第1話
穏やかな昼下がり、走る機関車の客室で、ロイは目を覚ます。
「んあ?」
琥珀色のボサボサの髪を手櫛でとかし、髪と同じ色の瞳をこする。
カーテンの隙間から差し込む光に、眩しさを覚えつつも、体を起こし、カーテンを開けて、外の景色を眺める。
窓の外では、羊が野に放たれ、草を食んでいるのが見える。その隣では、柵を隔てて、麦畑が広がっている。穂が重くなってきているあたり、そろそろ収穫の時期か。
視線を列車の進行方向に移すと、微かに、石造りの城壁と、そこにそびえる王城を見ることができる。
魔術大国ゲイルガルドの王都ベルシールだ。
彼の故郷ライネスから、機関車に揺られること約2時間、ようやく目的地が見えてきた。
「あ、お目覚めですか、兄さん」
ガラリ、と客室の扉が開き、中に入ってきた少女が、そう声をかけてくる。
炎のように鮮やかな赤髪を短く切り揃えた、翡翠色の瞳の少女。身長は150センチ後半くらい。同世代の女子の平均より、やや小柄な彼女は、ロイの妹ということになっている。
名前はセシリア。
「もうすぐ王都に着きますよ。忘れ物、しないようにして下さいね」
「ああ」
セシリアの言葉に、ロイは相槌を打つ。
立ち上がると、ロイの方が頭1つ分、身長が高く、セシリアからは見上げる形になった。
荷物、と言っても、ほとんどはトランクに入れたままだった。
ボトルに入れていたコーヒーを一口飲んでから、トランクの中に乱雑に放り込み、壁に掛けていた革のジャケットに袖を通して、その内ポケットに財布を入れる。
最後に、トランクの近くに立て掛けてあった、一振りの剣を手に取る。
黒い鞘に納められた、刃渡り80センチ程のサーベル。柄の先に埋め込まれた、赤い宝石が特徴的な剣。それをベルトに装着して、ロイの支度は完了した。
「その剣、どこかで見たと思ってたんですけど、お婆様の《宝物庫》にあったものですよね?」
黒いロングコートを身に纏い、セシリアがそう聞く。
「ああ、餞別に、ってくれた。俺用に術式も施してあるらしい」
「そうですか、お婆様が。それは心強いですね」
2人の祖母は、世間的にも名の知れた魔術師だ。かつては《災厄の魔女》と畏れられたこともあるという。
そんな魔術師が術式を施した魔具ならば、効果は折り紙つきという訳だ。
「もっとも、俺の魔力は特殊だから、構成の補助くらいしか出来ないらしいけどな」
「そうですか……」
ロイの言葉に、セシリアは残念そうな顔を見せる。
「まあ、無いよりましさ」
自分のことで彼女にそんな顔をさせるのが、どうにも耐えられなくて、ロイはそう付け加えるが、それでセシリアの表情が明るくなることはなかった。
どうしたものかと思っていると、不意に列車内に放送がかかった。
《ベルシール、ベルシール。お降りの方は、お忘れ物の無いよう、お気をつけ下さい――》
それと同時に、機関車がスピードを落とし、ゆっくりと停車する。
どうやら、駅に着いたらしい。
「ん、ん~~」
駅を出ると、ロイは大きく伸びをした。
列車の中という、閉鎖的な空間に2時間もいたからか、何とも言えぬ解放感がある。
駅から正面に見える王城は、こうして城下町まで入って見ると、遠くから見ていたときよりもかなり大きく感じる。
「えっと、こっちですね」
セシリアが地図を広げ、城へと続く大通りを先導する。
「まずは学園で手続きをして、それから寮へ行きましょう」
学園、というのが、2人がこの街に来た理由だった。
王立ベルシール魔術学園。ゲイルガルドに数ある魔術学校の中で、最高峰の学校だ。
講師も設備も選りすぐりのものが集められ、ここ以上の研究施設は、国内で、いや、国外でもここ以上のものはないと言われている。
当然、入学するのにも、厳しい試験をクリアしなければならないが、ロイとセシリアは今学期からの入学が決まっている。
ついでに言えば、入試をトップで通過したセシリアは、明日の入学式で挨拶をすることになっていた。
「お、セシル、スコーンを売ってるぞ。好きだろ?」
