計算外の二文字、あるいは凛の小さな敗北
「……き、き……」
放課後の図書室、隅っこの席。
凛は新作のベリー味のグミを口に放り込み、もぐもぐと咀嚼しながら、僕——如月 律を睨みつけていた。
「どうしたの? 三宅さん。さっきから『き』で止まってるけど」
「……うるさいわ。計算中なのよ。……如月の『如』は如実の如、月は夜空の月……。画数は……姓名判断的には……」
彼女は手元のノートに、僕の苗字と名前をびっしりと書き連ねていた。
翠ヶ丘中等学校時代、どんな難問も一瞬で解いてきた名門のエリートが、たった二文字の名前を呼ぶことに、これほどまで苦戦している。
「名前で呼んでいいって言ったのは、凛の方だろ?」
「それは……そうだけど! 呼ぶ側にも準備っていうのがあるのよ。……如月……律……」
彼女が、消え入るような声で僕の名前を呟く。
神様なら、一瞬で彼女の喉を操って、甘い声で僕の名前を連呼させることもできただろう。でも、この「言えそうで言えない」凛の葛藤こそが、僕にとっては何物にも代えがたい報酬だった。
「……りつ」
不意に、風が吹き抜けるような速さで、彼女が言った。
「え? 今なんて?」
「……二度は言わないわよ! ……如月 律! あなた、本当になんなの? 私の計算を、ペースを、全部めちゃくちゃにして……」
凛は顔を真っ赤にして、持っていたグミの袋を僕に押し付けた。
「……律。……これでいいんでしょ。……満足?」
彼女の瞳には、名門校時代のプライドをかなぐり捨てた、一人の恋する少女の熱が宿っていた。
氷の壁はもう、どこにもない。
そこにあるのは、お菓子を分け合い、名前を呼び合う、ただの「如月 律」と「三宅 凛」の、不器用な日常だけだ。
「ああ。……最高に満足だよ、凛」
「……バカ。……もう一回、グミ食べなさいよ」
僕たちは、静まり返った図書室で、安っぽいお菓子の甘さを共有した。
神様のいない世界で、僕たちは僕たちの名前を、一音ずつ刻んでいく。
如月 律。
凛さんがその名前を呼んだ瞬間、二人の世界から「三宅さん」と「如月くん」という記号が消え去りました。
名門・翠ヶ丘のエリートだった彼女が、一人の少年の名前を呼ぶためにこれほどまで赤面する。
神様のくれた10億円よりも、この瞬間の彼女の「名前を呼ぶ声」のほうが、律にとっては価値がある。




