女子高生 玄倉新・2 白い部屋で
「桐野くん」
開けっ放しの扉に、ノックをしながら中をのぞいた。
軽い調子で聞こえるように頑張ったけど、本当は結構緊張している。
同年代の男の子がベッドで横になっている部屋に入るというのは、いくら私がそういう話にうとい人間だからと言っても結構ハードルが高い。
幸い、桐野くんはベッドの上で上半身を起こして、窓の外を眺めていた。
「玄倉」
私の方を振り向いて、桐野くんは唇をゆがめた。
「何。何しに来たの。来るな、って昨日言ったの、聞いてなかった?」
「聞いてた」
私はさらっと言い返した。
「でも、誰か手伝う人が必要でしょ。お母さん、仕事で忙しくて来られないって弁護士さんが言っていたの、聞いちゃったし」
私は持ってきた空の紙袋を揺すってみせた。
「何か、売店で買ってくるものある? あと、洗濯物。一階のコインランドリーで洗ってくるから。別に顔を突き合わせていなくても大丈夫だよ」
そこで言葉を切って、桐野くんの顔をつらつらと眺める。
桐野くんは、何と切り返そうか考えているみたいに、不満を丸出しにした表情で私を見ている。
しかし、いくら不満があろうと、彼は結局折れるしかないのだ。
私も昔、半月ばかり入院したことがあるから分かる。ベッドから動いちゃいけない生活っていうのは自由が利かないし、結構大変なものだ。下着だってパジャマだって、すぐに汚れるけど無尽蔵に替えがあるわけではないし。ヒマだからって、ゲーム機なんかを持ち込むのは許されていないし。
「……何、玄倉。痴女? そういう趣味あるの? 男の下着を見ると興奮するとか?」
案の定、彼は唇を歪めたままそんなことを言ってくる。
不満そうな顔のままこんなことを言うのは、断れない証拠だ。断れるものなら、桐野くんは即断で私にこの部屋を出て行けと言うだろう。
実際、昨日はそうやって大勢の見舞客を追い返してしまったわけだし。
「そういうことにしておいてもいいわ」
私は肩をすくめた。どっちでもいい。彼の雑言に、一々付き合う必要もないだろう。
彼と話をするようになって、まだ三日と経っていないけれど、その間に私が学習したことは、桐野星太という男子と悪口雑言は切っても切れない仲だ、ということだ。
「とにかく、あるのね。洗濯物。だったら預かっていくわ。他には、何かない?」
桐野くんは、言い返す言葉に困ったように黙り込んでしまった。
黙っていればイケメンなのになあ、と私は彼の顔を見てチラリと考えた。
桐野くんが、この総合病院に入院することになったのは、三日前。
私が初めて桐野くんと口をきいた日の放課後のことだった。
彼は私に、部活をサボって遊びに行こう、と持ちかけてきたのだ。
「部活は休めないわ」
私はハッキリと言った。
「知らないかもしれないけど、私は部活特待なの。部活でいい成績を出すことを条件に、この学校に居ることを許されているんだから。それなのに、用もないのに部活をサボって遊びまわったり出来ない」
「へえ。玄倉って、案外バカ?」
その時も、桐野くんは私に向かって唇を歪めてみせた。
「そんなの、学校の都合じゃん。学校の方が、部活動の実績を積むためにいい選手を集めたがってるんだろ。頼まれてわざわざこの学校に来てやったのに、何でそんなに卑屈になってるの? 玄倉ってマゾ?」
正直、私はビックリした。そういう視点は自分にはなかった。
わずかばかりの才能を身代金に、施しを受けている。そんな感覚しかなくて。
だけど、桐野くんの見方でいけば。私は、学校側がお金を払ってでも自分の傘下に入れたい優秀選手なわけであって。
私が部活で好成績を上げることを代価に学校に在籍している事実は変わらないけれど。見方一つで様相は百八十度変化する。
「そんなこと、思ってもみなかった」
私は気が付くと、素直な気持ちを口にしていた。
「桐野くん、すごいね。ポジティブなんだ」
「あのね。自分を不当に安く売っても仕方ないだろ。玄倉の方が卑屈なの」