通りに出ていた出店を指して、ロイがそう言う。
それを聞いて、セシリアがムッとした表情で彼を睨み付けた。
「もう、兄さん。昔のことをいつまで言ってるんですか! まあ、今でも好きですけど……」
最後の方はモゴモゴと口ごもるように彼女は言ったが、ロイは聞き逃さなかった。
彼は小さく肩をすくめると、出店に近付きスコーンを2つ買う。
「一緒に食おうぜ。実はさっきから腹が減ってさ」
ロイがそう言うと、セシリアは顔をしかめていたが、スコーンの甘い匂いに耐えられなくなったのか。
「仕方ないですね」
と、言葉とは裏腹に、顔を綻ばせて、セシリアはスコーンを受け取る。
このところ、式で大役を任された責任からか、セシリアは少し緊張していたように見えたのだが、それを少しは解せただろうか。
「美味しいですね。生クリームがあれば、もっと素敵だったんですけど」
スコーンを頬張りながら、セシリアがそう言う。
上機嫌なようで何よりだった。
「そうだな」
と、ロイもスコーンをかじって、そう答える。
確かに、甘くて美味い。が、生クリームまで付けてしまうと、甘過ぎるように、ロイには思えた。
そのまま、道なりに歩いていくと、城門が見えてくる。
学園へ行くには、城門の手前で右に曲がり、城壁沿いに真っ直ぐ行った先にあるのだが、その曲がり角で事件は起きた。
何者かが、その曲がり角から飛び出して来て、先導していたセシリアと勢いよくぶつかったのだ。
「おっと」
後ろに倒れそうになったセシリアを、ロイが慌てて抱き抱える。
「大丈夫か?」
腕の中にすっぽりと収まるセシリアに、ロイが声を掛ける。
セシリアは少しの間、驚いた表情でロイの顔を見て、それからすぐに顔を反らした。
「へ、平気です!」
そう言って、ロイの体をはね除けるようにして、彼女は自分の体を起こす。
強くぶつかった顔を押さえながら、セシリアは自分の体に異常が無いことを確認すると、飛び出してきた相手の方を見た。
ロイもそちらを見ると、相手の方も女性だった。
鍔の広い帽子を目深に被った、腰まである長いブロンドの女性だ。
「痛た。ごめんなさい、大丈夫だった?」
尻餅をついていた女は、立ち上がると、こちらの安否を確認する。
「ええ、まあ、平気です」
と、そう答えながら、セシリアは女の顔をまじまじと見る。
サファイアのような深い青色の瞳をした、端正な顔立ちをした少女だ。背はセシリアよりも少し高いが、歳は2人と変わらないように見える。
しかし、その少女のことをどこかで見たような気が、ロイにはしていた。
はっきりとは思い出せないので、少なくとも、自分の知り合いではないと、ロイはセシリアの方を見る。
するとセシリアは、何か思い当たることがあったのか、ハッとして口を開いた。
「あの、もしかして――」
「あ、あああああああ!」
と、セシリアが何か言い出す前に、少女が大声を上げる。
それから、少女はハッとして、自分が走ってきた方、そして、城門の方を確認する。
城門では、少女の声に気付いた門番が、何事かとこちらの様子を伺っていたが、それだけで特に動きはない。
「来て」
と、少女がセシリアの手を取り、ロイたちが来た方へ、足早に歩き出す。
「ちょっ、え? えええ?」
セシリアは戸惑いを隠せず、助けを求めるような目でロイのことを見る。
その様子を呆然と見ていたロイだったが、2人が近くの路地に入り込んだところで我に返り、仕方なく後を追った。
住宅街の中を少女は駆け抜ける。必然的に、彼女に手を引かれるセシリアも、同じように走ることになる。
少女はときどき路地を曲がり、王城から遠ざかるように歩を進める。
「あの、どこまで行くんですか?」
「…………」
セシリアが訪ねてみても、少女は答えはしない。
土地勘のないセシリアには、知らないところに連れて行かれるのは不安ではあったが、少女からは悪意を感じないこと、また、兄も後から追いかけて来ていることから、それほど怖くはなかった。
