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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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悪役令嬢イザベラの断罪手帖

教養ゼロの王子と愛人が、建国の理念を「罵倒」と勘違いして侯爵令嬢を断罪!?~愛人の罪を擦り付けられ家族を泥に沈められた書庫番の俺、夜会で無知を晒して自爆するバカ王子を国王と共に見限ることにした。~

作者: 九条 綾乃

◇第一章:届かぬ聖域

 王宮図書館の最深部、秘蔵書庫。 窓のないその空間は、数百年の歴史が放つ古い紙とインクの匂いに満ちていた。外の世界がどれほど喧騒に包まれていようとも、ここには変わることのない静寂と、先人たちの叡智が眠る重みがある。


 警備員であるハンスにとって、ここは人生のすべてだった。

「ハンス、君ほどこの場所を愛している者はいない。君の知識、古法規への理解……それはそこらの放蕩貴族よりもよほど司書にふさわしいものだ」

 亡き先代館長は、若き日のハンスの肩を叩いてそう言ったものだ。しかし、その後に続く言葉はいつも同じだった。

「だが、すまないな。司書は準貴族以上の身分が必須なのだ。平民の君には、この扉を守ることはできても、その中身を公に編纂へんさんする資格がない」


 ハンスは独学で『帝国階梯令』を始めとする古典を読み解き、王国の歴史と法体系を網羅していた。だが、彼の公的な肩書きは「書庫番兼警備」。どれほど知識を蓄えても、彼は肉体労働者として、棚の埃を払い、不審者を遠ざけるだけの存在に過ぎなかった。


 それなのに、運命はあまりに残酷な対比を彼の前に突きつけた。 第一王子アルフォンスの愛人、リリアン・エヴァンス。 平民出身でありながら王子の寵愛を盾に、彼女はハンスが一生を懸けても得られなかった「見習い司書」の座にあっさり就いたのだ。彼女は図書館を「王妃になるための箔付けの場」としか思っていなかった。


「ハンス、そこの脚立を持ってきなさい。この本、表紙の細工が綺麗だからお茶会の飾りに持っていこうと思うの」


 リリアンは、素手で貴重な革表紙を掴み、あまつさえその上に紅茶のカップを置こうとさえした。ハンスはその度に心臓が止まる思いで、震える指先を隠しながら彼女を諫めた。だが、無知な特権階級ほど、誠実な忠告を「不敬」と受け取るものだ。


 そしてあの日、最悪の事件は起きた。



◇第二章:ワインに沈む真実

「あら……手が滑ってしまいましたわ」


 静寂を切り裂く、陶器の割れる音。 ハンスの目の前で、深紅の液体が白く美しい羊皮紙に広がっていった。 それは、ハンスが毎日欠かさず状態を確認し、慈しんできた国宝級の文化財『古代語辞典』だった。建国期の言葉を現代に伝える、王国に一冊しか存在しない至宝。


「……な、……な、なんということを……!」


 ハンスは絶叫に近い声を上げ、床に落とされた本を拾い上げる。液体を吸い取ろうと布を出すが、ワインの染みは無慈悲に文字を侵食していく。


「何を騒いでいるの。たかが古臭い本でしょう? また新しいのを買えばいいじゃない」


「買えるはずがない! これは数百年前に編纂された、代えのきかない……!」


「黙りなさい!」


 リリアンの鋭い声が書庫に響いた。彼女の顔からは、先ほどまでの猫なで声が消え、爬虫類のような冷酷な光が宿っていた。


「いい、ハンス。これは、恐ろしいイザベラ様がわたくしを突き飛ばしたせいで起きた悲劇なの。わたくしは被害者。そして貴方は、それを見ていた唯一の証人よ」


「まさかそんな見え透いた嘘を……。国王陛下に報告しなければ……」


「できるかしら? 城下にあるあなたの実家、あそこのパン屋には妹さんがいたわね。病弱で、毎月の薬代が大変らしいと聞いてるわ。わたくしが殿下に一言『あそこのパンは不衛生だ』と囁けば、明日には店は潰され、家族は路頭に迷うわよ。それでも真実を語る?」


 ハンスの全身から力が抜けた。目の前の女は、本を汚しただけでなく、自分の誇りと、かけがえのない家族の命までを天秤にかけて笑っている。 ハンスは血が滲むほど唇を噛み締め、絶望の中で沈黙を選んだ。



◇第三章:泥濘の誓い

 翌日。リリアンの「脅し」は単なる言葉ではなかった。 ハンスが偽証を迷っていることを察知したのか、彼女は先手を打った。 ハンスの実家のパン屋に、リリアンの息がかかった衛兵たちが押し寄せたのだ。


