第二十回:黄風嶺にて唐僧は難に遭い、山中半ばにて八戒は功を競う
『黄風狂嵐・対決の刻』
「黄風嶺の怪風と、猛虎と化した先鋒を迎え撃つ悟空・八戒の激闘」
八戒の意気込み:「俺に任せろ!」という頼もしさ
悟空が空中からの奇襲を仕掛ける一方、八戒は地上でどっしりと構え、巨大な釘鈀を力強く振りかざしています。これは、ただ攻撃を待つのではなく、自らも戦局を動かす「俺に任せろ!」という頼もしい意気込みの表れです。その体躯と武器の重量感が、妖怪を真正面から受け止める覚悟と、一撃で仕留めようとする気概を伝えています。
【しおの】
法はもとより心から生じ、また心に従って滅す。
生じるも滅するも、さて誰によるものか。君よ、自ら弁別せよ。
すべてが己が心であるならば、どうして他人の説くところに頼る必要があろう。
ただ須らく、修行の苦功を重ね、鉄のような固まりの中から血をひねり出すほどの気概を持つべし。
荒ぶる心の鼻に縄を通して虚空につなぎ留めよ。
何もしない「無為」の樹につないで、暴れ回らせてはならない。
賊を我が子と見誤るなかれ、心の働きをすべて忘れ去り絶つべし。
心に己自身を欺かせるな、迷いの一撃をまず打ち砕け。
心ありてすなわち心なく、法ありて法もまた止む。
人と牛とが見えざる境地に至れば、青き空は澄み渡り潔し。
秋の月が丸く輝くように、彼と此との分別さえ難い世界が広がるだろう。
玄奘法師(三蔵)が『般若心経』の奥義を悟り、心の扉を開いた境地とは、まさにこのようなものであったろう。長老はこの経を常に念じ、心に留めていたため、その身からは自ずと霊妙な光が輝き出ていたのである。
さて、三蔵ら三人は旅を続け、野宿を重ねて星霜を経るうち、早くも炎天下の夏景色となっていた。
春の花は散り尽くして蝶も寄り付かず、木々は高く茂って蝉の声ばかりが喧しい。
野蚕は繭を作り、石榴の花は火のように赤く燃え、池にはあえかなる新蓮が顔を出している。
ある日、一行が進んでいくと、日が暮れかけた頃、山道の傍らに一軒の村家が見えた。
三蔵は馬上から声をかけた。
「悟空や、日は西山に沈み、月が東の海から昇ろうとしている。幸い道端に人家があるようだ。今夜はあそこで宿を借り、明日また出立しようではないか」
すると八戒が口を挟んだ。
「そいつはいいや。俺様も腹が減ってたまらない。あそこで精進料理でも恵んでもらって、力をつけてから荷物を担ぐとしようぜ」
行者(悟空)がすかさずたしなめる。
「この家恋しがりめ。家を出て幾日も経たないうちに、もう愚痴をこぼすか」
八戒も負けじと言い返す。
「兄貴、風を飲んで煙を食う霞喰らいのお前とは違うんだ。師匠についてきてから、こっちはずっと腹半分で我慢してるのがわかるかい?」
それを聞いた三蔵が諭した。
「悟能(ごのう・八戒の名)、お前がそんなに家への未練があるのなら、出家には向いていない。いっそ帰るがよかろう」
八戒は慌てて地面に跪いた。
「お師匠様、兄貴の言うことを真に受けないでくださいよ。こいつは人を陥れるのが好きで困る。俺は愚痴なんて言っちゃいません。ただ腹が減ったから飯を貰おうと言っただけで、それを『家恋しがり』だなんて人聞きが悪い。俺は菩薩様の戒めを受け、師匠の慈悲にすがって、天竺へお供すると誓ったんです。後悔なんてしちゃいない。これを俗に『恨苦修行』――苦しみを恨みつつも耐え忍ぶ修行、と言うんじゃありませんか。出家に向いてないなんて、そんな殺生なことは仰らないでくだせえ」