やがて人気のないところまで来ると、少女はピタリと足を止めた。それに伴い、セシリアも足を止める。ロイもすぐに追い付いて来た。
「遅いです」と、ロイに文句を言いたいのをこらえて、セシリアは少女の様子を伺う。
すると、少女はくるりと振り返って、セシリアに詰め寄る。
「あなた、セシリア・ウィールクスね。最年少で超1級魔術師の資格を取った、天才少女。《緋緋色の魔女》! 《災厄の魔女》エリザベス・ウィールクス様の孫娘!」
「え? ええ、そうですが……」
キラキラとした瞳で、少女は畳み掛けるようにそう言う。
その圧力の強さに気圧されて、セシリアはただ肯定するだけしか出来なかった。
ゲイルガルド魔術師協会が制定する、魔術師の等級制度で、超1級魔術師は、その最上位の等級である。
セシリアは去年、《火》属性の最上位とされる魔術、《インフェルノ》を修得し、他の属性でも、高位の魔術を使いこなす力量から、わずか15歳の若さで、超1級魔術師の資格を修得することとなった。
24歳という、それまでの最年少記録を、大きく塗り替えることとなり、その功績は、国中で話題を呼んだ。
《緋色の魔女》というのは、彼女の赤い髪と、その祖母の二つ名に因んで付けられた呼び名である。
もっとも、当の本人は、恥ずかしいから、とその名で呼ばれることは、あまり好まないようだが。
「この間の新聞、読んだわ。カーバンクルの顕現に、成功したんですって?」
「え? ええ。魔石の研究の過程で、たまたま……」
「ああ、素晴らしいことだわ。精霊カーバンクルから、魔石を授かることだけでも、これ以上ない誉れだと言うのに、その顕現まで果たしてしまうだなんて」
カーバンクルは、ウサギのように長く大きな耳と、キツネのように毛のふさふさした大きな尾が特徴の、ネコのような胴体をした精霊だ。
額に、ルビーのような赤い魔石を持っており、それを手に入れたものは、富と名声を得ると言われている。
「いえ、昔、怪我をしたカーバンクルを保護していたのですが、力及ばず、死なせてしまったんです。そのとき残った魔石を、お婆様が持っていろと仰って」
「そうだったのね。エリザベス様は、あなたなら顕現できると?」
「どうでしょうか? 私も、なぜ顕現できたのか、分かっていないんです。魔石は、高密度の魔力結晶で、何か術式が施してある訳じゃありませんでした。ただ、お婆様は、その魔力自体がカーバンクルを表している、と」
「それって、彼らにとって、魔石は核に当たるということかしら?」
「恐らく、そうだと思います。彼らにとっての死は、私たちのそれとは違って、深い眠りのようなものかと。一定量の魔力が集まれば、再び目を覚ますのだと思います」
「じゃあ、魔石を分けることで、彼らは個体を増やしているのね」
「ええ、ちゃんとした環境で、魔力を蓄えることが出来れば、顕現は可能だと思います」
女子二人は何やら難しい話で盛り上がる。
セシリアは、魔術のことになると、少し没頭し過ぎるきらいがあるのだが、相手の少女の方も、同じように夢中になって話合っていた。
ロイからしてみれば、話についていけないところも多々あったが、まあ、妹が楽しそうにしているのであれば、別にいいか、と思っていた。
と、そのときだった。
ふと、ロイの視界の端に、キラキラと光るものが見えたかと思うと、次の瞬間、いくつもの光弾が、頭上から3人を目掛けて、猛スピードで飛んで来た。
「セシル!!」
いち早くそれに気付いたロイが叫ぶのと同時、すぐに状況を把握したセシリアが動いた。
少女を庇うように光弾の前に出ると、右手を突き出し、術式を展開する。そうすると、その手の先に赤く輝く、光の盾が現れた。
光弾は盾に弾かれ飛散するが、盾の範囲から外れたものが、周囲の壁や道を抉る。同時に、爆音が鳴り響き、土煙が巻き上がった。
煙で視界が悪い中、光弾の飛んで来たのとは反対方向から、真っ直ぐに煙の中を駆ける人影があった。
人影は少女目掛けて駆け寄ると、持っていたナイフをその首筋目掛けて振り下ろした。
ガキンッ!
