第5話
「戻れ!」
ロイが背後の2人に向けて叫ぶ。
突然の襲撃に、硬直していたチェルシーとメロディだったが、ロイの言葉にピクリと肩を震わせる。
「行こう! チェリちゃん」
いち早く状況を理解したメロディが、チェルシーの手を引き、来た道を真っ直ぐ走り出した。
「ロイ!」
チェルシーが振り返ってロイの名前を呼ぶ。その瞬間、彼女が足を止めたのを、襲撃者は見逃さなかった。
持っていたナイフを彼女に投げつけたのだ。
とっさにロイが剣を振り、ナイフを弾き飛ばす。すかさず、その懐に、襲撃者が飛び込み、隠し持っていたもう1本のナイフで斬撃を繰り出した。
ロイは剣を振り下ろし、そのナイフを受け止めた。
攻撃に失敗したと気付くと、サッ、と身を引いて、ロイから距離を取る。ロイの方から攻撃を仕掛けると、ヒラリヒラリと身を翻し、攻撃をかわす。
この間と同じだ。
「早く行け!」
襲撃者から視線を離さず、チェルシーたちに向けて叫ぶ。
「チェリちゃん、早く!」
メロディがチェルシーの手を引き、先を急かす。
ロイとしては、2人には早く逃げて貰って、襲撃者の相手に集中させてくれた方がありがたい。それを理解しているかどうかはわからないが、チェルシーのことはメロディに任せることにする。
しかし、ことはそう上手くはいかなかった。
ガシャンッ――!
ロイの背後、チェルシーたちが逃げようとしていた方向から、ガラスの割れる音が響く。
もう1人、別の男が、廊下の窓ガラスを割り、逃げる2人の行く手を阻んだのだ。
覆面で目元を隠した、長身の男。白いトレンチコートを身に纏い、あまり動きやすそうな格好には見えなかったが、不気味な笑みを浮かべた口元が、対峙する女子2人の恐怖心を刺激していた。
ロイが思い出したのは、以前にチェルシーが襲撃を受けたときのこと。
あのときの襲撃は、今ロイの目の前にいるこの男から始まったのではない。あのとき発端となったのは、チェルシーを狙った魔術弾だった。
恐らく、それを放ったのが、今現れたもう1人の男だろう。
《反魔術》を使った、大規模な襲撃だというのに、共犯者がいる可能性を、すっかり失念していた。
「何だよハーミットの旦那。まだ終わってねえのか」
新たに現れた男が、先に襲撃を仕掛けた男、ハーミットに、そう呼びかける。
ハーミットは、面白くなさそうにフンッ、と鼻を鳴らした。
と、新たな襲撃者に気を取られた一瞬の隙に、ハーミットが動いた。
ハーミットがナイフを横に薙ぎ、ロイの顔に切りつける。すんでのところでロイはそれをかわすが、切っ先はわずかにロイの頬を掠め、その剣筋に赤い尾を引いた。
「このっ!」
右手に持った剣を振り上げ、ロイが反撃する。が、振り下ろしたその腕を、左手で掴んだ。そのまま、ハーミットはロイの懐に体を入れ込み、ハーミットの背中とロイの腹部が密着する。
次の瞬間、ロイの体は宙を舞い、廊下に背中から叩きつけられた。
「ぐっ」
ロイの顔が苦悶に歪む。
まだハーミットは腕を離さず、そのままロイの体を転がし、うつ伏せに押さえつけた。
「まだ若いな。技を乱すとは未熟」
覆面のせいで籠った声で、ハーミットがそう言う。
ハーミットは剣を取り上げると、廊下に突き立て、ロイの上に馬乗りになった。
「まだだ、エンハンス――」
ロイは魔力を発動させ、身体能力の強化を試みる。
しかし、《反魔術機》の影響で、上手く魔力が乗らず、霧散してしまう。
ダメ元ではあったが、自信の才のなさを、ロイは呪った。
「おとなしくしていろ。王女以外は、殺すつもりはない」
ロイの魔術が不発に終わったとみると、深く息を吐いてそう言った。
「さっさと殺れ、ハンガー」
「へいへい」
ハーミットがもう1人の襲撃者、ハンガーに呼び掛ける。
ハンガーは気だるげに返事をすると、腰に装備していた武器を取り出し、チェルシーに向けた。
金属製の筒のようだが、持ち手の部分は木製のように見える。
杖のようにも見えなくはないが、この《反魔術機》の影響下で、魔術を扱うことは容易ではない。暗殺の手段としては、現実的ではない筈だった。
いや、杖ではない。
無骨なフォルムをしたそれは、魔術を使用するための杖ではなく、むしろ、魔力を必要としない武器、銃だ。
あまり一般に知られている武器ではないが、以前、祖母の《宝物庫》で見たことがある。
「アデュー」
呆然と立ち尽くすチェルシーに、ハンガーがそう言って、引き金に指を伸ばす。
「クソッ!」
ハンガーの武器の正体に気付き、ロイは毒づく。
「どっけぇぇぇぇぇ!」
ロイは叫び、再び魔力を解放し、ハーミットを退けようと力を込める。
しかし、どれだけ力を込めようとも、魔力がロイの体を助けることはなく、また、ハーミットの腕の力が弱まることはない。
そのロイの様子を横目に、ハンガーは容赦なくその引き金を引いた。
ドンッ!