「不衛生な材料を使用している疑いがある! 全員外へ出ろ!」


 怒号とともに、病床にいた妹が薄い寝巻きのまま泥濘ぬかるみの広場へと引きずり出された。父は必死に抗議したが、警棒で何度も殴りつけられた。 「やめてくれ! 父さんは何もしていない!」 ハンスが駆けつけたときには、店の看板は叩き割られ、命ともいえるオーブンは破壊されていた。ハンス自身も、衛兵のブーツによって泥の中に顔を押し付けられた。


「……平民の分際で、殿下のお気に入りに盾突こうなんて。身の程を知れ」


 衛兵が嘲笑う。泥の味がした。無力感と悔しさで、視界が真っ赤に染まる。 その時だった。


「――随分と、下劣な見世物ですわね」


 冷徹だが、どこか鈴の音のように清らかな声が響いた。 泥の中から目だけを上げると、そこには深紅のドレスを翻し、毅然とした態度で立つ女性がいた。 ロザリンド侯爵令嬢、イザベラ。 王子の婚約者であり、その厳格さと知性ゆえに「氷の令嬢」と恐れられる女性。


 彼女の背後に控える護衛たちが一瞬で衛兵を制圧し、イザベラはハンスの前に歩み寄った。そこへ、騒ぎを聞きつけたリリアンが、勝ち誇った顔で駆け寄ってくる。


「あらイザベラ様。こんな汚らしい場所で、平民こんなものと仲良くされるなんて。侯爵家の品格を疑われますわ」


 ハンスは泥を噛んだ。リリアン、貴女だってつい先日まで平民だったはずだ。王子の寵愛一つで、自分を育てた土壌を汚物のように呼ぶのか。 イザベラはそんなリリアンを、路傍の石ころでも見るような冷ややかな目で見据えた。


「品格? ……笑わせないで。ご自分が何者かも忘れ、同胞を『こんなもの』と呼ぶ貴女に語られる筋合いはありませんわ。リリアン様、貴女は歴史を何も理解していらっしゃらない」


 イザベラは周囲の民衆、そして震えるハンスの家族を指し示すように扇を広げた。


「貴族子弟の必修科目である古典『帝国階梯令』を学び直してはいかが? そこには、この国を支えるのは本来貴女自身も含まれるはずの、『下賤げせんな血筋』であると定義されています。それは魔力を持たぬがゆえに、国が全力で守るべき『尊き礎』という意味。……民を慈しまぬ者に、高貴を名乗る資格などありません」


 その瞬間、リリアンは狂喜に顔を歪めた。


「まあ! 今、はっきりとおっしゃいましたわね? わたくしのことも含めて『下賤』だなんて……! この平民たちの前で、わたくしたちをそんな汚い言葉で罵るなんて。殿下も、これを聞けばさぞお悲しみになるでしょうね!」


 リリアンは満足げに、軽やかな足取りで王子への「報告」に去っていった。 泥を拭いながらそれを見ていたハンスは、あまりの「無教養」に背筋が凍る思いだった。


(……なんてことだ。貴族の初等教育で叩き込まれる『帝国階梯令』の一節すら知らないのか。あの法典において『下賤』とは、力なき者を慈しみ、王が守護を誓うための最上級の敬意が込められた言葉だ。現代の俗語として、単なる差別用語として使うのは、よほど無知な者だけだ。それを司書を名乗る者が……あまつさえ、次期国王と目される王子に『罵倒の証拠』として差し出すというのか?)


 ハンスは、イザベラを見上げた。彼女の瞳には、揺るぎない確信があった。 「ハンス。無知は罪ではありません。ですが、資格なき者が真実を歪め、他者を踏みにじることは許されません」


 イザベラは、ハンスの泥だらけの手を、汚れることも厭わずに優しく包んだ。 「貴方の誇りと、貴方が守ってきた言葉を、泥にまみれたままにするのですか?」


 ハンスの胸の奥で、消えかかっていた灯火が爆発した。 「……いいえ。いいえ、イザベラ様。俺は、……俺は、書庫の番人です!」


 その夜、ハンスは破壊された店の一角で、震える手で『警備報告書』を書き上げた。それは事実の羅列ではない。古法規に基づいた論理的な弾劾状だった。



◇第四章:断罪の夜会

 数日後。王宮の大夜会。 シャンデリアの光が眩しい広間には、王国中の貴族が集まっていた。その中央で、アルフォンス王子がイザベラを指差し、激情的な叫びを上げた。


「一つ目の罪状! イザベラ・ロザリンド! 貴様は、心優しきリリアンに対し、嫉妬の念から陰湿な中傷を行った! 貴様が発した『下賤な血筋』という罵倒は、リリアンの心を深く傷つけた! 淑女として、いや人間として最低の行為だ!」