「それならよい。立ちなさい」
三蔵が許すと、八戒は身を躍らせて立ち上がり、ぶつぶつ文句を言いながらも荷物を担ぎ、腹を括って師について行った。
やがて人家の門前に着いた。三蔵は馬を降り、行者が手綱を取り、八戒は荷を下ろし、皆で緑陰の下に佇んだ。三蔵は錫杖をつき、笠を直してうやうやしく門へと進む。そこには一人の老人が、竹の長椅子に背をもたせ、何やら念仏を唱えている姿があった。
三蔵は声を荒げることなく、静かに呼びかけた。
「施主様、ごめんください」
老人は驚いて飛び起き、慌てて衣を正して出迎え、礼を返した。
「長老様、お出迎えもせず失礼しました。どちらからお越しですかな? 私の粗末な家へ何の御用で?」
「拙僧は東土大唐の僧で、勅命を奉じて西天の雷音寺へ仏典を求めに参りました。貴地に差し掛かり日が暮れましたので、一夜の宿をお借りできればと存じます」
老人は笑って手を振った。
「おやめなさい。西天への旅は難しい。お経が欲しいなら東へお行きなさい」
三蔵は押し黙り、心の中で逡巡した。菩薩様は西へ行けと仰ったのに、この老人は東へ行けと言う。東にお経があるはずもない。彼は困惑し、しばらく言葉が出なかった。
これを聞いて短気な行者は我慢できず、進み出て叫んだ。
「おい爺さん、いい歳をして物知らずだな。出家人が遠路はるばる宿を借りに来たのに、そんな縁起でもない言葉で脅すなんてどういう了見だ。家が狭くて寝る場所がないなら、樹の下で座って夜を明かしたっていい。邪魔はしねえさ」
老人は驚いて三蔵の袖を引き、尋ねた。
「お師匠様、貴方は黙っていらっしゃるのに、このお弟子さんはどうしてこんなにひねくれた顔つきで、雷公のような口に赤い目をして、まるで病鬼のように年寄りに突っかかってくるのです?」
行者はケラケラと笑った。
「この爺さん、見る目がないな。見かけ倒しよりも、俺みたいに小柄でも筋骨隆々としてる方がいい仕事をするんだぞ」
「ほう、お前さん、何か技でも持っているのか?」と老人が問う。
「自慢じゃないが、それなりさ」
「どこの生まれで、なぜ僧になったのだ?」
行者は答えた。
「俺の故郷は東勝神洲、傲来国花果山の水簾洞だ。小さい頃から妖怪稼業で『斉天大聖』と名乗っていた。天界でいささか大暴れして罰を受けたが、今は災難を逃れて仏門に入り、正しい道を求めている。この唐の師匠を守って西天へ行くん だが、山が高かろうが川が広かろうが怖くはない。俺は怪を捕らえ、魔を降し、虎を伏せ、龍を捕らえることができる。もしお宅で煉瓦が飛んだり鍋が鳴ったりするような怪異があれば、俺が鎮めてやろう」
老人はこれを聞いてハハハと笑った。
「なるほど、口の達者な物乞い坊主か」
「爺さん、そっちの息子こそ口達者だろうよ。俺は師匠との旅で疲れて、口を開くのも億劫なんだ」
「疲れておらず、億劫じゃなかったら、喋り殺されるところだわい。それほどの腕前なら、西天へも行けるかもしれん。一行は何人じゃ? 粗末な家だが泊まって行きなさい」
三蔵は礼を言った。
「お叱りを受けず、感謝いたします。一行は三人です」
「他の方はどこに?」
行者が指差して、「爺さん、目が悪いな。あそこの木陰に立ってるのが見えないか」と言った。
老人が目を凝らして見ると、そこに八戒の姿があった。その恐ろしい形相に肝を潰し、よろめきながら屋内に逃げ込んで叫んだ。