廊下に銃声が鳴り響く。
同時に、ハンガーの持つ銃口から、いくつもの細かな弾丸が弾け出る。
その時、まるで時間が止まったかのような錯覚を、ロイは覚えた。
自分の力不足のせいで、チェルシーを、守りたいものを守ることができなかった。そのショックが、そんな錯覚を生み出したのだ。
しかし、実際には、時間は止まっていない。
ロイの中の時間が動き出したとき、最初に彼の目に飛び込んできたのは、チェルシーを突き飛ばすメロディの姿だった。
ハンガーの弾丸から、チェルシーを庇ったのだ。
「うっ……」
しかし、弾丸はメロディの左脇腹をえぐり、鮮血を飛び散らせた。
「メル!」
傷ついたメロディに、チェルシーが駆け寄る。
チェルシーは慌てて術式を展開し、メロディの傷を治そうとする。しかし、チェルシーの術式は、案の定形を成すことが出来ず、魔術を発動することができない。
「――――っ」
思うように治癒魔術が使えず、チェルシーは歯噛みする。
しかし、そんなことは関係なく、メロディの傷からは、血が溢れ出してくる。
「うぅ……。チェリちゃん、大丈、夫?」
僅かに意識を保っていたメロディが、チェルシーに声をかけた。
「ええ、私は大丈夫。けど、あなたが!」
苦しそうな表情をするメロディを抱き寄せ、チェルシーは答える。
チェルシーは自分の上着を脱ぎ、メロディの傷口に当てる。そのまま、メロディの体に巻き付け、止血を図ろうとした。
しかし、傷は深く、出血は止まる気配はない。
「チェリ、ちゃん……」
「大丈夫よ。絶対にあなたを助けてみせる」
息も絶え絶えに自分の名前を呼ぶメロディに、チェルシーは熱心に声をかける。
ヒュー♪
ハンガーの口笛が、廊下に響き渡った。
「美しい友情だね。お姫様はいいお友達をお持ちだ」
「てめぇ! ぶっ殺してやる! そこを動くな!」
薄く笑みを浮かべるハンガーに、ロイが噛みつくような勢いで言う。しかし、ハーミットに押さえつけられた体は、動かすことが出来ない。
そのことを確認して、ハンガーは更に笑みを深めた。
「ハハッ、旦那に負けて動けない君には、何も出来ないだろ。せいぜい吠えてろよ」
そう言いながら、ハンガーは銃を持ち手の先の辺りで折ると、空になった薬莢を捨て、コートの中から新しい弾丸を取り出す。
ゆっくりとした動きで、銃に弾丸を込めるハンガーをロイと、そしてチェルシーはじっと睨みつける。
「どうして?」
震える声でチェルシーがそう尋ねる。
「あなたたちは何者? どうして私の命を狙うの?」
チェルシーの質問に、ハンガーはピタリと動きを止めた。それから、視線だけをチェルシーに向け、唇の端を引き上げた。
「我らが魔王の復活のため。その一番の障害となる姫君には消えてもらう」
「魔王、信者!」
ハンガーの返答に、チェルシーが驚きの声を上げた。
魔王信者というのは、不滅の魔王ヴィンセントを信奉し、復活を望む者たちの総称だ。
かつて、魔王配下の一族だったり、かと思えば、社会のはみ出し者だったり、境遇は様々のようだが、魔王の思想の元に集い、ゲイルガルドの歴史上、幾度となく姿を現し、今回のようなテロ事件を起こしている。
「……ぅ、うぅ……」
チェルシーの腕の中で、メロディが呻き声を漏らした。
しかし、チェルシーがその顔を覗き込んでみても、メロディは何か言葉を放つでもなく、ただ、苦悶の表情を浮かべるだけだった。
「あなたたちの狙いは、私なのよね?」
チェルシーが、再びハンガーの方に視線を戻す。
「? ああ、そうだな」
「だったら、私が死ねば、この子たちは見逃してくれる?」
ハンガーの返答に、チェルシーはそう提案する。
その提案に、ハンガーは、へえ、と声を漏らした。
「いいよ。君さえ消えてくれるなら、他の人間に用は無い」
「ふっざけんな!」
ハンガーが答えるのとほぼ同時に、ロイが叫ぶ。
「こっちは命懸けでお前を守ってやってんだ! 勝手に死ぬなんて許さねぇからな!」
「けど、そのせいでメルが! あなただって!」
「メロディがお前を庇ったのは、お前に生きて欲しいからだ! 守られたなら、生き抜いてその責任を果たせ!」
命を懸けてチェルシーを守ったメロディ。守られたチェルシーが、自ら命を絶つなんてことは、あってはならない。
それは、メロディに対する冒涜だ。
「俺が必ずこいつらを倒す。早まった真似すんじゃねぇ」
「ロイ……」
ロイの言葉に、チェルシーは息を飲んだ。
と、2人の様子を傍観していたハンガーが、大きく溜息を吐いた。
「だから、君は旦那に負けて、動けないだろう? そんな状態で、俺たちを倒すだって? 生意気を言うんじゃないよ。なんなら君から殺してやろうか?」
苛立った声音で、ハンガーがそう言う。それから、弾込めを終えた銃をロイへと向ける。
「よせ、ハンガー」
「旦那は黙ってろ。ガキが舐めてるとどうなるか、教えてやるって言ってんだ」
制止するハーミットに、ハンガーが食って掛かる。
「黙るのは貴様の方だ。銃声を聞いて、直に人が駆けつけてくる。さっさと王女を殺せ」
「チッ」