桐野くんは呆れ顔で言った。
「で、どうするの。行くの?言っただろ、今日はお前、僕のドレイだよ。僕が来いって言ったら、ゴチャゴチャ言わずについてくるのがフツウでしょ」
出た。ドレイ。別に私は、一度もその関係を承諾したとは言っていないのだけれど。
だけどその時の私は、ちょっとだけ彼と一緒に、好きなだけ羽根を伸ばしたいと言う気分になってもいて。
「ううん、ダメ。やっぱりダメ。私が契約に縛られてることには変わりないもの。まだ結果も出してないのに、勝手に遊び回るわけにいかない。桐野くんだって、バスケうまいのにもったいないよ。ちゃんと練習しないと」
「あ、僕のプレイ見ててくれてるんだ」
桐野くんは機嫌よく笑った。
「何、玄倉。興味なさそうな顔して、僕のこと見てたんだ。いつから? そういうことなら、もっと早く言ってくれればいいのに」
いつから、と聞かれれば、最初から、と言わざるを得ない。
同じ体育館の中、バスケ部のコートで歓声が上がると、そこには必ず彼の姿があったから。それくらい彼は目立つ人だし、私が彼の活躍ぶりを知っているのはおかしなことでもなんでもない。
むしろ、弱小柔道部の私のことを彼が知っていたことの方がビックリだったのだけれど。
「じゃあさ。少しだけ。部活はちゃんと出るから、終わったら一緒に夕飯を食おう。二人でさ」
桐野くんはちょっと強引にそんなことを言った。
「部活に出るんなら、文句はないだろ。それとも玄倉は、特待生は寮のメシでなくちゃ食べられない、とか言うわけ?」
そんなことは言わないけれど。
強いて言えば、寮のご飯はタダだけど、外で食べればその分お金がかかるってこと。
「それくらい、おごるからさ」
と笑う桐野くん。
「ね? いいだろう。急いで食べて帰ってくれば、寮の門限にも間に合うしさ」
そう言われると、それ以上断る理由も私にはなく。
ただ、おごらせるのは悪いので、自分の分は自分で支払うと言った。
そうして。部活が終わった後、部室の前で待ち合わせて。
「何だ、桐野。また女かよ」
なんて、バスケ部の男子たちにからかわれて。
「また、って言うなよ。誤解を招くだろ」
「何が誤解だよ。この女ったらし」
なんて、桐野くんが部活の仲間と言い合っているのを黙って横で眺め。
桐野、趣味変わった? なんて桐野くんは言われていたけど。
私の顔をしみじみ見て、彼は嬉しそうに笑った。
「そのメガネ、ダサいと思ったけど。悪くないかもな。玄倉がホントは美人なの、僕だけが知ってるってちょっと優越感」
ホントは、ということはつまり、見た目ダサい、ということでしょうか。まあ、オシャレにはこだわっていないから、いいけど。
おいしい店を知ってるから、と桐野くんが言って、私たちは少し学校から離れた場所まで行った。
信号待ちをしている時、当たり前のように桐野くんの手が私の肩を抱いた。
ちょっとドキリとした。
そうして、目当ての店のすぐ傍に来た時。
それが起こった。
覚えているのは、誰かの悲鳴。タイヤの鳴る音。全てが一瞬だったけれど、後ろから聞こえてきた音の不穏さに、桐野くんと二人、振り返ったことを覚えている。
目を射たのは車のヘッドライト。緩やかにカーブした道を、乗用車がまっすぐに。
歩道にいた私たち目がけてまっすぐに。
近付いてきて。
桐野くんが、私を少し押した、ような気がする。
彼はそんなことは知らないと言うから、錯覚かもしれないけれど。
とにかく、私はほんのわずかその時に身を動かして。
バランスを崩して、不様な受け身を取りながら転がって。
その目の前を乗用車が通り過ぎ、近くの店のショーウィンドーに突っ込んで。
私はケガ一つなかったけれど、桐野くんは。
その暴走車にはねられた。
それからの三時間は、悪夢みたいな時間だった。
そんな風に言うとドラマか小説みたいだけれど、本当にそうだったのだ。
私はただ、桐野くんを探して。血まみれで倒れている彼の手を取って、他に何もできなくて。