「戸を閉めろ! 戸を閉めろ! 妖怪が来たぞ!」
行者は追いかけて引き止め、「爺さん怖がるな、あれは妖怪じゃない、俺の弟弟子だ」となだめた。
老人は震えながら、「なんとまあ、どいつもこいつも醜い坊主たちだ」と呟いた。
八戒も進み出て言った。
「御隠居、人は見かけによらぬもの。俺たちは醜いが、役には立ちますぜ」
三人の僧侶と老人が話していると、南の方から二人の若者が、老婆と数人の子供を連れ、農作業から帰ってきた。彼らは門前で見慣れぬ白馬と荷物を見て、「何者だ?」と詰問した。
八戒がふと振り向き、耳をパタパタさせ、長い口をニューっと突き出すと、人々は悲鳴を上げて転げ回った。
三蔵は慌てて叫んだ。
「怖がらないでください! 私たちは悪人ではありません、取経の僧侶です」
先ほどの老人が出てきて倒れた老婆を助け起こし、家族に言った。
「婆さん、驚くことはない。このお方は唐から来たお坊様だ。弟子たちの顔はいささか醜いが、根は悪くないようだ」
そう説明され、老婆は老人を支え、若者たちが子供を連れて、恐る恐る中に入った。
三蔵は門楼の竹椅子に腰を下ろすと、深いため息をついた。
「弟子たちよ、お前たちは顔が醜い上に言葉も乱暴で、人様の一家をこんなに怖がらせてしまった。これでは私の罪を増やすばかりではないか」
八戒が抗議する。
「師匠、これでも俺は随分ハンサムになったんですよ。高老荘にいた頃なんざ、口を突き出して耳を動かせば、一度に二、三十人は気絶させたもんです」
行者は笑って言った。
「おい、自慢はいいから、その醜いのを少しは隠せ」
「悟空、顔は生まれつきだ。どうやって隠すのだ?」と三蔵が問う。
「あの熊手を懐に隠し、団扇みたいな耳を後ろにペタリと貼り付ければいい」
八戒は言われた通りにし、頭を下げてしおらしく控えた。行者は荷物を運び込み、馬を繋いだ。
やがて老人が若者を伴い、茶盆に三杯の茶を載せて運んできた。茶を飲み終えると、斎(食事)の用意を命じた。若者は穴だらけで漆の剥げた古い机と、あちこち壊れかけた椅子を中庭に出し、涼しい場所へと案内した。
三蔵は尋ねた。
「施主様の御尊名はなんと申されますか?」
「王と申します」
「お子様は何人?」
「息子が二人、孫が三人おります」
「それはおめでたい。施主様はお幾つになられますか?」
「恥ずかしながら六十一になります」
行者は、「還暦を過ぎたか、まずはめでたいな」と合いの手を入れた。
三蔵は重ねて尋ねた。
「先ほど、西天への取経は難しいと仰いましたが、なぜでございましょう?」
王老人は答えた。
「お経を得るのが難しいのではなく、道中が険しいのです。ここから西へ三十里(約15km)ほど行くと、八百里黄風嶺という山があり、そこには恐ろしい妖怪が多く住んでおります。だから難しいと申し上げたのです。もっとも、この小柄な長老(悟空)が自慢するほどの腕前なら、あるいは行けるかもしれませんな」
行者は胸を張った。
「大丈夫、大丈夫。俺とこの弟弟子がいれば、どんな妖怪も手出しはさせませんよ」
話していると、息子が夕飯を運んできた。
「どうぞ召し上がれ」
三蔵は合掌して食前の経を唱え始めたが、その声が終わらぬうちに、八戒はすでに一碗を飲み込んでいた。さらに経が終わるころには、追加の三碗を平らげてしまった。
行者は、「この糠喰らいめ、転生に失敗して餓鬼にでも取り憑かれたか」と呆れた。