と、ハーミットに諭され、ハンガーは舌打ちをする。そして、ロイたちに背を向け、チェルシーの方に向き直る。
そのときだった。
「エンハンスフォース!」
ハーミットが振り向いた瞬間に、ロイが魔力を身に纏い、身体能力を強化する。そのまま体を跳ね上げ、ロイを押さえつけていたハーミットごと、天井へと激突した。
どれだけ高精度の《反魔術》といえど、それ自体が魔術を利用したものである以上、魔術を完全に封じることは出来ない。
時間をかけ、じっくりと術式を練りさえすれば、魔術を使うことも可能だった。
ロイは取り押さえられながらも、術式を練り、機が熟すのを待っていたのだ。
とは言え、ギリギリだった。実際、メロディがいなければ、間に合わなかった。いや、彼女の怪我のことを考えれば、今も予断を許さない状況だ。
「がはっ!」
人間の力を大きく超えた勢いで、天井に打ち付けられたハーミットは、気を失い、ロイの上に覆い被さる形で落下する。その体を押し退け、ロイは立ち上がる。
ロイの纏っていた魔力にノイズが走り、ゆっくりとその光を失う。術式センスのないロイでは、それを維持することが出来なかった。
「おいおい……」
自分の背後で起きた異変に気付き、ハンガーはそう声を漏らす。
ロイは突き立てられていた剣を引き抜き、ハンガーに向かって距離を詰める。
咄嗟に、ハンガーはチェルシーの腕を掴み、その体を引き寄せる。
突然引っ張られ、メロディの体は投げ出されてしまう。それに気を取られたチェルシーの首に左腕を回し、こめかみに銃口を突き付ける。
「動くな!」
ハンガーが叫ぶのに合わせて、ロイが足を止めた。
「少しでも近付けば王女を殺す」
「――――っ」
ハンガーとの身長差のせいか、チェルシーが苦しそうな声を漏らす。
「おかしな、話ね」
震えた声で、チェルシーがそう言う。
「あぁん?」
「あなたたちは、私を、殺したいん、でしょう? それなのに、殺すぞ、なんて――」
苛立った声のハンガーに、チェルシーが挑発的な言い方で言う。
「ああ、自分の命が、惜しいのね。魔王復活のため、とか言って、あなたたちの覚悟って、そんなもの、なのね」
「うるせぇ!」
チェルシーの挑発に乗せられて、ハンガーが彼女の首元を掴み、壁に叩き付けた。
「うっ……」
急に呼吸が自由になり、チェルシーが咳き込む。その彼女の額に、銃口を向けた。
「そんなに死にたいなら、今すぐ殺してやる」
「チェルシー!」
ハンガーの言葉に合わせて、ロイが動く。
2人のところまで、ロイの歩幅で約5・6歩。しかし、ハンガーが引き金を引く方が早い。
ドンッ!
再び、銃声が鳴り響く。同時に、いくつもの細かな弾丸が、銃口から弾け出た。
しかし、その弾丸がチェルシーに届くことはなかった。
ぎゅっと目をつむる彼女の目の前で、まるで、見えない壁に阻まれているかのように、弾丸は空中で静止していた。
しかし、今度は、ロイの錯覚ではない。
静止した弾丸に呆気にとられるハンガーに、ロイは一撃を食らわせる。
「くっ」
寸前で、ハンガーはそれをかわすが、ロイは続け様に、二撃、三撃をお見舞する。
それを銃身で受け止めると、ハンガーは一度大きく後ろに飛び退き、距離をとった。
「な、何?」
目の前で浮かぶ弾丸を見つめて、チェルシーがそう声をもらした。
と、それに答えるかのように、薄桃色の光球が、どこからともなく現れた。
光球はチェルシーの周りをくるくると飛び回ると、彼女の目の前で動きを止め、その大きさを、形状を変化させる。
ウサギのように大きな耳と、キツネのようなふわふわとした尻尾、ネコのような身体となった光球は、パッと一瞬強く光った後、その姿を実体化させた。
光球と同じ、薄桃色の毛を持ち、ルビーのような赤い魔石を額に付けたその姿は、精霊カーバンクルのノエルのものだ。
「ノエル……?」
呆気に取られた表情で、精霊の名前を呼ぶチェルシーに、ノエルはクスクスと笑うような仕草をして、またふわふわと周囲を飛び回った。
それから、今も空中で停止している弾丸のところに飛んでいくと、それを前脚でつんつんと触る。
すると、弾丸はぱらぱらと床に落下し、それを見たノエルは、またクスクスと笑うような仕草をした。
何を隠そう、チェルシーをハンガーの弾丸から守ったのは、ノエルの精霊魔法、《聖域》だった。
「遅れてしまってすみません。チェルシーさん」
ハンガーの背後から、新たに声をかける者がいた。
燃えるような赤い髪と、翡翠色の瞳をした小柄な少女。セシリアだ。
セシリアはハンガー、ロイ、チェルシーの順に視線を動かし、最後にぐったりと倒れるメロディの方に視線をやって、驚愕の表情をする。
「メロディさん……」
そう呟くと、セシリアはキッと目を細めて、ハンガーを睨みつける。
セシリアの視線に、ハンガーは一瞬怯んだようだったが、すぐに持ち直して、セシリアの方へ駆け出す。
懐から小型の銃を取り出し、セシリアに向ける。
セシリアが銃のことを理解しているかは分からないが、銃口を向けられても、それを気にした様子は無い。
ドンッ! ドンッ!
