観測記録1:相良幸雪編「探偵と幸を与えた同居人」
「やあ、こんばんは。今日もいい天気だね」
僕は、仕事で使っている部屋に訪れて誰に対する挨拶かわからない挨拶をする
「箱庭で遊ぶのもいいけれど、たまには僕も仕事をしたくなってね」
いつもの椅子に腰かけて、観測用の資料を呼び出す
本日観測する時間は、僕の友人である彼方さんと縁深い人物
彼方さんと小陽さんと僕が巻き込まれた過去のお話は、いつか小陽さんがこの世界に来た時にできたらと思う
それよりも、今日の観測だ
「本日のお話は、彼が「時渡り」をせずに明治時代に残留していた時間軸のお話」
ある意味、凄く重要な地点のお話
「それでは観測開始、だね」
1915年9月28日
桜彦さん夫婦と共に帝都から離れて、貿易が盛んな地方に越して三年が経った
今、俺は貯金を奮発して購入した小さな家に彼女と共に住んでいる
「起きてください、幸雪さん」
「んぅあ・・・あと、五分」
彼女に揺り起こされるが、俺の寝起きは残念ながらとても酷くて容易には起こせない
「幸雪さん、私、貴方に必要以上の迷惑をかけるのはもちろんですが・・・貴方の前で醜態を晒したくないのです」
「・・・真冬」
覚醒しきっていない頭を動かして、俺を起こしてくれる彼女・・・「真冬」を見上げる
異人の血が入っていると思われる紫色の瞳が、俺をじっと不安そうに、何かに耐えるように見つめていた
「おはようございます。幸雪さん。早速ですが、移動をお手伝いしていただけますか?」
「ああ。すまない。まだ我慢できるか?」
重い体を起こし、彼女を抱きかかえる
彼女は左腕だけで自分の身を俺に固定してくれた
右腕は、今は浴衣に隠れているが肩より少し下から本来なら存在する部分はない
両足も同じで、太ももから先にあるものがない
そして、俺を見ているその瞳も右だけしかなく、左目は布に覆われている
覆われている部分は空洞で、あるべき眼球はどこにもなかった
「いつもすみません・・・自分でどうにかできればと思っているのですが」
「いいんだよ。無理をせず頼れ」
いつも迷惑をかけているからと謝ってばかりの彼女
そんな彼女と出会ったのは三年前の話だ
何もかもを失った状態で俺と桜彦さんの前に現れた不思議な少女
そんな彼女と、こうなったのはいつの話だったか・・・もう覚えていない
廊下を歩いて、外れへ用を済ませて、再び元来た道を歩く
元の部屋には戻らず、居間に向かい、座布団に腰かける
「ほら、真冬。足を出しておけ。あれを取ってくるから」
「お願いします」
桜彦さんが、両足がないのは怖がられるかもしれないからと与えてくれた木製の義足
彼女の身体を支えたり、歩行機能を補ったりなどはできない
ただ、見栄えをまともに近くするための飾りみたいなものだ
両足を持って、彼女の元に戻る
「触るぞ」
「はい」
彼女の右腕は先ほど述べた通り存在しない
片手で義足を付けるのも困難で、だからといってつけっぱなしにするのも彼女に負担を与えてしまう
よって、俺が毎朝必ず彼女に義足を付けて、寝る前に外すというのが「いつもの事」になっていた
しかし、彼女の足がないのは太ももの真ん中ぐらいで
義足を付けるためには、少し入り込んだ場所にも手を伸ばさなければいけない
「・・・くすぐったい」
「少しだけ我慢してくれ・・・っ!ほら、終わったぞ」
腰に巻いたベルトに義足の留め具を止めて、作業は終わり
「ありがとうございます。幸雪さん」
「どういたしまして」
自分の意志では動かない義足を一瞥した後、嬉しそうに微笑んでくれる
「いつもより、足を這う指が多かった気がします」
「仕方ない。まだ慣れないんだ」
「そう言って三年ですよ。幸雪さん」
「三年経っても、慣れないものは慣れないんだ」
彼女の頭を雑に撫でて、新雪のように美しいそれを踏み荒らすようにぐしゃぐしゃにする
「・・・せっかく整えたのに、酷いです」
「また整えてやるから。ほら、朝食にしよう。お腹すいただろう?」
「すきました」
「待っていろ。取ってくるから」
