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私説 西遊記の遊戯  作者: 光闇居士


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22/27

第二十一回:護法は荘(いえ)を設けて大聖を留め、 須弥(しゅみ)の霊吉(れいきち)は風魔を定む

挿絵(By みてみん)


(パパン!と張扇の音が響く)


えぇ〜、さて! 皆様方、とくとご覧あれ!


これぞまさに『西遊記』屈指の難所、黄風嶺こうふうれいにおける絶体絶命の瞬間でございます!


突如、天地がひっくり返るような轟音とともに巻き起こりましたるこの怪風! ただの風ではございませぬ。これぞ、あの黄風大王こうふうだいおうが操る、世にも恐ろしい「三昧神風さんまいしんぷう」!


見上げれば、空は墨をぶちまけたように真っ黒に染まり、大地を削り取った黄土が混じり合って、ドロドロと不気味な色で渦を巻く! ゴォォォォッ! と吹き荒れる嵐の中、ギョロリと光る眼光! 浮かび上がるは、墨絵から抜け出したような巨大な龍の幻影! そして皆様、よく目を凝らしてご覧なさい。その龍の影の奥、嵐の中心に、諸悪の根源たる妖怪の黒い影が、ニヤリと笑って潜んでいるのがお分かりいただけるでしょう!


松の巨木は飴細工のようにへし折られ、千引ちびきの岩石が木の葉のように舞い上がる! まさに阿鼻叫喚、この世の終わりかという凄まじさ!


対するは、我らが英雄、斉天大聖せいてんたいせい・孫悟空! いつもならば、筋斗雲きんとうんに乗って変幻自在、どんな妖怪も自慢の棒で一撃のもとに打ち倒すお方ですが、今日ばかりは勝手が違う!


この風の前では、目も開けられぬ! 息もできぬ! いかな神通力も、「形なき風」の前では通用いたしませぬ!


悟空、必死の形相で、自慢の如意金箍棒にょいきんこぼうを岩盤にグサリと突き立て、大地にへばりついて耐えるのが精一杯! その黄色いころもが、暴風に煽られ、今にも千切れんばかりにバタバタバタッと暴れております!


ああ、天下無敵の大聖も、ここまでか! まさに絶体絶命、風前の灯火! この天地を呑み込む魔風の脅威から、悟空は一体どうやって逃れることができるのでありましょうか!?


固唾を呑んで見守る、緊迫の場面でございます!


【しおの】

 さて、物語の糸を少し戻しましょう。

 先鋒を務めていた虎の怪物が、あの毛むくじゃらの和尚――孫悟空の手にかかり、哀れな最期を遂げたとの知らせは、敗走した五十匹ほどの小妖怪たちによって黄風洞こうふうどうにもたらされました。破れた旗や壊れた太鼓を引きずり、彼らは慌てふためいてあるじに報告します。

「大王様、大変です! 虎先鋒はあの和尚に敵わず、東の山坂へ追い詰められ、ついに打ち殺されてしまいました。あろうことか奴め、その死骸を門前まで引きずってきて、我らに戦いを挑んでおります!」

 これを聞いた黄風大王は、怒りと悲嘆で胸が張り裂けんばかり。うつむいて沈黙し、策を巡らせていたところへ、今度は門番の小妖怪が転がり込んできました。

「大王様、あの毛むくじゃらの雷公らいこう野郎が、外で罵詈雑言を浴びせております!」

 老妖ろうようはいよいよ激怒し、声を荒げました。

「あの野郎、なんと無礼な。わしはまだ奴の師匠を口にしてもおらぬというのに、我が手足たる先鋒を殺すとは! 許せぬ、断じて許せぬ! 者ども、鎧を持て。孫行者そんぎょうじゃとやらがどれほどのものか、この目で確かめてくれる。九つの頭に八つの尾を持つ化け物であろうと、必ずや捕らえて虎先鋒の仇を討ってやる!」

 手下たちは大急ぎで甲冑を運び込みました。老妖は手際よく身支度を整えると、三股の鋼鉄のフォーク(鋼叉)を引っ提げ、妖怪の軍勢を率いて洞窟から躍り出ました。

 斉天大聖・孫悟空は、門前で今か今かと待ち構えておりました。現れた妖怪を一目見れば、なかなかに勇猛な風体です。その出で立ちときたら、まさに詩に謳われるような威容でございました。

金色の兜は陽の光を浴びて輝き、身にまとう金の鎧は、眩い光を凝縮させたかのよう。

兜の頂には山雉やまきじの尾がふわりと揺れ、淡い鵞鳥がちょう色の薄衣が鎧を優美に覆っている。

鎧を締める帯は、まるで龍がうねるように極彩色の輝きを放ち、胸に輝く護心鏡ごしんきょうは、見る者の眼を射るほどに煌びやかだ。

足元にはえんじゅの花で染めた鹿皮の靴を履き、腰には柳の葉のごとき刺繍を施した錦の衣が巻かれている。

その手に提げた三股の鋼叉こうさの鋭さは、あのかつての天界の武神・顯聖二郎真君けんせいじろうしんくんの槍にも劣らぬ迫力である。

 老妖は門を出るなり、鋭い声で叫びました。

「どれが孫行者だ!」

 悟空は虎の怪物の皮を腰に巻き、手には如意金箍棒にょいきんこぼうを弄びながら答えました。

「お前の『そん』という名の『お爺様』ならここだ。さっさと我が師匠を返せ」

 怪物は目を凝らして悟空を見やりました。なんと、その体躯は貧相で、顔は痩せこけ、背丈は四尺(約一二〇センチ)にも満たないではありませんか。怪物は鼻で笑い飛ばしました。

