表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
図書館と観測者のブレイクタイム!  作者: 鳥路
第一章:略奪乙女と愛情の観測記録
17/30

観測記録15:一ノ宮刻明編「自我無しの傀儡と月を迎える一年(後編)」

夕方


「十六夜さん。今日もお仕事に行かれるんですか?」

「うん。休みはないよ。お金も稼がないとだし」

「私の家賃がありますよね?今までよりは余裕のある生活ができていると思うのですが、まだ足りませんか?」

「うん。まだ足りない」

「そのお金は何に使うのですか?」

「堕胎費用だよ。仕事柄たまにね」


いつも通りに笑いながら彼女はそう告げる

彼女の笑顔はとても眩しい。暖かくて、見ているこちらも嬉しくなるような笑顔だ


でも、今日のそれは違った

いつもの笑顔なのに、言っていることと表情に浮かばせたそれが一致してないからか

恐怖や嫌悪を抱いた記憶はこれまで一度たりともなかった

全く、この人は・・・どんな感情だって、引き出せるのか


「・・・刻明君?」

「笑顔で何をいうかと思えば、残酷な人ですね」

「っ・・・」


十六夜さんの表情が初めて崩れる

彼女も、驚くのか


「・・・ババアには話をつけてきます。最も、十六夜さんが怪我をされたのはババアの監督ミスですからね。文句も一緒に」

「・・・そんな必要ないよ」

「というか、十六夜さん貴方馬鹿なんですか?」

「何が言いたいの?」

「堂々巡りではないですか。こんなこと」

「余計なお世話だよ。そうでもしないと、生きられないんだから」


彼女の変化・・・もとい、彼女の本来の姿を私は垣間見ることになる

相応しいといえば、そう言えるだろう

むしろ彼女がおかしかったのだ

こんなこの世の終わりみたいな場所で、どんなことがあろうとも笑みを絶やさない彼女こそが、一番の異質な存在だった


「・・・なんだか、らしい表情になりましたね。十六夜さん」

「演技するのも疲れただけだよ。いちいちうるさいな、もう」


荒んだ目で、吐き捨てるに告げる彼女の表情は硬く、まるで私自身を鏡で見ているかのような無表情だった


「・・・タバコ吸います?」

「吸わないよ。でも、君が吸うのなら気を遣って。匂いを嫌う人は少なからずいるから、家の中で吸わないでよね。服に匂いがついてるだけで怒る人もいるんだから」

「私は元より吸いませんよ。そのあたりは問題ありません」

「そ」


十六夜さんはそう言って、椅子に腰掛ける

足を組んで、いつもらしからぬ・・・いや、これが彼女の本来の姿なのだろう

不機嫌そうに眉間を寄せて、私を睨み続ける


「じゃあさ、刻明君はどうしろっていうの」

「どうしろとは」

「生まれた時からこの道しか私には提示されてなかったんだよ。君みたいに安定している暮らしができるような場所で生まれたわけじゃない私が!これ以外の方法でどう生きろって!」

「なんだって、できるではありませんか。貴方が望む道を、掴めるではありませんか」


お金がなくたって、学ぶ機会がなくなって・・・やろうと思えば稼げるし、学ぶこともできる


「貴方には、自由があるではありませんか」

「・・・は?」


何を言っているかわからない・・・そういいたげな十六夜さんの手から氷の入っていた袋が膝の上に落ちる

すでに溶けた氷は水になり、部屋の床と彼女の膝を勢いよく濡らした


「あ」

「・・・タオルを持ってきます。そこに座っていてください」

「・・・」

「十六夜さん。これだけは言っておきます」

「何を、いうつもり?」

「・・・貴方には自由がある。それは、貴方の行く先を貴方自身が決められることです。親がこうだったからと理由をつけて、この道に進む選択をしたのは貴方です。提示されていたものでは決してなかったことを、お忘れなく」


