第二話 闇夜に鳴く
「無職に用は無いの、私は出て行く、離婚して」
いったい、妻は何と言っているのだろうか?離婚のと言う言葉だけが、耳の中で
じくじくと音を立てて、脳みそを侵食してくる。
「み、美紀、離婚?えっ何で離婚?えっ?何故?」
「会社が倒産したの、私が知らないとでも思ったの?」
「確かにそうだが、美紀たちに不自由はさせないつもりだ」
「収入は下がるでしょ、無職になった時点で終わりなの、だから出て行くの」
「そんな、これからどうするつもりだ」
「御心配なく、金山さんと暮らす事になってるのよ」
「金山?金山課長?どうして金山課長が出て来るんだ」
この金山が、今回俺に北海道出張を押し付けた張本人だ。
妻の美紀も、同じ会社で働いていたのだから、知合いなのはわかる、だがこれは
その範疇では無いだろう。
「・・・・おまえ、浮気してたのか?」
「今頃わかったの?鈍すぎでしょ」
「・・・・ふざけるなよ、訴えてやるからな」
「そう、ご自由にどうぞ、でも証拠はどうするつもりなの?」
「あっ」
「ほんと、馬鹿よねえ、諦めて離婚して」
「・・ああ」
「変な気を起こさないでよね、穂乃香を育てなきゃならないんだから」
「・・・・・ああ」
「貴方に愛情なんて欠片も無いのよ、いい加減理解してよ」
「・・・・・・・・ああ」
やっと家族が出来たと思った。
妻を愛した、娘を愛した、一日たりとも変わらず愛情を注いだ。
自分の事など、全て後回しにして妻の要望に応えて来た。
何もかも、残らず妻に捧げた、少しも惜しくは無かった。
給料が少ないと言われ、休日や夜間でさえ働いて稼いだ。
だが、俺の愛情は何一つ受け入れて貰えなかった。
結局、俺はまた孤独になった、怒りの行きどころも失った。
「離婚届はテーブルの上に有るから出しておいて、わかった?」
「・・・・ああ」
「あら、壊れたの?まあいいわ、行くわよ、穂乃香」
「は~い」
妻は娘の手を引いて、俺を押しのけて、出て行ったが、その顔は、今まで見た事
も無い程、晴ればれとしていた。
記憶から、音も、色も、意味さえも剥がれ落ちて行く。
屈託なく笑う娘の顔が、更に追い打ちをかける。
俺の結婚生活は、この五年間は、何だったのだろうか?何もかもが、もう形を
保ってくれない、全ての思い出がドロドロに溶けて混ざり合う。
何もない、何もなかった、何ものこらなかった、俺はいったい誰なんだ。
しばらく立ち尽くしたまま、呆然と、もぬけの殻になった部屋を眺めていると、
テーブルの上にある離婚届に気が付いて、ただ、反射的に記入した。
記入したが、俺には保証人を頼める人間が、だれも居ない事に気が付いた。
紙切れ一つ役所に提出できない、そんな俺に何の価値がある、俺の人生は一体何
だったんだ。
両親からは、生まれてからは、何ひとつ思い出を与えて貰えなかった。
学生時代、まともに登校せず、薄汚れた俺には、学校でも友人はできなかった。
教員達は、一人残らず、それこそ職員までが、俺を見えない物として扱った。
下手に関わると、あの異常な両親が出て来るのだ、問題を起こさない限りは、
無視するようになった。
自衛隊員だった頃になると、目に見えて避けられる様になった。
同期達は彼ら自らの意思で、はっきりと拒絶された。
ただ、なんとなく恐ろしいのだと、距離を取られた。
会社員になる頃にはと更に酷くなったが、逆に関わり合いが薄い為か、異常に
避けられる事は無く、社交辞令ぐらいの会話は有ったが、それだけだ。
俺にはただの知人以上の存在は居なかった。
これで社会人なのか、引き籠りのニートの方がまだましではないか。
だが、ふと気が付いた。
ああ、何だ、このまま死ねば、行政が勝手に処理してくれるんじゃないか、俺は
何で、こんな簡単な事にも気が付かなかったんだろう。
それに、娘にもこの先、一切の迷惑が掛からないじゃないか、一石二鳥だ。
そのまま、ふらふらと、階段をのぼって屋上へ出ると、柵を乗り越え、夜空を
見上げた。
月も無ければ、星も見えない、重苦しい雲が覆い尽くす、ただの闇。
何ら見る物も無い、俺が終わるには、丁度いい空だ。
俺が死んでも、誰も気にしないだろう、ああ、迷惑だと思うだけだろう。
何も残す事も出来ない人生だった。
そこいらの、野良猫の方が、よっぽど惜しまれる、俺の死は下水の鼠と同じだ。
俺の命には、何の価値も無い。
そのまま、何もない空間に足を踏みだすと、一瞬の浮遊感と共に、そのまま真っ
逆さまに落ちた。
ああ、屋上の鍵の付け忘れで不動産屋さんが、非難されたら申し訳ないな。
この後に及んで、そんな事を考えていたが、いきなり落下と時間が止まった。
「もうこの世界に何の未練も無いじゃろう、わしの話を聞いてみんか?」
一人の老人が声を掛けて来た。