居間のすぐ隣にある台所から、昨日から作り置きしていたものを何点か持ってくる
俺も真冬も小食なため、ちゃんとした朝食らしい朝食を食すことはない
朝から米に汁物、焼き魚に漬物・・・そんなに食べられるわけがない
その為、我が家の食卓に並べるのは傍から見ればとても質素だが、俺たちにとっては十分すぎる食事
「いただきます」
「いただきます」
俺は両手を合わせて、彼女は片手で食事前の挨拶をする
桜彦さんから少し前にこの食事に関して色々と言われたのだが、俺としては食事を十分に摂ることはできていると思っている
それに・・・
「どうしました?」
「いいや、何でもない」
それに、これは二人で話し合った結果だ
当人が満足しているのならば、問題ない
「あ、幸雪さん」
「なんだ?」
「今日は長月の28日、ですよね?」
「ああ。そうだが・・・あ」
自分で忘れてしまっていた、彼女が毎年のように祝ってくれる大事な日
「二十二歳の誕生日、おめでとうございます」
「ありがとう」
今年もまた彼女に自分がこの世に産まれたことを祝ってもらえる
家の道具として、年を取ったことを憎まれるわけではない
一人の人間として、生きている事を喜んでもらえている
三年前、彼女を拾ったあの春の日からこれは続いてくれている
・・・・・・・・・・・・・・・・・
昼近く
朝食を摂り終わった後、俺たちは食器を洗って、掃除、洗濯と日々の仕事を済ませていく
すべてが終わった後、縁側に腰かけ、二人でのんびり庭を眺めていた
庭といっても、大層なものではない。こじんまりした小さな庭だ
眺めるものも何一つなく、何かあるとすれば雑草ぐらい
そんな殺風景な風景でも見ているだけで落ち着くのだ
今日は仕事もなく、のんびりできる
「・・・あ」
「どうしたんだ、真冬」
「猫ですよ。可愛らしいですね」
彼女が指さしたのは白と黒の毛並みを持つ二匹の猫
帝都にいた時は見かけなかったが、この土地の猫はしっぽが曲がっている
そしてこの土地では・・・
「この土地では、鍵しっぽは幸運の象徴らしいではないですか」
「そうなのか?」
「ええ。書店に来てくださったお客様がそうおっしゃられていました」
真冬の場合、俺が仕事の時は一人で留守番・・・という訳にはいかず、俺と共に冬月書店で店番をしている
彼女が会計を、俺が品出しを・・・と、役割分担をすることで以前よりも上手く回っている
「・・・男か?」
「いいえ。笹江さんです。幸雪さんもご存じでしょう?」
「ああ。あの女学生か・・・」
笹江さんは冬月書店の常連の一人
この近くの女学校に通う少女で、書店には片手片足を戦場に落とした戦争帰りの父親が暇をつぶせるように、本を購入してくれている子だ
その為か、両足片手そして片目を失った真冬にも恐れずに接してくれる
「彼女、優しい子ですよね。赤の他人である私の事も労わってくれて」
「ああ。俺もそう思う」
「父親といえば、私はお会いしたことがないのですが・・・幸雪さんのお父様はどんな方なのですか?」
「・・・俺の、父親は」
真冬の前では言いたくないが、俺の父親は一家の大黒柱であっても、父親ではなかった
正直、世間一般でいう父親らしいことはしてもらっていない
むしろ、道具として思われていただろう
人手として、そしていらなくなれば売られる存在としては重宝されたと思う
しかし、あの人と、側にいた女の人からは・・・「息子」とは一度も思われていないだろう
彼らにとっての息子は・・・長男の幸男兄さんだけなのだから
「・・・ごめんなさい。幸雪さん。あまり言いたくないことだというのは理解しました」
「気を遣わせてすまないな、真冬」
「いえ。私こそ、おかしなことを聞いてしまい、申し訳ないです」
俺のせいで真冬が酷く落ち込んでしまう。こんな表情をさせるつもりは一切なかったのに
「真冬」
彼女の名前を呼ぶ
重い表情でも、彼女はゆっくりと俺の方に顔を向けてくれる
「・・・私は自分の失言で家主の機嫌を損ねてしまいました。罰でも何でも受ける覚悟でいます。何でもおっしゃってください」