私は別室に移動する前に、茫然と座る十六夜さんに吐き捨てるように告げる


自分の中での変化を改めて実感する

感情が揺れ動くことがなく、表情筋も死んでいると言っても過言ではない私が、感情を誰かにぶつけるようなことがあるなんて思っていなかった


廃棄区画に来て半年。滞在期間も折り返しだ

私はここに来て、自分自身の変化を大きく感じていた

半年でここまで変化を生んだのならば、一年が経過したら私はどうなってしまっているのだろうか

しかし、この件で十六夜さんと私の間には、溝ができた

・・・このまま進むか、その溝を埋めるか

考えなくても答えは出ているはずだった


「・・・自由か。私より刻明君の方が、自由じゃん」

「でも、そっか。この道に進もうと考えたのは・・・親がこうだと理由をつけても、結局は私自身が選んだから、か。考えたこともなかったな」


一人きりの部屋で、十六夜さんはそう密かに呟く

ドアの板が薄いので、向こうにいる彼女の声を聞き取ることができた

けれどそれ以上聞くのは悪い気がして、彼女の独り言が聞こえないように部屋から距離をとった


・・・・・


季節がまた回った

本格的に秋になり、私の任期もそろそろ終わりを迎えようとしていた

あの後、十六夜さんは仕事に復帰して私たちはいつも通り・・・というわけにもいかず、ギクシャクした毎日を過ごしていた


「・・・どうしたものか」


しかも生活の時間が全然合わず、彼女と話し合う機会すら作れない

月を見上げながら、ふと呟く

最近の趣味は、夜空を見上げることになっていた


「かつての文化で、お月見というものがあったが・・・それは九月の特定の日に行うものだった・・・」

その特定の日はいつだったか。思い出せない

「刻明君」

「確か、中旬ぐらいだったと・・・」

「刻明君」

「十六夜さん、今は・・・あ、そうです。十六夜の前!十五夜です!」

「・・・何、テンション上げてるの?」


わかったことが嬉しくて、私らしくない声をあげたと思います

それに、振り向いた先には何度か私に呼びかけていた十六夜さんが怪訝そうな表情で私を見下ろしていました


「隣、いい?」

「もちろんです。こちらへ」


少しだけ座る位置をズラし、彼女を隣へ招く

ゆっくりと腰掛けた彼女は一息吐いた後、いつもの笑みを浮かべる

嘘で塗り固めた、強固な笑顔

こちらに向けて欲しくない、悲しい表情から目を背けずに、彼女が動くのを待った


「ねえ、何をしていたの?」

「月を見ていました」

「珍しいね。昔の刻明君からは考えられないんじゃない?」


彼女のいう通り

月をただ見つめるなんて、無意味な行動をかつての私が取るとは思えない

けれど今はそんな穏やかな時間もいいと思うぐらいにはなっている

随分、変えられたものだ


「そうですね。考えられません。けれど、何かを考えるときは一人で、月を見上げながら考えると色々と浮かぶものだと知りました」

「今日は何を考えていたの?」

「もうすぐ、任期が終わり核に戻らなければいけない日が来ます」

「そうだね。一年だったもんね」


「その前に、十六夜さんとどうやって仲直りしようかとずっと考えていました」

「仲直り・・・?えっ、私が頬を殴られたあの日のことまだ気にしてたの!?」

「気にしていました。十六夜さんは、気にしていないのですか?」

「そんなのもう気にしてないよ・・・」


呆れながら私の頭を撫で始める

その手は荒いけれど、嫌ではない


「もう、君は深く考えすぎなんだよ。あんなの日常茶飯事だし、気にしなくていいよ」

「・・・気にします」

「気にしなくていいって言ってるのに」

「私は、誰かとこう、ギクシャクするのも初めてなんです。どうしたらいいか、わからなくて・・・」

「・・・変なの。でも、そこが面白いな」


なんだろう。彼女が浮かべた微笑みは、いつものものじゃない

純粋に、面白がっているというか・・・可愛いと思われてる?

それはそれで不服なのだが、嘘ではないそれはとても貴重だ

彼女は私の手をとり、上下に振り上げる


「ほら、仲直りの握手。これで私と刻明君は仲直りしたよ。もう気にすることないね」

「これで、仲直りできたんですか?」

「うん。仲直りしたんだよ」


単純だけど、なんだかそれも初めてでなんだか頰が緩んでしまう


「刻明君はさ、友達とかいないの?」

「いませんね。性格に難があるのも否定しませんが、何よりも家柄で・・・交友関係を制限されているので。話してみたい人は何人かいたのですが、自分の家よりも格下ならば話しかけてはいけないと親から言いつけられていまして」

