赤ん坊の泣き声が聞こえる
「んー! 心機一転、頑張るぞー」
喜代子(きよこ)は新しい部屋の中で伸びをする。
「お腹空いたし買い物でも行くかー。引っ越し一日目で冷蔵庫の中なんも無いし」
喜代子は軽く支度をし、部屋を出る。
すると、アパートの通路に小太りの男が立っていた。ここは二階で、男の先に階段がある。どいてもらわないと買い物に行けない。
とりあえず軽く挨拶をしてみた。
「こんにちは。今日ここに引っ越して来ました清水(しみず)と申します。同じアパートの方ですか?」
「……んか」
「?」
男はぼそぼそと何かを呟く。
「赤ん坊の泣き声が……聞こえませんか……」
そう、聞き取れた。
「いえ……」
喜代子にはそんな音聞こえていない。
喜代子がそう言うと男は黙って隣の部屋に入っていった。
「なんだったの……」
喜代子は不審に思いながら買い物へ行った。
次の日、喜代子は日用品を揃えようと部屋を出る。すると、また昨日の男が立っていた。
「……赤ん坊の泣き声……聞こえませんか……」
同じ事を聞いてくる。しかし喜代子には何も聞こえない。なので喜代子も昨日と同じ事を返すしかないのだ。
「いえ……」
男は黙って隣の部屋に入っていった。
「なんなの……」
喜代子は不気味に思いながら買い物に行った。
日は過ぎ、新しい土地での就職も決まった。スーパーのパートだが頑張れば正社員になれるかもしれない。喜代子の心はうきうきだった。
だが、そんな喜代子に陰を落とす存在が……。
外出から帰ってくると、いつものあの男がアパートの通路に立っていた。
「赤ん坊の……」
「いえ」
喜代子はもう最後まで話を聞く事もしなかった。男は黙って部屋に入る。
喜代子はため息をついて自室へと向かった。
パートの仕事も板についてきた頃、アパートに帰ろうとすると声をかけられた。
「あなた!」
「はい?」
喜代子がそちらを見ると、白髪交じりのおばさんがにこにことしていた。
「ちょっと前にここに引っ越してきた方よね?」
「あ、はい。挨拶もせずにすみません」
おばさんはからからと笑う。
「いいのよぉ! 最近は防犯とかでそういうの控える人が多いってテレビで見たから! おばちゃん気にしない!」
元気なおばさんだな、と喜代子は思った。
「あなたスーパーでよく見かけるからつい声かけちゃった! 頑張ってるのね!」
「あ……ありがとうございます」
近所のスーパーで働いているので、このアパートの住人が常用していてもおかしくない。そういえばこのおばさんも何度か見かけたかもしれない。
それから喜代子はおばさんと世間話をした。
「あなた、いい人とかいないの?」
「……捨てられちゃいました」
「見る目無いのね~! あなたはまだまだ若いんだから大丈夫よ!」
おばさんは喜代子の背中を叩く。
「もう三十二ですよ……」
「まだ三十二じゃない!」
そんな他愛もない事を話ながら、世間話のついでに気になっている事を聞いた。
「あの……二〇一号室の人の事なんですけど……」
おばさんは喜代子の言葉を聞いて顔を曇らせた。
「ああ……あの……」
「ご存知で?」
「このマンションじゃ有名。挨拶もしない、ずっと部屋にいる気味悪い人。あなた、何か変な事されたの?」
「いえ……ちょっと……」
喜代子はどう言っていいかわからず言葉を濁した。
「気味が悪いな……って」
その日も喜代子はパートに行く為に部屋を出た。……もちろんの如く男はいる。
だが、今日はなんだか様子がおかしい。うつむいて何やらぶつぶつと呟いている。
「聞こえる……聞こえるんだよ……ずっと……ずっと……赤ん坊の泣き声が……」
男は顔を上げると喜代子に掴みかかってきた。
「きゃっ!」
「なあ……! あんた聞こえないのか……!」
「離して!」
喜代子はとっさに男を突き飛ばした。
「わあああぁ!」
「え?」
男の叫び声が聞こえたと思うと、男は階段から真っ逆さまに落ちていった。落ちた男は動かない。
「あ……あ……」
「叫び声が聞こえたんだけど!? 何かあっ……」
あのおばさんが駆けつけて来た。茫然自失の喜代子をよそにおばさんは警察と救急車を呼んだ。
警察に事情を説明すると、正当防衛が認められ喜代子はお咎め無しだった。
警察から教えてもらったが、あの男は軽い脳震盪を起こしたくらいで大したことは無かったと。
けれど、入院する事になったらしい。精神病院に。
喜代子には知る権利があると言われたのだが、あの男は元々精神病を患っており、実家で引きこもっていたが、妹の里帰り出産で病状が悪化した。
毎日毎日時間も関係無く一日中泣きわめく赤ん坊に精神がやられ、ついに赤ん坊に手をかけようとしたところで家族に止められ、家を追い出された。
それでも赤ん坊の泣き声の幻聴が聞こえてあんな行動に出たと警察は言った。
やっと警察から解放されて、喜代子はくたくたになって部屋に戻った。
「赤ん坊の泣き声なんて聞こえる訳ないじゃない……」
喜代子は椅子に座る。
「もう殺したんだから……」
その呟きは誰にも聞こえない。
とある夫婦の寝室で、妻は夫に言う。
「ねぇ……」
「ん? なんだよ?」
「赤ん坊の泣き声……聞こえない……?」
夫は耳を澄ます。
「……気のせいじゃね? だいたいこのアパート、子供いないだろ?」
「そう……そうよね……」
妻は布団に入り直した。
『オギャア……オギャア……』