 その瞬間、広間は水を打ったような静寂に包まれた。 だが、それは王子が期待したような、イザベラへの非難の静寂ではなかった。


「……っ!?」 最前列に並ぶ高位貴族たちが、一様に息を呑み、驚愕の表情で顔を見合わせた。ある者は耳を疑い、ある者はあまりの「不敬」に顔を青ざめさせている。 玉座に座る国王陛下にいたっては、こめかみに青筋を浮かべ、今にも怒声を上げそうなほどに顔を震わせていた。


 そんな周囲の凍りつくような反応を、アルフォンス王子とリリアンは完全に読み違えていた。


(ふふ、これよ……! 皆、あまりの酷い罵倒に言葉を失っているんだわ!) リリアンは王子の腕に縋り付き、悲劇のヒロインを演じながら、内心で勝利を確信していた。 王子もまた、誇らしげに胸を張り、イザベラに止めを刺そうと語気を強める。


「どうした、何も言い返せまい! 平民を、そしてリリアンを『下賤』と呼んだその傲慢さ、断じて許されるものでは――」


「黙れ、アルフォンスッ!!」


 落雷のような国王の怒号が広間に響き渡った。


「え……? 父上?」 王子は呆然として立ち尽くした。自分を称賛し、イザベラを叱責するはずの父親が、信じがたいものを見る目で自分を睨みつけている。


「アルフォンス……。お前は、自分が何を叫んでいるのか、その言葉の定義すら分かっていないのか。……『下賤』とは、聖王が民に与えた慈愛の称号だ。帝国階梯令の根幹であり、我が国の建国の精神そのものだぞ!」


「え……あ、いや、しかしリリアンが……」


「それを『罵倒』と断定するとは……お前は、この国の歴史を、そしてお前を支えてくれる民を、心底見下している証拠ではないか!」


 国王の顔は、深い失望と情けなさで歪んでいた。 周囲の貴族たちの視線も、冷ややかな蔑みへと変わっていた。貴族にとって『帝国階梯令』を知らぬことは、文字を読めぬことと同義の恥辱なのだ。


 イザベラは、扇で口元を優雅に隠しながら、冷静かつ論理的に反論を始めた。


「殿下、それは彼女の自己保身のための虚偽です。わたくしが彼女を呼び出したのは、彼女が王宮図書館の秘蔵書庫にある『古代語辞典』にワインをこぼし、隠蔽しようとしたのを発見したからです」


 イザベラが侍女に目配せをする。差し出された木箱の中には、ハンスが記録した『警備報告書の控え』と、証拠の羊皮紙が収められていた。


「わたくしは図書館長補佐として、文化財保護の観点から助言したまで。……殿下は、国の貴重な文化財が危機に瀕した状況を、単なる『いじめ』と断定されるのですか?」


「リリアン・エヴァンス! 司書でありながら古典の一節も知らぬ貴様の無教養にも呆れるが、アルフォンス、我が後継者として育てたお前が、一人の女の無知な訴えに乗り、建国の精神を汚したことは致命的だ。お前たちにこの国を語る資格はない!」


 リリアンは顔面蒼白になり、その場に崩れ落ちた。ハンスは扉の影で、静かに涙を拭った。



◇第五章:書記勲爵士の誇り

 事件から一ヶ月が経った。 リリアンは国外追放。アルフォンス王子は廃嫡ののち、都から遠い修道院へ幽閉された。 ハンスの家族の店は、ロザリンド侯爵家の支援によって以前よりも立派な店として再建された。


 ハンスは、侯爵邸の執務室に呼び出されていた。 目の前には、王宮顧問へと抜擢されたイザベラが座っている。


「ハンス。国王陛下より、貴方に一代限りの準貴族爵位『書記勲爵士ライブラリ・ナイト』の称号が授与されました。……そして、今日から貴方は王宮図書館の『正式な司書』です」


 ハンスは言葉を失った。一生届かないと思っていたその称号。 ハンスはその場に跪き、震える手でイザベラのドレスの裾に触れ、深く、深く頭を下げた。


「この命、この知識……すべて、イザベラ様とこの国の真実を守るために捧げます。……誓って、二度と言葉を汚させはいたしません」


 一ヶ月後。ハンスは正式な司書の制服に身を包み、かつて自分を脅した女が汚した辞典を、丁寧に修復していた。


 たとえ魔力を持たぬ「下賤な血筋」であろうとも、正しく言葉の真実を守り抜く意志がある限り、その魂は誰よりも高貴である。 ハンスの背筋は、今や王国のどの貴族よりも、誇り高く、真っ直ぐに伸びていた。

この話は「悪役令嬢イザベラの断罪手帖」の一部です。

よろしければ、他のストーリにもお目通しくださいませ。

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