第6話
――――――!
――――え!
「――――ッ!」
不意に、頭痛が走り、ロイは頭を押さえる。
痛み自体は、鈍く、耐えられない程のものではないが、しばらく治まる気配はなかった。
ロイは痛みに悩まされながらも、傍らで眠るセシリアに目をやる。
ここはベルシール城に隣接する、王国騎士団の詰所、その医務室だった。
ヒュドラの出現に際して、避難所として、騎士団の詰所が開放されていた。
セシリアは、ヒュドラを抑えるために、魔力を使い果たし、意識を失った。
それでも、ヒュドラを焼き尽くすことは叶わず、未だに怪物は学園の敷地に居座っている。
今、王国騎士団や宮廷魔術師、そして、冒険者たちが、ヒュドラの討伐に向かっていた。
耳をすませば、大砲や魔術による爆音、あるいは、ヒュドラの咆哮や、暴れ狂う音が聞こえてくる。
伝え聞いた話では、街の外に誘導し、討伐する目算のようだが、果たして、上手くいっているかどうか。
――――え!
――――かえ!
再び、ロイの頭に、痛みが走る。それと同時に、かすかに、声のようなものが聞こえたような気がする。
声はすぐに聞こえなくなってしまうが、頭痛は引くことはなく、ロイは顔を曇らせた。
「大丈夫?」
頭を押さえるロイに、誰かが声をかける。
顔を上げると、そこにいたのは、腰ほどまでに伸びた長い金髪と、サファイアのように煌めく青い瞳の少女、チェルシーだった。
「ああ」
彼女の顔を見ただけで、頭痛が和らいだ気がして、ロイは答える。
「お前こそ、こんな所にいていいのか?」
ロイは周囲を見渡して言う。
チェルシーの登場に、医務室にいた避難民たちがざわめきだしていた。
本人の距離感が近いせいで忘れそうになるが、やはり王女だ。端的に言って、かなり目立つ。
さすがに護衛を連れてはいるが、先程暗殺されかけたばかりだ。ロイも警戒せずにはいられなかった。
「いいでしょ。別に、友達のお見舞いくらい。こんなになるまで、頑張ってくれたんだから」
そう言って、チェルシーはセシリアの様子を窺う。
右手を眠るセシリアの顔の上にかざし、術式を展開、治癒術を発動する。
チェルシーの掌の先から、暖かな光が生まれ、疲弊していたセシリアを癒していく。
数秒の後、セシリアの呼吸が穏やかなものに変わった。
それを確認して、ロイは深く息を吐いた。
魔力の枯渇は、場合によっては命に係わることもある。
そうならないように、身体の方がセーブするものだが、今回のセシリアはそのギリギリまで、魔力を消耗してしまっていた。
「ほんとに、よく頑張ってくれたよ……」
ロイは胸を撫でおろして、セシリアの右手を握る。眠るセシリアが、その手を握り返すのを感じて、ロイは思わず笑みをこぼした。
ドォォォォォン!
不意に、一際大きい爆音が鳴り響き、騎士団詰所を大きな振動が襲った。
その音と振動に、不安を煽られて、周りの民衆のざわめきも大きくなる。
「あの怪物が、暴れてるのか……」
「どうなっちまうんだ、この町は……」
「噂では、魔王信者の仕業らしいぞ」
「じゃあ、まさか、狙いはチェルシー王女?」
「それだけのために、こんなことを……?」
「おい、やめとけ、聞こえるぞ……」
ざわめきの中に、そんな声があった。
ロイはチェルシーの表情を窺う。
チェルシーは何も言いはしなかったが、少しばかり表情を落として、ふいっ、と顔を背けた。
ロイは深く溜め息吐くと、ゆっくりとセシリアの手を離して、立ち上がった。
それから、近くに立てかけていた剣を手に取り、ベルトに装着する。
「どこに行くの?」
ロイの動きに気付いて、チェルシーがロイに声を掛けた。
「ヒュドラを倒す。そうすりゃあ、誰も文句はねえだろ」
それだけ言って、ロイは足早に医務室を出ていく。その背中を、チェルシーが慌てて追いかけた。
「ちょっ、ちょっと待っ、待って、待ってってば!」
ロイの右腕を掴み、チェルシーが呼び止める。
「倒すって、今、王国騎士たちが討伐に行ってるのよ? 別に、あなたが行く必要なんて――」
「倒せるのか?」
