18・みゃーお
「……それで、その猫を逃がしたくないってなって、プリムラがまた駄々っ子になっちゃてさ」
「また、やだやだって言っていたの?」
「そう。逃がすならシューが代わりに猫になって、って言われてさ。仕方ないから、にゃーって言ったんだよ。そうしたら、変な猫だって言われてさ」
「にゃーは変だよ。みゃーおじゃないかな?」
「同じことをプリムラにも言われたよ。猫の鳴き声はみゃーおだよ、って」
前世でも、猫の鳴き声がどう聞こえるかは地域によって違った。みゃーおと鳴くのはイタリアの聞こえ方だ。アメリカ英語ではみゅー、イギリス英語ではみゃおう、ドイツ語ではみあぉ、ロシア語ではみゃーう、中国語ではみゃお、と聞こえている。どの言語でも「に」ではなく「み」で始まっているので「にゃー」はかなり特殊な聞こえ方なのだろう。
俺がクレアと自宅で話している理由は単純で、休みたいからだ。今日はグレイスフル子爵が兵を連れて出兵した次の日であり、俺は兵士達に剣や各種兵器の指導をして疲れた心と身体を癒すため、クレアと雑談に興じていた。
やる事はある。機織り機の増設や麻の仕入れ、新しい仕事の計画書作成等、様々だ。だが、今日はそれらはお休みだ。
「あと、俺が文字とアバカスの授業を卒業するという話を聞いた時もやだやだって言っていたな」
「もう覚えたんだ」
「思ったより簡単だった。五十種類も文字は無かったし」
英語でさえ、大文字と小文字で合わせて五十二種類あるのだ。それ以下となれば覚えるのは難しくない。ちなみに、日本語はひらがなの清音で四十六種類あり、「っゃゅょ」の小文字や「がぎぐげご」等の濁音や「ぱぴぷぺぽ」の半濁音を合わせると、その総数は七十五に達する。そのカタカナバージョンも含めると更に七十五種類増えるし、漢字は常用漢字だけで二千百三十六文字もあるのだ。全て合計すると二千二百八十六文字である。
「そうそう、それで思い出した。プリムラが寂しいらしいから、俺の代わりに授業を受けてみないか?」
「……私が?」
「そう。ばあやから提案されてな。他の子を連れて来てもらえませんか、と言われたんだよ」
「うーん……」
「興味があれば、リラの授業も受けさせてくれるって」
「……その時は、スーも一緒?」
「一緒だね」
「じゃあ、やりたい」
「分かった。後でルシールおじさんとばあやに伝えておくよ。まあ、授業を受けられるようになるのはグレイスフル子爵が帰ってきてからだから、だいぶ先だけどね」
予定通りであれば、グレイスフル子爵が帰ってくるのは一月以上先だ。今はまだ、戦場どころか王都にも辿り着いていないだろう。
「どうなるかな……」
「どうしたの?」
「グレイスフル子爵から聞いた話を元になるべく用意はしたのだけれども、やっぱり戦いに絶対はないから……」
もしも、敵側に俺と同じ転生者がいて、火薬やら銃やらを使ってきたら大変である。こちらは三ヶ月しか準備に時間をかけられなかったため、製造が難しいそれらの道具は作っていないのである。
「せめて有刺鉄線は作るべきだったかな?でも、ほぼ確実に攻撃側になるって言われた状態で貴重な鉄を使うのはなあ……」
有刺鉄線とは、幾つもの棘のついた鉄線の事である。千八百六十五年にフランスで発明されたこの道具は、単純ながらも効果が高い防壁であり、特に第一次世界大戦ではこれと塹壕の組み合わせをどうやって攻略するかが戦いのポイントとなった。鉄線に棘をつけるだけなので製造は簡単なのだが、目立った攻撃性能があるわけではないので、貴重な鉄を使う事もあり、今回は製造を見送った。
「まあ、今心配しても仕方ない。土産でも期待しながら、こっちはこっちでやる事をやろう」
極端な話、俺よりも未来の人間が戦車や戦闘機よりも遥かに強い兵器を敵に与えていたら、どうにもならない。こちらはこちらで最善を尽くしたのだ。
「結構強くなったし、そうそう苦戦はしないでしょ」
バイオプラスチックの鎧、鐙、ボーラ、安全靴、シャベル、コンパウンドボウ、諸葛連弩、蹄鉄、馬鎧。あと、剣道の動きや前世の戦術。グレイスフル子爵領軍が得た物は多い。この世界の一般的な戦いで、彼らが苦戦するとは思えなかった。
だが、それは思い込みだったと後で俺は知ったのであった。