「何それ、面倒くさすぎない?」

「核にはよくある話です」


「刻明君には、自由がないの?」

「ええ。ここに来るまでは親の言いなりで。自分の意思も夢も何も持たずに、親の傀儡として過ごしてきました」


身の上を打ち明けるのは初めてのことではない

けれど、こう言う表現をすることは今までなかったことだ


「一ノ宮の子供として白箱を担う者として、付き合いをする人間は選べ、何事にも優秀であれ、不必要な感情は消せ、決められた伴侶と共に白箱の担い手を作れ・・・」


そこまではまだいい。今は納得していないけれど、かつてはまだ納得できていたものだから

けれど、親の言いなり時代でも、こんな自由を知らなかった時期でも

これだけはおかしいと理解できていた


「白箱の糧が必要なときは、白箱の為に死ね。そう言われながら生きてきました」

「っ・・・・!」


「上官は、わかってたのではないかと思います。核に住まう人間のほとんどが、こうした洗脳的な教育を受けていますから」


これは、ただの任務ではなかった

淵の、廃棄区画の調査任務なんて・・・本来ならば核に住む私たちがするような仕事ではないのだから


「上官は、ここでその洗脳まがいの思考を解こうとして私たちをここに向かわせたのではないかと思います。私も、自我というものを持ちましたし、きっとそうだと思います」

「そうだね・・・そうだといいね」


彼女の手が、私の手に添えられる


「私はさ・・・君のこと裕福な家庭に生まれて、両親がいて、働かずに勉強して、正直羨ましいと思ってたんだ。自由な道がたくさん提示されていて、妬ましくも思ったよ」

「それでいて私の方が自由なんて、何言ってるんだ。こいつって・・・」


でもさ、と彼女は顔を上げて呟く


「君の言うこともわかるんだ。私の方が、自由がある。選べる選択肢がある。その通りだよ。視野を狭めていたのは、私の方」


彼女は立ち上がり、月を背にして疲れたように笑う


「ねえ、刻明君。私、わからないや」

「何がです?」

「裕福なのがいいのか、無法地帯のここがいいのか、何が、自由なのか・・・さっぱりわからないんだ。刻明君にはわかるかな?」

「いいえ。さっぱりわかりません。そもそも」

「そもそも?」

「この世界に、自由はあるのでしょうか」


ガラスで囲われた、小さな世界。その中に存在する大きな格差社会

かつて、この世界はガラスの白箱の中ではなく、広大な土地で、様々な言語と文化が入り混じり、可能性のある暮らしを営んでいたと言われています

格差は、可能性を潰しているだけではないのでしょうか

最近は、そう思うようにもなってきてしまう


「十六夜さん、隣に、来ていただけますか?」

「いいけど・・・」


先ほどと同じように、十六夜さんは隣に腰掛ける

なんだか彼女が側にいるだけで落ち着く。今までは、誰も側になんて置きたくなかったのに

不思議な、心境の変化だ


「・・・大きな自由を、私たちは得ることはないと思います」

「そうだろうね」

「でも、手のひらに収まるほどの幸福を、自由を得ることぐらいは許されるとは思います」


「そうだといいな。刻明君は、何か欲しいものがあるの?」

「欲しいものというより、夢ができました。三つです」

「三つも?贅沢だね」

「今まで夢を抱いたことがないのですから、それぐらい」


誰にも話したことがない夢の話を、彼女相手にしていく


「一つ目は、この格差社会をなくすこと。誰もが平等に、権利を得られる白箱にしたい。私にはそれを成すことができる立場があるのですから」

「立場を有効的に使うのか。流石だね」

「いえ。ここに来なければ、こんなことすら思い浮かびませんでした。この夢を抱けるようになったのは、十六夜さんや皆さんのおかげです」


そう告げると、十六夜さんは少し照れくさそうに顔を背ける

耳元まで真っ赤だ。可愛いらしい


「二つ目は、白箱の外に出ること」

「死んじゃうよ」