チェルシーの言葉を遮って、ロイが訪ねる。
「あんな化け物を倒せるのか、って聞いてるんだ」
騎士たちがヒュドラの討伐に向かってから、既に1時間以上が経過していた。その間、幾度となく、爆音や振動が、轟いている。
「すみません! 道を開けて下さい!」
そう声を上げて、騎士たちが担架を運んで、医務室に駆け込んで来た。
運ばれて来た者は、王国騎士のものとは違う、古びた鎧を身に纏っている。どうやら、冒険者らしいが、ヒュドラにやられたらしい。それに続くように、さらに数人の冒険者や騎士たちが運ばれて来た。
こうやって、怪我人が運ばれて来るのも、これが初めてではない。
冒険者も、騎士も、魔術師も、関係なく、何人もの怪我人が運ばれて来ていた。
実際に戦いを目にしていなくとも、あの怪物を目にしたロイからしてみれば、戦況が苦しいことは明らかだった。
「あなたなら、勝算があるというの?」
チェルシーが、真剣な表情でロイに訪ねる。
それを聞いたロイは、小さく溜め息を吐いた。
「勝算なら、ある」
そう言うと、ロイはゆっくりと目をつむる。そして、内に秘めていた魔力を、見せつけるように解放した。
ロイの身体から、大量の魔力が溢れ出る。
ヒュドラが出現してから、ロイの魔力は高まり続けていた。
シドと対峙したときのことを、チェルシーたちから事前に聞かされていたからか、今度ははっきりと、ロイは自らの魔力の高まりを自覚していた。いや、自分でもはっきりと自覚できるくらいに、魔力が高まっているというべきか。
それと同時に、ロイは感情の昂りも感じていた。本能がヒュドラとの戦いを求めているのだ。
「――――!」
チェルシーが驚愕の表情を見せる。それを確認して、ロイは魔力の放出を抑えた。
「で、でも!」
ロイが魔力を引っ込めると、ハッとしてチェルシーが口を開く。
「いくら強大な魔力を持っていたとしても、あなたはただの人間なのよ。あんな怪物相手に、危険だわ。ただじゃ済まないかも知れない。死ぬかも知れないのよ!?」
チェルシーの声は震え、瞳が潤み出す。ロイの腕を掴んでいる右手にも力が入り、痛いくらいに締め付けていた。
メロディのときと同じだ。彼女は、ロイが戦いの中で、命を落とすことを何よりも恐れているのだ。
「チェルシー」
ロイは左手でチェルシーの手を握り、彼女の名前を呼ぶ。
「お前は、俺やメロディが、いらない苦労をしなくていいような、そんな国にしたい、って言ったよな?」
「? ええ、そうね」
ロイの質問に、チェルシーが不思議そうな顔で答える。
一体、なぜ今そんな話をするのか、わからないという顔だ。
「じゃあ、お前がいらない苦労をしなくていいように、俺は戦おう」
チェルシーを庇って、死にかけたメロディ。
魔王信者が放ったヒュドラに、破壊された街と、その住民たち。
それらの悲劇を全て、自分のせいだ、と、チェルシーが抱え込まなくていいように。
(チェルシーが辛い思いをするなら、俺がその元凶を断ち切るまでだ)
ロイはそう心に決めた。
「でも……、でも……」
チェルシーは今にも泣きそうな顔で、ロイのことを引き止める。
ロイは、ゆっくりとチェルシーの手を引き離すと両手で包み込むように、その手を握った。
「俺は死なねぇ。必ず、お前のところに帰って来る」
ロイの言葉に、彼の両手の中にあったチェルシーの手に、グッ、と力が入るのを感じた。
それから、ロイの顔をじっと見つめて、チェルシーは口を開いた。
「必ず? 絶対よ? お願いよ? 約束よ? 帰って来なかったら、死んでも許さないわよ?」
必死な表情で念を押すチェルシーに、ロイは、フッ、と笑みを漏らした。
「ああ、上等だ」
そう答えると、ロイはゆっくりとチェルシーの手を離し、踵を返して、足早に詰所を出ていく。
それを見送って、チェルシーは涙を拭い、踵を返して医務室に戻った。
ここには、ヒュドラ討伐で負傷した騎士や、冒険者、それに巻き込まれて怪我をした市民が、運ばれて来ている。
彼女には、彼女の戦いがある。
――――え!
――――かえ!
――戦え!