と、ハンガーが持つ拳銃から、銃声と共に2発の弾丸が放たれる。
その瞬間、セシリアが術式を展開する。撫でるような動きで右手をかざす。すると、右手から尾を引くように、炎が生まれ、弾丸の行く手を塞ぐ。
炎に飲み込まれた弾丸は、融解してポタポタと廊下に落ちた。
「なっ!?」
ハンガーが驚愕の声を上げた。それから、持っていた拳銃を投げ捨て、同じ拳銃をもう1丁取り出す。
再び銃を放つハンガーだが、同じように展開した炎に阻まれ、セシリアに弾丸が届くことは無い。
「何で魔術が使えるんだ!?」
ハンガーが声を大にして叫ぶ。
《反魔術》の効果が切れた訳ではない。今も魔術を使おうとすれば、術式を乱され、まともに扱うことは出来ない。
もちろん、先程、ロイがやって見せたように、より集中すれば、不可能という訳では、決してない。しかし、だとしても、セシリアの魔術展開速度は異常だった。
「申し訳ありませんが」
冷たい声音で、セシリアが答える。
「今は種明かしをしている暇は無いんです」
言いながら、セシリアは再び右手をかざし、術式を展開する。右手の先に魔力の光が集まり、メラメラと燃え盛る火球を作り上げた。
「何より」
セシリアは一度、ハンガーの背後、ロイたちの方に視線を飛ばし、再びハンガーに視線を戻した。
「私の大切な兄さんとお友達に、怪我をさせたあなたに、語ることなんてひとつもありません」
その言葉と同時に、セシリアが魔術を放つ。
「フレイム・バースト!」
大量の魔力を注がれた火球は、膨れ上がり、爆発する。
爆炎は廊下一帯に広がり、その場の全てを飲み込んだ。ハンガーだけでなく、チェルシーも、メロディも、ロイも、全てを飲み込んだ。
勢いよく広がる爆炎に、チェルシーとロイは腕で顔を覆い、炎から逃れようとするが、その甲斐も虚しく、炎に飲み込まれてしまう。
しかし、不思議なことに、暑くはない。
少しして爆炎が晴れると、そこには、焼けて皮膚の赤くなったハンガーと、炎に飲み込まれる前と何も変わらない姿の、ロイたちの姿があった。
どうやら、チェルシーたちに被害が出ないように、配慮はされていたらしい。それがノエルの《聖域》によるものか、それとも、セシリアの魔力制御によるものなのかは、ロイには判断がつかなかったが。
ハンガーは、口から煙を吐いて、膝から崩れ落ちる。
セシリアが小さく息を吐き、視線をメロディの方へ移す。
「メロディさん」
セシリアはメロディの側に駆け寄ると、その体を起こし、名前を呼ぶ。
「……っ、セシリア、ちゃん、凄かった、ね……」
メロディが擦れた声でそう言う。
精一杯笑顔を見せているが、呼吸は荒く、顔色も悪い。
「大丈夫ですよ。死なせたりしません」
セシリアは優しく微笑みかけると、自分の鞄から小瓶を取り出した。
小瓶の中には、蛍光グリーンの液体が入っている。
セシリアは小瓶の蓋を開けると、メロディの手を取り、その小瓶を持たせる。
「私が調合した魔術薬です。お婆様に教えて貰ったレシピですから、効果は折り紙付きですよ」
セシリアはそう言うと、小瓶をメロディの口に当て、ゆっくりと魔術薬を飲ませた。
それだけで、メロディの表情が和らぎ、顔色も少し良くなった気がする。
薬を飲み終わると、メロディはゆっくりと目を閉じる。
胸が上下しているところを見ると、呼吸はあるようだ。どうやら眠ってしまったらしい。
「さて」
メロディが落ち着いたことを確認して、セシリアは包帯代わりに彼女の身体に巻き付けていた、上着を外す。
「…………」
じわ、と血の溢れてくる傷口を、セシリアはじっと見つめる。
「思ったより深いですね。私の魔術では間に合わないかも知れません」
セシリアはそう言うと、チェルシーに視線を移す。
実のところ、治癒術というのは、他人に使用する場合には効果が落ちる。
同じ人間でも、1人1人、身体の構造には個人差があるからだ。骨格、筋肉の付き方、血管の通り方など、僅かな差が重なり、治癒術の効果を落とす。
しかし、それを差し引いたとしても、チェルシーの魔力であれば、十分な効力を発揮することが期待されていた。
「どうですか? チェルシーさん。治癒術は使えそうですか?」
セシリアの質問に、チェルシーは首を横に振る。
「駄目だわ。術式が散っちゃって纏まらないわ」
「そうですか。じゃあ、私が術式を補助しますから、それでお願いできますか?」