「・・・どこで覚えてきたんだ、そんなこと」
神妙な顔でそう告げた彼女に対し、俺は疑問を隠せない顔で彼女に問うただろう
それを見て、真冬も不思議そうにこちらを見る
「間違って、いましたか?」
「世間一般では間違ってはいない。ただ、俺はあまりその考え方は好きではないんだ」
彼女の左手を手に取り、優しく握り締める
出会った時から、彼女は抱きしめるよりは、手をつなぐことで安心を得られるらしい
だからこれも、彼女を安心させるつもりで行ったのだが・・・
「そうですか。で、あの・・・幸雪さん。これ・・・」
「これは、その・・・なんだ」
手を握るにしては、しっかりとした握り方
無意識に指を絡めている。言い訳がしようもないぐらいに、しっかりと
三年間。彼女と共に暮らしてきた時間はもうそれほどまでの時間となっている
それだけの時間があれば、彼女の事を知るタイミングなどいくらでもあり、俺の中で彼女の「存在」が大きく変わるのには十分すぎて
彼女に、今後も俺の側にいてほしいと心の内を告げたのは・・・去年の事だ
今ではそう。世間一般では「恋人」という関係だ
少し、特殊なような気がするがそれでも、そういう関係なのだ
「・・・恋人繋ぎというものではないですか?」
「そうとも、いうな」
「・・・外ではできませんね、こんなこと」
「ああ。手を繋ぐだけでも白い目で見られるからな・・・こんなの、家の中でしかできない」
弛んだ頬をこちらに向けて、彼女は真っ赤な顔で笑いかける
名残惜しいが、手を一度離して・・・俺は彼女の背後に座る
後ろから抱きしめるように座りなおした後、彼女を自分の膝の上に座らせる
そして、自分の左手を彼女に差し出した
それを見た彼女は自分の左手をゆっくりと差し出し、再びその手は繋がれる
「身長、だいぶ伸びましたね」
「そうだろうか」
「出会った時は私と同じぐらいではなかったですかね」
「そうだったな」
なぜ、両足がない彼女の身長が具体的にわかるのかと思うが、それは俺たちが出会った時には彼女の足はまだあったからだ
正確に言うと「とれかけ」だったのだが、それでも彼女の身長を測るのには十分だった
確か「5.4尺」。俺も同じだったので、普通に立てていれば俺ぐらいの身長だった
「今では君より一回り大きくなり、君を覆えるぐらいには大きくなったよ」
「成長期、ですかね?」
「もう終わりだろうけどな」
今の俺の身長は「5.6尺」。三年前より少しだけ伸びた
「君を運ぶようになったことで、俺の運動量が改善されたのかもしれないな」
「私を持つことで、幸雪さんの運動になっていたのでしょうか?」
「ああ。そうだよ」
「ごめんなさい幸雪さん。いつもご苦労をおかけします」
「・・・気にするな」
彼女はいつだって謝ってくる
色々と欠けた彼女は、自分一人で生活することはできない
常に俺に苦労をかけていると思い、なにかと申し訳なさそうにしている
先程も述べているが、これでも俺たちの関係は「恋人」なのである
けれど、一度もそれらしいことはしたことがない
三年前、共に暮らし始めて、関係が少しずつ変わろうとも「ずっとこのまま」なのである
桜彦さんが言うようなことも、本に書いてあるようなことも何一つしたことがない
もしかしなくても、彼女は・・・家主の言うことは絶対。それを無意識でも意識してしまっているのかもしれない
そうなると、この関係は・・・・
「幸雪さん?」
彼女が俺を呼ぶが、その声は俺には届かない
否、届かないふりをしている
この虚構に、終わりを告げないために
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昼過ぎ
昼食を軽く取った後、夕食の買い出しをするために二人して街に出た
彼女が乗る椅子に車輪がついている手押し車は、桜彦さんの厚意で留学した幸司が発つ前に作ってくれた逸品だ
これのお陰で彼女との外出が容易になった
一人で留守番をさせずに済む安心感と、彼女と共にいられる嬉しさ