詰所を出たロイは、大通りを駆け抜ける。
ヒュドラに近づくにつれ、頭の中で響く声が大きく、多くなる。
それが、一体誰のものなのかは、判別できなかったが、それと同時に、ロイの魔力も大きくなっていく。
まるで、ヒュドラを倒すための力を、誰かから与えられているかのように。
しかし、それがどんな力だったとしても、今のロイにはそれが必要だった。
「いた」
爆音と煙を頼りに、通りを駆け抜け、十字路を左に曲がったところで、ロイはヒュドラの姿を捉える。
約50メートル先、討伐隊と交戦中だったが、未だ、目立った傷は付いていない。
「これくらいか?」
ロイは魔力を開放し、自分の身体に纏わせる。これほど大きな魔力を操るのは、初めてだったので、少しぎこちないが、何とか形にする。
「ディカプルエンハンス」
ロイは剣を抜き、開放した魔力を剣先に集中する。
と、そのとき、ヒュドラの9本の首が、一斉にロイの方を向いた。
どうやら、ロイの放つ《剣》の魔力に、勘付いたらしい。
「フォースブレイド!」
ヒュドラが動くよりも早く、ロイが魔力の刃を飛ばす。
刃は凄まじい速さでヒュドラの首を捉え、その首を3本切り落とした。
ジャアアアアアァァァァァーー!
ヒュドラが咆哮を上げて、のたうち回る。
ロイとしては、9本全て切り落としてやるつもりだったが、少し魔力が足りなかったらしい。
いや、ロイの魔術がヒュドラの首を切り裂く寸前で、大蛇が魔力を纏い、魔力刃を相殺したのを、ロイは見逃さなかった。
魔力を持つ魔獣の中には、魔術を扱うものも少なくない。
ヒュドラの驚異的な再生能力もその類だろうが、単にタフなだけではないらしい。
しかし、相手が魔力を扱うのであれば、それはロイの領分である。
再び身体に魔力を纏い、ロイは一気にヒュドラへと距離を詰める。身体強化を最大展開して、ヒュドラの巨体を町の外れに向けて蹴飛ばした。
突然の出来事に、討伐隊の面々は呆気にとられた表情でロイのことを見つめる。
討伐隊の人数は騎士団、冒険者合わせて約50。
王都を守る兵としてはあまりに少ないが、何でも、近頃北部の大森林に出没するという、魔物の群れを討伐するため、多くの者が出払っているらしい。
あの魔王信者らにとっては、絶好のタイミングだったということだ、
ロイはその場にいた一同を見渡す。
ヒュドラの討伐隊の、ほとんどが何らかの怪我を負っているようだが、中には動くのも辛そうな大怪我を負っている者も見られる。
「詰所にチェルシーがいる。さっさと怪我人を運んでやれ」
ロイは近くにいた男にそう声をかける。
人並み外れた魔力を持つロイに、討伐隊が気圧される中、声をかけられた男は、ゴクリと唾を飲んで答える。
「き、君は――?」
男の言葉の続きが、「誰だ?」なのか、それとも「どうする?」なのか、言葉を詰まらせてしまってわからないが、ロイは男を一瞥して、すぐに標的に視線をもどした。
「ヒュドラを倒す」
再び魔力を身体に纏い、ロイはヒュドラに向けて跳躍する。
吹き飛ばされたヒュドラは、身体をくねらせながら、体勢を立て直す。
「スペルブレイク」
ロイは距離を詰めると、術式を展開し、ヒュドラの防御魔術ごと、その首を切り裂いた。
ヒュドラが再び咆哮を上げる。
残る首は5本、と言いたいところだが、切り落とした首は霧散して消え去り、それと同時に、傷口から新たな首が生えてくる。
チッ、と舌打ちをしつつ、ロイは次の首を切り落とすべく、跳び上がって剣を振るった。
が、ロイの魔力を帯びた剣は、ガキンッ、と音を立てて、弾かれてしまった。
そのまま、空中で身動きのとれないロイに、ヒュドラが襲い掛かる。薙ぎ払うように首を振り、ロイの身体を吹き飛ばした。
「ぐっ――!」
吹き飛ばされたロイは、住宅に叩きつけられ、そのレンガの壁を破壊する。
「くっそ……。結構頭回んじゃねえか」
瓦礫の中から立ち上がり、ロイはそう毒吐いた。
ロイの《切断》を破る方法は、大きく分けて2つ。
一つは、術式を変更すること。
魔術の扱いに長けた者程、この方法をとることが多いが、これは現実的な方法ではない。魔術というのは、積み重ねの学問だ。基礎となる《1》を覚えずに、いきなり《10》の魔術を扱うことはできない。
術式においてもそれは同じで、小手先でどれだけ術式構成を変えようと、《1》の部分を変えなければ、ロイの《切断》を破ることは出来ない。
魔術師にとって、それは自身の魔術人生を、まさに1からやりなおすことに他ならない。
ウィリアムとの決闘で、彼が一切の魔術を封じられたのは、そのためだった。
しかし、実は、もっと単純な方法で、《切断》は破ることが可能だった。
ロイが扱う魔力を上回る魔力で、《切断》を迎え撃てばいい。単純な力勝負なら、《切断》を破ることができる。
普段のロイなら言わずもがな、魔力量の大きく上昇した、今の彼を相手にしてもそれは変わらない。
野性か、本能とでも言うべきか、ヒュドラは防御魔術を厚くすることで、ロイの《切断》を破って見せたのだ。
「もう少しいけるか?」
ロイは剣を握る右手を見つめ、自身の中から湧き出る、巨大な魔力に視線を移す。
先程、ヒュドラとの攻防に使った魔力は、普段のロイならば、限界に近い魔力量だったのだが、今はそれでも余裕がある、どころか、依然として魔力は増加し続けていた。
それに伴って、ロイの頭に響く声も、大きく、多くなっていく。
――戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え!
――戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え!
――戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え!
(うるせぇ……)
再び術式を展開し、ロイは全身に魔力を纏わせる。
「ヴィジンタプルエンハンス!」
更に大きな魔力を身に纏うと、ロイはその一部を切り離して、8つの光球を作り出した。
そうこうしているうちに、ヒュドラの再生は完了し、既に9本の首が生えそろっている。
別に、無駄なこととは思わない。
あの再生能力は確かに驚異的だが、それが魔術によるものなら、いつかは限界が来る。未だ、その術式は読めはしないが、殺し続ければ、殺せない訳では無い。
ロイは一度大きく息を吐くと、一直線に、ヒュドラに跳びかかった。剣に魔力を集中させ、跳躍した勢いのまま、ヒュドラの頭上から剣を叩きつける。
ロイとヒュドラ、2つの魔力がぶつかり、周囲に衝撃波を飛ばす。
と、拮抗する魔力の嵐の中で、ヒュドラが動きを見せた。
ロイの剣を受け止めていたのとは別の8つの首が、魔力の乱気流を掻い潜って、一斉にロイに襲い掛かる。
「ファントムソード!」
咄嗟に、ロイは光球を操り、ヒュドラのそれぞれの首に対応する。
光球はその形を変化させ、刃渡り2メートルはあろうかという大剣を形作ると、それぞれヒュドラの首をを受け止めた。
「うぉぉぉぁぁああ――!」
ロイが叫び声を上げ、一気に魔力を開放した。それに共鳴して、右手に持つ剣が、そして、周囲の魔剣も輝きを増す。
剣を振り抜き、ロイはヒュドラの首を斜めに両断した。しかし、その反動で、ロイの剣は中程からへし折れてしまう。
突然のことに、ロイは歯噛みをするが、まだ終わりではない。
ロイは意識を8本の魔剣の方に移す。魔力を送りこみ、残る8本の首のうち4本を魔剣が切断した。
全てを切り裂くことができなかったのは、ロイの術式制御能力が足りないせいだろう。
競り負けた魔剣は砕け散り、また、残っていた魔剣も、術式を崩して霧散する。
どれだけ魔力が大きくなろうと、ロイの術式センスが上がった訳では無い。元々術式が上手くない彼が、8本もの魔剣を作り出すことだけでもやっとだった。成功率5割なら上々と言っていい。
しかし、そうは言っても、魔剣を打ち破った4本の首が、ロイに襲いかかってくる。
ロイは術式を展開し、先程、魔剣を作ったのと同じ用量で、刃を延長する。
初めに、ロイの右側から大口を開けて迫ってきた首を、身体を捻ってヒュドラの両顎を分断した。
それを目にした他の首が、出方を変えた。大きく息を吸い込み、紫色をした霧をロイに吐きかける。
(毒か!?)
伝説では、ヒュドラは毒の息を吐き、その住処は毒に覆われているという。また、一息吸うだけで死んでしまうとも。
しまった、と思ったときにはすでに遅く、咄嗟に、服の袖で口元を覆うが、ロイは僅かながらその霧を吸い込んでしまう。
「――――がっ――!」
途端に、ロイは剣を取り落として場に蹲る。
呼吸が出来ない。まるで、自分の身体がどうやって呼吸をしていたのか、忘れてしまったかのように、一切の呼吸が出来なくなってしまう。
「――かっ――ぁ――」
ロイは酸素を求めてもがくが、次第に手足は痺れ、更には、頭痛や吐き気まで催してくる。
――戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え!
――戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え!
――戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え戦え!
激しい苦痛の中でも容赦なく、頭の中の声はロイのことをせっつき続ける。
しかし、そんな声さえも届かない程、ロイの苦痛は耐え難いものだった。
身体の感覚が徐々になくなり、意識が遠退いていく。
と、切り落とした首を再生したヒュドラが、ゆっくりと、ロイに近づいてくる。
(……クッ、ソ……)
ヒュドラの動く気配を感じて、ロイは毒づく。しかし、最早声も上げられない。
中央の首が大口を開けたのを最後に、ロイの意識は闇に落ちた。
兄さん――!
