第三話
俺は吉田がいたはずの場所をひたすら観察していた。元々湿気の多い森なのだが、その場所地面は明らかに濡れていた。誰かが意図的に水を撒いたたとしか思えない。
そこで橋本がひどく怯えた様子でこんなことに言う。
「やっぱり蛇の神に……ミズチに連れ去られたんだ……」
「そんなことあるか。きっとあのロン毛の男の仕業だ」
俺が言い返すと、今度は佐々木が話に入る。佐々木はまだ落ち着いているようだ。
「けど主任。引き摺ったような形跡はありません。それに吉田は割と大きいから、一人で抱えるのは難しいかと……」
佐々木が指摘したことは俺も気づいていた。吉田がいた場所のすぐ傍から背の低い草むらが続いているので足跡は見えない。男を一人引き摺れば草むらでも少しくらい荒れてもいいものだがそれもない。
しかしそれくらいなら俺もおかしいとは思わない。
「だったら他に仲間がいるはずだ。例えば、昨日の孫娘とか」
あの孫娘は細身ではあったものの華奢ではなかった。むしろ体格は良く、女子にしては腕が鍛えられている感じだった。二人で担架を使って吉田を運んだのなら、今の状況も説明がつく。
「あと、さっきの白装束のガキもグルだな」
俺がそう呟くと、佐々木はビデオカメラを掲げた。
「あの女の子が現れたところは録画しました。確認しますか?」
「でかした。見せてくれ」
言われてみれば、白装束の少女が来てから、佐々木はビデオカメラをずっと持っていた。俺達は早速、録画の内容を確認する。
白装束の少女が画面にしっかりと写っていた。両足はちゃんと生えている。疑っていたわけではないが、彼女が生きた人間であることは間違いないようだ。
「とにかく吉田を探すぞ。見つけたらそのまま所有者の家に乗り込む」
そして当初の予定通りに所有者を脅して土地の売買契約を結ばせる。例の一族の闇を探す余裕はなくなったが、白装束の少女の映像と吉田の証言があれば十分だろう。
俺が進み出そうとしたところで、橋本がおそるおそる意見してくる。
「いや、今すぐ森を出て、警察に行った方が――」
「俺達は不法侵入してるんだぞ。警察介入されたら交渉できなくなるだろ」
この森は私有地だ。最悪の場合、刑罰を受ける羽目になる。吉田の状態次第では、向こう側も同じだろうが、土地の売買の交渉など不可能になることは間違いない。そもそも所有者のジジイとその孫娘が今の状況に関与している確証はない。
「分かったらさっさと行くぞ」
こうして俺達は吉田の捜索を始めた。佐々木にはビデオカメラで常時撮影させている。橋本はすっかり怯えてしまったが、吉田が持っていた機材を運ぶくらいはできるようだ。
一時間探してみたが、吉田も吉田を連れ去った連中も見つからない。もう遠くへ行ってしまったのか。それとも地中に隠し部屋があるのだろうか。
一旦休憩し、軽く昼食を済ませ後、さらに二時間くらい捜索を続けた。それでも誰も見つからなかった。
そろそろ夕方になる。夏で日が沈むのが遅いとはいえ、早めに森を脱出したい。強い日差しの下、歩き続けて疲労も溜まってきた。そしてもっと大きな問題がある。
佐々木がタオルで汗を拭きながらそこに言及する。
「それにしてもすごくジメジメしてますね」
この森は湿度がかなり高い。昼の時点でも水分が肌に張りついてくるように感じる。気温も都会ほど高くないかもしれないが、三十度は余裕で超えているはずだ。いわゆる高温多湿という気候だ。これから夜になるにつれて、気温は下がるが湿度は上がっていくだろう。
「すみません。ちょっと休ませてください」
橋本が根を上げてその場にへたり込んだ。大汗をかいて、息切れを起こしていた。だらしがないと叱ろうとはも思わない。大きな荷物を持っていない俺でもうんざりしてきた。
俺は佐々木を見遣る。
「お前はどうだ? 大丈夫なのか?」
「はい。少し喉が渇いていますが、なんだか涼しい感じがしますし、少し休めばまだ歩けます」
頼もしい限りだ。一方、橋本は水を飲みたいようだが、水筒を空にしてしまったようだ。
「佐々木、水が余ってるなら橋本に分けてやれ」
「分かりました」
佐々木はそう言って、一旦ビデオカメラを地面に置き、バッグからペットボトルを取り出して橋本に渡しに行った。俺も水に余裕はあるが、橋本にあげたくなかった。
汗だくの橋本を見ていると、また黒い蛇を見てしまいそうで嫌だった。
佐々木が橋本に水を分け終え、元いた場所に戻ろうとする。ふと佐々木の身体が水に流されるように揺れ、そのまま仰向けに倒れた。
平気な素振りを見せていたが、佐々木も限界だったようだ。俺はすぐさま佐々木の元へ駆け寄り、彼の状態を確認する。
ざらざら――。
黒い蛇が佐々木のTシャツの袖から何匹も出てきた。しかし俺は首を横に振る。これは幻覚だ。ミズチという言葉に惑わされて、水滴を見ると蛇に見えてしまうだけだ。
案の定、黒い蛇はすぐに消え、汗だくになった佐々木の姿がはっきりと見える。息はしているがかなり荒い。
「おい佐々木! しっかりしろ」
呼びかけてみたが、こちらを向きそうにない。脱水症状を起こしているのだろう。俺は橋本の方を向いた。
「橋本。タオルを用意しろ」
水を飲み終えた橋本が背を向けてバッグを漁り始めた。俺も佐々木から背を向けて自分のバッグの元へ水を取りに行った。
ずず――。
佐々木がいる場所で音が鳴った。俺は即座に振り返ったがもう遅い。
茂みの外に佐々木の両足だけ見えて、そのまま両足も茂みの中に引き込まれてしまった。
俺はすぐにそこへ向かい、茂みを掻き分けて奥を見たが、佐々木の姿はどこにもない。
「ひ、ひぃ……ひゃぁぁああああ!」
突然、橋本が手に持っていたタオルを放り投げ、叫びながら走り去ってしまった。臆病者の橋本のことだ、精神が耐えきれずに壊れてしまったようだ。
「待て! 橋本!」
俺も逃げ出したいくらいなのだがそうもいかない。今、孤立してしまうのは明らかに自殺行為だ。俺はビデオカメラを拾ってから橋本を追いかける。
吉田が連れ去られた時は、俺達はその現場から離れていたので、まだ人間の仕業だと言えた。しかし佐々木は俺と橋本の近くで、俺達が目を離した一瞬の隙に攫われた。
仮に俺が見た黒い蛇が全て幻覚だったとしても、これはもうミズチの呪いが存在しても不思議ではない。むしろそう考えないと説明がつかない。
そうなれば、俺達の命が危うい。吉田と佐々木はもう殺されているかもしれない。俺と橋本もミズチに捕まれば同じ運命を辿るだろう。
こうして俺は走り続けて、遂に来てしまった。地図も方角も把握していないのにこの場所に導かれた。
祟りがあったとされる、蛇の神を祀る祠がある洞窟だ。