嘘つきな星と黒百合の約束
あるマハラジャの幼い姉妹姫が、離宮へ向かう途中野盗の襲撃に遭った。
姉のアヴァンティカ姫は十一、妹のダミニ姫は僅か八つだった。
生存は絶望的だろうと諦められていたが、十数年後、姉のアヴァンティカ姫だけ奇跡のように帰還して宮殿中を驚かせた。
帰還したアヴァンティカ姫は、心身共に病んでしまった父と領土を救う為、すぐさまマハラジャの地位を継ぐ事になった。
絹のような黒髪、アメシスト色の瞳を持つ彼女の佇まいは、その美貌とは裏腹に奥ゆかしく微かに俯きがちで、異国の黒百合のよう。彼女はたちまち見た者全てを魅了し、跪かせた。
荒野へ落ちてしまった彼女を再びこの高みへ登らせたのは、たった一人の青年。名をナディシューという。
ナディシューは、元々船の荷運びをする奴隷少年だった。
野盗から逃れるアヴァンティカを偶然小舟で運ぶ事になり、その際支払われた大金で奴隷の身から解放された幸運な男だ。
彼は今、宮殿のバルコニーから自身の領土を眺めるアヴァンティカの側に控え、複雑な心境だった。
出逢って一目惚れし無理矢理お伴となって十数年、高貴な姫と知らずとも女神のように崇めた日々。学も芸もなかったけれど、彼女の幸せだけを思って尽くしてきた。結果、彼女がマハラジャになるなんて。
――――まさかこんなところに来るなんて。
今、ナディシューとアヴァンティカの身分は、天と地ほどに開いてしまった。
この国の階級制度や思想は、悲しいかな、飛び切り厳しい。
ナディシューは今後自分の存在が、アヴァンティカの足を引っ張るだけだと自覚をしていた。
――――お役御免だなぁ。
ポカンと口を開いてしまうほど広大で栄えた領土に苦笑いしていると、アヴァンティカが彼の方を見た。子供の頃から何千何万回と見た瞳であるのに、ナディシューはその度息を飲む。
「ナディシュー、貴方がいなかったら、こうしてお父様を助ける事が出来なかったわ」
ナディシューは微笑んだ。
十数年一緒にいたというのに、子供の頃からずっと彼女の美しさに気圧され、気安く会話が出来ない。
それでなくとも、自分の元々の身分を考えるとおこがましいし、育った環境のせいで乱暴な言葉遣いである事だし、アヴァンティカと言葉を交わす事は極力控えていた。
彼女は彼の寡黙のそういった理由を知らないけれど、彼が言葉で返事をしなくても慣れっこだ。そっとナディシューへ一歩近寄り、大きな瞳を潤ませた。
「これからも、私を支えてくれますか?」
彼女はそう言って、ナディシューの無骨な手を自分のしなやかな手で包んだ。
ナディシューの心臓が蕩け、脈が止まりそうになる。このまま緩やかに死ねたらと、何度考えてしまった事か。
「聞いていますかナディシュー、これからも側にいてください」
ナディシューは、アヴァンティカの小さな手をそっと自分の手から解いた。
「……お、お姫様、誰が見ているか、わ、わかりません」
彼女を守る為ならいくらでも小賢しく回る舌が、彼女を前にするとちっとも回らずどもってしまう。
奴隷としてこき使われた少年時代に身につけた逞しさや貪欲さも、顔を覆って蹲る。
ナディシューは、数多の危機から姫を救った英雄であるのに、姫の前ではよちよち歩きの子犬同然だった。
「もう私達は隠れて生きなくてもいいのよ」
「そ、そういう意味ではなく……」
訝しげに首を傾げるアヴァンティカに、ナディシューは「お姫様、この先大丈夫かな」と少し心配しつつ、説明する。
「も、もうお姫様は、お、俺なんかと、親しくしてたらいけないんですよ。わかるでしょう?」
「貴方の身分の事を言っているのなら、気にしないでください。周りにも認めさせますから」
「ひ、贔屓をすると、きっと要らない争いの種になります」
「絶対に、貴方が素晴らしい人だと周りに知らしめると約束するから」
そんな事不可能だ、と、ナディシューは思った。
国を営む知識や力を少しも持っていないナディシューは、日が経つにつれアヴァンティカの側でタダ飯を食うだけの奴隷となるだろう。今までの役割だった護衛だって、宮殿にはナディシューなんかよりずっと腕のたつ護衛達がわんさかいるのだ。タダ飯食いの役立たずが、どうやって周りに認められる素晴らしい人になれるだろう?
