお前が、親父殿の庇護も、母親やその一族の庇護も受けずにどうやって生きていくつもりだ?」
う。
「ぼ……。僕だって、もう成人した一人前の男だ。自分の食い扶持くらい、自分で何とかする」
何も、考えてないけど。
魔術の腕だってあるし、どうにかなる。と思う。多分。
「ほー。そうかそうか」
イヤな笑いをするチーリン。クソ、信じてないな、コイツ。
「なあ、チュウリィ。ものは相談だが」
笑いを引っ込めて、チーリンが言った。
「陛下がお気に入りの、例の炎の術だがな。どうだ、俺にそいつを教える気はないか。教えてくれれば、俺が後はうまく処理してやるし、お前さんの暮らしが立つように、ウェンバクのバカに口をきいてやる」
「何だそれ」
僕は疑わしげにチーリンを見た。
「ウェンバクが何が出来るっていうんだ。所詮アイツも、あのバカ王にへいこらしている無能官僚だろう」
「バカはお前だ。何も知らないんだな」
チーリンは見下げ果てたという目で僕を見た。
「ウェンバクの母親は、この国でも屈指の豪商だ。ウェンバクは、母方の一族の事業に手を貸して、莫大な利益を手にしてるんだよ。まあ、それでも親父殿が国庫からせしめている額に比べれば微々たるものだがな。それはともかく、そういうわけでアイツは国内のいろんなところに顔がきく。お前さん一人の居場所くらい、簡単にでっちあげてくれるぜ」
そうなのか。
庶子たちの出自なんて、興味がなかったから知ろうとも思わなかったけど。
それが本当なら、ちょっと頼りになるかもしれない。
いや、でも。
「無理だ」
僕は首を横に振る。
「広間でも言ったけど、あの術はシュラハがいてはじめて成り立つものなんだ。僕が作った部分については教えてあげられるし、教えても構わないけど、地上部分は全部彼女が術式を作っている。不完全なものしか渡せない」
「なるほど。そこはお嬢さん次第だったな」
ひとつうなずいて、チーリンはくるりとシュラハに向き直る。
そして、いきなりモク族の言葉でペラペラしゃべりだした。
ウェンバクはともかく、チーリンがモクの言葉を話せるというのは与太だと信じ込んでいたものだから、その光景は結構衝撃だった。
シュラハが二、三言受け答えをして、会話は終わった。
「よし、交渉成立」
チーリンが言って、席から立ち上がった。
「となれば、善は急げだ。すぐに移動するぞ」
僕は、わけがわからない。
「待て。移動って、どこへ」
「ああ? 時間との勝負だって、前に言ったろう。陛下が正気を取り戻すまでに、算段をつけておかなきゃならないんだよ。ええと、ああ君、シュラハ」
シュラハを呼ぶ。
「この前、チュウリィがいた家、分かるな?あのバカの。ちゃらちゃらしてひょろひょろした軽薄なバカの」
二回もバカって言ったぞ。
僕がいた家って、ウェンバクの家か。お前ら、ホントは仲悪いんじゃないのか?
「ちょっと待て」
僕が割り込む。
「チーリン、お前。まさか、僕たちにあの家に行けって言うのか。あの、僕が監禁されてた」
「俺なら軟禁と言うがね。それなりの自由はあったはずだ」
チーリンは言い返した。
「まあ、今は言い合っている場合じゃない。お前さん方が場所を知ってる、隠れ家に使えそうな場所はあそこだけだろう。ほら、これが合いカギだ。二人で先に行ってろ。俺はいろいろやることがある」
チーリンは僕たちを店の外に引き出し、辻馬車を見つけてその中に押し込んだ。
「じゃあな。運が良ければ日が落ちてからまた会おう」
そのまま、御者に馬車を出すよう合図する。チーリンの姿はあっという間に遠くなった。
僕は。わけがわからないまま、馬車の座席にシュラハと座っている。
これは、つまり。逃がしてもらった、ということになるのか?