「死なない方法を見つけ出してからです。いつか、外を旅して、この世界に眠る歴史を知りたいと思っています」

「いいね。楽しそう」

「ついてきてくださいますか?」

「ついてきていいの?」

「十六夜さんとなら、絶対に楽しいですから。いつか」

「そうだね。一緒だったら、どこまでもいけそう」


彼女の頭が、私の肩に乗せられる

手も気がつけば先ほどと同じく繋がれていた


「あー・・・仕事柄、こんな感情必要ないのに捨てきれないな」

「む?それは、どういう・・・」

「気にしないで。それよりも刻明君、ふと思ったんだけどさ、私たちって互いのこと知らなすぎると思わない?」

「はあ、まあ・・・そうですね。名前と仕事以外は・・・」


話を思いきりそらされる。私もそれにつられて本来聴きたかったことを忘れてしまう


「・・・・」


それから私たちは互いのことを話していった

生まれのこと、誕生日のこと、包み隠さず話していく

ふと、気がつけば彼女の頭が離れていた

それに物寂しさを覚えた理由は今の私にはわからない


・・・・・


季節が一周して、冬になった

今日で任期が終わる。明日には核に戻らなければいけない

これほどまでに終わらないで欲しいと願ったのは、初めてだ


「ひい、ふう、みい・・・」

「何やってるの、刻明君」

「ああ。十六夜さん。お金を数えていたんです」


三ヶ月の間、自分の心に芽生えた感情にも答えを出しつつ、お金を貯めていた

あの日、上官が持たせてくれたほどのお金があれば・・・どうにかなるはずだと信じて

それともう一つ別枠で用意しているが・・・それはまた明日にでも


「荷物ももうまとめ終えてるし・・・明日の路銀?」

「いえ。そんなチンケなものじゃないです。それはもう用意してありますから」

「じゃあ、何を・・・」


まとめ終えたお金を袋の中に入れて、その口を縛る

そしてそれを、彼女に差し出した


「・・・何これ」

「お金です」

「さっきまで数えていたの見ていたんだからそれぐらいはわかるよ。大金だったよね?私の一晩が買えるぐらいの・・・まさか!?」

「そうです。十六夜さん。お仕事がお休みの時に悪いのですが・・・一晩、買わせてください。色はつけています」

「・・・・」


予想外の行動だったみたいで、彼女は目を見開いて口をぱくぱくさせている

それから首を両方に振って意識を取り戻し、冷静に問いただす


「どうして、こんなことを?」

「・・・三ヶ月前からずっと考えていたことがありまして」

「うん」

「話していた時、十六夜さんが私の肩に頭を乗せていたではないですか」

「うん」

「それが、離れる時・・・非常に物寂しさと離れ難さを覚えたんです。その感情の答えを模索した結果・・・私は、十六夜さんのことを好いているのだと結論を出しました」

「まるで機械みたいな思考回路。でも・・・」


若干呆れながらも、嬉しそうに微笑んだ十六夜さんは私の懐に飛び込んでくる

それを支えながら、私を見上げる十六夜さんの言葉を静かに待った


「安心した。刻明君に感情の変化があって、誰かを好きになれたことが嬉しいよ」

「そうですね。自分でもこんな感情を抱けるようになるとは思っていませんでしたよ。これは、ここにきて得たものです」


「そっか。ここにきて、よかった?」

「ええ。色々な考えを得たこともありましたし、色々な人と関わることができました。すべて、これからの私に必要な成長の糧として、一生覚えておくことになるかと思います」

「そこまで。じゃあさ、ここで、一生暮らしたいとは、思わない?」


十六夜さんは恐る恐る訪ねてくる

わかりきった答えが存在している質問ですが、もしも、もしも・・・ここに一生いることができたらどれほど楽しいのだろうか

核にいた時代より、絶対に楽しいだろうけど


「そうですね。朝は寝坊率の高い十六夜さんを起こして、二人で教師としてここの人たちに文字や計算を教えて、夜はあの時のように月を見上げる生活ですか。悪くはありません」