「もう、や、役に立てない」
「そんな事ありません。貴方がいないと私はひとり……」
そう言う彼女の背後、バルコニーから見下ろす領土一面に、何千という明かりが灯り始めた。
ナディシューは微かに笑んで、彼女の背後を指さした。
アヴァンティカが無防備に背後へ振り返る。彼女の後ろ姿が微かに息を飲むのを、ナディシューは見守り、言った。
「ひとりじゃない」
後ろ姿には、どもらない。畏まる必要も感じない。
「あの明かり一つ一つに、お姫様が必要なんだ。明かりのないところにだって、きっといる。宮殿を星みたいに眺めて、偉大なマハラジャがいらっしゃるから明日も安心だって、眠りにつくヤツが」
――――なぁ、お姫様。わかるかい。ひとりっていうのは、俺みたいなヤツの事だよ。誰にも期待されず、誰にも求められない。
「憎んで睨んでいるかもしれないわ」
「じゃあ、明日はもっとよくしてくれよって願わせればいいですよ」
「私は星じゃない」
「十分星みたいです」
アヴァンティカが何か言おうと振り返った時、しずしずとした声が割って入った。
ナディシューは素早く石の床に膝をつき、頭を垂れる。
「アヴァンティカ様、即位前の宴の準備が整い始めました。お召し替えを……」
「あ……はい」
やって来た年かさの女官は、恭しく頭を下げたまま言葉を続けた。
「宴では、失踪に至った経緯、即位までの経緯などを皆の者にお話頂きたく思っております。もちろん、伏せるべきところは伏せて頂いても構いません」
「わかりました」
「お付きの方は、出席いたしますか」
アヴァンティカが眉を潜め、普段なら出さない強い口調で答えた。
「もちろんです。彼が私をここまで無事に導いてくれたのですから」
女官は眉をピクリとも動かさず、主に告げた。
「高貴な方々が大至急一同に会す席でございます。間を開けての末席となりますが」
何か言いかけたアヴァンティカより早く、ナディシューは「構いません」と声を上げた。
女官は奴隷の身分に声をかけられ不愉快だったのだろう、返事を返さずアヴァンティカへ恭しく礼をして「こちらへ」と主を促した。
アヴァンティカは頬を赤くしつつもしゅんとして、女官に連れられて行く。
彼女の頼りなさを見て、ナディシューは怒るでもなく、がっかりするでもなく、やはり自分がここにいてはいけないと強く自覚した。
――――お姫様はきっと俺の為に戦ってくれる。その勇気がある人だから。だけど、今はまだ力不足だ。余計な厄介ごとを増やしてはいけない。
チラリと振り返ったアヴァンティカへ、安心させるように微笑んで、ナディシューはその場から踵を返した。
マハラジャらしく着飾った彼女を見てみたいものだけれど、見てしまったらきっと、みすぼらしい自分と比べて本当の別離になりそう。
彼女が語るこれまでの経緯とやらを聞いてみたいけれど、自分の思い出と足並みが揃っていなかったらと思うと、聞きたくない。
――――お姫様にはお姫様の、俺には俺の思い出だから。
さぁ、これから何処へ行こうか。
何処へ行こうとも、ナディシューの頭上にはいつも星が輝いているから、何処だって構わない。
*
それから数十年経って、偉大な女マハラジャが領土を大いに潤した末に 薨去した。
訃報は年老いたナディシューの耳にも届いた。
ナディシューは老いた足に鞭打って、懐かしい別れの地へと赴くと、荘厳な宮殿を見上げ涙した。
足をもつれさせて建物と建物の影に入り込み、蹲って泣いていると、誰かが何かを語っている声がして、ナディシューは顔を上げそちらを見た。
入り組んだ裏路地の先から、その語りは聞こえてくる。
――――そういえば、お姫様は物語が好きだったなぁ。
心を慰めたくて声のする方へ行けば、細い路地の先には小さな広場があって、老女の語り部が物語を語っていた。
老女の語り部は余程面白い語りをするらしく、狭い広場の中、彼女の周りを人々が群がっている。
ナディシューは人の多い所は苦手なので、そっとその場を去ろうとした。
ちょうど語りも終わりの様だし、ついていないな、と思いながら広場に背を向けた時だった。