一際大きな声が、ロイの頭の中で響く。
(……セシル?)
今まで、何度も聞いたその声は、紛れもなく、彼の妹のものだった。
思えば、兄貴らしいことをあまりしてやれた記憶がない。
走馬灯のように蘇ってくるのは、幼い頃の思い出。両親を事故で亡くしたセシリアを、ロイの両親が引き取ったばかりの頃。
あの頃は、今よりも髪を長く伸ばしていて、まるで人形のように可愛らしい少女だった。
ある日、自室に引き籠って本を読んでばかりいた彼女を、ロイが外に連れ出したことがある。
屋敷の側の林を駆け抜け、小川で小石を投げ、野良猫を追い回して、セシリアのことを振り回していた。
そうこうしていると、疲れてしまったのか、セシリアがこんなことを言い出した。
「私のことは放っておいてください。構わなくていいですから」
少し寂しそうな顔をして、そう言うのだった。
「だめだ」
しかし、ロイはそう言って、セシリアのことを引き留めた。
「母さんが、ボクの方が少しお兄ちゃんだって言ってた。だから、妹のキミが元気ないときは、ボクが元気にしてあげなきゃいけない。お兄ちゃんは、妹を守ってあげなきゃいけないんだ」
今にして思えば、我ながら無茶苦茶だと思う。
セシリアからしてみれば、有難迷惑というものだ。実際、「そんなこと、誰も頼んでません!」と、フラれてしまった。
(……けど、そうか。たしかに、先に言い出したのは俺だったな……)
ロイ――!
もう1つ、こちらも、一際大きく、ロイの頭の中で響く声があった。
(……チェルシー?)
脳裏に浮かぶのは、長い金髪を風に棚引かせる、お姫様の姿。
正直、彼女とは知り合ったばかりで、思い出らしい思い出もない。もっとも、ここ最近の出来事は濃密なものばかりだったが。
彼女は彼女で、大きなものを背負っている。
伝説の聖女の再来と言われ、王位継承の責務を負わされたかと思えば、逆にそのせいで、町が壊され、国民を悩ませている。
後者はチェルシーの思い込みの部分もあるが、自分のせいじゃないことで、彼女が責任を感じる必要はない。
固有属性持ちという、自分でどうしようもないことで、蔑まれてきたからだろうか、ロイにはそれが許せなかった。
そして、思い出されるのは、やはり先程のこと。
「必ず? 絶対よ? お願いよ? 約束よ? 帰って来なかったら、死んでも許さないわよ?」
泣きそうな顔で、そう言ったチェルシー。
(ああ、必ず帰るって、約束したもんなぁ……)
「兄さん!」
「ロイ!」
2人の呼び声で、ロイの意識は覚醒した。
暖かな光に眩しさを覚えて、ロイが目を開くと、こちらを覗き込む青い瞳と目が合った。
「チェルシー?」
さらに、その背後では、赤髪の少女が、精霊と共に、ヒュドラの牙を食い止める姿が目に映る。
「セシル?」
つい先程、意識の中で聞いた声のせいで、幻覚でも見ているのかとも思ったが、そうではない。
節々を駆け巡る痛みが、現実だと告げていた。
「全く、かっこつかないわね……」
意識を取り戻したロイに、チェルシーが嘆息吐いてそう言った。
「お前ら、何でこんなところに――?」
「あなたを助けに来てあげたんでしょ!?」
ロイの質問に、チェルシーは食い気味に答えた。
「必ず帰って来るって言ったのに、何死にかけてるのよ!?」
「――うっ……」
怒りを露にして言うチェルシーに、ロイは息を飲んだ。
彼女の言う通り、2人が来てくれなければ、間違いなくロイは命を落としていた。
「けど、負傷者はどうしたんだ? お前がいなきゃ――」
避難してきた市民たちや、討伐隊には、多くの怪我人がいる。ロイが騎士団詰所を飛び出した時でさえ、医師の手が足りないように見受けられた。
「避難民も、討伐隊も、もうみんな治したわよ! 後は――」
そう言って、チェルシーは、結界の外に目を向ける。
視線の先では、ヒュドラが、セシリアたちが張った結界を破るべく、その首を使って、多方向から攻撃を仕掛けていた。
「あなたがヒュドラを倒せば、全部おしまいよ」
まるで、何でもないことのように言い退けるチェルシーに、ロイは大きくため息を吐く。
彼は立ち上がると、取り落とした剣を拾い上げた。
「その剣――!」
刃の中程から折れた剣を目にして、チェルシーが両目を見開いた。
「大丈夫、なのよね?」
不安そうに顔を曇らせた彼女を横目に、「問題ない」と、ロイは短く答えた。
彼は魔力を剣に集中し、折れた刃先を形成する。
それから、結界の外のヒュドラに目を向ける。
手応えはあった。あのまま戦い続ければ、あれを倒せるという確信が、ロイにはあった。
問題は、ヒュドラが自身を取り囲むように吐き出した毒霧にある。
