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私説 西遊記の遊戯  作者: 光闇居士


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第十九回:雲棧洞(うんさんどう)にて悟空は八戒を収め、 浮屠山(ふとざん)にて玄奘は心経を受く

挿絵(By みてみん)

『怒れる悟空と、咲き誇る護りの蓮華』

険しい浮屠山の頂にそびえ立つ、天を突くような巨大な古木「香檜」。その枝の間に作られた禅師の粗末な柴の巣を狙い、如意棒を振り上げ、空中で回転しながら破壊しようとする、悟空は荒々しく、鋭く、動的であり、その怒りの表情と如意棒を抱え込むその躍動感が際立っています。

しかし、棒が当たる寸前、巣からは数千もの魔法の蓮の花と、幾重にも渦巻く瑞雲が爆発的に湧き上がり、強力な護りの結界を形成しています。これらは柔らかく、優美な広がりでぼかしに、ごく淡い金色と薄紅の繊細な色合い、悟空の攻撃的な黒い光とは鮮やかな対比をなしています。

 山の目眩くような高さから見渡す、下方には雲海に沈む山々がおぼろげに霞み、神秘的で緊迫感がありながらも、息をのむほど美しい雰囲気。この荒々しい戦いの動きと、仏教の神秘的な静けさが見事に調和し、悟空の圧倒的な武力さえも及ばない「般若心経の功徳の深さ」が直感的に伝わってくる。。。



【しおの】

 話は戻って、あの火光かこうの行方――。

 妖魔が放った赤い光を追い、孫悟空こと斉天大聖せいてんたいせいは彩雲を駆って後を追いました。眼下には険しい高山が迫り、妖魔はその光を収めて正体を現すと、岩山の洞窟へと逃げ込みます。しかし逃げ隠れるだけではありません。奥から九つの歯を持つ鋭い馬鍬、「九歯釘鈀きゅうシていは」をひっ提げ、決死の覚悟で舞い戻って来たのです。