「哀れな、実に哀れな奴だ。どんな豪傑かと思えば、なんとまあ、骸骨のような病人の幽霊ではないか」

 悟空も負けじと笑い返します。

「この小僧め、人を見る目がないな。お前のお爺様は図体こそ小さいが、もしお前がそのフォークの柄で頭をぶん殴ってくれれば、三尺ばかり背が伸びるんだぜ」

「ならば頭を出しな、一撃くれてやる!」

 大聖は微塵も恐れず、仁王立ちで立ちはだかります。怪物はここぞとばかりに一撃を見舞いました。すると悟空は腰をぐっとかがめたかと思うと、たちまち背が三尺ほど伸び、一丈(約三メートル)の堂々たる巨漢に変じたではありませんか。

 仰天した怪物は鋼叉を構え直し、怒鳴りました。

「孫行者め、誰が俺の門前で大道芸を見せろと言った? こけおどしはやめて、かかってこい! その手並みを見せてみろ!」

 悟空はニヤリと笑いました。

「小僧よ、昔から『情けをかけるなら手を出さず、手を出すなら情けは無用』と言うだろう。お爺様の腕は重いぞ。お前ごときにこの棒が耐えられるかな?」

 問答無用とばかりに、怪物は鋼叉を捻り、悟空の胸元めがけて突きかかりました。大聖は「能ある鷹は爪を隠す」余裕を見せつつも、鉄棒を振るい、「烏龍が地を掠める」構えで切っ先を払い、すかさず怪物の頭を狙って打ち込みました。

 黄風洞の入口で繰り広げられた戦いは、それはそれは凄まじいものでございました。

妖王は怒り狂い、大聖は神威を振るう。

妖王の怒りは亡き先鋒の仇を討つため、大聖の神威は捕らわれの師を救わんがため。

叉が攻め来れば棒が受け、棒が唸れば叉がこれを迎え撃つ。

一方は山を鎮める妖魔の総大将、一方は仏法を守護する斉天大聖美猴王。

初めは土埃の中で剣呑に争っていたが、やがて互いの力は拮抗し、戦いの場は空へと舞い上がる。

研ぎ澄まされた鋼の切っ先と、黒光りする如意棒の金のたがが火花を散らす。

突き刺されば魂は冥府へ飛び去り、打たれれば閻魔への謁見は免れぬであろう。

全ては瞬きも許さぬ手足の早業と、鍛え上げられた強靭な肉体あってこそ。

双方が命を捨ててぶつかり合うその様は、どちらが無事でどちらが傷つくか、ただ神のみぞ知る死闘である。

 老妖と大聖は三十合ほど打ち合いましたが、一向に勝負はつきません。業を煮やした悟空は決着をつけようと、「身外身しんがいしんの法」を用いました。自らの体毛を一把むしり取り、口で細かく噛み砕いて空へプッと吹き上げ、「へん!」と叫んだのです。

 するとどうでしょう。百人、いや十人の孫行者がたちまち現れ、どれもこれも同じ姿で鉄棒を持ち、空中で怪物を包囲したではありませんか。

 多勢に無勢、さすがの怪物も肝を冷やしました。しかし、彼にも奥の手がありました。急いで東南の方角(巽の方位)へ向き直り、口を三度大きく開けて、ふっと息を吹き出したのです。