王老人は気を利かせ、「長老はお腹が空いているようだ、早くおかわりを」と家族に勧めた。すると八戒は大食漢の本領を発揮し、顔も上げずに十数碗を一気に平らげてしまった。三蔵と行者が二碗も食べないうちに、である。
老人は恐縮して、「急ごしらえで大した物もありませんが、どうぞ遠慮なく」と言ったが、三蔵たちは「もう十分です」と辞退した。
しかし八戒は、「御隠居、何をぶつぶつ言ってるんだ。占い師じゃあるまいし、飯があるなら持ってきてくれりゃいいんだ」と言い放ち、一家の飯をすべて食い尽くしてもなお、「まだ腹半分だ」とうそぶいた。
やがて食器が下げられ、門楼の下に竹の寝床が用意され、一行はそこで夜を明かした。
翌朝、行者は早起きして馬を用意し、八戒は荷物を整えた。王老人は老婆に点心と汁物を作らせて持たせ、三人は深く礼を述べて出発しようとした。
別れ際、老人は言った。
「もし道中で手に負えないことがあれば、必ず戻っていらっしゃい」
行者は笑い飛ばした。
「爺さん、不吉なことを言うな。出家人は後戻りしないもんだ」
そう言い捨てると馬に鞭打ち、西へ向かって進んでいった。
ああ、この先、西域への道に平穏はなく、必ずや邪魔が入り大災難が待ち受けていることだろう。
半日もしないうちに、彼らは険しい高山に差し掛かった。三蔵が馬上で見上げると、その山は実に凄まじい威容であった。
天に聳える峰々、地を削るような険しい嶺。
断崖は壁のように立ちふさがり、谷は深淵の底へと続く。
頂は青空を突き、谷底は冥府へ通ずるがごとし。
白雲が湧き、奇怪な岩が牙を剥き、見る者の魂を奪う絶壁が連なる。
洞窟には陰湿な水滴の音が響き、鹿や獐が戯れ、草むらには大蛇や毒虫が潜む。
夕暮れには虎が穴を探して彷徨い、夜明けには龍が水を蹴立てて天に舞う。
鳥は飛び交い、獣は走り、狼や魑魅魍魎が群れをなす。
まさに人の心胆を寒からしめる、恐るべき山容である。
師父は恐れを抱きながら馬をゆっくりと進め、悟空は雲を止めて歩調を合わせ、八戒は荷を担いで喘ぎながら歩く。
その時、突然つむじ風が巻き起こった。
三蔵は驚き、「悟空、風が出たぞ」と声を上げた。
行者は平然と、「風ごときを恐れてどうします? 四季の気候に過ぎません」と答える。
「いや、この風は悪い。普通の風とは違う気がする」
「どうしてわかります?」
三蔵は馬上で揺られながら詠じた。
見よ、この風の凄まじさを。
木々を怒号させ、林を根底から揺るがす。
柳をねじ切り、美しい花を無残に散らす。
川辺の漁船は纜を固く締め、道行く旅人は方角を見失う。
山猿は散り散りに逃げ、鹿は親子を見失い惑う。
土煙を巻き上げ、大海をかき回すような、この禍々しき風よ。
八戒が行者の袖を引いて言った。
「兄貴、こりゃすげえ風だ。少し隠れてやり過ごそうぜ」
行者は鼻で笑った。
「だらしない奴だ。風くらいで隠れてどうする。もし妖怪に出くわしたらどうするつもりだ?」
「『色を避けること仇の如く、風を避けること矢の如し』って言うだろう? 逃げて隠れるのは恥じゃないさ」
行者は、「黙ってろ。俺がこの風を一把掴んで匂いを嗅いでみる」と言った。
八戒はあきれて笑った。
「また兄貴は法螺を吹く。風なんて形のないもんが掴めるわけないだろ。掴んだって指の間から逃げちまうよ」
行者は、「お前は知らぬだろうが、俺には『抓風(そうふう・風掴み)』の秘法があるんだ」と言うや否や、ヒュッと手を伸ばして風の尻尾をひっ掴み、鼻を近づけて嗅いだ。