 悟空は鋭く叫びました。

「こいつめ! どこの馬の骨とも知れぬ邪魔外道が、なぜ俺様の名を知っておる? 能書きがあるなら包み隠さず言ってみろ。神妙にするなら命だけは助けてやらんこともない」

 妖魔は鼻を鳴らし、不敵に笑います。

「俺様の腕前を知らぬと見えるな。よいか、耳の穴をかっぽじってよく聞け。これが俺様のたどってきた道だ!」

 荒々しい風が吹き荒れる中、怪物はその数奇な運命を語り始めました。

  生まれつき愚鈍にして怠け者

  食っちゃ寝、食っちゃ寝、休みなし

  修行も積まず、心も養わず

  混沌として月日を浪費した

  ふとある日、真の仙人に出会い

  膝を突き合わせ、世の無常を説かれた

  「心を改め、俗世を捨てよ」と

  「殺生は無辺の罪業ぞ」と

  いずれ寿命が尽きるとき

  地獄の苦しみに悔いても遅い

  その言葉に心は動き、修行を志し

  妙訣みょうけつを求めて回心した

  天縁あって師と仰ぎ

  天界と地界の秘儀を授かる

  「九転大還丹きゅうてんだいかんたん」の法を得て

  昼夜を問わず練り上げた

  上は頭頂の泥丸宮でいがんきゅうまで

  下は足裏の湧泉穴ゆうせんけつまで

  精気は巡り、華池かちに入り

  丹田たんでんは温かく満ち満ちた

  陰陽を交わらせ、鉛と水銀を調合し

  龍と虎を和合させ

  霊亀れいき金烏きんうの血を吸い尽くす

  三花さんかいただきに集まり根に帰し

  五気ごきもとちょうして透徹す

  功徳は満ち、ついに飛昇し

  天仙たちがついになって出迎えた

  足元には鮮やかな雲が湧き

  身は軽く健やかに、天の宮殿へ

  玉皇大帝ぎょくこうたいていは宴を設け

  仙人の位を授けてくださった

  勅命により「天蓬元帥てんぽうげんすい」に封ぜられ

  天の川の水軍を総督し、御紋を賜る

  しかし王母娘娘おうぼにゃんにゃん蟠桃会ばんとうかい

  瑤池ようちの宴に招かれたあの日

  酒に酔いしれ、意識は朦朧

  千鳥足で暴れ回る

  武勇を誇って広寒宮こうかんきゅうへ迷い込めば

  風流な仙女が出迎えた

  その美貌に魂を奪われ

  昔日の凡心が抑えきれない

  上下も尊卑もわきまえずに

  嫦娥じょうがに迫り、枕を強要した

  何度拒まれても聞き入れず

  逃げ回る彼女を追い詰める

  色欲は天をも恐れぬ雷のごとく

  危うく天の門さえ揺るがせた

  糾察霊官きゅうさつれいかんが玉帝に奏上し

  ああ、我が運命の尽きるとき

  広寒宮は囲まれ、風も通さず

  進退窮まり、逃げ場なし

  諸神に捕らえられたときも

  酒の勢いで恐怖などなし

  霊霄殿れいしょうでんへ引き立てられ

  律法により死罪と決まる

  ありがたきは太白金星たいはくきんせいの情け

  列を出て、頭を下げてとりなした

  死罪を免れ、重い鞭打ち二千回

  皮は裂け、肉は飛び、骨は砕けた

  命拾いして天界を追放され

  福陵山ふくりょうざんの下で身を立てる

  罪ゆえに投胎とうたいを誤り

  俗名を「猪剛鬣ちょごうりょう」と言うのだ

 話を聞き終えた悟空は、あきれたように言い放ちました。

「なんだ、お前は天の川を統べる水神、天蓬元帥の成れの果てだったか。どうりで俺様の名を知っているわけだ」

 それを聞いた怪物は激昂します。

「黙れ、この天を欺いた『弼馬温ひつばおん』め! 貴様があの大騒動を起こしたせいで、どれだけの者が巻き添えを食ったと思っている。今日またここに来て人を虐げるとはな。無礼者め、俺の釘鈀くわを受けてみろ!」

「吠えるな!」

 悟空もまた如意棒を振り上げ、脳天めがけて打ち下ろしました。

 二人は山の中腹、夜の闇に紛れて激しくぶつかり合います。まさに天下無双の戦い。その激闘のさまは、夜空をも焦がすほどでした。

  悟空の金色の瞳は稲妻のごとし

  妖魔の丸い眼は銀花のよう

  こちらが口から彩色の霧を噴けば

  あちらは鼻からくれないの霞を吐く

  紅霞は闇を照らし

  彩霧は夜空に輝く

  如意金箍棒にょいきんこぼう九歯釘鈀きゅうシていは

  二人の英雄、その武勇は讃えるに足る

  一人は大聖、俗世に降り立ち

  一人は元帥、天涯に落ちぶれた

  片や威儀を失い怪物となり

  片や苦難を逃れ僧に仕える

  くわの撃ち込みは龍が爪を伸ばすようで

  棒の受け太刀は鳳凰が花を穿つごとし

  あちらが叫ぶ「よくも俺の婚儀を邪魔しやがったな、親の仇も同然だ!」

  こちらが叫ぶ「幼い娘を強姦するとは、捕らえられて当然だ!」

  罵り合い、怒鳴り合い

  行きつ戻りつ、棒と鈀がかち合う

  戦いは続き、空が白み始めるころ

  妖精の両腕は痺れ、力尽きようとしていた

 戦いの火蓋が切られたのは二更(午後十時頃)。互いに譲らず技を競い合いましたが、東の空が白む頃、怪物はついに敵わぬと悟りました。再び突風となって洞窟へ逃げ帰ると、扉を堅く閉ざし、息を殺してしまいました。

 悟空が見上げれば、洞窟の入り口の石碑には「雲棧洞うんさんどう」の三文字。もはや空は明るく、夜が明けています。

「師匠がお待ちかねだ。ひとまず戻って顔を見せてから、あらためて捕まえても遅くはあるまい」

 悟空は雲に飛び乗ると、一瞬にして高老荘こうろうそうへと舞い戻りました。

 さて、三蔵法師といえば、高家の老人たちと古今の物語を語らい、まんじりともせず夜を明かしていました。悟空の帰りが遅いのを案じているところへ、突然中庭に風が巻き起こり、悟空が降り立ちました。彼は鉄棒を収め、衣を正して広間へ上がります。

