波紋の正体、あるいは置き去りにされた聖域
「……如月先輩。あの、私……」
凛が図書室を飛び出した後、残された白瀬乃愛は、凍り付いた空気の中で立ち尽くしていた。
「……白瀬さん。今の呼び方、どこで聞いたんだ?」
「え、あ……。お昼休みに、クラスの女の子たちが噂してたんです。『あの鉄面の三宅さんが、如月くんのことを下の名前で呼んでた』って。……だから私、それが今のこの学校の流行り(スタンダード)なんだと思って。……仲良くなりたくて、真似しちゃったんです。……ごめんなさい」
乃愛は、泣き出しそうな顔で俯いた。彼女に悪気はなかった。ただ、にぎやかな「名門・翠ヶ丘」のような空気感に憧れて、耳にした噂を「正解」だと思い込んでしまっただけなのだ。
だが、その無邪気な一言が、凛の心を粉々に砕いた。
二人だけの秘密。神様の介入さえ拒んで守り抜いた、あの「名前呼び」という聖域は、すでに外側へ漏れ出し、無責任な噂話として消費されていた。
「……律先輩。追いかけなくて、いいんですか?」
乃愛が不安げに僕の顔を覗き込む。
僕は、凛が走り去った開けっ放しのドアをじっと見つめた。
追いかけるのは簡単だ。でも、今の彼女を追いかけて、どんな言葉をかければいい?
「気にするな」なんて言葉は、翠ヶ丘時代にプライドをズタズタにされた彼女にとっては、無神経な暴力でしかない。
「……今は、追いかけない」
僕は椅子に深く座り直し、机の上に残された、彼女が食べ損ねたグミの袋を見つめた。
「彼女は、自分の力で『完璧』であろうとしてきたんだ。それを他人に笑われたと感じている今、僕が中途半端に慰めるのは、彼女のプライドをさらに傷つけることになる」
図書室に、夕暮れの不気味な静寂が戻ってくる。
神様がいれば、一瞬で彼女の悲しみを取り除いてくれただろう。でも、今の世界にそんな奇跡はない。あるのは、取り返しのつかない言葉の刃と、離れてしまった二人の距離だけだ。
「……冷たいんですね、律先輩」
乃愛が小さく呟いた。
冷たいのかもしれない。でも、僕は信じている。
凛が、あのお菓子とゲームを愛する「本当の自分」を、自分自身で認められる日が来ることを。そのためには、僕が安易に彼女を「助ける」のではなく、彼女が再び僕の前に立つまで、ここで待ち続ける必要があるんだ。
夕日に照らされた図書室の床。
そこには、もう彼女の影はなかった。
律はあえて「追いかけない」という苦渋の決断を下しました。
翠ヶ丘時代のトラウマから、凛は「他人からの同情」を極端に嫌います。律が今追いかければ、彼女はさらに「惨めな自分」を自覚してしまう。
名前を呼ぶという特別な行為が、ありふれた噂話に成り下がった絶望。
二人の物語は、かつてないほどの冷え込みを見せています。




