13・ベーグルとメロンパン
グレイスフル子爵の屋敷を訪れてから十日後。俺は家の仕事を手伝っていた。
店の半分はまだ普通のパン屋だった。と言っても、この世界の普通のパン屋ではなく、前世の普通のパン屋になっている。色々なパンが置いてあって、それをトングで取っていくスタイルだ。もうこの時点でこの世界の普通から外れている。
ベーグルやメロンパン等を求めて、客がひっきりなしに訪れていた。ベーグルは十四世紀のポーランドで、メロンパンは二十世紀の日本で誕生したパンである。この世界には存在しない。俺の前世由来の特殊なパンを求めて、多くの人が我が家を訪れていた。
ちなみにメロンパンは材料の砂糖が高すぎるため、甘くないクッキー生地を乗せただけのパンである。それでも、サクサクとふんわりの調和を求める多くの客が、メロンパンにトングを伸ばしていた。
そして店の残り半分にはパンどころか食品ですらない物が並んでいた。ほうき、ちりとり、うちわ、げた等の、木を使った商品ばかりだ。
ほうきが実用的な道具として使われ出したのは平安時代の日本であり、ちりとりの原型が登場したのは江戸時代の日本である。うちわは儀式に使う物は古代エジプトにもあったが、実用的になって庶民の間に普及したのは日本の江戸時代であり、ヨーロッパには十六世紀に伝わったとされている。げたは普及したのは江戸時代後半からだが、その原型は弥生時代からあった。しかしそれは田んぼに沈まないようにするために作られたのであって、小麦が主食のこの世界では存在していない。
「これはこういう使い方で――」
俺がやっているのは、ほうきやちりとりの使い方を客に教える事だ。俺の力では説明が難しい物が一つだけあるので、それは父と母に任せているが、他は俺が使い方の説明を担当している。
「ありがとうございました!」
ほうきとちりとりを買って帰っていった老人客にお礼の言葉を投げかけてから、俺は店の隅の椅子に座った。まだ昼だが、もう店の中に商品は一つも残っていなかった。
「あー……疲れた……」
グレイスフル子爵から与えられた資金を元に、ベーグルやほうき等を扱い始めたのは今朝からである。最初のうちは客が集まらないと思っていたが、想像を遥かに超えて早く人が大量に集まった。珍しいパンも、面白い木製製品も、この世界の人々の心をしっかりと掴んだのは良かったが、情報が広まるのが早すぎであった。
「明日以降の分が無くなっちゃったな。かといって、ルシールおじさんが納品しにやってくるまではまだ時間があるんだよね」
「あそこの工房、今も忙しいらしいからねえ」
「鎧の他にも色々作っているんだっけ?クレアちゃん、パパに構ってもらえなくて寂しいだろうなあ。おや?噂をすれば……」
両親と雑談をしていると、店の扉が開き、人影が二つ入って来た。一つは小さく、一つは大きい。
「スー!遊びに来たよ!」
「お邪魔します。シュウ君、アレが出来たから、持って来たよ」
「クレア、おはよう!ルシールおじさんもおはようございます。ところで、アレがもう出来たのですか!?」
「ああ。次の納品日に渡しても良かったけど、なるべく早く幾つか作って欲しいと言っていたからね」
「ありがとうございます!滅茶苦茶大変だったので、本当にすぐ欲しかったんですよ!」
クレアとルシールであった。ルシールは小さなバッグを肩から吊り下げており、その中にアレがあるのだろう。
「大繁盛だったらしいですね。噂は聞きましたよ。今日は大変だったでしょう?」
「いやあ、シュウが手伝ったからそんなにでもありませんよ。はっはっは」
「頼もしい息子のお陰でどうにかなりましたよ」
「この間、シュウ君からお洒落な花瓶と花束を貰ったとも聞きましたよ。よく出来た息子さんですね。うちの工房にも家族に何もしない人がいたのに、あれだけ小さな子が家族に感謝を伝える事を忘れないとは……」