誰かが呼んだ救急車が来て。救急隊の人に彼の名前を聞かれて初めて。誰かに連絡しなきゃいけないんだ、ってことに思い当たった。
桐野くんの家族なんか知らないから。病院の廊下で、とりあえず寮に電話をかけた。混乱しながら、一生懸命に事情を説明して。
しばらくしてから、男子寮の寮監の先生がやって来て。クラスの担任の先生もやって来て。
それでもまだ、桐野くんには会えなくて、私は先生たちとろくに話も出来なくて。
そうしているうちに、スーツをきちんときた、大柄な男の人が現れて、先生方にあいさつをした。
最初は、桐野くんのお父さんだと思った。だけど、話をこっそり聞いているうちに分かった。
その人は弁護士で、桐野くんのお母さんの代理人。お母さんの代わりに、この場に来たということで。
桐野くんの家の事情は分からないけれど、私は自分が入院した時のことを強く思い出した。
既に破産して離婚していた両親は、私の見舞いに訪れることもなく。来るのは施設の人ばっかりで。
自分は両親に見捨てられたんだ、ってその時私は自覚した。
その夜は桐野くんには会えなかった。私は病院に泊まりたいなんて馬鹿げたことを言ったけど、そんな言葉が通るはずもなく。
担任に連れられて、門限を過ぎた女子寮に戻った。
寮監の先生が、あたたかいハーブティーを入れてくれた。
次の日、クラスメートやバスケ部の人たちと、大勢でお見舞いに行った。
人気者の桐野くんの見舞いに行きたがる人は多くて。病室に入りきれないくらいの人数が、狭い部屋にギュウギュウに入って。
足をギプスで固められた桐野くんは、最初は笑ってた。「死ぬとこだったけど、足一本で助かった」なんて言って。
暴走車は居眠り運転だった、って朝のニュースで言っていた。仕事で過労状態にあった人が、運転しながら熟睡してしまったんだって。だけど、車の運転手にどんな事情があったとしても、桐野くんが大ケガをした事実は変えられない。
でも、みんなは桐野くんの笑顔に安心したようだった。すぐに、朝の教室のような大騒ぎが始まった。
みんな、笑ったり、桐野くんに持ってきたお見舞いのお菓子を食べたり。
やかましく。ワイワイと。まるでお祭り騒ぎで、隣りの子の言ってることさえ、ちゃんと聞き取ることが出来なくて。
そんな中、何がきっかけだったのか。
みんなは帰り道、犯人捜しをしていたけど。誰かが「学校休めて、桐野得したね」と言った、とか。「自分も入院したい」と、ふざけて言ったからだ、とか。
私は、誰か一人が悪かったとは思わない。
誰もかれもが無神経で。桐野くんの気持ちを、本当に考えていなくて。
だから彼は、ずっと我慢していたのだ、と思う。
突然、桐野くんが怒鳴って。みんな、しんと静まり返った。
「出てけよ!」
桐野くんは歪んだ表情で、少しヒステリックに言った。
「お前ら、全員目障りなんだよ。出てけよ! 二度と来るな!」
何人かが、とりなすようなことを言ったり、冗談にまぎらわせようとしたりした。だけれど、桐野くんはますます怒るばかりだった。
女の子が一人、泣き出した。桐野くんはその子に向けて空っぽのペットボトルを投げつけた。
それで、みんな帰る気になった。
私は、床に転がったペットボトルを拾って。本当は、彼と何か話したかったけど。
その時は、きっと話にならないだろうから。あきらめて、みんなと一緒に帰ったのだ。
そして今日。みんなは、「しばらく桐野をそっとしておいてやろう」と言って、お見舞いには行かなかった。
私も別に、彼を煩わせる気はない。事故の時に一緒にいたのに、私だけ無事なのも少々気まずいし。
ほんの、わずかな差。
立っていた位置があと十五センチ違っていたら、私もあの車にはねられていたのではないか。
わずかな運の差。
それとも、誰かがあの時、私をかばうように押しのけてくれた、からかもしれない。
私はベッドの上の桐野くんを改めて見た。右足を固めたギプス姿が痛々しい。