 途端に、一陣の黄色い風が空から巻き起こりました。その風の恐ろしいことと言ったら、天地を覆すほどです。

冷たく吹き荒ぶ風に天地の色は変わり、姿なき黄砂が渦を巻いて視界を奪う。

林を抜け、峰をへし折り、松や梅を根こそぎなぎ倒し、土を巻き上げ塵を払い、堅牢な山崖をも崩し去る。

黄河の波は底の泥まで巻き上げられて濁り、湘江の水は逆巻いて激しく波打つ。

蒼天は揺れ動き北斗の星宮を震わせ、地底にある地獄の森羅殿さえ倒れんばかりの勢いである。

五百の羅漢は空で騒ぎ、八大金剛もあわてふためく。

文殊菩薩の乗る青獅子は逃げ出し、普賢菩薩の乗る白象も行方知れずとなってしまった。

北の真武大帝に従う亀と蛇は群れを失い、文昌帝君ぶんしょうていくんの愛馬はその鞍を風に飛ばされた。

旅商人は蒼天に祈り叫び、船頭は神々に必死の願掛けをする。

煙る波間にて命は木の葉の如く漂い、名利を求めた人生もただ水泡と帰すのみ。

仙人の洞窟は暗闇に包まれ、伝説の蓬莱の島も昏く沈んで見えなくなる。

太上老君は丹炉の火の番もままならず、寿老人はあわてて自慢の龍のひげの扇を懐にしまった。

蟠桃会へ向かう王母娘娘おうぼにゃんにゃんも、無慈悲な風に美しい裳裾もすそと宝石を吹き乱される始末。

二郎真君は灌州城への帰り道を見失い、哪吒太子なたたいしは剣を抜くことさえままならない。

托塔李天王は宝塔を見失い、名工・魯班ろはんは手にした金槌を落とす。

雷音寺の宝殿は三層も倒壊し、趙州にある石橋は真っ二つに折れ飛んだ。

一輪の紅き太陽も砂塵に隠れて光を失い、満天の星斗はかき乱されて瞬きさえ見えない。

南山の鳥は北山へ飛ばされ、東湖の水は西湖へと溢れ出す。

雌雄のつがいは離れ離れになり、母と子は互いを呼ぶ声さえ風にかき消されて届かない。

龍王は海中で夜叉を探し、雷公は稲妻の行方を捜して駆け回る大混乱。

十代の閻魔王は判官を見失い、地獄の獄卒である牛頭ごず馬面めずを追いかけ回す。

この風は南海の聖地・普陀山ふださんをも吹き倒し、観音経の一巻を巻き上げる。

白蓮華は花びらを散らして海辺へと飛び、菩薩の十二院を根底から吹き飛ばした。

盤古が天地を開いてよりこの方、これほどまでに悪しき風はいまだかつて見たことがない。

凄まじい轟音と共に乾坤けんこんは裂け、万里の江山はただただ震えおののくばかりである。

 妖怪がこの狂風を巻き起こすと、孫大聖の分身である小行者たちは、まるで風に舞う糸車のように空中でキリキリと舞わされ、棒を振るうどころか、身動き一つ取れません。悟空は慌てて身を震わせ、分身の毛を本体に収めました。

 独り鉄棒を掲げて立ち向かおうとしましたが、怪物は間髪入れず、悟空の顔めがけて一息、黄色い風を「ふっ」と吹きかけました。その風が悟空の自慢の「火眼金睛かがんきんせい」を直撃したのです。両目は酸欠のようにヒリヒリと痛み、まぶたが固く閉じてどうしても開きません。これでは戦いようもなく、悟空はたまらず敗走しました。それを見た妖怪も風を収め、悠々と洞窟へと引き上げました。

 一方、猪八戒ちょはっかいはどうしていたかと言えば、凄まじい黄風と天地の暗転を目の当たりにし、馬を引き、荷物を抱え、慌てて山窪に伏せておりました。目を開けることも頭を上げることもできず、ただひたすら念仏を唱えるばかり。悟空が勝ったのか負けたのか、師匠が生きているのか死んだのか、皆目見当もつきません。

 疑心暗鬼になっていると、やがて風が止み、空が晴れ渡りました。恐る恐る洞窟の方を見ても、戦う音も気配もありません。この豚の妖怪である八戒は、攻め込む勇気もなく、かといって荷物を置いていくわけにもいかず、進退窮まってオロオロするばかり。

 そこへ西の方から、孫大聖がブツブツと不平を漏らしながら歩いてくるのが聞こえました。八戒はホッとして身を起こし、迎えに出ました。

「兄貴、すげえ風だったな! 一体どこへ行ってたんだ?」

 悟空は手を振って答えました。

「参った、参った! 俺様も生まれてこの方、あんな風は見たことがねえ。あの老妖め、三股の鋼叉で俺様とやり合って、三十合ほど戦ったところで俺様が分身の術を使ったんだ。囲んで叩いてやったら、奴さん焦りやがって、あのとんでもない風を吹き出しやがった。まったく凶悪な風だ。立っていられないほどで、術を解いて風にまぎれて逃げてきたんだ。……へっ、いい風だ、まったく! 俺様も風を呼び雨を降らすことはできるが、あんな悪辣な風にはお目にかかったことがねえ」

「兄貴、奴の武芸はどうだった?」

「まあまあだな。鋼叉の扱いは手堅い。俺様と互角ってところだ。だが、あの風が厄介だ。あれじゃ勝てねえ」

「そんな弱気で、どうやって師匠を助けるんだよ?」

「師匠の救出は後回しだ。この辺に眼科医はいないか? まずはこの目を治してもらわねえと」

「目はどうしたんだ?」

「あの化け物に黄色い風を吹きかけられてな。眼球が酸っぱくて痛くて、涙が止まらねえんだ」

「兄貴、冗談よしなよ。こんな山奥で、しかももう夕方だぜ。眼科どころか、宿屋だってありゃしねえよ」

「宿ならなんとかなるさ。あの妖怪も、まだ師匠を食らってはいないはずだ。街道に出て人家を探そう。一晩泊まって、目の調子を戻してから、また退治しに行けばいい」

「そうだな、そうしよう」

 八戒が馬を引き、荷物を担いで山窪を出て街道へ上がると、あたりはすっかり黄昏時でした。ふと、南の山坂の下から犬の鳴き声が聞こえます。二人が立ち止まって見ると、そこには一軒の屋敷があり、ちらちらと暖かな灯りが見えるではありませんか。