「・・・一緒に暮らす気満々か。というか私転職してないか?」

「むしろ私はどこで暮らせばいいのです?」

「いいよ。その時は一緒に暮らそう?でも、刻明君はここにいるつもりはないんでしょう?」

「はい。語った夢がありますから。もし、十六夜さんが待ってくれるとおっしゃってくれるのなら・・・必ず、何年かけても迎えに行きます」


彼女の一回り小さい手に触れながら、確たる意志を伝えた

今の私では、共にいることは叶わないから

夢を叶えた世界も、彼女と共に在る時間も両方欲している事実だけを、言葉に乗せる


「そっか、じゃあ何年でも、何十年でも待ってるから。絶対に迎えにきてよ」

「はい」


彼女の手が、握り返される

暖かくて、手放したくないそれを私も握りしめながら終わらないで欲しい時間をゆっくりと堪能し続ける

けれど、これで終わらせる気は・・・双方ともにない


「そう言えば、十六夜さんの返事を頂いていませんね」

「今さら!?というかさ・・・あれ、告白のつもりだったんだ?」

「む?告白の定義は好意を相手に打ち明けることだと以前辞書に記載されていたのを読んだのですが・・・どこか間違っていましたか?」

「いや、間違ってはないけど・・・最初に「一晩買います」って順序おかしくない?今後が心配になってきたよ、刻明君」

「なんの心配ですか?」

「もうどうにでもなれって感じがしたよ・・・」


十六夜さんの顔が、私の顔の正面にやってくる

やはり端正な顔立ちをしている。目も、月の様に黄色く輝いている。とても綺麗だ


「綺麗だね。赤色の目。沈んだ目じゃないのも、ポイント高いよ」

「そうですかね?」

「うん。容姿を褒められたのは、初めて?」

「そうですね。初めてです」

「そっか」


この褒める行為に何の意味があるかは私にはわからない

彼女と繋いでいない手が私に伸びる。指が伸ばされ、私の頬を、首を、肩を、線をなぞる様に這わせていった

そしてその指は、心臓がある場所で止まる


「ねえ、刻明君」

「なんでしょう」

「私は、君に全部をあげる。だから・・・君も、私に全部くれる?」

「・・・もちろんです。だから、十六夜さんは信じていてください」

「うん。信じて待ってるよ。夢を叶えて、大好きな君が迎えにきてくれる瞬間を、ずっとね」


聞きたかった言葉を聞くことができて、少し固くなっていた表情が緩む感覚を覚える

その瞬間、彼女の指が心臓部分をそっと押した

どうしたらいいか、言われなくてもわかる


「お金はいらないから、初めよっか」

「なぜです?ババアに怒られません?」

「ババア呼び定着してるし・・・まあ、今日が休みだってこともあるけどさ」


彼女が姿勢を低くし、倒れ込んだ私を覗き込む様な体勢をとる

見たこともない仕草に、心臓がいつも以上に跳ねる感覚を覚える

これはもう、ダメかもしれない


「・・・好きな人とするのに、お金貰うのは違うでしょ?」


彼女の橙がかかった朝焼け色の髪が小さく揺れ、私の方に伸びていく

私が持つ青紫色の髪と混ざり合った

本来ならば、初日にこうなっていたのだろう

時間をかけたが、望んでいた形でこの日を迎えることができた


その日、私は本来の形での「一晩」を彼女に貰い受けることになった


・・・・・


次の日の朝


「おはよう刻明君。昨日はよく眠れた?」


昨日あんなことがあったばかりだというのに、元気に朝食を彼女は準備してくれている

私は逆に体力の限界から少し体力が回復した程度。まだまだ休憩し足りないほどにフラフラだというのに・・・


「はい・・・しかし、あそこまですごいものなんですね。体力さらに鍛えないとな、と痛感させられました。このままじゃずっと鈴音にリードされっぱなしですし」

「いいんじゃないかな。お姉さんに甘えておきなさい」

「そういうわけにもいきません」

「いいじゃん!私が刻明に勝てるのこれぐらいなんだから!甘えて!」


子供の様に抗議してくる彼女の攻撃を全身で受け止めつつ、私たちは朝の時間を過ごしていく


「あのさ、これから・・・その、刻明はこっちに定期的に来れたりする?」

「難しくはなると思います。が、意地でも三月の予定は空けますから」

「そっか。じゃあ、その時は手紙を出して・・・刻明?」


私は、久方ぶりに袖を通した制服のポケットに入れていたそれを鈴音に預ける

それは、私の個人認識票。自警団に所属する様になってから支給された世界に二つだけのタグだ


「文字は読めましたね。これを預けていきます」

「大事なものじゃないの?」

「自警団、帰ったら辞めますからね。もう必要のない記念品ですよ。そこに私の生家である住所が記載されています。しばらくはそこに手紙を送っていただければ受け取れます。ただ、女だと変な感くぐりをされるので、男の名前で送ってくれると助かります」