「うん、なんと生臭い。確かにただの風じゃない。虎の風でもない、これは紛れもない妖怪の風だ。怪しいぞ」
言うが早いか、山坂のくぼみから一匹の斑の猛虎が躍り出てきた。
三蔵は驚きのあまり鞍から転げ落ち、魂が飛び出るほど怯えた。
八戒は荷物を放り出し、釘鈀(熊手)を構えて行者を制し、「畜生、待て!」と叫んで殴りかかった。
すると虎は後足で立ち上がり、前足で自分の胸を切り裂いたかと思うと、なんとその皮を剥いで傍らの岩に被せ、中から真の姿を現した。
見れば、その異形の主は実に恐ろしい相好をしていた。
血まみれの赤い裸身に、ねじ曲がった不格好な足。
燃え立つような鬢の毛、逆立つ眉。
白く光る牙をむき出し、金色の眼光が鋭く射る。
雄叫びを上げれば山河も震える、威風堂々たる魔王の如し。
怪物は叫んだ。
「待て! 我こそは黄風大王の配下、前路先鋒なり。大王の命で山を巡回し、人間を捕らえて酒の肴にするところだ。どこの野良坊主だ、武器を持って俺に向かってくるとは!」
八戒は罵声を浴びせた。
「この破落戸の畜生め! 俺様を知らないとは言わせんぞ。俺たちは東土大唐の御弟・三蔵法師の弟子だ。早く道を空けて師匠を通してやれば命だけは助けてやる。だが少しでも逆らえば、この鈀でお前の土手っ腹に九つの風穴を開けてやるから覚悟しろ」
怪物は問答無用とばかりに襲いかかり、八戒も受けて立った。しかし怪物は手に武器を持っていなかったので、不利と見て身をひるがえして逃げ出した。八戒が追いかけると、怪物は石場の陰から二振りの赤銅の刀を取り出し、振り返って再び迎え撃った。ここに激しい戦いの火蓋が切られたのである。
行者は倒れた三蔵を助け起こし、「師匠、怖がらないで。ここで座って待っていてください。俺が八戒を助けてあの怪物を片付けてきます」と言い残し、如意金箍棒を引き抜いて高声で叫んだ。
「逃がすか、捕らえろ!」
その声援を受けて八戒も奮起する。怪物は二人に挟み撃ちにされては敵わず、たまらず逃げ出した。
二人がどこまでも追い詰めると、怪物は追い詰められた窮鼠、術を使って逃れることにした。「金蝉脱殻(きんせんだっかく/蝉が抜け殻を残すように逃げる兵法)」の計である。怪物は身を翻して元の猛虎の姿に戻った。二人が追いすがる中、怪物はまたその皮を剥いで大きな石の上に被せ、本物の身は目に見えぬ一陣の狂風と化して反対方向へ飛び去った。
そして怪物は元の道へ舞い戻ると、そこには三蔵が一人、恐怖に震えながら「多心経」を唱えている姿があった。怪物は風に乗って彼をひっつかみ、一瞬にして連れ去ってしまった。
ああ哀れなるかな、三蔵法師。数奇な運命のもと、苦難はいつ終わるとも知れない。
怪物は唐僧を引っ提げて洞窟の入り口まで連れ帰り、門番の小妖に告げた。
「大王に伝えろ。前路虎先鋒が和尚を一人捕らえてきたと」
中から「よし、連れてこい」との声がかかり、洞主(黄風大王)の許しが出ると、虎先鋒は刀を腰に差し、唐僧を捧げ持って奥へ進み、大王の前に跪いた。
「大王、山を巡回中にこの和尚に出くわしました。尋ねてみれば唐の御弟・三蔵法師とのこと。さっそく捕らえてまいりましたので、酒の肴に献上いたします」
洞主は驚いて言った。
「その三蔵法師といえば、孫行者という神通力を持つ手ごわい弟子がいると聞く。お前、どうやってそいつらの中から捕らえてきたのだ?」