 二人は道があるのも構わず、草をかき分けてその屋敷の門前にたどり着きました。見れば、なんとも風情のある美しい場所です。

紫の芝が深く茂り、庭の白い石は蒼然として苔むしている。

草むらには蛍火が点々と灯り、自然の樹木が優しく林をなす。

風に乗って漂う香しい蘭の花、植えられたばかりの若竹が青々としている。

清らかな泉は谷を巡り、古いかしわの木が崖に静かに寄り添う。

人里離れ、訪れる旅人もなく、門前にはただ野花が咲き乱れるばかりの幽玄な住まいであった。

 二人は勝手に入るわけにもいかず、

「頼もう、頼もう! どなたか、門を開けてくだされ!」

 と声を上げました。

 中から一人の老人が、数人の若者を連れて出てきました。手には護身のフォークや箒を持っています。

「何者じゃ? 何者じゃ?」

 悟空は身を屈めて丁重に挨拶しました。

「我々は東土大唐の聖僧の弟子でございます。西方へ経を求めに行く途中、この山を通りましたが、不運にも黄風大王に師匠をさらわれてしまいました。いまだ救い出せずにいるのですが、日も暮れてしまいました。どうか一晩の宿をお願いしたく存じます」

 老人はその言葉を聞き、武装を解いて礼を返しました。

「これは失礼いたしました。ここは雲多くして人少なき場所ゆえ、物音を聞いて狐狸や虎、あるいは山賊の類かと思い、粗末な道具を持ち出して警戒いたしました。まさか高名な長老方とは存じませんでした。さあさあ、どうぞ中へ」

 兄弟は馬と荷物を運び入れ、馬をつなぎ荷を下ろすと、老人と挨拶を交わして客座に着きました。召使いが香り高い茶を出し、続いて香ばしい胡麻の飯が振る舞われました。食事が終わると、寝床が手際よく用意されました。

 悟空はふと思い出し、尋ねました。

「寝る前にお伺いしたいのですが、この辺りに目薬を売っている店はございませんか?」

「どちら様が目を患っておいでかな?」と老人。

「隠さず申しますが、我ら出家者は病知らずで、目の病など患ったこともございません」

「患っていないなら、なぜ薬を求めるのです?」

「今日、黄風洞で師匠を救おうとした際、あの化け物に風を吹きかけられまして。目が酸っぱく痛み、涙が止まらないのです。それで薬を探しております」

 老人は大きく頷いて言いました。

「なんとまあ。長老、いい歳をして強がってはいけませんな。あの黄風大王の風は、並大抵のものではございませんぞ。春風や秋風、松風や竹風、東西南北の通常の風とはわけが違います」

 八戒が横から口を挟みました。

「ひょっとして、『ひきつけ(夾脳風)』とか『てんかん(羊角風)』とか『ハンセン病(大麻風)』とか『偏頭痛(偏正頭風)』の類ですかね?」

「いやいや、違います。あれは『三昧神風さんまいしんぷう』と呼ばれる恐ろしい風です」

 悟空が興味津々に聞きます。「どうしてそれがわかるのです?」

「あの風は天地を暗くし、鬼神をも震え上がらせ、岩を裂き崖を崩す悪風です。まともに受ければ命を落としますぞ。生きていられるのは神仙くらいなものでしょう」

「なるほど、なるほど。あっしらは神仙じゃありませんが、まあ神仙なんぞはわしの後輩みたいなもんでしてね。そう簡単に死にはしませんが、目が痛くてかなわんのです」

「そうおっしゃるなら、ただならぬお方なのでしょう。ここには目薬売りなどおりませんが、幸い、わし自身、風に当たると涙が出るたちでしてな。昔、ある異人から『三花九子膏さんかきゅうしこう』という秘伝の処方を授かりました。あらゆる眼病に効く特効薬です」

 悟空は深々と頭を下げて頼みました。

「なんと有難い。どうか少しばかり、その妙薬を試させていただけませんか」

 老人は快く承諾し、奥へ入ると瑪瑙めのうの小瓶を持って戻ってきました。栓を抜き、玉のかんざしで軟膏をすくい取ると、悟空の目に丁寧に点眼しました。

「明日の朝まで決して目を開けず、安らかに眠りなされ。そうすれば必ず治ります」

 そう言い残すと、老人は瓶をしまい、召使いを連れて奥へ下がっていきました。

 八戒は荷物の包みを開け、寝床を整えて悟空を寝かせました。悟空は目を閉じたまま、手探りで枕の位置を確認しています。

 八戒は笑いました。

「先生、愛用の杖はどうした? すっかり盲人扱いだな」

 悟空は口惜しそうに言い返します。

「この穀潰しめ、俺を盲人扱いして喜んでやがるな」

 八戒はクスクス笑いながら眠りにつきました。悟空は寝台に座ったまま、体内の気を巡らせる功法を行い、深夜になってようやく横になりました。

 いつしか夜が明け、朝の光が差し込みました。

 悟空が顔を撫で、そっと目を開けてみると、どうでしょう。

「こいつはすげえ薬だ! 以前よりずっと視界がはっきりする」

 喜んであたりを見回すと、なんとそこには立派な家屋も窓もありません。あるのは古いえんじゅと高い柳の木ばかり。彼らは柔らかい緑の草地の上で寝ていたのです。

 八戒がその声で目を覚ましました。

「兄貴、朝から何を騒いでるんだ?」

「おい、目を開けてよく見てみな」

 八戒が見上げると、人家は影も形もありません。慌てて飛び起きました。

「俺の馬は?」

「あそこの木につながれてるじゃないか」

「荷物は?」

「お前の枕元にあるだろう」

「ちぇっ、あの家の連中もひどいな。引っ越すなら一声かけてくれりゃあいいのに。そうすりゃ俺様がお茶や菓子の一つも餞別したものを。さては夜逃げか? 里長に知られるのを恐れて夜中に引っ越したんだな。……それにしても、俺たちもよく寝てたもんだ。家を解体する音にも気づかないなんて」