「了解」


「三月以降は、許嫁と結婚している頃でしょうから住所は変わります。新たな住所はこちら来た際に報告しますね」

「わかりました。何から何まで入念だね」


彼女にそう言われて、自分でもかなり慎重になっているなと改めて思わされる

まあ、私と鈴音の間では両思いであろうとも・・・世間から見たら許されない関係なのだ

バレたら、私は、鈴音がどうなるかなんて明白

だからこそ、この関係はバレてはいけない


「どうしたの?」

「いえ。これからもバレない様に入念に動きますね」

「じゃあ、私も下手な動きをしない様にしないとね」

「お願いします」

「お願いされました」


朝食を終えた後、私たちは準備を整えて積と核の境界の方まで歩いていく

でもその前にやるべきことがあるので、寄り道を少しだけ


「ねえ、刻明君。なんで娼館に?」

「買いたいものがありまして」

「・・・買いたいもの?」


こんな場所で買えるものなんてただ一つ

前々からババアに交渉していたので、スムーズにいくだろう


「ババア、お久しぶりです」

「久々に顔を出したと思えば早速暴言か!例の件だろう?ほら、さっさと出しな」

「何買うの?」

「鈴音を買いに来たんです」

「そう。私・・・私!?」

「一晩単位じゃないですよ。身請けです。貯金が半分飛びましたね」

「え、え・・・そんな・・・ちょ、そこまで」


隣で鈴音が酷く動揺していることが伝わってくる

一晩買うよりも、遥かにゾッとする様な金額を求められるが、払えない額ではない


彼女はかつてこれしか道がなかったと告げた

そう思い込んでいただけかもしれないけれど、あの言い方だとこの道は不本意であったのではないかと思ったのだ

彼女のプロ意識は素晴らしいものだが・・・望まないことならば

そこから出られる手伝いをしたい。一年のお礼はこうした形で果たしたい


「・・・決められた道はここでおしまい。ここから先は、貴方自身の意志で決められます」

「・・・・!」

「貴方が好きな道を歩いてください、鈴音」

「・・・ありがとう。何から何まで、刻明にはしてもらってばかりだ」


私の任期が終わった日、同時に鈴音の娼婦としての仕事も終わりを告げる

ここから先は、新しい日々になる


・・・・・


あの日から、三ヶ月ほど経過した

あの後すぐに結婚させられた私は、妻を演じてくれている凛子さんと共に暮らしていた


「刻明さん。お手紙が届いていますよ。鈴太郎様から」

「ああ、ありがとう。君も辰世さんから手紙が届いていたよ」


鈴太郎も、辰世も・・・私たちが愛する人間の偽名だ


凛子さんは積に住まう「辰義」という青年と恋仲にある

そして私は淵に住まう「鈴音」という女性と恋仲にある


その情報をあらかじめ掴んでいたため、見合いの場で彼女に交渉したというわけだ

互いの仲を黙秘すること、バレない様に協力し合うこと

そして、私は凛子さんと辰義さんに二人の子を自分の子として育てさせてくれるのならば、子供をもうけても構わないと条件もつけている


「辰義さんも会いたがっていましたよ。刻明さんには色々と良くしてもらっているから、お礼をしたいと」

「気持ちは嬉しいが・・・私込みで密会となると難しいだろう。あの時の挨拶だって、かなり慎重にならなければいけなかったからな。バレるリスクは減らしていこう」

「そうですか・・・では、手紙だけでも」

「ああ。今度君の手紙を送るタイミングで私の手紙も入れておこう」

「ありがとうございます。彼も喜びます」


今度の約束をすると、凛子さんは嬉しそうに手紙を抱きしめる

それから鈴音からの手紙を私に渡してくれた


「鈴音さん、なんと?」

「最近は教室に来てくれる人が増えたということとか・・・あ、桜が咲いたのか。じゃあ、約束通り向かわないと」

「では、またタイミングを合わせて外出しましょうか」

「ああ。君の予定に合わせるよ」


二人で外出というのは滅多にない

二人で外出して、互いに逢引をしにいき、時間になったら待ち合わせ場所で合流して、二人で帰宅する

今度の予定を立てながら、その日を過ごす

次の逢引に二人して心を弾ませながら


・・・・・


四月の廃棄区画

今日、私はかつての約束を果たした


「なあ、今日はとっきー先生帰ってきてるんだろ?会いにいこうぜ!」

「うん!」

「あー・・・やめとけ。先生たち、今は二人っきりの時間を過ごしたいだろうから」


桜の木に続く道の手前

二人の先生に会いにいこうとする子供たちを、大人たちが引き止める

その先で、二人の男女が寄り添う様に桜を眺めていた


「ねえ、刻明君。最近どう?」

「結婚相手と協力関係を築きつつ、こうした機会を作っています」

「そっか。仲良くやれているんだね」

「仲良くというか、利害が一致していますからね」

「利害?」

「はい。私も彼女も、別のところに愛する人がいますから」

「あ、ああー・・・そういう、ね?そんな協力関係。うん。なんか安心した」


照れくさそうに顔を背け、頬をかく


「そういう鈴音は、教師業、上手くやっているそうじゃないですか」

「うん。刻明が教えてくれた範囲だけだけどね。最近、この区画もさ色々と話が飛び交う様になったと思う。君が贈ってくれる本とかも良く回し読みする様になってるんだよ。前に比べて活気が出てきたと思う」

