史的な夜話 其の二十五
毎度おなじみ、二人がグダグダ語っているだけです。読みづらいかもしれませんが、お時間がある時の暇つぶしで読み流して頂けると幸いです。
Y:あのぉ。
T:はいはい。
Y:なんか、久しぶりの登場のような気ぃしますが、気のせいやろうか。
T:あれや。色々大人の事情言うもんあるんやで。それ以上は言うたらあかんよ。
Y:わかりました。
T:それで、なんでしょう?
Y:なんでしょうって、あんたが話さなあかん場面やんか。
T:そうでした。あれですよ。随分と前なんですが、一瞬だけ山中鹿之介に興味が湧いたことがありまして、ちょっとだけ調べたことが有ったんですよ。
Y:なんだかの十勇士でしたっけ?
T:尼子十勇士ですよね。尼子家って言うのは、毛利元就が滅ぼした山陰の雄ですよ。生き残った人らが、尼子家を再興しようとして、集まるんですけど、その中に山中鹿之介も居ったわけですね。まぁ、鹿之介、鹿之助、鹿助、鹿介、表記としてはどれが正しいかって話ですが、本人の手紙では鹿介って書いてるんですよ。だから鹿之介、鹿之助、鹿助は本当は間違いになるらしいんやけど、鹿之介が広まりすぎたんと、鹿介、鹿助やと読む時に「しかすけ」って読みそうやから、強いて鹿之介と表記した方がええんちゃうけって言う話から、鹿之介って書かれるようになったんやって。
Y:全部、Wikipediaからの情報ですね。
T:そうですよ。まぁ、山中鹿之介の詳細も合わせてWikipediaから得て下さい。今日の本題や無いですから。
Y:今日の本題は、山中鹿之介や無いんですか。
T:山中鹿之介って、生まれが天文十四(一五四五)年、亡くなったんが天正六(一五七八)年六月なんですけど、実は天文九(一五四〇)年生まれという説もあるんですね。
Y:そうなんや。
T:それで、気になって父親を調べたわけですよ。
Y:桃太郎みたいに桃から鹿之介が生まれてきたら、面白いわな。
T:実在の人が桃から生まれてきたらビックリするよ。
Y:モンゴルの皇帝って、狼と鹿から生まれたんや無かったか?
T:チンギス・カンの先祖が蒼き狼と白い鹿の間に生まれたとか、そう言う伝説ですよ。
Y:伝説かぁ。
T:信じたらあきまへんよ。
Y:夢があって宜しいがな。
T:そうやけど、さ。
Y:それで、鹿之介のお父さんはどないなってん。
T:鹿之介のお父さんは、山中満幸って言う名前で、永正十七(一五二〇)年に生まれて、天文十五(一五四六)年の九月に亡くなってるんやって。
Y:ほな、あれか、鹿之介が生まれた翌年に亡くなってはるんやな。
T:別の説があって、永正六(一五〇九)年に生まれて、天文十三(一五四四)年に亡くなったとも言われとるんですよ。
Y:鹿之介が生まれる前に亡くなってはるやん。
T:我が子が生まれるの、見たかったやろなぁ、思うんやけど、あくまでも別の説ですから、信じて良いのか悪いのか。
Y:そこが問題なんですか?
T:先にもう一人、気になる人が居て、鹿之介のお兄ちゃんが居りまして、名は幸高、通称は甚太郎とか言うねんけど、生まれた年も亡くなった年も不明なんですよ。
Y:ほんなら、実在してなかったとか?
T:お墓もあって、幸高院雲性寂了居士という戒名もあるんですよ。だから実在はしたんでしょうけど、身体が弱かったから家を継がずに弟の鹿之介に譲ったとか、出家したとか、尼子家のために戦って亡くなったとか、いつ頃どこで亡くなったかもわからんのですよね。
Y:誰か調べへんのですかね。
T:破れた側やから、記録は残らんでしょうねぇ。記録があったとしても、それこそ戦争とかで消えた可能性もあるでしょうし、色々残念ですよ。
Y:空襲とかで貴重な史料が焼けとる可能性はあるよね。
T:それで、二人のお父さんへ話を戻しますけど、忠誠院殿秋峯億勇大禅定門と言うのが戒名なんですね。もう一つ戒名があって、それが天海なんですよ。
Y:はぁ……
T:家康の側近、黒衣の宰相と言われた天海と同じなんですよね。
Y:言われると凄いよね。
T:山中鹿之介の子孫って言うのが、後の鴻池財閥なんですよ。
Y:鴻池財閥?