 悟空は鼻で笑いました。

「馬鹿野郎、いつまで寝ぼけたことを言っている。あの木に貼ってある紙切れを見ろ」

 八戒が近づいて剥がしてみると、そこには達筆な墨で四句の詩が書かれていました。

荘居いえはこれ俗人の居にあらず、仏法を守護する護法伽藍ごほうがらん点化てんかせしいおりなり。

妙薬もて君が眼痛をいやす、心を尽くして怪をくだすに躊躇ためらうことなかれ。

「あの神々め、俺が龍馬と入れ替わって以来、点呼もとらずに放っておいたから、こんな幻術でからかいに来たか」と悟空は苦笑します。

「兄貴、偉そうに言うなよ。なんで神様が兄貴の点呼を受けなきゃならねえんだ?」

「弟よ、お前は知らんだろうが、この護教伽藍、六丁六甲、五方掲諦、四値功曹といった神々は、観音菩薩の命を受けて、陰ながら師匠を守っているんだ。俺様は最近お前がいるから、奴らを使わなかっただけさ」

「兄貴、彼らは陰ながら師匠を守る役目だから、姿を現せないんだよ。だから仙人の屋敷に化けて助けてくれたのさ。昨日は目薬もくれたし、飯も食わせてくれた。尽力してくれたんだから、文句を言わずに感謝して、さあ師匠を助けに行こうぜ」

「まあ、お前の言う通りだ。ここから黄風洞は遠くない。お前はここで馬と荷物を見ていてくれ。俺様がちょっと様子を探って、師匠の安否を確かめてから戦うことにする」

「ああ、そうしてくれ。師匠が生きてるか死んでるか、はっきりさせてくれよ。死んでりゃそれぞれ身の振り方を考えなきゃならねえし、生きてりゃ命がけで助けるさ」

「滅多なことを言うな。行ってくる!」

 悟空は身を躍らせて洞窟の門前まで飛びました。門はまだ堅く閉ざされており、妖怪たちはまだ眠っているようです。悟空は門を叩かず、術を使って指を結び、呪文を唱えて身を揺すると、一匹のまだら模様の蚊に変身しました。小さくとも巧みな姿です。

わずらわしくも小さき姿に鋭き口ばし、その羽音はか細いが雷のように耳に響く。

美人の寝室や紗のとばりも自由自在、暑い夏の熱気を何より愛する曲者だ。

恐れるものはただ蚊取りの煙と団扇の風、慕うは暗闇を照らす灯火の輝き。

軽々と小さく素早く隙間に潜り込み、大聖は妖精の洞窟へと飛んでゆく。

 門番の小妖怪がいびきをかいて寝ているのを見つけ、悟空はその顔をチクリと一口刺しました。小妖怪は飛び起きました。

「痛え! なんてでかい蚊だ、一口でこんなに腫れちまった」

 目をこすって空を見ると、「夜が明けたぞ!」と叫びます。ギイと重い音がして、二の門が開かれました。

 悟空はブーンと軽快に中へ飛び込みました。中では老妖が各門の警備を厳重にし、武器を整えるよう指示を出しています。

「昨日の風で孫行者が死んでいなければ、今日も必ず来るはずだ。来たら今度こそ命を奪ってやる」

 それを聞いた悟空は、広間を飛び越えてさらに奥へと進みました。一層厳重に閉ざされた門がありましたが、わずかな隙間から潜り込むと、そこは大きな空き庭でした。見れば、「定風杭ていふうこう」という杭に、唐僧(三蔵法師)がグルグルに縄で縛り付けられています。師匠は涙を流しながら、悟空と悟能(八戒)の名を呼び続けていました。

 悟空は羽を休め、師匠のツルツルの頭にちょこんと止まって声をかけました。

「お師匠様」

 三蔵はその懐かしい声を聞き分けました。

「悟空か、会いたかったぞ。どこにいるのだ?」

「お師匠様、頭の上です。ご心配なく、嘆かないでください。必ずや妖怪を捕らえてお助けします」

「弟子よ、いつになったら妖怪を捕まえられるのだ?」

「お師匠様をさらった虎の怪物は、すでに八戒が打ち殺しました。ただ、老妖の風が少々厄介でして。ですが今日中には必ず捕らえます。泣かずに安心してお待ちください。では、行って参ります」

 悟空は再びブーンと飛び、広間へ戻りました。老妖は高座にふんぞり返り、手下たちに点呼をとっています。そこへ、伝令の旗を持った小妖怪が息を切らして駆け込んできました。

「大王様、巡回に出たところ、森の中に長い鼻と大きな耳の和尚が座っておりました。逃げ足が速かったので助かりましたが、捕まるところでした。ただ、昨日の毛むくじゃらの和尚は見当たりません」