老婆の凜とした声が、彼の足を止めさせた。
「では次のお話は、マハラジャ・アヴァンティカ様を偲び、彼女から伝え聞いた物語を語りましょう」
広場がシンと静まって、すすり泣きが聞こえる。
ナディシューが振り返ると、老婆の語り部とちょうど目が合ってギョッとする。
老婆の目だというのに、若い娘のように煌めいていたのだ。
老婆は無言で彼へ、開いているところを指さし、そこへ座るよう促した。
ナディシューは戸惑いつつもそれに従った。
と、その時聴衆から不満げな声が上がる。
「婆さんの話は凄く良いが、マハラジャから伝え聞いたってのはちょっと信じられねぇなぁ」
老婆は「ふふふ」と笑って、「物語だと思って聞いてくださいな」と意に介さない。
すると、「聴こうよ、アヴァンティカ様を偲ぼう」と、声が上がった。
老婆はいたる方向へ頭を下げて、首を傾げる。
「語ってもいいかしら?」
何となく上品で愛らしいこの老婆へ、皆が温かく頷いた。
では、と、老婆がふっくり笑い、透き通るような若々しい声を上げた。
「―――彼女の星へ語ります。麗しいこの地には、かつて二人の姫が生まれました。しかし、二人は野盗に襲われました。先代マハラジャは一度に二人の姫を失いました。けれど皆様ご存じの通り、一人は生きておりましたの」
皆が「うんうん」と笑顔で頷いていた。亡き女マハラジャは皆に愛されたのだと、ナディシューは頬を緩める。
その間にも話は進み、妹のダミニ姫がアヴァンティカ姫を連れ野盗から逃れる為、自身の装飾品と引換えに1葉の小舟を買い付けている。
そこで生き生きと小舟を漕ぎ、交渉するのは少年の頃のナディシューだ……。
生きてきた中で、一番大切な瞬間がありありと語られていく。
小舟の代わりに渡された宝石よりも素晴らしいものを、懐に入れた事にまだ気づかない、幼いナディシュー。その時の川面の煌めきすら、目の前に見えるようだった。
「アヴァンティカ姫とナディシューはいつも一緒でした。彼の操る小舟は彼女の過酷な運命の上を、いとも器用にすいすいと進んでいきます。それは大地の上でも同じ。ナディシューは姫の手を引いて、彼女を安全な場所へ連れて行く天才でした。アヴァンティカ姫は彼をとても頼もしく思い、兄の様に慕うようになりましたが、ナディシューは奴隷の身分を気にしてか、あまり心を開いてくれません。けれども、いつでも姫に誠実でした」
ナディシューは泣きたくなった。もうアヴァンティカ姫はこの世にいない。彼女との思い出が鮮明に語られれば語られる程、喪失感がナディシューを包んだ。
一体この老婆は何者だろう?
交わした少ない言葉が、微笑みあった他愛ない出来事が、共に見てきた風景が……どんどんつまびらかれていく。
本当にお姫様から話を聞いたみたいじゃないか。隠して欲しいところや、はしょって欲しいところまで、お姫様の意志を全て理解しているみたいだ。
「ある夜、二人は旅の途中で恐ろしい嵐に遭いました。生憎街と街の間を急いでいた二人は、大きな木のウロの中へ逃げ込みます。嵐は更に激しさを増し、荒れ狂いました。稲妻が近くの木を引き裂き、風が枝葉を次々と地面へ叩きつけます。二人は身を寄せ合って、嵐が過ぎるのを待ちました。そして、嵐が過ぎ、恐る恐る木のウロから這い出すと―――」
木々がなぎ倒されて、満天の星空が広がっていた。
雨風に洗われた夜空は、息を飲むほど美しかった。
「アヴァンティカ姫は言いました。『私、今のこの気持ちと同じ気持ちになる事があるわ』」
その時の事を、何よりも大切に胸に、覚えている。若きナディシューはつっかえながらこう尋ねた。「こんなに安堵して希望が湧く気持ちに? それはいつですか?」
彼の思い出に、老婆が応える。
「『貴方の背を見る時よ』」
―――貴方は私の星みたい。
その後、なんと答えたのだっけ。ナディシューは、喜びに蕩けてしまってニヤニヤしてしまわないように、ずっと顔をしかめていた事しか覚えていない。
――――どうして怒っているのですか?