今はノエルの《聖域》があるからいいが、一度結界の外に出れば、またあの苦しみの中に逆戻りだ。ロイの剣が、ヒュドラに届くことはない。
「チェルシー」
「な、何?」
突然の呼び掛けに、チェルシーは戸惑いを見せる。
「あの毒霧、祓えるか?」
と、ロイはチェルシーに提案する。
本当なら、彼女に頼むまでもなく、《切断》の魔術で毒素を分解してしまうところだ。理論上、彼の魔術ならそれが可能だった。
しかし、ロイはこの毒素のことを理解していない。どんな物質で、どんな仕組みで、人体に作用するのか、それを理解していないのだ。
その点、チェルシーはロイの身体を蝕む毒を癒してみせた。
その彼女なら、ヒュドラの毒霧を分解できることを期待して、ロイは提案したのだった。
「そうね。仕組みは理解したから、できるとは思うけど」
「じゃあ、ノエルが結界を解いたら、魔術を発動できるように準備しておいてくれ」
期待通りの答えを返したチェルシーに、ロイはそう指示を出した。
彼女が深く頷いて、術式を構成するのを確認して、ロイはセシリアの方に歩み寄った。
「もういいのか?」
ロイが声をかけると、セシリアはチラリと横目に兄のことを見て、すぐに視線を戻した。
使い魔のノエルに魔力を送り、結界の維持に集中している。
「たくさん休めましたから、もう平気です」
ムスッとした表情で、セシリアはそう答える。
平気とは言うものの、大粒の雫が一筋、彼女の頬を垂れるのを、ロイは見逃さなかった。おそらく、まだ本調子には程遠いのだろう。
ロイはセシリアの肩に手を置く。
「チェルシーが毒霧を祓ったら、結界を解け。後は俺に任せろ」
「兄さん……」
ロイの言葉に、セシリアは不服そうに顔を曇らせた。
「…………」
何か言いたそうに口を開いたかと思えば、その言葉を飲み込むようにして口をつぐむ。
「ロイ、私の準備はできたわよ」
「ああ」
後ろからチェルシーに呼び掛けられて、ロイは左手を上げて答える。
今一度、顔を引き締めて、ロイはセシリアの方に向き直った。
「セシル」
「はい」
ロイが名前を呼ぶと、セシリアは間髪入れずに返事を返した。
「任せておけ」
「兄さん――」
心配そうにロイのことを見つめるセシリアのことを他所に、ロイは1歩前に出た。
ロイが合図を送ると同時に、チェルシーが術式を展開する。
「《浄化》!」
チェルシーが魔術を発動すると同時に、周囲の毒霧が分解され、視界が晴れていく。
それと同時に、ノエルが結界を解き、ロイが飛び出す。
「トリジンタプルエンハンス!」
ロイは魔力を剣先に集中し、その刃を延長する。そのまま飛び上がり、ヒュドラの喉を串刺しにした。
しかし、ヒュドラも黙ってやられてはいない。残る8本の首を使って、一斉にロイに襲いかかる。
と、その周囲に、いくつもの鬼火が出現した。
「エナジーマイン!」
セシリアの合図で鬼火が一斉に爆発する。
炎に巻かれたヒュドラは、大きく咆哮を上げ、ロイへの妨害を止める。
ヒュドラは身体を仰け反らせ、地面に縫い付けられた。
ロイはのた打ち回るヒュドラの身体の上を、剣を引き摺るようにして、尻尾の方へ駆け出す。10メートル程走ったところで、ロイは剣を振り上げ、ヒュドラの身体を両断する。
「ノエルはチェルシーさんのことをお願いします!」
セシリアが使い魔に指示を出すと、ノエルが再び結界を張る。それを確認して、セシリアは兄の後を追った。
「兄さん!」
ロイに追いついたセシリアが声を掛けた。
「心配するな、セシル。俺なら平気だ」
妹の方を一切振り向かず、ロイはそう答える。
すると、セシリアはムッと口を尖らせた。それから、彼女はロイの肩に掴みかかり、無理矢理自分の方に向き直らせた。
「何が平気なんですか!? チェルシーさんがいなかったら、死ぬところだったじゃないですか! 今だって、私がサポートしなかったら、危ないところでしたし!」
「けど、俺の《剣》ならあいつを倒せる。俺がやらなきゃいけないんだ」
そう言って、ロイはセシリアの手を振り払う。
今のロイには、自分でも持て余す程の魔力があり、その魔力がヒュドラに対して有効であることも分かっている。
ならば、この力はヒュドラを倒すための力だ。それが自分の役割だと、ロイは悟っていた。
「だからって、何もかもひとりで背負うことないんです!」
再びロイの肩を掴み、自分の方を振り向かせると、セシリアは言う。
「私は兄さんの妹です。兄さんが行くところなら、どこだってついて行きます。少しは私のことも信頼してください!」
と、熱心に訴えるセシリアに、ロイは両目を見開いた。