 老妖は頷きました。

「孫行者がいないなら、風に吹き殺されたか、あるいはどこかへ援軍を頼みに行ったかだな」

 手下たちが不安げに言いました。

「大王様、死んでいれば幸いですが、もし死なずに神兵を連れてきたらどうしましょう?」

 老妖は豪語しました。

「神兵など恐るるに足らん。わしの『三昧神風』を止められるのは、唯一『霊吉れいきち菩薩』だけだ。それ以外に怖いものなど天界にも地界にもないわ!」

 はりの上でこれを聞いていた悟空は、心の中で快哉を叫びました。「しめしめ、これで勝てるぞ!」

 すぐに飛び出し、元の姿に戻って林へ急ぎます。

「弟よ!」

 八戒が待ちかねて言いました。

「兄貴、どこ行ってたんだ? さっき伝令の妖怪が来たから追い払ったぞ」

「お手柄だ、お手柄だ。俺様は蚊に化けて洞窟へ入り、師匠を見てきた。師匠は縛られて泣いていたが、俺様が慰めてきたよ。その後、梁の上で盗み聞きしていたら、お前が追い払った伝令が報告に来てな。老妖は俺が死んだか、援軍を呼びに行ったかと疑っていた。そして自ら弱点を漏らしやがったんだ。傑作だぜ」

「誰の名前を言ったんだ?」

「神兵など怖くないが、風を止められるのは『霊吉菩薩』だけだとさ。……だが、困ったことに、その霊吉菩薩とやらがどこに住んでいるのかわからん」

 二人が相談していると、街道の傍らから一人の老人が歩いてくるのが見えました。

杖も突かずに足取りはあくまで軽く、氷のような白い髭と雪のようなびんが豊かに茂っている。

金色の眼光は穏やかに輝き、痩せた体には精気が満ち満ちる。

背を曲げてゆっくりと歩くその姿、眉は白く顔は童子のようで、まるで伝説の寿老人が洞窟を出てきたかのようであった。

 八戒は喜んで言いました。

「兄貴、昔から『山の下の路を知りたければ、往来の人に問え』と言うだろ。あのおじいさんに聞いてみようぜ」

 大聖は鉄棒を隠し、身なりを整えて礼儀正しく近づきました。

「ご老人、少々お尋ね申します」

 老人は気のない様子で礼を返しました。

「どこのお坊さんかな? こんな荒野で何用じゃ?」

「我々は経を求める聖僧です。昨日ここで師匠を見失いました。お尋ねしたいのですが、霊吉菩薩はどこにお住まいでしょうか?」

「霊吉菩薩なら、ここから南へ三千里(約一五〇〇キロ)。小須弥山しょうしゅみせんという山があり、そこに菩薩の道場である禅院がございます。そこへ経を取りに行かれるのかな?」

「いえ、経ではなく、ある事をお願いしたいのです。どの道を行けばよろしいでしょうか?」

「この羊腸(羊の腸のように曲がりくねった)の小道を行けば着きますじゃ」

 老人が南を指差したので、悟空が振り返って道を見ようとした瞬間、老人は清風と化して消え失せました。道端には一枚の書き付けが残されており、そこには四句の詩が記されていました。

斉天大聖に申し上げる、今の老人はこれ李長庚りちょうこうなり。

須弥山に飛龍の杖あり、霊吉はかつて仏兵を受けたり。

「李長庚とは誰のことだ?」と八戒が首を傾げます。

 悟空は答えました。

「西方の太白金星たいはくきんせいの別名だ。いつも俺たちを助けてくれる、あの星の神様さ」

 八戒は慌てて空に向かって拝みました。

「恩人だ、恩人だ! 金星様が玉帝にとりなしてくれなきゃ、天界で暴れたときの俺の命はどうなっていたことか」

「弟よ、恩義を知っているのはいいことだが、今は顔を出すな。この森の奥に隠れて、荷物と馬をしっかり守っていてくれ。俺様は須弥山へ行って、菩薩様をお呼びしてくる」

「わかった、わかった。早く行ってくれ。俺は亀の真似をして、首を引っ込めて隠れてるよ」

 孫大聖は空へ飛び上がり、筋斗雲きんとうんに乗って南へ一直線に向かいました。その速いことと言ったら! 頷く間に三千里を過ぎ、腰を捻れば八百余里。またたく間に高い山が見えてきました。中腹には瑞雲がたなびき、神々しい空気が漂っています。山窪には確かに禅院があり、鐘の音が響き、香煙が立ち上っていました。