咄嗟にロイが間に入り、サーベルを抜いてナイフを弾く。
攻撃を仕掛けてきた男――覆面で顔は隠していたが、がっしりとした体格からそう判断した――が体勢を崩したところに、ロイが追撃するが、その剣撃を、男はヒラリと身を翻してかわし、隙あらばこちらに攻撃を加えてくる。
ロイの方も、男の攻撃を防ぎつつ反撃するが、またしてもことごとくかわされてしまう。どうやら、2人の技量に、大きな差はないらしい。
「兄さん、下がって下さい!」
セシリアの合図でロイが一瞬、追撃をやめる。
そこに間髪入れず、セシリアが術式を展開、男に向けて炎弾を連射した。
男はその炎弾すらも全てかわすが、最後の炎弾をかわしたところに、ロイが剣を打ち込んだ。
タイミングは完璧だったが、男は強引に体を捻り、紙一重でその剣をかわす。
しかし、ロイの剣はかろうじて男の覆面を引っ掛け、男はその素顔を露にした。
深い紺色の髪と瞳をした、壮年の男だった。
男が大きく距離を取ると、じっとロイと睨み合い、互いに出方を伺う。
そのときだった。
「貴様ら、そこで何をしている!?」
突然、男の背後でそう声を上げて、憲兵が3人、路地に乗り込んできた。
どうやら、最初の光弾による爆発に気付いて、駆け付けたらしい。
それに気付いた男は、ロイから大きく距離を取り、建物の壁を蹴って、路地から脱出を図る。
「くそっ、逃がすか!」
「動くな!」
後を追おうとするロイを、憲兵の中のリーダーらしき男が制止した。高圧的な態度に、少し不服そうにしながらも、ロイはその指示に従う。
「逃げた男を追え」
彼が大人しく、剣を鞘に納めるところを見届けて、男が他の憲兵たちに指示を出した。
その指示通りに、部下たちが動き出したところで、男はロイたち3人の方を見る。
「君たちには詰所の方で話を聞かせて貰――!」
と、言いながら、ロイ、セシリア、少女の順に顔を見回すと、男が大きく目を見開いて、言葉を詰まらせた。
「姫様!! なぜこのようなところに!? 供の者も付けず!」
彼が動揺を隠そうともせず、少女にそう言ったのに合わせて、ロイとセシリアの2人も、目を見開いて少女の方を見る。
少女は、両手で帽子の鍔を引っ張り、顔を背けるが、最早手遅れだった。
最初から、少女のことをどこかで見たことがあるような気がしていたが、今ようやくそのことが、2人の中で繋がった。
ゲイルガルド第4王女、チェルシー・ウィルド・アルクノアだ。
普段は公の場に姿を見せることは少ないが、ロイもセシリアも、その姿は度々新聞で目にしていた。
そんな人物が、本当になぜこんなところにいるのか。
「貴様ら、よもや姫様の誘拐を企てていたのではあるまいな?」
と、疑いの目でロイのことを睨み付け、男がそう言う。
「はあ?」
在らぬ疑いをかけられたロイは、男を睨み返して言った。
「彼女とはさっきたまたま会っただけだ。それに、どう見てもそんな状況じゃなかっただろうが」
「ふん、どうだかな。なぜ姫様が城の外にいるのかは別としても、近付いたのは金品が目的だったのではないか? さっきの輩も、それを横取りしようとしたのかもしれん」
「やめなさい、ヴィートリヒ」
一歩も譲ろうとしない男――ヴィートリヒというらしい――にチェルシーがピシャリと言い放つ。
「私がここにいることと、この2人は関係ないわ。それどころか、彼らは私の命の恩人よ。無礼な物言いはおよしなさい」
「しかし、いえ、承知しました」
チェルシーの言葉に、なおも反論しようとするヴィートリヒだったが、彼女の命令に従った。
「ごめんなさい、セシリア。もっとお話ししたかったのだけど、ここまでのようだわ」