「お師匠様、ただいま戻りました」

 高家の面々は慌てて平伏し、「ご苦労様でございました」と口々に感謝を述べました。三蔵は安堵の表情で尋ねます。

「悟空や、一晩中どこへ行っていたのだ? 妖怪は捕まえたのか?」

「お師匠様、あの妖怪はただの悪霊や山獣ではありません。元は天界の天蓬元帥でしたが、生まれ変わりを間違えてあのような醜い姿になったのです。しかし知性は残っており、姿にちなんでちょを姓とし、名は猪剛鬣ちょごうりょうと名乗っております。あいつは裏山へ逃げ込み、九歯の馬鍬を振り回して抵抗しました。夜明け前まで戦いましたが、最後は怖気づいて洞窟に引きこもってしまいました。扉をぶち破って決着をつけてもよかったのですが、師匠のご心配はいかばかりかと、先にご報告に戻った次第です」

 これを聞いた高太公こうたいこうは、進み出て跪き懇願しました。

「長老様、それはいけません。追い払っていただいたのは結構ですが、戻ってこられたらどうすればよいのです? どうか根絶やしにし、後患を絶ってください。お礼は惜しみません。親戚一同立ち合いのもと証文を書き、家財も田畑も長老様と折半いたします」

 悟空はニヤリと笑いました。

「ご老人、そう邪険にするもんじゃないよ。あの怪物も言っていたが、大飯食らいだとしても、その分よく働いたじゃないか。この数年で高家が蓄えた財産は、あいつの力によるものだ。ただ飯を食ったわけじゃない。それに、あれでも腐っても神だ。家のために働き、娘さんの命を取ったわけでもない。そんな婿なら家柄も悪くないし、汚名にもなるまい。いっそそのまま置いてやればどうだ?」