「あの、ルシールおじさん。悪いけど……」
「ああ、すまない。今渡すよ」
バッグの中をごそごそと漁り、ルシールが何本かのアレを俺に手渡した。
「何これ?さっきまで売っていたファイヤーピストン……とは違うわね?」
「スー、何これ?」
この場の女性二人が俺に疑問を投げかける。ちなみにファイヤーピストンとは、この店で今朝から扱い始めた商品のうち、俺が説明を諦めた発火用の道具である。
ファイヤーピストンは前世では東南アジアの民族が使っていた発火用の道具であり、この世界には無かった。片方の端を密閉した筒にピストンを急激に押し下げると、筒の中の着火剤が断熱圧縮されて火種が出来る道具である。これの説明を俺が諦めたのは、二歳児である俺の力が足りなくて上手くピストンを押し下げられず、実際に使っている様子を見せられなかったからである。
「こっちの小さい蓋を開けると、インクが交換出来るよ」
「という事は、ペン先はこっちですね」
ルシールが持って来たアレ。それは木製の筒状の物体であり、蓋が二つついていた。俺が大きい方の蓋を開けると、軸の方にインクで濡れた布がついている事が分かった。
「ルシールおじさん、完璧なサインペンをありがとうございます」
サインペンである。千九百六十三年に日本の会社が開発したこのペンを作ってもらったのは理由がある。
「これで、文字の練習が楽になります」
この世界での筆記用具は二種類。一つはスタイラスで、もう一つは羽ペンだ。スタイラスは骨などの硬い物質で作られたペンであり、これで蝋の板を引っ搔いて文字を書く。羽ペンは文字通り羽で出来たペンで、インクをつけて文字を書く。
この二つには問題が多かった。両方ともペン先が硬いため書き心地が悪いのだ。加えて、スタイラスは蝋の板を引っ掻いて書くため文字の部分の色が変わらず読みにくい。羽ペンはインクを何度も付け直すのが面倒臭い。
グレイスフル子爵の屋敷で俺は文字を習い始めたが、筆記用具によるストレスが大きかったため、こうしてサインペンを作ってもらったのだ。サインペンはペン先が布で柔らかいため書き心地が良いし、インクを使うため文字が見やすく、軸から毛細管現象によってインクが出続けるため書き続けられる。素晴らしい筆記用具である。強いて言えば文字が太くなるのが欠点だが、それくらいだ。
「こういう風に滑らかに書き続ける事が出来るペンだよ」
「……シュウ君、ちょっといいかい?」
説明、と言っても毛細管現象等の仕組みの話ではなく、ペンとしての性能の説明だけだったが、ルシールが興味を示した。
「何?ルシールおじさん」
「これ、一本返してくれないかい?図面を引いたりメモを取ったりするのが凄く楽になりそうなんだ」
「良いですよ。どうぞ」
「ありがとう。後でまた作ってあげるから。これで仕事が早く終わって、クレアに寂しい思いをさせないで済む」
ルシールはグレイスフル子爵への分とこの店への分とで、最近は大量に物を作っているのである。彼からすれば、この便利なペンは是非とも欲しいだろう。
「良かったね、クレア。パパが沢山遊んでくれるって」
「スーと遊びたい」
「クレア、パパと遊びたいだろう?お仕事を早く終わらせるから、応援を……」
「別に。スーと遊ぶから平気」
「…………」
「じ、じゃあ、俺はクレアと遊ぶから!ルシールおじさん、バイバイ!クレア、おいで!」
いたたまれなくなって、俺は大人三人を置いてクレアと共に家の奥へと逃げ込んだ。ルシールのメンタルケアは両親に任せて、俺はクレアと遊ぶのだ。俺は悪くない。ルシールの仕事を効率化させる道具をあげたのだ。むしろ感謝されるべきだ。今のように、笑顔で圧をかけられる謂れはないはずだ。
家の入口の方から微かに聞こえる、両親がルシールを慰める声を聞き流して、俺はクレアと遊びに興じた。