「い、いえ、私の方こそ、王女殿下と魔術の話を出来るなんて、とても有意義なお時間でした」
チェルシーの言葉に、セシリアが申し訳なさそうにそう言って頭を下げる。
その姿に、チェルシーは少し寂しそうな顔をする。
「セシリア。あなた、この街に来たのは、もしかして、魔術学園に入学を?」
「え? ええ、そうですが」
それを聞いてチェルシーは、今度はパッと顔を明るくする。
「だったら、同じ学徒として、もう堅苦しいのは無しにしましょう。呼び方もチェルシーで構わないわ」
「え? え? は、はい」
チェルシーの言葉に戸惑いつつも、セシリアは相槌を打つ。それを見てチェルシーは微笑みを返した。
それから、彼女はロイの方に目を向け、口を開く。
「あなたも、さっきはありがとう。『兄さん』って呼ばれてたけど、セシリアのお兄さん?」
「ああ、まあ、一応、そういうことになってる、なってます」
「名前を聞いてもいいかしら?」
「ロイ、です」
王女を目の前にして、ぎこちない話し方になるロイに、チェルシーが笑って言う。
「ふふっ、あなたも普通にしてていいわよ。さっきの剣技、とても美しかったわ。ロイも学園に?」
「ん、あ、ああ」
「そう。じゃあ、2人とも、明日から楽しみにしているわ」
そう言って、チェルシーはその場を後にする。ヴィートリヒもそれに続くが、そのときに一度、ロイのことを睨み付けていく。
どうやら、あまり良くは思われてはいないようだ。
2人が王城へ戻るのを見送り、残されたロイとセシリアは、互いに顔を見合わせた。
「同じ学徒……」
「明日から楽しみに……」
と、チェルシーに言われた言葉を、2人して反芻する。
「兄さん、それって……」
セシリアが目を瞬かせて、そう言った。
「ああ、多分、そういうことなんだろ……」
2人の、いや、3人の学園生活は、おそらく、波乱を呼ぶような気がする。
コンコン――
翌日、見慣れない部屋でロイは目を覚ました。
「んあ?」
体を起こすと、徐々に意識がはっきりとしてくる。自分が今いるのが、学生寮だということをロイは思い出した。
コンコン――
と、そこでドアを叩く音に気付く。
「兄さん、起きてますか?」
ドアの向こう側から、ロイのことを呼ぶ声がする。セシリアの声だ。
寝惚け眼を擦りながら、ロイがドアを開けると、すぐそこに、心配そうに立っている妹の姿があった。
昨日とは違い、膝丈の黒いフレアスカートと、外套を模した同じく黒いジャケットを身に纏っている。
ベルシール魔術学園の制服だ。
「よう」
「よう、じゃないです。遅刻しますよ」
ロイが声を掛けると、セシリアはジト目で彼に文句を言う。
「兄さんがいつまで経っても来ないので、迎えに来たんです」
セシリアにそう言われて、ロイは思い出す。
昨日の夜、朝に食堂で待ち合わせをしていたのだった。
「悪い、すぐに支度する」
「はい。待ってます」
そう言って、ロイは部屋の扉を閉めようとして、止める。
「中で待ってろよ」
大事な妹を、廊下で待たせておく訳にはいかない。
「え? あっ、はい」
ロイの言葉に、セシリアは少し緊張した面持ちで、彼の後に続く。
部屋の間取りは、セシリアのものと変わらない筈だが、彼女はキョロキョロとその部屋を見渡す。まだ荷ほどきもろくにやってないので、何か気になるものがあるとは思えないが。
「ひゃっ! ちょっと、兄さん、何してるんですか!?」
と、部屋を見渡していた彼女が、急に大声を上げた。
彼女の目の前で、ロイがシャツを脱ぎ出したのだ。