「いやいや、風紀を乱さぬとはいえ、やはり体裁が悪い。『高家は妖怪を婿に取った』などと後ろ指を指されては、たまったものではありません」

 三蔵も口を添えます。

「悟空、一度関わったからには、最後まで始末をつけるのが筋というものだ」

「へへっ、少しからかってみただけですよ。必ず捕まえてきますからご心配なく。おいご老人、師匠を丁重にもてなしておいてくれよ。行ってくる!」

 言うが早いか、悟空は姿を消しました。再び雲棧洞の前に立つと、問答無用とばかりに鉄棒を一閃。石の扉は粉々に砕け散りました。

「おい、ぬかっ食いの穀偶ろくでなし! さっさと出てきて勝負しろ!」

 洞窟の中で息を整えていた怪物は、扉の砕ける轟音と「糠っ食いのろくでなし」という罵声を聞き、怒髪天を突く思いで飛び出してきました。

「この弼馬温め! 何の恨みがあって俺の大門をぶち壊す? 天の律法を見ろ、『他人の門を打ち破りて侵入するは、雑犯死罪に処す』とあるぞ!」

「この間抜けめ! 俺には門を壊す理由がある。だがお前はどうだ? 他人の娘を強奪し、媒酌人も立てず、結納も納めずに妻にするのは、『真犯斬罪』に相当するぞ!」

「御託はいい、この俺のくわを受けてみろ!」

 悟空は余裕の構えで受け止めます。

「その鍬は、高家の下男として畑でも耕していたのか? そんななまくらで何ができる?」

「見損なうなよ! これが凡人の道具なものか。この宝貝パオペイの由来を聞け!」

 怪物は誇らしげに、その武器の偉大さを歌い上げました。

  これぞ神なる氷鉄ひょうてつを鍛え

  磨きに磨いて白く輝く

  太上老君たいじょうろうくん自ら槌を振るい

  熒惑星君(けいこくせいくん/火星の神)が炭を足した

  五方五帝も知恵を絞り

  六丁六甲ろくていろっこうも苦労を重ねた

  九つの歯はぎょくのごとく垂れ

  金の環が葉のように音を立てる

  身には六曜ろくよう五星ごせいを飾り

  形は四季と八節はっせつに則る

  長短は乾坤けんこんを定め

  左右の陰陽は日月を分かつ

  六爻りっこうの神将は天条に従い

  八卦の星辰はに列なる

  名を「上宝沁金鈀じょうほうしんきんは」といい

  玉皇大帝の宮殿を守護するために献上された

  俺が大羅仙だいらせんとなったとき

  不老長寿の客となるため

  元帥に封ぜられ天蓬と号し

  皇帝よりこの釘鈀を賜ったのだ

  振り上げれば烈火と光を放ち

  振り下ろせば猛風と瑞雪ずいせつを呼ぶ

  天の将軍たちも皆驚き

  地獄の閻魔さえ肝を冷やす

  人間にこれほどの武器はなく

  この世にこれほどの鉄はない

  意のままに変化し

  呪文一つで宙を舞う

  数年肌身離さず持ち歩き

  一日たりとも別れたことはない

  食事の時も手放さず

  夜寝るときも枕元に置く

  蟠桃会にも帯びていき

  天帝への謁見にも携えた

  酒に溺れて凶行に走り

  力を頼んで暴れたために

  天よりこの下界へ落とされ

  前世の罪を償う身となった

  石の洞窟で邪心を抱いて人を喰らい

  高家で情欲にかられて縁を結んだ

  この鈀で海をかけば龍の巣をひっくり返し

  山を築けば虎や狼の穴を砕く

  他の武器など話にならん

  俺の鈀こそが最強なのだ

  勝負を決めるのは難くない

  武勲を立てるなど造作もない

  貴様の頭が銅や鉄でできていようとも

  この鈀にかかれば魂まで消し飛ぶぞ!

 それを聞いた悟空は、こともなげに鉄棒を収め、こう言い放ちました。

「よくもまあ減らず口を。よろしい、ならば俺様が頭を差し出してやる。一発築いてみろ。魂が消えるかどうか試そうではないか」

 怪物は挑発に乗って鈀を高く振り上げ、渾身の力で悟空の頭へ打ち下ろしました。

 ガツン! 

 火花が激しく散りましたが、悟空の頭には傷ひとつありません。逆に怪物は反動で手が痺れ、足がすくみ、たまらず叫びました。

「なんたる頭だ、本当に鉄でできているのか!」

「知らんだろうが」悟空は涼しい顔で答えます。「俺様はかつて天宮で仙丹を盗み、蟠桃を食らい、御酒をあおった挙句、太上老君の八卦炉に放り込まれて神火で焼かれた。そのおかげで、この『火眼金睛かがんきんせい』と、何者にも傷つけられぬ『銅頭鉄臂どうとうてっぴ』を手に入れたのだ。信じられんなら、気が済むまで殴ってみろ」

 怪物は呆気にとられ、そして恐る恐る尋ねました。

「……お前、俺の記憶だと、以前は東勝神洲・花果山の水簾洞に住んでたはずだ。長いこと名を聞かなかったが、なんでこんな所へ来て俺をいじめる? まさか、舅の頼みか?」

「それだけではない。俺様は改心して仏門に入り、大唐帝国の皇帝の弟、三蔵法師というお方を守って西天へお経を取りに行く途中なのだ。高老荘で宿を借りた縁で、お前のような不届き者を成敗しに来た」

 怪物はその言葉を聞くや、手に持っていた釘鈀を放り出し、とたんに態度を変えて平伏しました。

「その取経人しゅきょうじんはどこにおられるのです? お手数ですが、会わせてください」

「会ってどうする?」

「俺は観音菩薩の教えを受け、戒律を守り、精進潔斎して、その取経人が来るのを待っていたのです。西天へ同行し、功徳を積んで罪を償うために。長年待ちくたびれておりましたが、あなたがその弟子なら、なぜ早くそう言わないのです! いきなり殴り込んでくるなんて乱暴すぎやしませんか!」

