10・お辞儀
屋敷に入ってもマガクスはスピードを落としただけで、肩車を止めなかった。こちらとしても屋敷の中のどこに行けば分からなかったので、この自動運転はありがたい。
「ついたでがす」
大きくて豪華な扉の前に着くと、マガクスがそう言って俺を下した。きっとこの中にグレイスフル子爵がいるのだろう。
「ありがとうございます。今、髪と服を整えるので少し時間を……」
「子爵!マガクスでがす!シュウの坊ちゃんを連れてきたでがす!」
「ちょっと!?」
「入れ」
「はいでがす!」
マガクスが扉を開ける。ああ、もう仕方ない。どうせマガクスの髪の汗の臭いは取れないと諦めていたのだ。髪も服の乱れもどうでもいい。何か言われたらこの大男のせいにしよう。
心の準備はやけくそに終わらせて、見た目の準備は放棄して中に入る。
「失礼します」
扉の奥には一台の机と幾つかの椅子があった。奥にある一脚には、一人の男が座っていた。
「…………ああ、そういう事か」
男、つまりグレイスフル子爵が俺を一目見て、何かを理解した様に呟いた。
「マガクス、この子の頭を撫でて肩車したな」
「はいでがす。何かまずかったでがすか?」
「何か格好が乱れていると思ったら……お主、大丈夫だったか?他に何かされていないか?」
「ええと、がおー!!ってされました」
「ああ……それもあったな……。とりあえず、マガクスは訓練に戻れ」
「はいでがす」
マガクスが退室したのを見てから、グレイスフル子爵は一つ咳ばらいをしてから話し出した。
「マガクスが迷惑をかけたみたいだな。アレはお主の様な子供が好きなのだが、愛し方が少々荒っぽいというか……」
「だ、大丈夫ですよ。気にしていません」
「がおー!!ってされて怖くなかったか?」
「怖くなかったです。こちらもがおー!!ってマネしました」
「そうか……。とりあえず、服の乱れ等は気にしないから、安心してくれたまえ」
「ありがとうございます」
俺は丁寧にお辞儀をして、感謝の意を表した。俺の前世は警察官なので、こういった礼節の類は得意分野だ。喋り終わってからお辞儀。角度は三十度。カーテシーやボウアンドスクレープの様なお辞儀ではなく、日本のマナー講師が教えるようなお辞儀だ。
お辞儀には色々な種類があるが、日本のマナー講師が教えるようなお辞儀は天武天皇の時代から広がったとされている。
それまでのお辞儀は土下座のようなものだったが、天武天皇が六百八十二年に土下座のようなお辞儀を禁止した事で、立ったままで行うお辞儀の形へと移行したのであった。
「遅れたが、自己紹介をしておこう。儂はキルトマン・グレイスフル。この地を治める子爵家の長だ」
「お初にお目にかかります。シュウと申します。本日は何卒よろしくお願い申し上げます」
再度、お辞儀をする。余談だが、お辞儀の一種であるカーテシーとボウアンドスクレープはどちらもヨーロッパの貴族社会で誕生したものだ。どちらも時代と共に発展してあの形になったお辞儀であり、明確な起源は定かではない。
「ほう、平民の挨拶としては完璧と言えるな。誉めてやろう。座りたまえ」
「失礼します」
綺麗な所作を心掛けながら、椅子に座る。この世界の貴族のマナーが分からないため前世のマナーに則って自己紹介とお辞儀をしたが、どうやらこれで良かったらしい。
「さて、お主には二つの用があって呼び出させてもらった。まず、一つ目がコレだ」
そう言って、グレイスフル子爵は机の下から一領の鎧を取り出して机の上に置いた。ルシール達が理想の形に加工する事が出来ずに悩んでいた、バイオプラスチックで出来た鎧。砂型を使って鋳造するように加工してはどうかと俺が数日前にアドバイスしたが、おそらくその方法で作られたのだろう。
「ドンタンとルシールから話は聞いている。念のため確認するが、お主がこの鎧に使われている、バイオプラスチックの作り方を彼らに教えたのだな?」