細身だが、無駄な肉などない引き締まった身体。上半身だけとは言え、セシリアには刺激が強すぎたようだ。
「何って、シャワーを浴びるんだよ」
「それなら、脱衣場で脱いで下さい! 叔父様も叔母様もいないからって、気を抜き過ぎです!」
「へいへい」
手で顔を隠しながら、セシリアが大声でそう言い、ロイが脱ぎ捨てたシャツを、彼に向かって投げつける。
ロイはそのシャツを片手で受け取り、脱衣場に向かった。
「だいたい、兄さんはずぼら過ぎるんです。屋敷にいたときから、私が起こさなきゃ、昼まで寝てることもありますし、部屋の掃除も執事たちに任せきりにして。勉強だって、自分の関心のないことには見向きもしない。魔術というのは学問なんです。日々の研究の積み重ねが物を言うんですから、どんな知識も身に付けておいて損はありませんよ。仮にもウィールクス家の次期当主になるんですから、もっとしっかりして下さい」
と、あの後、ロイはセシリアから小言を言われ続けた。
自室で支度をしているときも、食堂で朝食をとっているときも、学園への道中でもだ。
しかし、ロイは生返事を繰り返して、その言葉を聞き流していた。
セシリアには、同じようなことをもう何度も言われつづけてきた。
別に、兄妹の仲が悪い訳ではない。むしろ良好なくらいなのだが、どうもセシリアは、ロイに対する当たりが厳しい。というより、妥協を許してくれないのだ。
もっとも、その原因は彼のだらしなさにあるのだが、そんなことは本人にも分かっているので、特に反論する気も起きなかった。
ようやく小言が治まったのは、入学式が始まってからだった。
入学式は、学園の中央にある講堂で行われた。
ざっと見渡してみたところでは、新入生の数は100人程度か。それが講堂に集まり、来た順番に、前から詰めて座席に案内される。
学園長や生徒会長らの小難しい話を聞き、セシリアも無事、挨拶を済ませた。
途中、余りの退屈さに、うとうととしていたロイのことを、セシリアが起こす、という場面も見られたが、特に問題はなく、入学式は終了した。
「じゃあ、俺はこっちだから」
と、講堂から出ると、ロイはセシリアにそう言う。
「あっ、はい。それでは、また後で。ノエルを使わせますね」
「ああ」とロイが答えると同時に、2人は別々の方向へ向かう。
この後、クラス別にオリエンテーションが行われる。
セシリアの「汎用魔術科Aクラス」は東棟。
ロイの「固有魔術科」は西棟だ。
西棟一階、B-103号室の扉を開く。ロイのクラスの集合場所とされていた教室だ。10人掛けの机が四列に並べられている。
彼が入ったときには、既に3人の生徒が、思い思いの席に座っていた。
男子生徒は2人。
1人は、目元を隠す程に長く伸びた黒髪の猫背の青年。根暗そうな雰囲気で、窓際最前列の席で本を読んでいる。
もう1人は、剣山のように逆立った短い金髪のがっしりとした体格の青年。中央最後列の席で、腕を組み、目を閉じて、考え事でもしているのか。一度目を開けて、赤い瞳でロイのことを見た後、すぐにまた目を閉じる。
残る1人の女子は、オレンジがかった長い癖毛で、頭の上に猫のような耳の生えた少女。猫背の彼の二つ後ろ、窓際の席で外を眺めていたが、ロイが入ってきたのに気付くと、チラリと銀の瞳で彼の方を見て、すぐにまた元の方に視線を戻した。
ロイは、入り口から近い後方の席に腰掛ける。
皆、入学初日ということで、抵抗があるのか、特に話し掛けるものはなく、沈黙が教室内を包み込んだ。
しかし、その沈黙も長くは続かなかった。
程なくして、ガラリと扉が開き、また1人の生徒が教室に入ってくる。