「ふん、騙して逃げる口実ではあるまいな? 本当に唐僧を守る気があるなら、天に誓え。そうすれば会わせてやる」

 怪物はドスンと音を立てて跪き、まるで餅つきのように額を地面に打ち付けて叫びました。

「南無阿弥陀仏! もし俺に二心があれば、天罰を受けて八つ裂きにされても構いません!」

「よかろう。ならばその誠意を見せるために、住処を焼き払え。そうすれば連れて行ってやる」

 怪物は本当に葦や茨を集めて火を放ち、愛着ある雲棧洞を紅蓮の炎の中に葬り去りました。

「これで未練はありません。さあ、連れて行ってください」

「まずはその釘鈀をよこせ」

 悟空は釘鈀を取り上げると、毛を一本抜いて麻縄に変え、怪物の手を後ろ手に縛り上げました。そして耳を掴んでグイと引っ張ります。

「痛い、痛い! 師兄にいさん、もう少し優しくしてくれ、耳がちぎれちまう!」

「優しくなんぞできるか。『善き豚は捕まえ難し』と言うからな。師匠に会って本心が確かめられるまで、こうしておくさ」

 二人は雲に乗り、風に乗って、高老荘へと戻っていきました。その道すがら、不思議な縁が交錯します。

  金の性は剛強にして木を剋す

  心猿(しんえん/悟空)は木龍(もくりゅう/八戒)を降して帰す

  金は木に従い一体となり

  木は金の仁を慕って本領を発揮する

  一人の主と一人の賓に隔てなく

  三交三合に玄妙な理あり

  性と情は和合して真のもとに集まり

  共に西方を証して教えに背かず

 荘園に戻ると、悟空は釘鈀を小脇に抱え、怪物の耳を引っ張って言いました。

「見ろ、あの広間におられるのが我が師だ」

 高家の者たちは悟空が怪物を捕らえたのを見て大喜び。中庭で出迎えます。怪物は三蔵の姿を見るなり両膝をつき、縛られたまま地面に頭をこすりつけました。

「お師匠様、お出迎えもせず申し訳ありません。お師匠様がいらしていると知っていれば、すぐにお迎えに上がりましたものを。これほど手荒な歓迎を受けるとは思いませんでした」

 三蔵は驚き、悟空に尋ねました。

「悟空、一体どうやって彼を説き伏せたのだ?」

「へん。おい、自分の口で言え」悟空は釘鈀の柄で怪物を小突きます。

 怪物は観音菩薩に諭され、仏門に入る決意をした経緯を切々と語りました。三蔵は深く感銘を受け、「高太公、香案こうあんを用意してください」と頼みました。

 清らかな香を焚き、南の空、観音菩薩のおわす方角に向かって礼拝し、三蔵は上座に座りました。悟空に命じて縄を解かせると、怪物は改めて三蔵に、そして悟空を「師兄」として拝礼しました。

「仏門に入るからには、法名を与えよう」

「お師匠様、菩薩様よりすでに『猪悟能ちょごのう』という法名を頂いております」

「なるほど、『悟能』か。兄弟子の『悟空』と対になっておる。素晴らしい。ではそれをそのまま使おう」

「あの、お師匠様」悟能は言いづらそうに口を開きました。「私は菩薩様の戒めを守り、精進料理を食べてきましたが、お師匠様に会えた今日からは、精進落としをしてもよろしいでしょうか?」