「え、ええ、分かったわ」
セシリアがそう言って、チェルシーに右手を差し出した。
チェルシーがその上に右手を乗せ、魔力を集中する。
すると、セシリアとチェルシーの右手の間で、薄青い光球が生まれた。治癒の魔術が発動したのだ。
「はい。私の手が入ってしまいましたから、多少は効果が落ちると思いますけど、チェルシーさんの魔力で底上げすれば、問題ないでしょう」
「ええ、ありがとう」
チェルシーはセシリアに礼を言うと、魔術の光球をメロディの傷口に当てる。
その瞬間、メロディの傷口から血が止まる。傷ついた組織が修復を始め、徐々にその傷が塞がっていく。ものの数秒で、あの銃傷が嘘のように消えて無くなる。
それを確認して、チェルシーとセシリアの2人は、ホッと胸を撫で下ろした。
「うっ……」
不意に、倒れていたハンガーがうめき声を上げた。
意識が戻ったかと思い、その場の皆が身構えるが、ハンガーが動き出す気配はない。
「ああ、すみません。忘れていました」
落ち着いた口調で、セシリアがそう言う。それから、瞬時に術式を構成し、ハンガーに向けて魔術を放つ。
「《縛囚》!」
セシリアの放った魔術は、3つの光の輪となり、ハンガーの身体を縛り上げた。
「ああ、そうだ。セシル、こっちも――」
その様子を見ていたロイが、ふと思い立ってセシリアに呼び掛ける。それから、自らの背後を振り返った。
そこには、ロイが倒したハーミットが倒れている、筈だった。
しかし、ハーミットの姿はそこには無い。
いつの間にか、逃げられてしまったらしい。
(諦めたの……?)
逃がしてしまった襲撃者の動向に、一抹の不安を覚えるが、チェルシーはそうあってくれることを願った。
「それにしても」
事態が終息したと判断して、チェルシーがセシリアに声をかけた。
「すごいわね、あなた。この《反魔術》の中で、こんなに容易く、魔術を行使できるだなんて。何か秘密があるの?」
「い、いえ、秘密という程のことは何も」
感心した表情で聞いたチェルシーに、ぱたぱたと両手を振って、セシリアは否定の意を表す。
「《反魔術》というのは、どれだけ高精度のものでも、完全に魔術を封じることはできないんです。それをしてしまうと、《反魔術》自体の術式が破綻してしまいますから。普段より集中力は必要になりますが、落ち着いて術式を練れば、魔術を使うことは不可能ではないんですよ」
「ええ、そうね」
セシリアの講義に、チェルシーは相槌を打つ。
そのことはチェルシーも知っていた。
しかし、それを分かっていたとしても、そう簡単に出来ることではない。
現に、チェルシーは治癒術を行使することが出来ず、一度身体強化を使用したロイも、術式の構成には苦労しており、また、その効果も、数秒しか維持することが出来ずにいた。
だから、セシリアが普段と変わらない速度で、術式を構成したのには、何か秘密があるのだ、と睨んでいたのだが。
「……えっと、それだけ、です」
少し間を開けて、セシリアが戸惑った表情でそう言う。どうやら、彼女にとっては、先ほどの説明で終わりのつもりだったらしい。
「……え?」
再び間を開けて、今度はチェルシーが戸惑いの表情を見せる。
「じ、じゃあ、あなたはこのノイズの中で、瞬時に術式を編んでいた、って言うの!?」
「は、はい、そう、ですね……」
驚愕の表情で、声を大にして、そう言ったチェルシーに、目をぱちくりと瞬かせて、セシリアは返答する。まるで、何でもないことのように言う彼女に、チェルシーは感心を通り越して、呆れるような心持ちがした。
正直に言えば、チェルシーは自分の術式構成力には、それなりに自信があった。
たとえ固有魔術師とは言え、こと治癒術に関して言えば、通常の魔術師よりも速く、正確に術式を構成できる自信があったのだ。
その自分が、メロディのことで動揺していたとは言え、あんなに構成に苦労していたというのに、セシリアは瞬時にそれを補足し、治癒術を完成させてしまった。
「あはは……」
天才と呼ばれる少女との実力差を見せつけられ、チェルシーは苦笑を漏らした。
「…………」
ふと、チェルシーはロイの方に目をやる。
ロイは未だに、剣を抜いたまま、無言で虚空を睨み付けていた。
「ロイ?」
「…………」
不思議に思って、チェルシーが呼び掛けてみても、ロイはじっと虚空を睨み付けたまま、彼女の方には目もくれない。
(まだ、何かあるの?)