「へえ、弟子が二人いました。一人は長口大耳で釘鈀を使い、もう一人は火眼金睛で鉄棒を振り回していました。彼らと戦い、隙を見て本体を抜け出し、この和尚だけをかっさらって参ったのです」
それを聞いて洞主は言った。
「うむ、まだ食べるのはよそう。あいつの弟子たちは気性が荒く、神通力も強いと聞く。もし後で騒ぎに来たら面倒なことになる。まずは後園にある定風杭(風止めの杭)にこいつを縛り付けておけ。三、四日様子を見て、彼らが騒ぎに来ず、諦めて立ち去ったなら、その時こそゆっくりと蒸すなり焼くなりして、わしの腹に収めてやろう」
先鋒は平伏した。
「大王の深謀遠慮、恐れ入ります」
そうして彼は喜び勇んで唐僧を引き立て、奥へと連れて行った。唐僧は縛られながら、涙を流して叫んだ。
「弟子たちよ! お前たちはどこにいるのだ。私はこんな目に遭ってしまった。早く助けに来てくれなければ、私の命は露と消えてしまうぞ」
一方、行者と八戒は虎を追いかけ、とうとう崖の下へ追い詰めたと思ったが、そこにあったのは石に被せられた虎の皮だけであった。
行者は皮を持ち上げて叫んだ。
「しまった! こいつは『金蝉脱殻』の計だ。奴め、この皮を囮にして、本体は風になって逃げやがったんだ。師匠が危ない!」
二人は大急ぎで元の道に戻ったが、そこには三蔵の姿はなく、静寂があるのみだった。
行者は雷のような声を張り上げて叫んだ。
「ああ、師匠! 奴にさらわれてしまった!」
八戒は手綱の切れた馬を引き寄せながらめそめそと泣いた。
「ああ、どうすりゃいいんだ。どこを探せばいいんだよ」
行者は、「泣くな! 泣くと士気が下がるだろうが。この山に妖怪がいることは確かなんだ、巣穴を探し出すぞ」と叱咤激励した。
二人は必死になって山中を歩き回り、やがて険しい崖の下にぽっかりと口を開けた洞窟を見つけた。
その風景は幽玄にして不気味、風が渦巻き、まさに妖怪の住処にふさわしい様相である。
行者は足を止め、指示を出した。
「賢弟よ、ここはお前が荷物と馬を守って隠れていろ。俺が一つ怒鳴り込んで挑発し、あの妖怪をおびき出す。その隙に師匠を救い出す算段だ」
八戒は涙を拭いて、「承知した、頼むぞ」と答えた。
行者は身なりを整え、鉄棒を小脇に抱えて門前に立ち、扁額にある「黄風嶺黄風洞」という文字を確認した。
彼は腹の底から声を張り上げた。
「おい妖怪め! 俺の師匠を早く返せ! さもないとこの巣穴をひっくり返して更地にしてしまうぞ!」
その怒号は地を揺るがし、中の小妖たちは震え上がって報告に走った。
「だ、大王、雷公のような顔の毛深い和尚が、棍棒を持って門前で暴れています!」
洞主は驚き、虎先鋒を呼びつけて叱りつけた。
「このたわけ者め、お前に巡回を命じたのは山野の獣を捕るためだ。なぜあの厄介な唐僧なぞ捕らえてきて、こんな騒ぎを引き起こしたのだ。どう始末をつけるつもりだ?」
先鋒は平伏して言った。
「大王、ご安心ください。私が五十人の精兵を率いて出撃し、あの孫行者めをふん縛って引き立ててまいります」
洞主は渋々頷き、「よし、精兵を選んで連れて行け。だがくれぐれも油断するなよ」と命じた。
虎怪(先鋒)は五十の小妖を率い、銅鑼や太鼓を鳴らして勇ましく門から討って出た。
「どこの狂った猿坊主だ、わが門前で騒いでいるのは!」
行者は鉄棒を構えて罵った。