「ならぬ。せっかく節制を続けてきたのだ。その精進を貫くという意味で、『八戒はっかい』という別名を与えよう」

「わかりました。師の命に従います」

 こうして彼は「猪八戒ちょはっかい」と呼ばれることになったのです。

 問題が解決し、高太公は喜び勇んで宴席を設けました。

 八戒は老人の袖を引っ張り、「お義父さん、妻の翠蘭すいらんを呼んで挨拶させてくださいよ」とねだりますが、悟空が笑って遮りました。

「賢弟よ、お前はもう出家した和尚だ。『愚妻』だの『家内』だのは禁物だぞ。さあ、飯を食ってさっさと出発するぞ」

 席次が決まり、素酒(精進の酒)が振る舞われましたが、三蔵は決して口をつけません。

「酒は僧侶の第一の戒めです」と固辞する師匠に対し、八戒と悟空は「まあ、俺たちは少しくらいいいでしょう」とちゃっかり御相伴にあずかりました。

 宴が終わり、旅立ちの時。高太公は金銀二百両を盆に載せ、さらに衣服を贈ろうとしましたが、三蔵はこれを頑として辞退しました。

「我々は修行の身。財貨は受け取れません」

 すると悟空がひょいと現れ、その金銀をわしづかみにして下男の高才に渡しました。

「昨日案内してくれた駄賃だ。弟子が増えてやる物がないから、これで草鞋でも買え。また妖怪が出たら知らせろよ、また来てやってやるからな」

 八戒も黙っていません。「お師匠様がいらないなら、あっしに手切れ金として米でもくれればいいのに」と未練がましく言い募り、結局、新しい直綴と靴をもらうことで手を打ちました。

「皆様、お元気で! 万が一、経が取れなきゃ戻ってきてまた婿になりますから、嫁さんを大事にしておいてくださいよ!」

「滅多なことを言うな!」悟空に怒鳴られながら、八戒は荷物を担ぎ、三蔵の白馬を、悟空の導きで西へと進みました。

  煙霞えんか満ちる地、樹々は高く

  唐の仏子ぶっしは苦労を重ねる

  一鉢の飯を千の家で乞い

  一枚の衣は千の針で綴る

  意馬(いば/心の馬)を胸中で暴れさせるな

  心猿(しんえん/心の猿)を教え導け

  情と性は定まり、諸縁は合し

  月満ちて金華あらわれ、これぞ洗心

 平穏な旅を一月ほど続け、烏斯蔵ウ・ツァンの国境を越えたあたりで、行く手に険しい山が姿を現しました。

「悟空、悟能よ、用心しなさい」

 三蔵が警戒すると、八戒は「大丈夫ですよ」と笑いました。「あれは浮屠山ふとざん烏巣うそう禅師という少し徳のある修行者が住んでいる場所です」

 山に近づけば、そこは別天地の風情。

  南には青松と檜、北には緑柳と紅桃

  賑やかに鳥は語らい、鶴は舞う

  香り高く花は咲き乱れ、草は青々と茂る

  谷川の水は滔々と流れ、崖には瑞雲がかかる

  実に幽雅な景色なれど、人影はなし

 見れば、巨大な香檜こうかいの樹上に柴草で編んだ巣があり、禅師が住んでいました。一行に気づいた禅師が樹から飛び降りてくると、三蔵は拝礼し、八戒も旧交を温めます。しかし、禅師は悟空を見るなり「どなたかな?」と尋ねました。

 悟空は「この古狸め、俺様を知らぬとは」とふて腐れますが、三蔵の紹介でどうにか挨拶を済ませました。

 三蔵は最も気がかりなことを尋ねました。

「西天の大雷音寺はまだ遠いのでしょうか?」

「遠い、遠い」禅師は首を振ります。「それに道中は魔物が多く、難儀なことでしょう」

「どうすれば無事に行けるでしょうか」

「道のりはいずれ尽きますが、心の中の魔障ましょうを払うのは難しい。ここに『多心経たしんきょう』一巻があります。これを唱えれば、害を受けることはありません」

 三蔵が懇願すると、禅師は静かに、深遠なる経を口伝で授けました。

摩訶般若波羅蜜多心経まかはんにゃはらみたしんギょう

  観自在菩薩かんじざいぼさつ行深般若波羅蜜多時ぎょうじんはんにゃはらみったじ照見五蘊皆空しょうけんごうんかいくう度一切苦厄どいっさいくやく

  舎利子しゃりし色不異空しきふいくう空不異色くうふいしき色即是空しきそくぜくう空即是色くうそくぜしき受想行識じゅそうぎょうしき亦復如是やくぶにょぜ

  舎利子しゃりし是諸法空相ぜしょほうくうそう不生不滅ふしょうふめつ不垢不浄ふくふじょう不増不減ふぞうふげん

  是故空中無色ぜこくうチュうむしき無受想行識むじゅそうぎょうしき無眼耳鼻舌身意むげんにびぜっしんい無色声香味触法むしきしょうこうみそくほう無眼界むげんかい乃至無意識界ないしむいしきかい