 大聖は門前へふわりと降り立ちました。一人の道士が数珠を掛け、念仏を唱えています。

「道士殿、ご挨拶いたします」

 道士は身を屈めて答えました。

「どちら様で?」

「ここは霊吉菩薩の講経の場でございましょうか?」

「さようでございます。何かご用で?」

「お手数ですがお伝え願いたい。東土大唐の御弟・三蔵法師の弟子、斉天大聖・孫悟空行者が、お願い事があって参上したと」

 道士は笑いました。

「お名前が長すぎて覚えきれません」

「なら、『唐僧の弟子の孫悟空が来た』とだけ伝えてくれ」

 道士が講堂へ伝えると、霊吉菩薩はすぐに袈裟を整え、香を焚いて出迎えました。大聖が中へ入ると、その荘厳な様子に圧倒されます。

堂内はにしきの装飾美しく、威厳はあたりを圧するほど。

門人たちは声を揃えてありがたい『法華経』を誦し、長老は金のけいを静かに鳴らす。

仏前の供え物は見たこともない仙果と仙花、机上にはあざやかな精進料理が並ぶ。

煌めく蝋燭の炎は虹のような光を放ち、香しい煙はいろどりの霧となって舞う。

まさに講義を終えて心静かに禅定に入り、白雲は松の梢を巡る、そんな悟りの境地が広がっていた。

慧剣けいけんを収めて煩悩の魔を断ち、般若波羅蜜の智慧は高らかにここにある。

 菩薩は悟空を客座に招き、茶を出そうとしましたが、悟空はそれを遮りました。

「お茶には及びません。我が師匠が黄風山で難儀しておりまして、菩薩様の大法力で怪物を降伏させ、師を救っていただきたいのです」

 菩薩は言いました。

「私はかつて如来の命を受け、あの黄風の怪物を鎮圧しました。その際、如来より風を鎮める『定風丹ていふうたん』と妖を捕らえる『飛龍の宝杖』を賜りました。当時、怪物を捕らえましたが、命までは取らず、山へ帰して殺生を禁じたのです。まさか今日、尊師に害をなしているとは。これは私の不徳の致すところです」

 菩薩は食事を勧めましたが、悟空は固辞しました。事態は一刻を争います。菩薩は飛龍の杖を手に取り、大聖と共に雲に乗りました。

 風を切って飛び、ほどなくして黄風山に到着しました。菩薩は言いました。

「大聖、あの妖怪は私を恐れております。私は雲の中に隠れておりますので、貴殿は降りて戦いを挑み、奴を誘い出してください。そうすれば私が法力を使いましょう」

 悟空はその言葉通り雲を降り、問答無用で鉄棒を振るい、洞窟の門を「ドーン」と打ち砕きました。

「妖怪め! 出てこい! 師匠を返せ!」

 門番の小妖怪が慌てて報告します。怪物は激怒しました。

「あの猿め、無礼極まりない! 降参するどころか門を壊すとは。今度こそあの神風で粉々に吹き殺してやる!」

 怪物は再び武装し、鋼叉を持って飛び出しました。悟空を見るなり胸元を突いてきます。大聖は身をかわし、棒で応戦しました。

 数合も戦わぬうちに、怪物は東南の方角へ顔を向け、口をあけて風を呼ぼうとしました。

 その時です。半空から霊吉菩薩が狙い澄まし、飛龍の宝杖を投げ下ろしました。何か呪文を唱えると、杖は八本の爪を持つ金色の龍へと変わり、ものすごい勢いで怪物を掴み取ったのです。

 龍は怪物の頭を掴んで岩場へ叩きつけました。すると怪物はたまらず正体を現しました。なんとその正体は、一匹の黄色い毛をした貂鼠テン、イタチのような大鼠でした。

 悟空は駆け寄り、棒で打ち殺そうとしましたが、菩薩が制止しました。

「大聖、殺してはなりません。私はこやつを霊山の如来のもとへ連れて行かねばならぬのです」

 悟空が理由を問うと、菩薩は説明しました。

「こやつは元々、霊山(釈迦の聖地)の麓で道を得た鼠でした。あろうことか瑠璃の器に入った清油を盗んで灯火を暗くしたため、金剛神に捕まるのを恐れて逃亡し、ここで妖怪となったのです。如来は死罪には及ばぬとして私に見張らせておりましたが、殺生を行い、唐僧を陥れ、大聖に逆らった罪は重い。如来の前に引き出し、罪を正してこそ、真の功績となりましょう」

 悟空はこれを聞いて納得し、菩薩に深々と礼を述べました。菩薩は妖鼠を連れ、西へと帰って行きました。

 さて、林の中にいた猪八戒は悟空の帰りを今か今かと待ちわびていましたが、山坂の下から叫ぶ声が聞こえました。

「悟能兄弟! 馬と荷物を持って来い!」

 聞き覚えのある悟空の声に、八戒は躍り上がって林を出ました。

「兄貴、どうなった?」

「霊吉菩薩にお越しいただいて、飛龍の杖で見事に妖怪を捕らえてもらったよ。正体は黄色いテンの大鼠だった。如来のもとへ連れて行かれたから、さあ、安心しろ。洞窟へ師匠を助けに行こう」

 八戒は大喜びです。

 二人は洞窟へ突入し、中にいた狐や鹿の化けた妖怪たちを、鉄棒と釘鈀(熊手)で一匹残らず打ち払いました。そして奥庭へ駆け込み、師匠の縄を解きました。

 三蔵法師は感涙にむせびながら尋ねました。

「お前たち、どうやってあの恐ろしい妖怪を捕らえ、私を救ってくれたのだ?」

 悟空は霊吉菩薩の助けを借りた経緯を詳しく話しました。師匠は空に向かって合掌し、感謝してやみません。

 兄弟は洞窟の中にあった精進の食材で食事を整え、ゆっくりと腹を満たしてから出発しました。松林を抜け、大路を通って、師弟は再び西天への旅路についたのであります。

 果たしてこの先、どのような運命が彼らを待ち受けているのでしょうか。

「最強の孫悟空、”生体化学兵器”に敗れる。そして、コネと専門家の力で解決へ」

復讐のボス戦:

部下を殺された敵のボス(黄風大王)と悟空が対決。武術の腕は悟空が上だが、敵は奥の手「三昧神風さんまいしんぷう」を発動。これはただの風ではなく、天地をひっくり返すほどの超・局地災害。

悟空、まさかの眼科通い:

この風は物理ダメージだけでなく、催涙ガス効果を持っていた。最強の悟空も目が潰れて撤退。「眼が痛いよー」と泣きつく悟空を、神々(護衛団)が人間に化けて特効薬で治療する、ちょっとシュールな展開へ。

攻略の鍵は「紹介状」:

いつもの親切な神様(太白金星)がお爺さんに化けて、「あの風は物理攻撃無効だ。弱点を突ける『霊吉菩薩』を呼んでこい」とヒントをくれる。

決着(じゃんけん構造):

悟空が菩薩を連れてくると、菩薩は魔法の杖(竜)を投げる。敵の正体は「黄色いテン(イタチ類)」だった。竜はテンより強いという相性じゃんけんと、仏法の力であっさり捕獲。師匠も無事救出。

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「風」という暴力の政治的メタファー

当時の明朝末期、政治は腐敗し、宦官の専横や社会不安(=悪い風)が吹き荒れていました。

この「三昧神風」の描写は、単なる気象現象ではありません。「林をなぎ倒し、御殿を崩す」風は、「一人の力(悟空=有能な個人)ではどうにもならない、社会を覆う理不尽な動乱や噂、悪政の嵐」を象徴しています。どれだけ武芸(個人の能力)が優れていても、視界を奪われ(判断力を失い)、涙を流すしかない無力さを描いています。


「飼い慣らされた悪」と官僚社会の縮図

敵の正体が「霊山の麓にいたテン」で、「如来トップの管理下にあったが、脱走して悪さをしていた」というオチにご注目ください。

これは、当時の官僚社会の皮肉です。

妖怪=地方で悪さをする役人の親族や元部下。

霊吉菩薩=中央から派遣される監査官。

悟空が勝手に殺すのを止められ、「本部(霊山)へ連行する」とされるのは、「法による裁き」という建前と、「身内への甘さ(もみ消し文化)」の暗示です。野良の悪党は即殺されますが、体制側の不始末(逃げ出したテン)は保護される、という冷徹な階級社会が透けて見えます。


神々の「こっそりサポート」に見る宗教観

悟空の目を治すために神々が人間に化けて宿を提供するシーン。ここには中国的な宗教観「功徳の不可視性」が現れています。

民衆にとって、神や仏は「困ったときに偶然を装って助けてくれる存在」であるべき、という願望です。「恩着せがましくないが、実は常に守っている」という構造を見せることで、読者(信者)に「信心していれば見えない加護がある」と説いています。

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少し斜め上の視点から、この回の面白さを解剖します。

生物学的兵器「イタチの屁」の神格化

黄風大王の正体は「貂鼠(テン/イタチの類)」です。イタチやスカンクといえば、「臭腺から強烈な液(屁)を出す」ことで有名です。

実は、あの天地を揺るがす「三昧神風」の正体は、突き詰めれば「妖怪レベルに増幅されたイタチのガス」なのではないか、という解釈が可能です。

悟空の目が「酸っぱくて痛い」と涙が出る(催涙効果)。

風が黄色い(ガスの視覚化)。

これらを高尚な漢詩と「三昧(サンスクリット語のSamadhi=集中・精神統一)」という仏教用語で飾り立てることで、「屁」を「神風」に昇華させた作者のユーモアと表現力は、まさに天才的変態性と言えるでしょう。

孫悟空の唯一の弱点「眼病」

孫悟空は銅の頭、鉄の体を持つ無敵超人ですが、以前(天界で暴れた際)、八卦炉で焼かれた煙によって「風目(赤目)」という後遺症を負っています。

この回は、最強ヒーローにあえて「結膜炎(または眼痛)」という極めて庶民的な病気を与え、薬を目に入れてシパシパしながら一晩寝る、という生活感あふれる弱さを描いています。

これにより、「武力」だけでは解決できない問題があることを示し、悟空に愛嬌と人間味(猿味?)を持たせています。

最強のネットワークおじさん「太白金星」

毎回いいタイミングで現れる老人(正体は天界の外交官・太白金星)。

彼は今回、悟空に「霊吉菩薩の場所」と「攻略法」だけ教えて去ります。

これは現代ビジネスでいう「自分では手を動かさないが、解決できる専門家スペシャリストを知っている有能なコンサルタント」です。

『西遊記』は、悟空が個人の武力で無双する物語から、このあたりを境に「天界・仏界の人脈コネを駆使してトラブルシューティングする物語」へとシフトしていきます。その転換点となる重要な回なのです。


結局「どんな英雄も、屁(社会の嵐)と眼病(身体の不調)には勝てない。困ったときは強がらず、専門家(菩薩)と特効薬に頼りなさい」

という、実に現世利益的かつ処世術に富んだ教訓を含んだ物語なのです。

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