正直に言えば、妹であるセシリアを危険に晒すようなことはしたくない。特に、今の彼女は、まだ本調子ではない。無理をさせたくない、というのが、ロイの本音だった。
しかし、誰に何を言われようと、自分の意思を曲げない信念が、セシリアの両の瞳から見て取れた。
「――フッ」
と、ロイが笑みをこぼす。
自分に構うな、と言っていた彼女と、目の前にいる妹が、同一人物とは、とてもではないが思えなかった。
「な、何なんですか? 変なこと言いました?」
クックッ、と笑うロイのことを、事情を知らないセシリアが、きょとんとした表情で見つめる。
「いや、いい妹だよ。お前は」
そう言って、ロイはまた笑う。
何か、少し気が楽になった気がする。
「セシル」
「はい」
ひとしきり笑ってから、ロイが呼びかけると、間髪入れずに、セシリアが返事をした。
「いくぞ」
「はい!」
ロイの言葉に、セシリアが嬉しそうに答える。
と、そのときだった。
ロイとセシリアの間で、魔力のつながりができる。
セシリアからロイへと、魔力が流れ込んでいき、しばらくして、セシリアの身体は、魔力の光に包まれて、消えてしまう。
「な――『な、何なんですか、これは――?』」
ロイが戸惑いを隠せずにいると、どこからともなく、セシリアの声が聞こえてくる。
「セシル? いるのか?」
『は、はい! います』
ロイが呼びかけると、セシリアが答える。
彼女の声は、ロイの意識に直接届いていた。
ヒュドラとの戦いの間、ずっと彼に「戦え」と呼び掛けていた声と同じように、しかし、それらよりもはっきりと、鮮明にセシリアの声は届いていた。
自身の内側に意識を向けると、彼女の存在と、その魔力を感じる。
と、その時だった。
ジャアアアァァァ――!
身体を再生したヒュドラが、大きく咆哮を上げて、一斉に襲いかかってきた。
「――くっ!」
咄嗟にロイ剣を構え、術式を展開するが、身体が重い。
何とか身体を動かして、ヒュドラの首を払うように、剣を薙いだ。
すると、その剣筋をなぞるようにして、爆炎が熾り、ヒュドラの攻撃を阻止した。
ヒュドラが動きを止めた一瞬の隙をついて、ロイは背後に飛び退く。
「今のはお前か、セシル?」
『そうみたいですね。咄嗟だったので、自分でもよくわからないんですけど……』
「なるほど……」
セシリアの答えに、ロイはそう呟く。
つまり、今のロイは、2人の意識と魔力が重なっているらしい。
身体が重いのは、セシリアの意識がロイのそれと競合しているせいだろう。
ロイは大きく深呼吸をする。
「セシル」
『はい?』
「今はとにかく俺に合わせろ」
『そんな! 急にそんなこと言われても困ります!』
セシリアの慌てた気配が、ありありと伝わってくる。無理もない。状況を整理したい気持ちは、ロイも同じだ。
なぜこんなことが起きているのか、わからないことばかり起こるが、しかし、不思議とやれない気はしなかった。
「やれるさ、俺の妹なら」
『~~~~!』
ロイの無茶苦茶な言葉に、セシリアが怒りを露にするのがわかる。
『ああ、もう!』
一瞬、間を置いて、セシリアが声を上げた。
『上等ですよ!』
セシリアの言葉を聞いて、ロイは再びフッと笑みを見せる。
それから、心を落ち着かせて、術式を構成する。
ヒュドラを倒すための術式、イメージするのは、あの怪物を倒すことのできる力。
すると、それに呼応して、もう1つの魔力がロイの術式に重なる。
セシリアの燃える炎のように熱い魔力が、ロイの中に流れ込んでくる。彼のために力を貸してくれる、妹の気持ちが魔力と共に流れ込んできた。
「エンハンスフォース*ブレイズ」
ロイは術式を展開し、ヒュドラに向けて剣を構える。すると、その刀身に炎が灯った。
炎を纏うロイの剣を見て、ヒュドラが一瞬怯んだ。その一瞬を見逃さず、ロイは大きく振りかぶって、一閃を放つ。
炎を纏った魔力の斬撃は、ヒュドラ首を3本切り落とす。しかし、それだけでは終わらない。
ロイが切断した切り口が発火し、ヒュドラの身体を炎が飲み込んだ。
超高温の炎が、ヒュドラの身体を再生した端から炭化させていく。
ヒュドラは身体についた炎をかきけそうと、身体を地面や建物に打ち付ける。しかし、魔力によって灯った炎はそう簡単には消えはしない。ヒュドラの身体は幾度となく、燃焼と再生を繰り返していた。
とはいえ、ヒュドラの身体を焼きつくすというのは、すでにセシリアが試みて、そして失敗している。
ヒュドラの強力な再生能力を上回るには、人間一人の魔力では、足りないからだ。
「まだだ――!」
ロイが魔力を解放し、ヒュドラの身を焼いていた炎が、その勢いを増す。
ジャアアアアアァァァァァーー!