  無無明むむみょう亦無無明尽やくむむみょうじん乃至無老死ないしむろうし亦無老死尽やくむろうしじん

  無苦集滅道むくしゅうめつどう無智亦無得むちやくむとく以無所得故いむしょとくこ

  菩提薩埵ぼだいさった依般若波羅蜜多故えはんにゃはらみったこ心無罣礙しんむけいげ無罣礙故むけいげこ無有恐怖むうくふ遠離一切顛倒夢想おんりいっさいてんどうむそう究竟涅槃くきょうねはん

  三世諸佛さんぜしょぶつ依般若波羅蜜多故えはんにゃはらみったこ得阿耨多羅三藐三菩提とくあのくたらさんみゃくさんぼだい

  故知般若波羅蜜多こちはんにゃはらみった是大神呪ぜだいじんしゅ是大明呪ぜだいみょうしゅ是無上呪ぜむじょうしゅ是無等等呪ぜむとうどうしゅ能除一切苦のうじょいっさいく真実不虚しんじつふこ

  故説般若波羅蜜多呪こせつはんにゃはらみったしゅ即説呪曰そくせつしゅわつ

  羯諦羯諦ぎゃていぎゃてい波羅羯諦はらぎゃてい波羅僧羯諦はらそうぎゃてい菩提薩婆訶ぼじそわか

 三蔵法師はもとより聡明な資質ゆえ、一度聞いただけでこの経を胸に刻み込みました。これぞ修行の真髄であり、後世へと伝えられることとなるのです。

 やがて禅師は雲に乗り、巣へ戻ろうとしましたが、三蔵は袖を引いてなおも旅の吉凶を問いました。禅師は笑って、予言とも戒めともつかぬ歌を残します。

  道を行くのは難しくない、私の言葉を聞きなさい

  千の山、千の水は深く、瘴気と魔物が満ちている

  天に届く崖があっても、恐れることはない

  「摩耳岩まじがん」に来たら、足をすくめず慎重に

  「黒松林こくしょうりん」には気をつけろ、妖狐が道を塞ぐから

  都には精霊が満ち、山には魔王が住んでいる

  虎が役所の座に座り、蒼狼が帳簿をつけている

  獅子や象が王と称し、虎や豹が御者となる

  「野猪やちょが荷物を担ぎ」、「水怪すいかいが前で待つ」

  「長年の老石猿ろうせきえん」は、そこで怒りを抱くだろう

  知り合いのことを聞きたいなら、そいつが西への道を知っている

「ふん! あんな奴に聞く必要はない、この俺様がいるじゃないか!」

 悟空は激怒し、禅師が消えた後の巣を如意棒で叩き潰そうとしました。しかし巣からは蓮の花が咲き乱れ、瑞雲が護りとなり、傷ひとつつけることさえできません。

「お師匠様、あの禅師め、八戒を『野猪』、俺様を『老石猿』と侮辱して逃げたのです」と悟空が訴えれば、八戒は「未来のことがわかる人なのだから、気にせず行きましょう」となだめます。

 結局、悟空も手出しはできず、一行は再び西へと馬を進めることとなりました。

  人間の清福せいふくは少なく

  山中の災魔さいまは多きもの

 さて、この先に待ち受ける運命やいかに。


【元エリート官僚の「再就職」と、最強のメンタルケア術】

猪八戒の採用面接バトル:

元天界のエリート水軍トップ(天蓬元帥)だったが、セクハラ不祥事で左遷され、豚の姿になった猪八戒。実家(高家)の資産を増やした「仕事のデキる婿」だったが、見た目と大食いでクビ寸前。悟空との力比べに負け、コネ(観音菩薩の紹介)があることが判明し、三蔵法師の「内弟子」として正式採用される。

断捨離と旅立ち:

高家の親族は「手切れ金」を渡して厄介払いしようとするが、三蔵一行は「金はいらねえ、志だけでいい」と拒否。八戒は未練タラタラで「出戻り・復縁」の可能性を残しつつ旅立つ。

謎の賢者と最強アイテム(般若心経):

道中、浮屠山で「烏巣うそう禅師」という謎のマスターに出会う。彼は三蔵に、魔を払いメンタルを整える最強の防具『般若心経』を授ける。

物理攻撃無効の禅師:

禅師は未来を予言し、八戒を野猪、悟空を老猿とからかう。キレた悟空が物理攻撃を仕掛けるが、禅師の精神防御(蓮華の結界)の前には手も足も出ず、完全敗北する。


この回には、作者(呉承恩)が生きた明代のリアリズムと、仏教哲学の真髄が巧妙にブレンドされています。

【社会・政治】体面を気にする「小金持ち」と実利主義

高家の老人(通俗的・保守層):

彼らは当時の中国の「地方の小地主」を象徴しています。八戒は田畑を耕し、資産を増やしてくれた「有能な労働力」でした。しかし、彼らが優先したのは経済的実利よりも「世間体メンツ」です。「妖怪を婿にしていると近所の噂になる」という理由だけで、功労者を追い出そうとします。ここには、実利より儒教的な形式や世間体を重んじる社会への風刺が込められています。

八戒の未練:

八戒が「もし取経に失敗したら戻ってきてまた婿になる」と言うのは、彼が「俗世の欲(食欲・性欲・安定志向)」の塊だからです。悟空が「心(向上心)」なら、八戒は「肉体(欲望)」の象徴であり、読者にとって最も親近感のわく人間臭い存在として描かれています。


【宗教的真髄】「くう」の出現と般若心経

『般若心経』という転換点:

これまでの西遊記は「物理的なバトル」が中心でしたが、この回で『般若心経』を入手したことで、物語は「心の修行」へとシフトします。「色即是空(目に見えるものは実体がない)」という教えは、この先の旅で妖怪の幻覚(色・欲)を見破るための最強のツールとなります。


悟空 vs 烏巣禅師の意味:

ラストシーンで、最強の武力を持つ悟空が、座って動かない禅師の巣を壊せなかったのはなぜか? これは、「怒りや暴力(物理)」では「悟りの境地(空)」を傷つけることはできないという仏教的真理の視覚化です。物理最強の悟空が、精神的上位存在に完敗することで、武力だけでは成し遂げられない「取経の旅」の深さを示しています。


前回に引き続き、八戒の武器について追加意見

八戒の武器「釘鈀ていは」は、実は如意棒より高貴?

八戒が武器自慢をするシーン(詩)を深読みすると、彼のくわはただの農具ではありません。

太上老君(道教の最高神)自らが鍛え、玉皇大帝(天界の皇帝)から下賜された「礼儀用・儀礼用」の最高級宝具です。

悟空の如意棒はもともと「海の深さを測る定規(土木用具)」でした。

考察: つまり、八戒は「正規のエリートコースを歩んだ、権威ある武器を持つ将軍」であり、悟空は「現場叩き上げの、実用道具を振り回す野生児」という対比が、武器の設定だけで表現されています。


謎すぎる「烏巣禅師」の正体

鳥の巣に住むこの禅師は、原作において正体が明かされませんが、諸説あります。

大日如来説: 『般若心経』の真理そのもの。太陽のような存在であるため、烏(太陽に住むといわれる三本足の烏)の巣に住んでいるという説。

心経そのものの化身説: 彼が悟空の攻撃を「蓮華(仏の知恵)」で防いだのは、彼自体が実体のない「真理」だから。

この禅師が八戒を知っていて悟空を知らなかった(または無視した)のは、悟空の慢心おごりを見透かしており、まだ「心」が定まっていない未熟な状態であることを示唆しています。


玄奘三蔵の「歴史的パラドックス」

史実の玄奘三蔵は、インド(天竺)からお経を持ち帰ったあと、晩年に自分で翻訳して『般若心経』を広めました。

しかし、小説では「インドに行く途中の四川省あたり(浮屠山)で、謎の和尚から教えてもらう」という逆転現象が起きています。これは、「心経」がお守りとしてあまりに有名になりすぎたため、物語の序盤で装備させないと格好がつかなかったという、エンタメ的改変の面白さです。


「現世利益(金・女・名誉)」の象徴である八戒を従え、

「精神的真理(空)」の象徴である心経を手に入れる、

西遊記という物語の「OSオペレーティングシステム」が完成した最重要回と言えます。


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