「はい。その通りです」
「そうか。いやはや、中々信じられぬな。儂の娘と変わらぬ年の子供がこの様な物を考えたとはな。うーむ……やはり気になる……」
鎧を見て、俺を見て、また鎧を見て、また俺を見る。何度か視線を行き来してから、グレイスフル子爵は意を決した表情でこう言った。
「シュウよ。一つ用を増やさせてもらう。お主がこれの作り方をどうやって考えたのか教えてくれ」
きたっ!!と俺は思うと同時に、じゃあ元々の二つ目の用事って何なの?と疑問が浮かんだ。だが、今は質問に答えよう。
「実は……」
「おとーさーん!開ーけーてー!」
俺の告白は、扉の向こうからの高い声に遮られた。明らかに大人の声ではない。小さな子供、俺と同じ二歳ぐらいの子供の声だ。
「プリムラ!!今はお父さんは大事な話をしているんだ!!部屋に戻りなさい!!」
「分かった!お父さんが連れてきたお友達を見たらすぐ戻る!」
「駄目だ!!今すぐ戻りなさい!!」
「やだ!」
「ああもう……マガクスもそうだが……どうして……。はあ。シュウよ、先程の質問には答えなくて良い。代わりに、うちの娘に会ってくれ」
「え、あ、は、はい」
「開けるぞ」
突然の要求の変更に困惑する俺の横を通り過ぎて、グレイスフル子爵が扉を開ける。充分に扉が開ききる前に、小さな人影がするりと滑り込んだ。グレイスフル子爵と同じ黒髪をポニーテールに纏めた、活発そうな少女、いや俺と同じくらいの年に見える幼女だった。
「いた!!」
「いた!!じゃない!まずは、こんにちは、だろう?」
「こんにちは!!」
元気に挨拶をするプリムラの前に、俺は椅子から降り立った。グレイスフル子爵へのそれと同様に、前世のマナーに則って挨拶を返そうかと思ったが、こんにちはに対してそれは堅苦しすぎると思い、貴族相手の上品さはそのままに、少しラフに挨拶を返す。
「こんにちは、お嬢さん。私はシュウと言います。お嬢さんのお名前をお尋ねしてもよろしいですか?」
「あたし、プリムラ!!」
「あーもう滅茶苦茶だ……恥ずかしい……しっかりとした挨拶をして欲しかったのに……」
右手で目を覆い隠しながら、グレイスフル子爵が天を仰ぐ。その間に、プリムラは俺の手を掴んで俺と共に部屋から出ようとした。どうやら、このまま自分の部屋に連れて行くつもりらしい。
「あっ!!こら!!待ちなさい!!お父さんはこの人に大事な話をしなければいけないから、プリムラはばあやとお部屋で遊んでいなさい!!」
「やーだー!!一緒に遊ぶのー!!」
「ばあやー!!来てくれー!!」
「やーだー!!うえええええん!!」
グレイスフル子爵が泣き始めたプリムラを俺から引きはがして、部屋の外にあっという間にやって来たお婆さんに投げ渡し、扉を閉める。泣き声が遠くなっていき、聞こえなくなったのを確認してから、グレイスフル子爵は俺の方に向き直った。
「マガクスといいプリムラといい、恥ずかしいところを見せてしまったな」
「大丈夫ですよ。気にしていませんから」
「そうか。言葉通りに受け取っておこう。さて、プリムラがもう一度部屋から逃げ出してくる前に、儂について来てくれ」
「はい。どこに向かうのですか?」
「兵士達の訓練所だ。この窓からも見えるぞ、ほら……って……ええ……嘘だろ……こんな時に限って……」
窓から身を乗り出して、一方向を指差すグレイスフル子爵が固まった。何事かと思い、俺も指を差した方向を見ようとしたが、手で制された。
「少し待っていてくれたまえ」
そう言ってから、グレイスフル子爵は部屋の外に出て行った。何が起きていたのか俺は気になって、外側から見つからないようにそっと窓から外を見た。
「あ、喧嘩してる……」
先程までグレイスフル子爵が指を差していた方向で、二人の男が取っ組み合いの喧嘩をしていた。
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