未だ張り詰めた空気を醸し出すロイに、チェルシーは不安を覚え、その横顔をじっと見つめる。
「……ふぅ――」
チェルシーの訴えるような視線に答えるように、ロイが深く息を吐いた。
それから、剣を掲げて刃に魔力を込める。
ロイが集中していたのは、魔術の術式を構成していたからだった。
剣を媒体として、術式を展開、魔術を発動させる。
「――――っ!」
ロイが剣を振り下ろし、魔術を放った。
バキンッ!
何かが壊れるような音が、辺りに響いた。
いや、「音」ではない。最初、《反魔術》が発動したときと似たように、チェルシーの感覚に働きかけた。
それと同時に、自分の感覚が、クリアになったように感じる。
目に映る景色や音を、鮮明に感じるようになったような、呼吸も少し楽になったような気がする。
「もしかして、《反魔術》を切ったの?」
チェルシーは、軽く魔力を動かして、自身の術式構成力が戻っていることを確認すると、ロイにそう尋ねる。
おそらく、先程何か集中していたのは、《魔術切断》のための構成していたのだろう。《反魔術》のノイズの中で、高位の魔術を使うとなると、膨大な集中力が必要となる。
「ん? ああ、こんなに大規模な魔術、さすがに骨が折れたけどな」
ドサッ、と尻餅をついて、ロイがその場に座り込む。
元々、魔力量はあまり多くないらしいが、今の《魔術切断》で、大きく魔力を消耗したようだ。額は汗ばみ、息も荒くなっている。
「大丈夫?」
チェルシーが座り込むロイの額に右手をかざし、術式を展開、治癒術を発動する。《反魔術》の無くなった今では、すんなりと術式を編むことができた。
しかし、治癒術を受けるロイは、フイッ、と顔を背けて、それを拒絶する。
「俺はいい。お前の魔力は、メロディに回してやれ」
「メルならもう大丈夫よ。あなたも怪我をしてるんだから、大人しく治療されてなさい」
窘めるような口調で、チェルシーに言われ、ロイは観念して治癒術を受ける。
見る見るうちに、ロイの額から汗が引き、呼吸もゆっくりになる。また、ハーミットにつけられた頬の傷や、その他の細かい傷も全て消えてしまう。
「すまない」
自分の怪我が治ったことを確認して、ロイがそう言う。その言葉に、チェルシーがムッと唇を尖らせた。
「私の為に戦ってくれたんだもの、これくらい、何てことないわよ。謝るなら、私の方だわ。私のせいで、みんなが……」
そう言って、チェルシーはメロディの頭を撫でる。
ロイが《反魔術》を《切断》したおかげで、彼女の頭上には猫耳が生え、腰の辺りからふわりとしたしっぽが生えている。
今は穏やかな表情で眠るメロディは、くすぐったいのか、「んん」と短く声を漏らした。
自分のせいで、友達に怪我をさせてしまった。メロディに至っては、危うく命まで亡くしてしまうところだった。
そう思うと、自分のことが疎ましくて仕方がない。
「お前が悪いことなんて、何もないだろ」
暗い顔をしていたチェルシーに、ロイが声をかける。
「そうですよ」
と、セシリアもその後に続いた。
「自分が居なくなって喜ぶ人の言葉に、惑わされてはいけません。そんなことよりも、チェルシーさんを命掛けで守った、メロディさんの言葉を、聞いてあげて下さい」
セシリアに言われて、チェルシーは再びメロディの方に視線を移す。未だ眠ったままの彼女は、何も言いはしない。
その寝顔に答えを求めて、じっと見つめるチェルシーに、ロイが声をかけた。
「まあ、多分こう言うんじゃないか」
ロイは一度咳払いをして、言葉を続けた。
「友達だから」
ロイの言葉に、チェルシーは目を見開いた。
それは、先ほど王位継承の件で悩んでいたチェルシーに、メロディが言った言葉と同じだった。
そして、もともとはチェルシーの方から、言い出したことでもある。
一緒にいたら迷惑をかけると言ったメロディに、チェルシーは友達になれと言ったのだ。
あの時と今とでは、状況はまるで違う。しかし、あの時の自分と、今のメロディは、きっと同じ気持ちだったに違いない。
逆の立場だったら、チェルシーもきっとそうしたはずだ。
チェルシーの瞳が潤み、大粒の涙を流した。
「ごめんね」
縋り付くように、メロディの身体を抱き抱え、チェルシーがそう言った。
ロイとセシリアはその姿を静かに見守る。静寂の中に、チェルシーのすすり泣く声だけが響き渡った。
「ぅ、んん、チェリちゃん? 泣いてるの?」
チェルシーの泣き声に気付いて、メロディがゆっくりと両目を開けた。
「メル! 大丈夫!?」
目を覚ましたメロディに、チェルシーが声をかける。
「う、うん、チェリちゃんのおかげ……、ずっと、魔力を感じてたよ……」
??まだ、朧気な意識を保って、メロディが答える。
その声を聞いて、チェルシーの中に込み上げてくるものを感じる。それを抑え付けるように、チェルシーはメロディの胸に顔を埋める。
しかし、抑え切れない思いが、彼女の喉を突いて溢れてくる。
「よかった、よかった……」