その二つが混ざった状態で常に外出をするのだが、今日はそういう気分ではなかった
気にしすぎかもしれないが、一度思い至ればすべてが悪い方へ転がっていってしまう
その思考は止めることができなくて、最悪の結論まで至ってしまった
今すぐにでも、川に飛び込んで雑念を晴らしたいぐらいだ
「・・・はぁ」
「幸雪さん、どうしたんですか?」
「いいや。何でもないんだ・・・気に、しないでくれ」
「きに・・・」
「幸雪ちゃん。真冬ちゃん!今夜は何を作るんだい?」
真冬が何かを言いかけるが、それを遮るようにある女性が俺たちに声をかけてくる
「川部の奥さん。こんにちは」
「こんにちは。奥さん」
魚屋の奥さんこと、川部の奥さんが大きな声で声をかけてくれる
如何にも強気なおばちゃんだが、こう見えて読書好きでうちの書店にも通ってくれている常連の一人だ
「こんにちは。今日も二人で仲良しだね!」
「ありがとうございます」
「・・・奥さん。今日はまだ予定が決まっていないんだ。おすすめはあるかな」
「あ、ああ・・・今日はいい鮭が入っているよ」
そう言って、鮭の切り身を俺に見せてくれる
「じゃあ、二切れお願いします」
「・・・二切れでいいのかい?」
「え?」
「おい!幸雪、来てるのか?」
「来てるよ!どうしたんだい?」
意味深なセリフの意味を聞こうとするが、八百屋の方から源のおじさんがやってくる
「助けてくれ幸雪!探偵としてのお前の力を貸してくれ!」
「な、何があった!?」
「妻がぁ!妻が浮気しやがった!今回は呉服店の息子だ!」
源八百屋の奥さんは割と男癖が悪いことで有名だ
おじさんじたいも気が弱く、その奥さんを止められるほどの欲を持ち合わせていない
なので、浮気してはこうして事態の解決を俺に依頼する
絶対、探偵の仕事ではないんだけどな・・・
「離婚で解決したらどうです?」
「いつもより雑だな、幸雪!?」
「あまり気が乗らないもので」
「いいよなぁ・・・お前にはお前自身を慕ってくれる可愛い奥さんがいてよぉ・・・・その余裕差がこういう発言を生んでるのか?ん?ん?」
「・・・違うよ。真冬は、そうじゃない」
「・・・幸雪ちゃん?」
「珍しいな幸雪。お前、いつもここじゃあ・・・」
源さんなりのからかいだったのだろう
けれど、今はそんなからかいすら上手く受け止められない
「とにかく話だけでも聞くから移動しよう、源さん」
「あ、ああ・・・頼む」
彼を宥めながら、探偵として入った依頼をこなすために動かなければならないらしい
気がかりなのは、真冬のことだ
「奥さん、真冬ここにいてもいいかな?」
「勿論さ。うちの中にいれておくから、そのアホの相手が終わったら迎えに来な」
「ありがとう。それじゃあ、行こうか。源さん」
少し寂しそうにこちらを見ている彼女の視線に気がつかないふりをしつつ俺は源さんの腕を引いてその場から離れていった
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
幸雪さんの背を見送る
違う、と言われた言葉が刺さって、違和感を心の中に残す
「真冬ちゃん。おばちゃんからも、少し聞かせてもらっていい?」
「ええ。もちろんです」
「真冬ちゃんは幸雪ちゃんのこと、どう思ってるの?」
「・・・それは」
「別にいいんだよ。模範解答を期待しているわけじゃない。ただ、源のアホのからかいに対して、いつも幸雪ちゃんは「まだ嫁ちゃうわ!」って返すのよ」
「・・・それは、初耳でした」
「幸雪ちゃんが一人になるのは・・・あのアホと関わる時は、休憩時に昼食を買い出しに行くときぐらいだからね。真冬ちゃんが知らなかったのもしょうがないよ」
それ以外は、私とずっと一緒だということだ
ずっと、私なんかに貴重な時間を浪費させている
「彼のことはとても大事です」
何もかもを失った私に手を差し伸べてくれた、優しい人
この関係になった時も嬉しくて、けど本当にいいのかと思ってしまって
そんな人だからこそ、私なんかに時間を浪費してほしくない