「この皮剥ぎ畜生め! よくも師匠を騙し討ちにしてくれたな。今すぐ師匠を返して恭しく送り出すなら、この老孫が慈悲をもって命だけは助けてやる。だが嫌だと言うなら、ここがお前の墓場だと思え!」
怪物は嘲笑った。
「お前の師匠は大王の夕食になるところだ。命が惜しけりゃとっとと帰れ、さもないとお前も漬物にしておかずにしてやるぞ」
この言葉に行者の怒りは頂点に達し、鉄棒を振り上げて襲いかかった。虎怪もすかさず赤銅の刀で応戦する。
所詮、怪物は卵で、悟空は石。
銅刀で美猴王の鉄棒に挑むのは、卵で石を打つようなもの。
カササギが鳳凰と覇を競い、鳩が鷹に挑むような無謀さよ。
怪物は妖しい風を吹き砂を撒いて目くらましをするが、悟空は霧を吐き雲を呼び寄せて対抗する。
数合も打ち合わぬうちに、先鋒は腕が痺れ、到底敵わぬと悟って逃げ出した。
行者は「逃がすか!」と追いかける。虎怪はあまりの猛攻に洞窟に戻る勇気もなく、ただひたすら山坂の方へ逃走を図った。
その時、行者の叫び声を聞いて待ち伏せていた八戒が、藪の中から飛び出してきた。逃げてくる虎怪を見つけるや否や、繋いでいた馬を捨て、釘鈀を高く振り上げた。
「ええいっ! そこだっ!」
八戒の渾身の一撃が、虎怪の脳天を直撃した。
ドサッという鈍い音と共に、哀れ虎先鋒は九つの穴から血を噴き出し、脳漿を地面にぶちまけて絶命し、現し身の虎の姿に戻った。
ここに詩を一首捧げよう。
数年前に邪を捨てて仏門に入り、精進潔斎して空の理を悟りゆく。
誠心を込めて三蔵の旅を守り、沙門として見事、初の手柄を打ち立てん。
八戒は死体を足で踏みつけ、さらに釘鈀で背中を叩いてとどめを刺した。
そこへ行者が追いつき、手を叩いて称賛した。
「よくやった兄弟! こいつが師匠をさらった下手人だ。俺に追われて命からがら逃げてきたところを、お前が待ち伏せで見事に仕留めたんだ。これぞ大手柄だぞ」
八戒は鼻息荒く尋ねた。
「へへっ、どうだ。ところで師匠の居場所は聞いたのか?」
「洞窟の中だ。こいつの死体を利用しない手はない。死骸を引きずっていって門前にさらし、あの親玉を挑発しておびき出し、その隙に師匠を救うぞ」
「よし、合点だ。親玉が出てきたら、また俺が待ち伏せて脳天を勝ち割ってやる」
こうして行者は片手に鉄棒、片手で血まみれの虎の死体を引きずり、意気揚々と洞窟へと引き返していった。
果たして、彼らは強力な黄風大王を倒し、無事に三蔵を救うことができるだろうか。その顛末は、次回の講釈で明らかになるであろう。
【ドタバタ宿屋と、化かし合いの命がけ鬼ごっこ】
序盤(俗世の暮らし): 旅の途中、民家に泊まる。食いしん坊の八戒が家の飯を食い尽くし、悟空が法螺を吹くコントのような一夜。しかし、家主の老人から「この先はヤバい風が吹く山だ」と警告される。
中盤(妖怪の奇襲): 警告通り、山で「黄風」という怪しい嵐が吹く。切り込み隊長である「虎先鋒」という妖怪が現れる。
クライマックス(誘拐と反撃): 悟空と八戒が優勢に戦うが、虎先鋒は自分の皮を剥いでデコイ(囮)にする「空蝉の術」という高等テクニックを使用。その隙に、本体は風に乗って無防備な三蔵法師をさらう。
結末: 怒った悟空と八戒が追撃。逃げ帰ってきた虎先鋒を、八戒が不意打ちで撲殺(大手柄!)。しかし師匠はまだ、親玉「黄風大王」の元に囚われている。
作者(呉承恩)がこの回に込めた、単なる冒険活劇以上のメッセージを読み解きます。