涙を流しながら、チェルシーは何度も何度もそう繰り返す。
「え、あれ?」
チェルシーの様子に、メロディは両目を見開いて、戸惑いの表情を見せた。
キョロキョロとロイとセシリアの顔を伺う。
しかし、セシリアは、メロディと同じように戸惑った表情をしているし、ロイは視線を反らし、ムスッ、とした表情で大きくため息を吐く。
2人が当てに出来ないと悟って、メロディは少し考えるような表情をして、口を開いた。
「あー、えっと、チェリちゃん?」
メロディがチェルシーの頭を撫でるように手を当てる。
チェルシーが顔を上げると、メロディは続ける。
「えっとね、その、気にしなくて、いいんだよ」
「気にするわよ! 馬鹿! 私のせいで、こんな大怪我して!」
メロディの言葉に、チェルシーは感情を露にして、言葉を返す。
「そんな、チェリちゃんが悪いことなんて、何もないよ。あたしが、あれが銃だって、早く気付いてればよかったんだし、っていうか、ほんとに悪いのはあの人たちでしょ」
ロイやセシリアと同じように、メロディはチェルシーのことを責めはしなかった。当然と言えば当然のことだが、それでも、チェルシーの自責の念は消えなかった。
「それに、ほら、怪我だったら、チェリちゃんが綺麗に治してくれたでしょ? だから、大丈夫だよ」
チェルシーを慰めようと、メロディはそう付け加える。しかし、それがかえってよくなかった。
「それだって、セシリアが来てくれなかったら、危ないところだったのよ! 私の治癒術は万能じゃないし、死んでしまったら、もうおしまいなんだから!」
チェルシーの両目から、止まることなく、涙が溢れてくる。
その様子を見て、メロディははっとする。
同時に、ロイとセシリアも気付いた。
チェルシーは、何よりも、友達を亡くしてしまうことが、耐えられなかったのだ。
人より治癒術に長けている彼女は、人一倍、他人の命を大事に思っているのだ。
「私のために、無茶なことしないで……」
「えっと、ごめん……」
涙を流してそう言うチェルシーに、気まずそうにメロディが謝る。
チェルシーは何も言いはしなかったが、コクリと頷いて、涙をぬぐった。それから、大きく深呼吸をして、「けど」、と続けた。
「けど、助けてくれて、ありがとう」
チェルシーの言葉に、メロディが表情を明るくする。
「うん。あたしも、ありがと」
えへへ、と笑顔を見せて、メロディが答える。それにつられて、チェルシーも笑顔になる。
そして、チェルシーはロイとセシリアの方に顔を向け、口を開く。
「ロイも、セシリアも、ありがとう。おかげで助かったわ」
微笑を浮かべて、チェルシーが礼を言う。
「いえ、そんな」と、セシリアは両手を振って謙遜を口にし、ロイはそっぽを向いて、「別にいい」と答えた。
2人とも、素直に受け取ればいいのに、やはり、兄妹と言うべきか、変なところで似ている。
そう思って、チェルシーはクスクスと笑った。
同じように思ったのか、メロディもつられてクスクスと笑う。
兄妹はなぜ2人が笑っているのか、わからないような顔をしていたが、2人して、別にいいか、という風に、小さく息を吐いた。
「姫様!」
そこに、大声でチェルシーのことを呼ぶ者があった。
聞き覚えのある声に振り向くと、衛兵の格好をした男、ヴィートリヒが3人の部下を連れて、こちらに向かって来ていた。
「姫様、ご無事でしたか」
ヴィートリヒはチェルシーたちに近付くと、再びそう呼び掛けた。
「ええ、みんなのおかげで何とか。状況はどうなっているの?」
「はっ! 爆発の影響で、怪我を負った者が数名おりますが、いずれも命に別状はなし。ここにいる者たちを残して、避難は完了しております。学園全体に《反魔術》が張られておりましたが、つい先ほど、そちらも解除されました。おそらく、魔導具に蓄えられていた魔力が尽きたのかと」
チェルシーの質問に、ヴィートリヒが淡々とした口調で答える。
「《反魔術》を解除したのはロイよ。彼の《切断》の魔術で、術式を切断したの」
「なんと! 彼が!?」
チェルシーが捕捉すると、ヴィートリヒが驚愕の表情を見せる。
信じられない、という表情で、ヴィートリヒは、視線をロイに移す。ロイは怪訝そうに顔をしかめると、ふいっ、と顔を反らした。
微妙な空気を醸し出す2人に、チェルシーは溜め息を吐く。
しかし、今はそれよりも報告するべきことがある。
「襲撃者は2人、魔王信者よ。目的は私の暗殺。1人は無力化して、そこに拘束してあるけれど、もう1人には逃げられたわ。けど、そう遠くには行ってないはず。急ぎ、警戒網を敷きなさい」
「はっ!」
チェルシーの指示に、ヴィートリヒと部下3人が敬礼をする。
それから、ヴィートリヒは部下たちに指示を出す。1人は踵を返して、廊下を駆け出す。残る襲撃者捜索のため、衛兵の詰所へと向かったのだ。
もう1人の部下は、倒れている襲撃者、ハンガーに手枷を嵌めると、半ば強引に立たせ、連行する。
その時だった。
ドオオォォーーン!