きっと、あの人の事だから私という「枷」が無くなればもっといい人が見つかるだろう
幸雪さんには勘違いをしてもらいたい
この関係は、従うべき相手の言葉に従っただけだと思っていてほしい
そして願わくは・・・・
「だからこそ、彼の為に私を手放してほしい。あの人はきっと、私がいない方が幸せになれますから」
「・・・真冬ちゃん」
奥さんは悲しそうにこちらを見る
「真冬ちゃん自身は、幸雪ちゃんの事を大事に思っている。けれど、自分では・・・って思っているのかい?」
「はい」
静かに答える
そして、次に飛んできたのは――――――――――
「真冬ちゃん。本当は怪我人相手にこんなことしたくないんだよ。それに、常連さんで、可愛らしいと、大事に思っている二人なら猶更・・・!」
声を震わせた奥さんが私に飛ばしたのは、一回の平手打ち
頬がじりじりと痛み、左手でその場所を押さえた
「真冬ちゃんがいない方が幸せになれる?それは幸雪ちゃんが言ったのかい!?」
「いいえ。言っていません・・・でも、両足も右腕も、それに加えて左目と記憶すらない女なんて、いない方がいいに決まっています!」
「酷い思い込みだねえ・・・あんたは賢い子だと思っていたが、そっちでは鈍かったか」
奥さんは私の頬に、氷袋を当ててくれる
「ごめんね」
「いえ・・・お気になさらず」
「真冬ちゃん」
「なん、でしょうか」
私に鮭の二切れの入った袋を手渡してくれる
その中を確認すると、もう一切れ入っていた。おまけだろうか、お詫びだろうか
でも、奥さんは初めからおまけをする前提だったような・・・
「幸雪ちゃんはきっと、そんなことも「些細なこと」だと思っているよ。あの子にとって、何が幸福であり、何が不幸なのか・・・知らないまま決めつけるなんてことはしちゃいけない」
「奥さん、私・・・」
「今晩、ちゃんと話し合いな。ちゃんとお互い腹を割って話すんだ」
「わかりました・・・ありがとうございます。奥さん」
「いいんだよ。それにしても遅いねえ・・・あの二人」
奥さんに勇気づけられて、少しだけ期待を持ってしまう
いや、この期待は持ったままでいい
「あの、奥さん!」
「どうしたんだい?」
「あのですね。一つ、ご相談が・・・!」
その期待を、言葉にしたい。その期待を「もの」に込めたい
その願いを持って、私は奥さんにあるお願いをした
・・・・・・・・・・・・・・・・・
時刻は夕方に差し掛かるころになっていた
「待たせた」
「幸雪さん。おかえりなさい」
真冬が小さく微笑みながら声をかけてくれる
「ああ。ただいま。奥さん、代金は?」
「もう貰っているよ」
「そうですか。では行こうか」
「はい」
奥さんに礼を言いつつ、彼女が座る手押し車を押して帰路を歩く
「幸雪さん。お野菜・・・」
「先に買ってきている」
再び八百屋に寄るのも面倒だったので、ついでに野菜も買ってきたのだ
依頼料と相殺で一週間分サービスをしてくれるらしい
今日から適応してくれるらしく、今日明日で消化できるかわからない量の野菜を頂いた
「もう家に帰ってもいいが・・・遠回りでもするか?」
「いいえ。鮭が痛んでしまいますから、早く調理してしまいましょう」
「わかった」
けれど、会話はこれだけでは終わらない
きちんと話し合わないといけないことが、俺たちにはあるのだからその約束を交わさなければならない
お互いが、逃げないように
「・・・帰ったら話がある」
「っ・・・!私も、お話があります!」
「夕食後にお時間をいただけますか?」
「勿論だ」
帰路を歩き、家へと戻る
急いで夕飯の支度をして、二人でいつものように夕食を摂る
それから、今現在。俺たちは机を間に対面していた
「・・・」
「・・・」
無言のまま沈黙だけが過ぎていく
それでも、それでも何か話さなければ進まない
そして、先に口を開いたのは・・・
「あの、幸雪さん」
真冬が少しだけ早く、話を進めてくれる
「ああ、なんだろうか」
「まずは、これを」
彼女が差し出したのは、小さな箱だった
「・・・開けても?」
「勿論です」