宗教的テーマ:『般若心経』と「現実の恐怖」のギャップ
冒頭で『般若心経』の境地(「色はすなわち空」=目に見える現象に囚われるな)が語られますが、直後に三蔵は虎を見て腰を抜かして落馬します。
意図: 「お経を知識として知っていること」と「実践できること」は違うという皮肉です。高潔な僧侶であっても、死の恐怖という「生の感情」には勝てない。悟りへの道は、経文を暗記することではなく、こうした理不尽な恐怖(虎や風)を体験して乗り越えるプロセスそのものにあると示唆しています。
社会的・政治的隠喩:「邪風」の正体
中国文学において「風」はしばしば「政治的な波風」や「世論の動揺」「佞臣(悪徳官僚)の讒言」を象徴します。
時代背景(明代中期〜末期): 当時は皇帝の側近(宦官など)が権力を持ち、腐敗や賄賂が横行していました。「黄風嶺」という悪風が吹く場所は、秩序が乱れ、何が正しいかわからない政治状況のメタファーです。
民衆の姿: 宿屋の王老人一家は、怯えながら暮らす一般民衆です。「触らぬ神に祟りなし」で、僧侶たちに早く去ってほしいと願う。これは、圧政や戦乱の下で、余計なトラブル(通過する役人や兵士)を避けたい庶民の本音をリアルに描いています。
八戒の食欲に見る「貧困と欲望」
八戒が王老人の家の飯を何杯もおかわりして食い尽くすシーンは、現代ではギャグに見えますが、当時の背景では切実です。
飢饉や貧困が隣り合わせの時代、「食欲」は人間の業の象徴であり、他人の食料を奪うことへの恐れがありました。八戒はその「あさましさ(生命力)」を一手に引き受ける存在として描かれています。
今回のポイントその一:猪八戒、まさかの「MVP」
普段は悟空に頼りっぱなしで怠け者の八戒ですが、この回では輝いています。
宿屋で追い出されそうになったとき、必死で弁明する(外交能力)。
虎先鋒との戦闘で、不意打ちとはいえとどめを刺す(物理攻撃力)。
八戒が武器(釘鈀・まぐわ)を使うのは「農具」の延長であり、泥臭い「庶民の怒り」がエリート(虎)を打ち砕くカタルシスがあります。これは八戒ファン必見の回です。
ポイントその二:敵の「軍略」レベルが高い
虎先鋒はただの獣ではありません。「金蝉脱殻」という兵法三十六計の一つを使います。
自分の皮を岩に被せて敵を欺く。これは、当時の講釈師たちが語る軍談(三国志など)の要素を取り入れた演出です。妖怪側にも知恵があり、単なる「勧善懲悪」ではなく「知恵比べ」の要素が入ってきているのが、この物語の完成度の高さを示しています。
ポイントその三:なぜ「東」へ行けと言ったのか?
宿の主人は三蔵に「お経が欲しいなら東へ行け(泰平の世があるぞ)」と言いました。
これは地理的な間違いではなく、「理想(西天)」を追い求めることの危険性を説く、世俗の知恵です。「平和に暮らしたいなら、冒険なんかせずに家に帰れ」という、保守的な民衆心理と、それを振り切ってでも進まねばならない宗教的使命(使命感という狂気)の対比が鮮やかに描かれています。
この第二十回は、「高尚な経文も、物理的な『風』と『暴力』の前では無力である」
という絶望から始まり、
「それでも、泥臭い力(八戒)と知恵(悟空)で、具体的に問題を排除していくしかない」
という現実的な解決へ向かうエピソードです。
明代の腐敗した社会で生き抜くための、民衆のしたたかなバイタリティが凝縮されています。