「あの男、いい兄になった?」
シュラハが不思議そうに問いかける。
いや、それだけは間違ってもありえない、って断言できるけど。
「シュラハ。この前君が、僕を助けに来てくれた屋敷。場所は分かるか?」
「分かる。バザールまで行けば、近い」
僕はあの時、ただシュラハに連れ出されるばかりで。場所の確認を怠っていた。だが、シュラハの返答には自信がある。彼女はあの場所をしっかりと把握しているようだ。
僕はしばらくの間、端然と座っている彼女の横顔をじっと見つめていた。
彼女は何もなかったかのように落ち着いて見える。でも、僕の思いは乱れたままだ。
「どうしてだ」
しばらくしてから、唸るように言った。
「君は、あいつに自分の術を売り渡したのか? 何でそんなことをした」
「何?」
シュラハは驚いたように僕の顔を見る。
「チュウリィ、何の話か」
ああ。また、これだ。
「花火だよ」
僕はイライラしながら言った。
「たかが花火でも、術の秘密だろう。おいそれと、他の術師に教えるはずがない。それが何でだって聞いてるんだ」
「ああ、花火」
シュラハは得心が言ったようにうなずく。
「あれは、取引。花火を教える、あの男がチュウリィを逃がす。そういう取引。問題ない」
あっさりと。本当に、何でもないことのように言う。
「問題がないはずないだろう?!」
僕は怒鳴り声になる。
「術の秘密は、魔術師にとって一番大事なことのはずじゃないか。それを、何だって僕のためなんかにチーリンにバラすんだ。君は僕の何だって言うんだよ。思い上がるな」
何なんだ。
今の僕と一緒にいたって、何の得になることも引き出せない。
どうしてシュラハがそんなことをするのか、僕には理解できない。
それとも、何か。
同情か。
そんなに僕は、カワイソウだったのか。
感情が。昂ぶる。
癇癪を起した小さな子供のように。
嵐みたいに自分の中に吹き荒れる感情を抑えられない。
それに翻弄されて、僕は。
荒れ狂うものを叩きつけるように。
「君なんか、僕にとって何の価値もない」
吐き捨てるように言う。
シュラハは静かに僕を見た。
そして。
「たかが花火。人の命と比べるものではない。そして、チュウリィの命は私にとってとても大切」
と、変わらぬ落ち着いた声で言った。
僕の中で火が付いたわけのわからない怒りは。その一言でみるみるうちにしぼんでいき。
馬鹿なことを言った、という後味の悪さだけが残った。
「チュウリィ。もうすぐ、着く」
シュラハが周りの景色を見て、腰を浮かせた。たどたどしい言葉で、御者に止まるように声をかける。
僕が金を払って、二人とも下車した。
シュラハが確信ありげに歩いていく後を、黙ってついていく。角を一つ二つ曲がると、辺りはすっかりさびれた裏通りになった。
「こっち」
シュラハは歩いていく。あからさまに異民族という風体の彼女と、立派な服を着た僕の組み合わせは裏通りに似合っておらず、人目を引いている。僕は早くこの場から姿を消したくなった。
「ここ」
一つの汚いドアの前で、彼女は止まった。目顔で促されて、チーリンから預かった鍵を出す。
鍵は鍵穴にぴったり合い、重い音を立てて扉は開いた。
中に入ると。見覚えのある廊下が広がっている。
「こっちが、ひらひら男の部屋」
シュラハが右手を指した。ひらひら男って、ウェンバクのことか?シュラハ、変な表現するな。
「今は誰もいないよう。気配が死んでいる」
という彼女。
それは僕にも分かる。建物はしんとして、生きているものの気配はない。
シュラハの言う、ウェンバクの居間ではなく、僕が監禁されていた部屋に向かった。
別に理由はない。人間というヤツは、少しでも慣れた場所に行きたいと思うものなのかもしれない。
僕の使っていた部屋は、僕がいた時のままだった。ただ、積み上げられていた本だけが片付けられている。僕は力なく寝台に腰を下ろした。
シュラハが僕の前に立っている。
「さっきはゴメン」
僕は、小さな声で謝った。
それからもう一度、彼女の言葉で繰り返した。
シュラハが驚いたように目をぱちぱちさせる。
「君が、僕のために術の秘密を犠牲にしたことが理解できなかった。それでつい、逆上した」
彼女はまっすぐに僕を見下ろしている。僕の言っていること、全部理解できているのかな。
ああ、もう。
僕は懐に手を突っ込んで、首から下げた玉石を握る。それをギュッと握って、思いのたけを伝えようと試みる。
ずっと長いこと。やりたくて出来なかったこと。
彼女がいつも伝えてくれていたのに、伝え返せなかったこと。
少しして、彼女はハッとしたように胸に手をやる。少し硬かった表情が、ゆるむ。
すぐに、僕の玉石にも温かさが伝わってきた。
僕たちは、しばらくそのまま黙って見つめ合っていた。
シュラハのまっすぐな目に耐えられなくなって。僕は少し視線を落とす。
「チュウリィ」
シュラハの手が伸びた。
僕の頭を抱きかかえる。柔らかい胸が、僕の額に当たる。
「君が僕にとって価値がないなんて、ウソだ」
僕は呟くような声で、告白した。
「君は僕にとって、とても大切な人なんだ」
彼女がかがみこむ。彼女の顔が、正面から僕の顔をのぞきこむ。
「僕にはもう、何もない。地位も身分も失った」
いや。初めから持っていなかった。それらは、将来の屈従を条件に、父から貸し与えられていたものだった。
「それでも、ついて来てくれるのかい?」
シュラハは、明るい笑顔で笑った。
「チュウリィが求めてくれるなら、私の居場所はいつもあなたの傍」
少しの淀みもなく語られるその言葉に。不覚にも、目頭が熱くなる。
僕は。何日かぶりに、彼女を抱きしめる。
「お互いが望む限り。二人は、いつも一緒」
彼女の声が耳元でした。
その、日の差し込むことのない調度ばかりが豪華な半地下の部屋で。
僕は、初めて彼女を抱いた。