T:鹿之介の子はまだ幼かったとかで、今の兵庫県伊丹市に住んで、酒造業を始めはったんよ。清酒を造ったんもこの鴻池家で、今の日本酒にとっては大恩人になるんやろうな。
Y:鹿之介も凄い人なんやろうけど、子孫も凄いんやな。
T:その、鴻池の初代である直文って言う人は、鹿之介の子であることは伏せて、武士からは離れて、町人として生きることを決めはって、子孫も伊丹から大阪市内にまで拡がって、酒造業、海運業、金融業へと拡がるんですよ。
Y:なんか、凄いの一言しか出てこうへんよ。
T:ちなみに建設業の鴻池組、鴻池運輸は直文さんとは血の繋がりは無いそうなんやな。こちらも鹿之介の子孫と伝わってはるから、どこかで枝分かれしなすったんやろうな。
Y:そうなんや。
T:それで、話を戻しますけど、真言宗を始めた空海さん居ますやん。
Y:無茶苦茶有名人ですよね。
T:空海さんは洞窟で修行して、目に入った空と海から空海って名乗るようになったんやって。
Y:それも、Wikipediaから得た知識ですね。
T:そうなんですよ。便利よねぇ、夜中でも調べもんがでけるんやから。
Y:昼間に仕事して下さい。
T:無理……
Y:そこをなんとか……
T:話を戻しますけど、山中満幸さんの戒名を天海って記してるんは、鴻池家の系図らしいんですよ。どういう経緯なのか、さっぱりわからないんですが、ふと気になってさ、もう一回、天海さんを調べたんですよ。
Y:へぇ~
T:家康の側近だった天海は、天文五(一五三六)年生まれって言われてて、他にも永正七(一五一〇)年、享禄三(一五三〇)年、天文十一(一五四二)年、天文二十三(一五五四)年説があるんですよ。
Y:せめて生まれた年ぐらい、記録残して欲しいよね。
T:寛永九(一六三二)年に数え年九十七歳って言われとって、そこから天文五(一五三六)年生まれでしょう的に言われとるんよ。
Y:もしかすると、ちゃう可能性もあるんやな。
T:年聞かれて、面倒になって適当に答えた可能性もあるよな。
Y:さすがに適当は困るよ。
T:困るけど、まぁ、今のは可能性として言うてるだけで、ほんまのことは知らんよ。
Y:それで、どうなるんや。
T:話が行ったり来たりで申し訳ないんやけど、まず、有名な方の天海さんは歴史の記録としてわかってるんは天正十六(一五八八)年、無量寿寺北院というお寺に来てから、らしいねん。
Y:それ以前のことはさっぱりわからへん、と。
T:天正十八(一五九〇)年に秀吉が小田原城を攻めた時、家康の陣中に天海が居たとも言われとって、家康が関東に来ることを見越しとったんか、それとも事前に頼まれて関東に入っとったんか、そないな推測してみたんよ。
Y:天正十六年よりも前に家康と天海がどこかで出会ってた、その可能性もあるやもしれへんねやな。
T:そうやね。秀吉は小田原城の北条氏を征伐したいと考えとったし、和戦両様の構えというか、家康が天海に頼んで、今で言うスパイみたいな感じで、無量寿寺北院に入って貰て、コツコツ情報を送ってもろてた、と言う可能性はあるよね。
Y:ちなみにその無量寿寺ってどこにあるんですか?
T:埼玉県川越市ですよ。天海さんが喜多院って名前を変えはって今に至っていますよ。
Y:一回、行ってみたいですよね。
T:天台宗のお寺やから、まずは比叡山延暦寺へ行くのが先やないですか。
Y:距離で言うたら、そっちの方が近いかぁ。
T:近所の神社にも行かへん人が、遠くのお寺行ったかて、御利益も無いやろに。
Y:まぁまぁ、そない言わんと。言うくらいただですやん。
T:言うのは宜しいけど、いつか行きなはれや。
Y:努力します……
T:それで話を戻しますと、家康が秀吉と仲良くなったんが天正十四(一五八六)年なんですよ。秀吉が全国統一を目指してたんは、誰もが知ることですし、僧侶やったら目立たんやろう言うて、家康が天海さんに頼んだとか、そないなストーリーで一本、作品が書けるかもしれませんね。
Y:書いたら宜しいがな。
T:書けるかいや。
Y:他の人が書いたらどないすんねん。
T:こないなもん、特許も著作権もあらへんし、書いた人が才能有ったってことで宜しいやん。
Y:これでええんやろうか?