学園中に轟音が鳴り響く。
初め、講堂が爆破されたのを想起させる爆音。しかし、その時よりも音は大きく、大地を揺らしていた。
その場にいた者達はバランスを崩し、立っているのもやっとな程の振動だった。
窓から様子を伺おうとしても、土煙が上がって、まともに臨むことは出来はしなかった。
いや、その土煙の中で、何か蠢くものがあるのを、その場の全員が見ていた。
ソレは、チェルシーの姿を見つけると、一直線に、彼女目掛けて飛び込んで来た。
鋭い牙を剥き出しにし、窓を破壊して、ソレはチェルシーに喰らい付く。
「クインティプルエンハンス!」
ロイは魔力を身に纏い、その攻撃を受け止めた。
土煙の中から飛び出したソレは、巨大な蛇の首だった。
人1人くらいは、容易に呑み込めようかという程の大蛇の鼻先に、ロイは剣を叩きつけて、受け止めていた。
しかし、それで終わりではなかった。
別の窓を突き破り、新たな大蛇の首が飛び込んでくる。
「クッ――」
目の前の大蛇を抑えるのに手一杯で、ロイはもう一体の大蛇まで手が回らない。
「ノエル!」
歯噛みするロイを横目に、セシリアがノエルに指示を出す。
セシリアの指示を受けた精霊は、結界を展開し、大蛇の牙を阻んだ。
結界に歯が立たず、大蛇が一瞬怯んだところに、セシリアは術式を展開する。
「フレイム・バースト!」
爆炎が2体の大蛇を飲み込む。
大蛇は咆哮を上げ、炎を振り払うように暴れ回りながら、首を窓の外に引っ込めた。
と、大蛇が首を振るのに合わせて、外で上がっていた土煙が晴れ、大蛇の全身が露になる。
まず驚いたのは、大蛇の数だった。
窓の外では、さらに7体の大蛇が控え、こちらの様子を伺っていた。
いや、そうではない。
全9体の大蛇は、全て1つの胴体から枝分かれした形で生えていたのだ。
全長20メートル以上はある、多頭の大蛇だった。
「クックッ」と、拘束されているハンガーが、笑い声を漏らした。
「旦那め、やりやがった」
そう呟いて、ハンガーがほくそ笑む。そして全員の視線が集まると、ニヤニヤしながら、口を開く。
「本当なら、お姫様1人殺すだけでよかったんだけど、あれが出たからにはそうはいかない。この町全部壊したって止まらない。なんせ、神話の時代の魔獣、不死身の化け物だからね」
そう言って、ハンガーはまた、「クックッ」と笑みをこぼした。
ヒュドラ。物語の世界でしか見たことはないが、あの大蛇の姿はまさしくそれだった。
なぜそんな怪物が、という疑問はあるが、ハンガーの口振りからすると、逃がしたもう1人の襲撃者、ハーミットが、あれを呼び出したらしい。
ジャアァァァ――!
と、ヒュドラの全ての首が、咆哮を上げ、こちらを威嚇する。そして、次の瞬間には、一斉に首を伸ばして、飛び掛かってきた。
しかし、ノエルが前に出て結界を展開、ヒュドラの牙を防ぐ。
だが、それも長くはもちそうにない。ヒュドラの膂力が、結界の耐久力を越えているのだ。
「セシル!」
「はい!」
ロイの指示に、セシリアが答える。
先程と同じように、術式を展開し、ヒュドラに爆炎をお見舞いする。
しかし、威力はこれまでのものより高く、爆炎はヒュドラの全身を飲み込んだ。
ジャアァァァ――!
ヒュドラは咆哮を上げ、全身をのた打つように暴れ回る。
しかし、炎はヒュドラを焼き尽くすまでには至らない。
燃えたそばから再生を始め、自らの肉で、徐々に炎を埋めていく。伝説では不死身と言われるヒュドラだが、その伝説も伊達ではないということだ。
「――――ッ!」
セシリアも負けじと炎の勢いを強めるが、その分、魔力の消耗も大きくなる。
セシリアの魔力量は、平均よりも多い方だが、それでも、あの怪物を焼き尽くすことは不可能に思えた。
「チッ」
ロイは舌打ちをすると、セシリアの体を抱き抱える。
「ちょっ、え? 兄さん?」
慌てた表情でセシリアが声を上げた。
「お前は魔術の維持に集中してろ。逃げるぞ」
「は、はい!」
ロイに言われて、セシリアはぎゅっと目を瞑る。それを確認して、ロイは全員の顔を見回した。
ロイの提案に異論を唱えるものはなく、皆黙って頷いた。
ヴィートリヒの部下2人が、それぞれ、メロディとハンガーを担ぐ。それを確認して、ヴィートリヒが指示を出した。
「こっちだ」
ヴィートリヒが先導して、廊下を駆け出す。他の皆もそれに続いて、撤退を始めた。
炎に包まれた大蛇の荒々しい咆哮が、皆の背後から響いていた。