「区画内でも語学力が伸びている証拠ですね。今度は絵本とか、子供でも読めるものも寄贈します。いきなり絵がない本はハードル高いと思う方もいるでしょう?」


「それは、その・・・私が自作絵本を作ったりして・・・」

「鈴音作の絵本。読んでみたいですね」


まさか、自分で本を作ったり絵を描いていたりしているとは、予想すらしていなかった

彼女が書く物語は一体どんなものなのだろうか


「色々なところに貸し出してるから・・・・!滞在中には読めないと思うし」

「借りている方に交渉してきますよ」

「それに、それに読まれるの恥ずかしいから!」

「なぜ私だけ恥ずかしさを覚えるんですか」

「そういう仕様なの!」


頬を膨らませて抗議する彼女に笑みが溢れてしまうが、これもまた彼女にとっては不服の様で小突かれた


「これから先も、ここにこれそう?」

「少し、難しくなりそうです。転職した影響で、かなり忙しくなりまして・・・」

「そっか。じゃあ、手紙は欠かさない様にするね」

「ありがとうございます。これ、新しい住所です。妻は事情を把握していますが、いつも通り偽名で送ってください」

「・・・わかった」


メモを渡すと、それを静かに受け取る


「どうしました?」

「立場は分かっているし、刻明の思いも知ってるけどさ、妻って単語を聞くと少し複雑」

「そうですよね・・・以後、気をつけます」

「面倒でごめんね」

「いえ。そういうのもいいと思います」

「そういうのって何」

「嫉妬というものだと思います・・・よくわかりませんが、いいと思いますよ」

「・・・なるほど?」


二人して首を傾げながら考える

恋愛にも、何もかも縁遠い私たちは、きちんと恋人らしいことはできているのだろうか


「でも、会うのがさらに難しくなるのか・・・」

「どうしました?」


手を繋いで、桜の咲く場所から彼女の家がある方向へ歩いていく

久しぶりの家だ。なんだか懐かしさも感じる


「ううん。なんでもない。そろそろ日も暮れるし、帰ろうか」

「そう、ですね。帰りましょう。今日もお泊まりしても?」

「ダメだって言ったらどこで寝る気?」

「野宿しかないですよ?」

「今の時期冷えるんだからさ、ちゃんとあったかくしないと」

「あったかくしてくれます?」

「・・・もちろん」


偽りなく、心から微笑む彼女を見るのは初めてではない

けれど、素直にこの表情をひっぱり出せる様になったのは・・・嬉しい話だ


・・・・・


その日の晩、夕方に彼女が考えていたことを聞く機会があった


「子供が欲しい?」

「うん。奥さんにも、好きな人いるんでしょう?じゃあ、没交渉・・・こういうこと、してなんじゃないかなって思ってさ」

「その通りですよ。妻と辰義さんとの間に子供をもうけていいと話をしています。その子供を私の子として育てることを条件にですが」

「よく考えてるな・・・でも、そうなると刻明の血が繋がった子供はいないなって思ってさ」

「だから、欲しいんですか?」

「それもあるけど、普通の家庭みたいなことをしたい。それが本音」


布団を被って、小さくはにかむ


「・・・しかし、支援が難しいですね。手紙は検閲されるし、お金なんて入れていたら咎められます。もし子供ができてもストレートに子供ができたなんて伝えられませんし・・・」