その生徒の姿を見て、ロイは、いや、その教室にいた誰もが、目を見張った。
腰まで伸びた長いブロンドと、サファイアのような青い瞳をした、端正な顔立ちの少女。
チェルシー・ウィルド・アルクノアだ。
「あら?」
チェルシーは、ロイの姿に気が付くと、駆け寄って来て、その隣の席に座った。
「ロイじゃない。あなたも同じクラスだったのね」
「あ、ああ」
親しげに接してくるチェルシーに、ロイは億劫そうに答える。
「何よ。せっかく知り合いに会えたんだから、もっと嬉しそうにしなさいよ」
と、チェルシーはニコニコしながら、そう言う。
実際に、知り合いに会えて喜んでいるのは、彼女の方らしい。
ロイは小さくため息を吐く。
「知り合いに会えたのは嬉しいが、あんた、いや、チェルシーは目立ち過ぎるんだ。ほら、見てみろよ」
と、ロイは周りの生徒たちを顎で指した。
猫背も、猫耳も、金髪も、こちらを、正確には彼女のことを見たまま、固まっていた。
しかし、チェルシーが彼らの方を伺うのと同時に、3人揃ってサッと目を反らす。しかし、やはり彼女が気になって仕方ないのだろう。その後もチラチラと彼女のことを伺っていた。
まあ、チェルシーのことが気になるのは仕方がない。
何と言っても、王国の第4王女なのだから。
そして、彼らの興味は、次第にロイの方にも及ぶ。
あの、王女殿下と親しげにしている男は、一体何者だろうか? と。
「俺は、面倒事は御免だ」
と、ロイはそう言って、そっぽを向く。
明確な拒絶の意思を見せる。
それが伝わったのか、伝わっていないのか、チェルシーは「あらそう」と、一言漏らし、何やら思案顔で、前の方を向いて座り直した。
丁度そのとき、再び、ガラリと扉が開いて、壮年の男性が入って来る。
髪は肩に掛かるくらいの長さで束ねた癖毛で、無精髭を生やし、くたびれた背広を身に纏った男。歳は30代後半くらいだろうか。
男は教壇に立つと、教室内をぐるりと見回すと、ゆっくりと口を開いた。
「うん。全員揃ってるね。僕がこのクラスの担任になる、ハロルド・ラグーンだ。よろしく」
ハロルドの口振りからすると、どうやら、このクラスの生徒はここにいる5人で全員らしい。しかし、そのことで誰も驚いた様子は見せなかった。
このクラスで扱う固有魔術は、適性のあるものが、そもそも少ないからだ。
魔術師が扱う魔力は、一人一人違う属性を持つ。
その適性によって、火、水、風、地、光、闇の6つに分類されるが、ごく稀に、そのどれにも属さない魔力を持つ者がいる。
そういう者を集めたのが、この固有魔術科だった。
「ようこそ、固有魔術科へ。君たちは、通常の魔術が使えないことを馬鹿にされたり、中には、その魔力自体を忌み嫌われた者もいるだろう」
通常、主要6属性の魔力は、綿密に結びついているため、それぞれ得意不得意はあっても、全く使えない、ということはほとんどない。
しかし、固有魔力の場合は、その結びつきが弱く、逆にほとんどの魔術を使うことができない。
そのことから、固有魔力保持者は、出来損ない扱いされることが多い。魔術師の家系なら尚更だ。家庭内ですら、肩身の狭い思いをすることも、少なくない。
ロイも、宮廷魔術師である父に、心ない言葉をぶつけられてきた。
「しかし、僕はこう考える。固有魔術こそ、魔術の未来の形だ、と」
ハロルドの演説は、徐々にその熱さを増していく。
「固有属性の魔力は、主要属性の魔力より、一歩二歩、あるいはそれ以上、先をいく魔力だという意見が、今、学会でも囁かれ始めている。
しかし、魔術は学問だ。長い長い研究の結果、現在の魔術体系がある。それに比べて、固有魔術はあまりに浅い。