ヒュドラが一際大きな咆哮を上げ、身体を激しく振り、あるいは周囲に打ち付けて、消火を試みているが、その勢いは衰えることはない。
と、もう一度、大きく咆哮を上げると、ヒュドラの6本の首は、一斉にロイに襲いかかった。
どうやら、炎を振り払うことが無理だと悟り、術者であるロイを仕留めることにしたらしい。
次々に襲いかかるヒュドラの首をかわしつつ、ロイは新たに術式を展開する。
「行くぞ!」
『はい!』
「ブレイジングエッジ!」
ロイの持つ剣に纏っていた炎が勢いを増す。そして、襲いかかる首の1本を目掛けて、勢いよく切り上げた。
放たれた炎の一閃は、ヒュドラの鼻先から、首の付け根まで一刀両断にし、その首を焼き焦がした。
しかし、最早首を1本失ったところで、ヒュドラが動きを止めることはなく、ロイに向かって追撃を繰り返す。その動きには、すでに理性の欠片も無く、剥き出しになった本能のままの攻撃だった。
そのことごとくをロイは切り裂き、ついにはヒュドラの首を全て切り裂いてしまう。
全ての首を潰されたヒュドラは、それでも尚、再生を繰り返していたが、勢いを増す炎に、最早なす術はなく、ただ、うねうねと身体をくねらせ、暴れまわるだけだった。
ロイは呼吸を整えると、ゆっくりと術式を展開し、魔力を練る。そして、左腕を掲げると、上空に魔力の光球を打ち上げた。
光球は、ゆっくりと上昇し、約10メートル程の高さまで浮上すると、その形状を変化させる。先程よりも巨大な、刃渡り5メートルはあろうかという魔剣。
セシリアの魔力が混じったその刃は、まるで赤熱した金属のように赤く輝き、周囲には炎を纏っている。
「スカーレット・ブレイド!」
投げつけるような動作で、ロイは魔術を放つ。
魔剣は上空から一直線に、ヒュドラの胴体を串刺しにし、地面に縫い付ける。
魔剣で大蛇の動きを封じたことを確認して、ロイは魔力を解放する。
刃に纏っていた炎が勢いを増し、ヒュドラの胴体を内と外から焼き尽くす。
「『消し飛べぇ!』」
2人は更に魔力を解放し、一気にヒュドラを焼き尽くす。
最初は、魔剣から抜け出そうと、動きを見せていたヒュドラも、徐々にその力を失っていき、遂には完全に動かなくなってしまう。
それでも、ロイは炎を止めることはない。ヒュドラの回復能力が残っているかはわからないが、可能性もある限り、力を抜くつもりはない。
と、不意に、ロイの体から力が抜ける。
ガクリ、と膝から崩れ落ち、地面に手をつける。
同時に、ヒュドラの胴体を焼いていた炎も消えてしまう。
ロイの魔力が底をついたのだ。
あれだけ魔力を使っていてもなお、湯水のように湧き出ていた魔力が、今の一瞬で消え失せたのだった。
いつの間にか、セシリアとのつながりも消え、ロイの隣で、同じように地面に手をつき、座り込んでいた。
「なっ……!?」
訳も分からず、ロイはヒュドラの方に目をやる。まだ倒れる訳にはいかない。何とかして立ち上がらなければ。
しかし、最早原型を留めていないヒュドラは、ピクリとも動くことはなく、黒炭となったそれは、ガラリと音を立てて崩壊した。
その様子を見て、ロイは、自分が役目を果たしたのだと悟った。
ロイは大きく息を吐いた。
と、気が抜けたことで、意識が霞んでいく。
そのまま、地面に突っ伏したところで、ロイの意識は闇に落ちた。
「兄さん!」
「ロイ! セシリア!」
薄れゆく意識の中で、2人の少女の声だけが響いた。