――――お、怒ってません。
「アヴァンティカ姫は不安そうに言いました。『貴方に頼り過ぎているでしょうか』。ナディシューは慌てて首を振ります」
―――ど、どれだけでも、た、頼ってください……。
アヴァンティカのアメジスト色の瞳がキラキラ輝いて、嬉しそうに笑った。
―――では、ずっと一緒にいてくださいますか?
「ナディシューは『もちろんです』と答えました。アヴァンティカ姫は心の底から安堵して、この世から全ての怖い物が消え失せた気持ちだったそうです。星のもたらす安堵と希望は、いつまでも彼女を守り通したのでした」
胸を押さえて涙を堪えるナディシューをよそに、老婆はナディシューが如何にアヴァンティカを守り助けたかを語っていく。その度に、聴衆達はナディシューへの愛着と尊敬を高めていく。
お姫様と奴隷……否、素晴らしい英雄の貴種流離譚は、その場の全ての者の心を打って幕を下ろした。
聴衆達は皆口々に、ナディシューを素晴らしい人だと褒め称えた。
「語り部のおばあさん、私達はマハラジャ・アヴァンティカ様を帰還させた英雄がいると知っていましたが、彼の話を耳に入れた事がありませんでした。彼は、ずっとマハラジャの側におられたのですか?」
聴衆の一人が、老婆に尋ねた。周りの者達も、「そういえばそうだな」と首を捻る。
老婆は彼らに微笑んで答えた。
「マハラジャ・アヴァンティカ様は偉大な統治者でしたね。それは皆様ようくご存じの筈。それが答えです。星を抱かぬ者が、これほど領土を潤せようか。これほど皆を幸せにしただろうか。これほど皆に慕われようか」
聴衆達は「ほう」と陶酔した顔をしたり、首を傾げたりとまちまちな反応を見せたけれど、それぞれに納得した様子で頷いた。そうか、星を抱いていたから成せたのだろう。
「ナディシューは、アヴァンティカ様を亡くしてきっと悲しんでおられるね。今どうしていらっしゃるのかしら」
「そうだなぁ。きっと星を失った様な気持ちでいらっしゃるに違いない」
「ねぇ、語り部のおばあさん、ナディシューは今、どうしているの?」
老婆は美しく煌めく瞳を潤ませて、「さぁ、どうしているのかしら」と、答えた。
一瞬向けた視線の先には、年老いたナディシューが俯いて座っている。
「それにしても、本当にマハラジャ・アヴァンティカ様から直接聞いたみたいなお話だったね」
誰かの声に、老婆はコロコロと笑った。
「ええ、ええ、アヴァンティカ様から直接聞いたのですよ。彼の素晴らしい話を広めてくださいとね」
ドッと好意的な笑いが起った。
「ばあさんってば、お知り合いだったの?」
それに老婆は悪戯そうに答える。
「ええ、わたしはもう一人の行方不明の姫なの。つまり、マハラジャの妹なのよ」
また湧き上がる笑い。皆楽しそうにその冗談に笑った。
それから、素晴らしい英雄ナディシューが、今何をしているのか想像して楽しんでいたが、その内夕刻を告げる鐘の音を聞くと散り散りに広場から去って行った。
残ったのは、老婆の語り部と俯いたナディシューだ。
ナディシューは俯いて座ったまま、ピクリとも動かない。
老婆が静かに彼の元へ近づき、動かない彼の顔を覗き込むと、涙に潤んでいる開いた瞳をそっと手で閉じさせた。
ナディシューは死んでいた。
その表情は、星を掴んだ人そのもの。限りなく満たされた死に顔であった。
老婆は老いた身体を曲げ、恭しく彼の足下へ跪き囁いた。
「姉を導いて頂きありがとうございました」
*
後に、老婆の語りは、たちまち広まり愛された。
ナディシューは素晴らしい英雄として、今でも語り継がれている。
けれども彼は、そんな事よりも、お姫様がずっと自分を側に置いてくれていた事が、とても嬉しくて、もうこのまま緩やかに死んでもいいと思ったそうな。
おしまい