T:話を続けますと、仮にですけど、天海さんの生まれが天文五(一五三六)年やったとしたら、鹿之介のお兄ちゃんとか、もしくは従兄弟とか、その可能性は無いか、そない思たんですよ。
Y:思わはったんですね。
T:鹿之介には叔父さんが居って、信直さんって言うねんけど、この信直さんは生まれが永正八(一五一一)年で、亡くなったんは天正七(一五七九)年って言うんやけど、鹿之介のお父さんの満幸さんが永正十七(一五二〇)年生まれって言われとるのに、満幸さんが兄で、信直さんが弟って言われとるんよ。
Y:そう言えば別説で満幸さんって永正六年(一五〇九)生まれって言うてへんかったか。
T:そうなんよ。だから、鹿之介も謎やけど、親兄弟にも謎が多いし、もしかすると天海さんってほんまは鹿之介の身内やったんやないか、改めてそう思うんですよね。
Y:その、信直さんって、なんかの戦で手柄を立てたとか、あるんですか?
T:戦の手柄はわからんですけど、鹿之介の子を預かって、天正七(一五七九)年に亡くなるまで育てたって言うのは確からしいですよ。但し、直文さんって元亀元(一五七一)年の生まれなんですよ。だから、信直さんが直文さんの面倒を見れたんは数年になるんですよね。その後、どこで生活してたんかは謎らしくて、信直さんにも子供が居て、親から引き継いで直文さんの面倒を見たとは推測できるんですが、詳細はさっぱりですよ。
Y:なんか、謎が謎を呼ぶ的な……
T:もう一つ、直文さんはどこから酒造の技術を得たのか、これも謎ですやん。
Y:お酒の造り方言うたら、杜氏さんとか、そう言う人から学んだんやろうか。
T:意外かもしれませんが、実はお寺でも酒造が行われてたそうなんですよ。
Y:ほんまかいな。
T:それこそ延暦寺なんかでも、お酒造って、呑んではったみたいよ。Wikipediaの日本酒の歴史、僧坊酒って言う項目を読んで貰たらわかるんやけど、大きなお寺で経済力なんかがあったり、人が多いとお酒造ったりしていたみたいで、天海さんも天台宗で延暦寺とは何らかの繋がりがあったみたいやから、あるいは、ねぇ……
Y:天海さんが教えたかも、そない思てはるんやな。
T:それで直文さん、慶長四(一五九九)年には江戸へとお酒を送り始めてるんですよ。家康が天正十八(一五九〇)年に江戸入りしてはるから、酒造業に目を向けて、新しい都市である江戸へ向けてお酒売るって言うんも、商売としては凄いことやし、陸路でお酒運んでも手間暇かかるってわかったら、船で運ぶことを思い付いて、取りかかってはるから、誰かが助言しとったんやないか、そないも思うんよね。
Y:酒造業にしたって、誰かが資金援助とかしてないやろうか。
T:そこも謎ですよね。今後の研究に期待したいですよ。
Y:そやから、自分で調べなはれ。
T:絶対に無理!でも、あれですよね、機会があったら鴻池家の系図は見てみたいですよ。
Y:見たかてなんかがわかるわけでも無かろうし、やめときなはれや。
T:あんたにそない言われると、また一つ自信が折れるよ。
Y:脆い自信やなぁ。
T:世の中には、まだまだ謎は一杯ありますよ。
Y:それこそ邪馬台国とか?
T:それは専門外やから、やめて。
Y:まず、連載途中の本能寺の変、どないにかしなはれや。
T:申し訳ありません……。まぁ、でも、天海さん、東日本の蘆名氏の血を引くとか言われてはるけど、実は西日本出身で、鹿之介の親戚やったら、面白いとは思いませんか?
Y:面白いとか思うんはあんただけやで。
T:へぇへぇ、店仕舞いしたらええんでしょ。お休みなさい!ふんっ!
いつもと同様、答えは一つも出ていませんが、誰かの参考にでもなれば、そう思っています。