その中に入っていたのは万年筆
彼女が三年前から所有していた記憶の手掛かりになるかもしれない立派な万年筆だ
ヴィー・グステトというブランド?の万年筆らしい
桜彦さんに聞いてみたが、海外の有名な万年筆会社らしい
きっと、記憶を失う前の彼女はいい所のお嬢様だったのだろうとも話したのは記憶に新しい
しかし、そんな立派なもの・・・彼女にとって大事なものをもらう訳にはいかない
俺はそれを手に取って、彼女へ渡そうとするが・・・彼女はそれを拒む
「こんなもの、俺は貰えないぞ。記憶を失う前の君が持っていた大事なものなのに」
「大事なものだからこそ、貴方に貰ってほしいのです」
「・・・理由を、教えてもらえるか?」
「勿論です。少し長いお話ですが・・・」
「構わない」
そう返事を返すと、彼女はゆっくりと語り始めてくれた
「これは、私自身のけじめなのです。幸雪さん」
「けじめ、とは」
「私は、貴方に手放してほしかったんです。私という存在を」
話はまだまだ続く
今まで聞けなかった、あえて聞くことがなかった彼女の心が溢れていく
「貴方には何もかもを失っている私の世話で、何度も迷惑をかけました。私がいなければ、優しい貴方はきっと、他の誰かと幸せになれたと思います」
「・・・」
「けれど、私は・・・私自身が貴方と過ごす時間を諦めることができませんでした」
「真冬・・・」
「幸雪さん。私は、嬉しかったんです。あの日、貴方から好きだといってもらえたことが。こんな私でも、誰かと恋をできるんだって」
嬉しそうに、そして複雑そうに言葉を紡ぎ続ける
「けれど、その先は?」
「その先というのは・・・」
「両足右腕左目と失い、苦労を掛けるばかりの私は貴方になにもあげられません。むしろ、この先もさらなる苦労を貴方にかけてしまうでしょう。それで、本当にいいのかな・・・って・・・」
これ以上聞いていられなくて、彼女の少しだけ赤い頬に触れる
「これ以上は、いらない」
「幸雪さん?」
「すまなかった、真冬。君にそんな不安を与えていたなんて。ふがいない」
「なぜ、貴方が謝るんですか。謝るのは私・・・」
彼女の肩を掴んで、しっかりとその目を見る
彼女に言うべき言葉は、すでに決めてきた
「真冬。いつも君が謝っていたのは、君が俺に迷惑をかけているからと思っていたからか?」
「・・・はい」
「君は、俺が君から離れるように命令されてやっている風を装ったりしていたのか?」
「・・・はい」
互いに言いたかったことを聞きたかったことを述べていく
目に涙を浮かべながら彼女は俺への問いに答えてくれる
「・・・はぁ」
「・・・」
「真冬。俺は、君の世話を負担だと思ったことはない」
「・・・え」
いつも謝るばかりの、彼女に一度でもいいからお礼をなんて思ったことはたびたびある
けれど、言わなきゃ俺の内心も彼女の内心もわかりやしない
今まで言葉が足りなかったことを酷く痛感する
もっと早く、話すべきだった
そうしたら、こんなことにはならなかった
今、話せてよかった
きっと、これ以上遅くなっていたら真冬が俺の側からいなくなっていただろうから
「そして、真冬。俺は君から離れるなんて考えたことがない。俺にとっての幸福は、君がいて初めて成る幸福なのだから」
「こう、せつ・・・さん」
「真冬」
「は、い」
我慢できずに涙を流す彼女の身体を引き寄せ、抱きしめる
小さくて、暖かくて、愛おしいその温もりを手放すことはできそうにない
「ところで、万年筆はどういう「けじめ」なんだ?」
「私自身、過去に踏ん切りをつけようと思っています。もう、過去を思い出すことを諦めて、この時代で生きるか。過去に未練を残して生きるかと」
「それが、なぜ俺への贈り物に・・・?」
「貴方が、もし私にこれからも側にいていいとおっしゃられるのなら、その万年筆をもらってほしい。もし、必要ないのなら私に返してください」
「返したら、どうなる?」
「私は、この家を出て旅に出ます。過去を探し「真冬」ではない私を求めて」
答えはわかりきっている