アスリートにとって、怪我がどれほど恐ろしいことかは私にだって分かる。ねんざ、脱臼だってくせになれば競技に差し支える。まして、桐野くんは大切な脚を、複雑骨折してしまった。
そんな時にかける言葉なんてないし。
言葉がなくても通じ合えるほど、深い関係ではないし。
「ありがとう」の一言さえ、今の彼には届く気がしなくて、言えない。
「部活」
ずっと黙っていた桐野くんが、ようやくポツリと言った。
「何?」
無視するのも悪いから、とりあえず聞き返してみる。
桐野くんはいらだたしげな表情で繰り返した。
「部活。お前、何より部活が大切な特待生さまじゃなかったのかよ」
「ああ、うん」
私はうなずきながら、空っぽの紙袋を桐野くんに渡した。
「大丈夫。朝練はちゃんと出るから」
「朝練は、って」
「いいから、洗濯物これに入れて?」
私は促す。
「おい!」
桐野くんの声が大きくなる。
「答えろよ。何をしにここに来てる!? 目障りなんだよ。いいから行けよ。お前の大切な部活にさ。行って、練習して、県大会にでもどこにでも行けよ」
私は、
「こっちの方が、大事」
と、言った。
「桐野くんの言うとおりだから。大会で成果さえ出せば、私は学校にいられるし。それだけの話」
私は肩をすくめる。
桐野くんが目を丸くする。
「ちゃんと、部活も頑張ってるから大丈夫」
そんな機会さえ奪われてしまった桐野くんに比べれば。朝練がしっかりできれば、十分すぎるほどだ。
「大丈夫、って玄倉」
桐野くんは、毒気が抜かれたような顔で私を見ている。
「とにかく、洗濯物をちょうだい。そうしたら、この部屋から出て行って、乾燥し終わるまで帰って来ないから」
そうすれば、彼を煩わせなくて良くなるのだけれど。
桐野くんは、ちょっとの間黙って私を見ていた。
それから不意に、不機嫌な顔のままでナースコールのボタンを思いっきり押した。
「どうかしましたか?」
スピーカーの向こう側から看護師さんの声。
「ウルサイな。ゴチャゴチャ聞いてないで、さっさと来いよ。それが仕事だろ」
乱暴に言う桐野くん。
うわ、これは。もしかして。まさかの不審者通報??
「ええと、桐野くん。洗濯物さえ預かれば、私、自分でここを出て行くよ? 別に、桐野くんの安眠を妨害しようと思って来たわけじゃないし」
「黙ってろ。誰もそんなこと言ってない」
ムスッとした顔と声で、桐野くん。
引き出しにゴソゴソ手を伸ばして、スーパーのレジ袋をつかみ出す。中には衣類が入っている様子。
「僕も一緒に行く。玄倉に任せて、下着にヤラシイことされたらイヤだしな」
「そんなことしないよ」
「どうだか。玄倉って、きっとむっつりスケベだろ」
何を根拠にそのようなことを。だいたい、ヤラシイことってどんなこと。
「でも、大丈夫なの。桐野くん、まだ動けないんじゃないの」
「だから看護師を呼んだんだろ。車椅子に乗れば動けるんだけど、まだ介助してもらわないと乗れないんだよ」
桐野くんは、病室の隅に置いてあった車椅子を指さした。
今度は私がとまどう番。桐野くんは、今はひとりでいたいわけじゃないのかな。
「玄倉って、ホント、バカなのな」
そう言って、桐野くんはぽつりと笑った。皮肉っぽいけど、嘘っぽくない笑顔だった。
私は、何だか急にこの部屋に二人っきりでいるのが恥ずかしくなってきた。
そして、昨夜の夢を思い出した。
私の昨夜の夢には、桐野くんが出て来て。
どこかの異国の王子様のようなきちんとした服を着た桐野くんが、昔のお城みたいな立派な建物を真剣な目で見つめている。
私はそれを近くで見ていて。
声をかけたいけれど、桐野くんがあんまり真剣だから、なんて言ったらいいのか分からなくて。
ただ、横顔をじっと見ていた。
そんな夢。
そんな夢を見たことが、なんだか恥ずかしくて。私は思わず、下を向いてしまう。
ほっぺたが熱くなる。
そういえば、どうしてあんな夢をみたのだろうと、初めて思った。