「支援はいいよ。私一人で頑張ってみる」

「何があるかわかりませんし・・・とりあえず手持ち全てを預けていきます。ここのレートだったら二年ぐらいはきちんと暮らせるかと」

「もう。あの時の床代で貰ったお金すら手をつけてないのに、貰っても困るよ」


「生まれる子供の為ですから、持っていて損はないでしょう?今度来た時も置いていきますから」

「・・・ありがとう。大事に使うね」


流石にそう言われたら受け取らずにはいられなかったようで、お金の入った袋を受け取ってくれる

それをベッドのマットレスの下に押し込んだ。どうやらそこが隠し場所らしい


「もし、今回子供ができていたら、手紙で連絡してください。今のうちに暗号を決めておきましょう」

「いいね。どんな暗号にしようか」


暗号は馴染みのあるものがいいなと思いながら、どれにするか考える


「・・・月で語りましょう」

「月で?」

「ええ」


私は紙を用意して、今後使用予定の暗号を書き込んでいく


月が見えなくなった・・・月のものが無くなった

月が隙間から覗く・・・妊娠の兆候が見えた

月が輝き続けている・・・順調

満月になった・・・生まれた


「こんな感じでどうでしょう」

「なるほど。じゃあ、性別は・・・」


私から紙を受け取り、今度は鈴音が書き込んでいく


「女の子だったら綺麗な花が咲いていた。男の子だったら大きな木を見つけたって書くね」

「はい。でも、何かあったときは・・・」


最後の行にそれを書き足す


「月が赤く染まった。そう書いていただければ危機と判断して駆けつけます」

「わかった。それで決まりだね」


二人だけの暗号を決める

今、この瞬間に得られたかわからないけれど、そうであって欲しいと期待しながら話を進めていった

その数ヶ月後、私は鈴音から月が見えなくなったと書かれた手紙を貰った


それが、鈴音から貰った最後の手紙になるなんて、この時の私は思っていなかった


・・・・・


あれから、十年の時が経過した

私はあの手紙の後、音信不通になった鈴音のこと

そして廃棄区画で起きたことを、当時あの区画で生きていた三坂紳也君から聞いていた


「そうか。鈴音は流行病で・・・それに、娘がいるのか」

「ええ。鈴音さんが生涯大事にしていた認識票で一月の父親があんただって辿り着きました。まさか白箱の重鎮であるあんたが、外で女を作っていたとはね」

「・・・」


十年の時を経て、私自身夢を叶えるために白箱の行政部の中核に籍を置いていた

もう少しで夢が叶う。しかし、その夢の先に待っている人はいない


「このこと、バラされると困るでしょ。あんたが格差廃絶に尽力していたのは、廃棄区画で囲っていた女のためなんて言ったら、頓挫するもんな」

「・・・鈴音亡き今、これだけは叶えたい。挫折するわけには、行かない。どうしたら、黙っていてくれる?」

「俺の計画に協力して欲しい。資金が足りないんだ」

「・・・わかった。いくらでも援助しよう。君の目的が果たされるまで」


それはのちに、人造生霊と呼ばれる存在を作り上げる狂気の実験

数多の人間の運命を歪めた「物」の物語の序章となる


・・・・・


それから、さらに六年

私は、娘である十六夜一月と対面していた


三国君や浩二君が気を利かせてくれた

もしかしたら、これが親子で落ち着いて会話できる最後の機会かもしれないから、と


「・・・僕は、君のことを父親だとは思えないがな、三国たちがどうしてもというから来てやったんだ。二人に感謝しろよ」

「そうか」


二人揃って、紅茶を口に含む

本来の時間より倍以上蒸らした濃い紅茶

同じ好み、同じ感覚

容姿も性格も、鈴音らしさを感じさせない。私にとても似ている


唯一、彼女の特徴を受け継いだと言えるのは、瞳の色ぐらいだ

満月のような黄色い瞳が私の様子を伺った


「僕は、母が亡くなった後ずっと三国と紳也に育てられた。親代わりを務めてくれたのはあの二人だ。父親はいない」

「・・・それで構わない。私は、らしいことを一度もした自覚はないのだから」

「しかし、三国はよく言っていた。母はよく、君のことを語っていたと。愛していたと」

「・・・・」

「僕に父親面する前に、最期まで待っていた母に言うことはないのか、一ノ宮刻明」


一月は席を立って、出口の方へ向かっていく

扉の先に控えていた一月と契約している道具が歩きにくそうにしている一月を支えるように隣へ寄り添った


「思い出の場所で母は待っている。全部終わったらついて行ってやるから、さっさと出かける準備をしろ。君が、二人が待ち臨んだ外の世界の旅にな」

「・・・ああ」


育ちの影響か、はたまた才能の影響か・・・女の子にしては口調がかなり粗暴な娘の背を見送りながら、私もまた行動に映る


一人で進む、夢の先に向かう旅へ

観測、終わりですね

今回は前後編。これでもかなりはしょった方なのですが、かなり長くなりました

「博士の方では、鈴音さん視点の過去編をするそうです。なのでここで刻明さんを出したという感じですね」

ちなみに、どうでもいい情報なのですが、刻明さんと一月さんの誕生日は二人とも一月一日

どこまでも、似たもの親子です

「しかし…夢は2つしか語りませんでしたよね?最後の1つは一体…」

「・・・・父親か」

「譲さん・・・あの、その本は?」

譲さんの手には二冊の本が抱えられている

凄く嫌な予感が漂っていた

「・・・見つけたんだ。父さんと母さんの、記録」

「・・・・」

「知る時が、来たのかもね。僕は両親にどう思われていたか」

本を同時に開く

止めなきゃ

止めなきゃ

思い出す前に・・・!

「観測を、はじめよう」

二つの本が眩い光を放ちだす

語られるのは、病弱な少年とその両親の物語

守る願いと叶える願いを抱いた二人の夫婦の物語

観測は、始まっていく

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