俺はその万年筆を上着のポケットに差し込んだ
「言っただろう?君から離れるなんて考えたこともないし、君が俺の側を離れるなんて考えるわけがない。これはありがたく頂戴しよう」
「・・・!」
「これからも、俺の側で「真冬」として笑っていてくれ」
「・・・はい!」
しかし、こんな立派なものをもらって俺が何も返さないという訳にはいかない
誕生日だからとしても、だ
「君が過去を捨てる決意をくれたんだ。俺もそれ相応の物を君に贈らないとだな」
「え、結構ですよ。誕生日の贈り物として受け取ってください」
「そう言う訳にはいかないだろう・・・あ」
一つ、頭の中でひらめく
この機会を逃せば、次はいつ言えばいいのかタイミングを見計らって、だらだら引きずってしまうだろう
この際だ。最後まで言ってしまえ
「相良という普通の苗字でよければ、君に貰ってほしいのだが・・・どうだろうか?」
この先、この言葉を告げる人間は彼女以外には存在しないだろう
むしろ今まで苗字がなかった分、彼女には不便な思いをさせていただろう
「・・・私は、貴方に貰ってばかりですね」
腕の中で、真冬が小さく動く
左腕が伸びて、俺の服の袖を控えめに握る
「俺もたくさんの物を君に貰っている。で、どうなんだ?返事はなるべく早く聞きたいのだが・・・」
「そんなの、決まっているではありませんか」
袖を握る力が籠められる
俺に見えるように顔を上げた彼女の目から、再び涙が零れていく
けれど、今度のそれは悲しさで、苦しさで流されたものではないことは直感で理解できた
「私でよければ・・・ぜひ!」
「・・・ありがとう、真冬」
彼女の涙を拭いながら、俺自身も彼女に感謝の言葉を続ける
二十二歳の誕生日
俺は後先、何を貰っても今回以上の誕生日の贈り物とは言えないだろう
愛する彼女が大事にする万年筆。そして彼女自身
何物にも代えがたい二つを貰った俺は、大事に、壊さないように抱きしめた
・・・・・・・・・・・・・
翌日の朝
今日もまた、二人で縁側に腰かけて庭を見て過ごす
今から仕事だから、昨日のようにはゆっくりできないけれどそれでも、こうして二人並んでのんびり過ごすというのが大事だと思うのだ
「幸雪さん」
「どうした?」
「昨日の猫ですよ。白と黒の」
「ああ。昨日の・・・」
その猫達も、昨日よりも仲睦まじい様子でごろごろしていた
その隣には、数匹の子猫
白と黒の毛が混ざった可愛らしい猫たちだ
「・・・先、越されてしまっていますね」
「どうしたんだ、真冬?」
一人で呟いた声が聞き取れず、俺は真冬に何かあったのか問う
「いえ。ではなく、そうですね・・・私もいつかはと・・・考えていたんですよ」
「そう、か。いつか、生活にゆとりが出たら考えよう」
「はい」
あの後、他の事も色々と話し合った
隠し事はせず、正直な気持ちを伝えること
それが我が家の新ルールだ
「そろそろお仕事の時間ですね」
「そうだな。手押し車を持ってくるから、少し待っていてくれ」
「はい。お願いします」
彼女が見守る中、玄関先に置いてある椅子を取りに庭をかける
猫の家族はそれを見て、なんだか微笑ましそうに笑った気がした
「か、観測終わり・・・」
僕は若干疲労が残った頭を抱えながら観測を終了させる
「・・・難しいね、恋って。僕には無縁の話だったけれど」
記録したレポートを封筒に入れて、神様が遣わした使者が来るのを待つ
「・・・・」
「ああ。君は。今日もお願いね」
「確かに・・・」
使者はレポートを受け取った瞬間、すぐに立ち去る
話したいことは色々とあったんだけど、また機会があるだろう
「この時間軸の彼は、本編って言っていいのかな。その彼と他人であるけれど他人ではないんだ」
使者に告げたかった言葉を述べていく
「もちろん、彼の身長はきちんと伸びるよ」
同じ身長だと嘆く彼が見れるのはもう少し後の話
いつになるのかは、わからないけれど
「さて、続きは彼方さんたちの物語で。僕は次の観測に行きますかね」
僕は再び椅子に座りなおして、新たな記録の観測を始めていった