理由は明白。同じ魔力を持つ者が、同じ時代に存在することがほとんどないからだ。その魔術を極めた者がいたとして、それを記録でしか見ることが出来ない。記録すら残っていないことも多い。
しかし、それを極めれば、他の魔術に引けを取らないものとなる。むしろ、その分野では、並ぶもののない宝となるだろう。魔法の域に達した例もある。
この学園には、世界最高峰の設備、文献、そして我々講師が集められている。是非それらを利用して、君たちの魔術を発展させて欲しい」
と、熱弁を奮って疲れたのか、ハロルドは手持ちの水筒で、ゴクゴクと喉を鳴らして水を飲んだ。
パチパチパチと、拍手が一つ鳴り響く。
見ると、先程の演説に感動したのか、猫耳の少女が拍手をしていた。それに続くように、他の4人もゆっくりと拍手をする。
「ありがとう」
水を飲み終えたハロルドが、そう言って拍手を制す。
「では、とりあえず、自己紹介から始めようか。そっちの彼から、名前と、魔力の属性、それから、何か一言あればよろしく」
そう言って、ハロルドは猫背の少年を指す。
指名された彼は、ゆっくりと立ち上がると、他の四人が見えるように向きを変え、ぼそぼそと話し始めた。
「僕の名前は、ハルユキ・アベ。属性は《夜》。よろしく」
ロイのところまでかろうじて聞こえるような小声で、ハルユキは言うと、深く頭を下げて、再び椅子に腰掛ける。
彼の名前は、ゲイルガルドでは、いや、近隣の国でも、あまり聞かない響きだった。言葉遣いも、少しぎこちなく、体型も小柄で、肌の色も黄味がかっている。彼が遠い国からやって来たことは、容易に想像できた。
次に、その後方に座っていた、猫耳の少女が立ち上がる。
「えっと、メロディ・シェイファーです。見ての通り、《猫》の獣人。みんなと仲良くできたら嬉しいです」
メロディは、自分の猫耳を指して、そう説明する。
よく見ると、最初、銀色だと思った彼女の瞳は、右目だけだった。左目の色は金のオッドアイだ。また、立ち上がったことで、彼女のお尻の上辺りから、猫のような尻尾も生えていることも分かる。
小柄なセシリアよりもさらに小柄で、1・2歳年下だと言われても信じてしまいそうなくらいだ。
獣人とは、身体の一部、あるいは、全身を獣に変化させ、身体能力を強化する、獣化魔術を得意とする種族だ。
本来の身体能力も高いが、体の構造はただの人間と相違なく、生物学的には、同じ人間として扱われている。
しかし、獣人たちは魔力を体外に放出することに長けておらず、獣化以上の魔術を行使できる者は珍しい。また、その魔力も特殊であるため、魔術師として大成することはほとんどなかった。
そして、その獣の姿を指して、「獣憑き」と忌み嫌う者も少なくない。実際、獣人というだけで、迫害の対象にされた歴史もある。
それを分かっていて、仲良くしよう、などと言うのは、大した度胸だ。
メロディがニコニコとしながら、軽く会釈して着席すると、次に、金髪の男が立ち上がった。
「シドだ。孤児院の出で、家名は無い。《竜》のライカンだ」
と、だけ言って、シドは着席する。余り、他人と関わる気がないのか、ムスッとした表情のまま、黙り込んでいる。
そんなシドの態度に、いや、彼の一挙一動に、ロイの心が乱れるのを感じる。
別に、クラスの和を乱そうとするシドに、腹を立てた訳ではない。ロイの方も、馴れ合うつもりは無いので、それ自体はどうでもいい。
ただ、シドの言葉に、態度に、ロイの心がざわつくのだ。
「どうかしたの?」
じっと穴が開く程、シドの顔を睨み付けるロイの目の前に、チェルシーがぬっと顔を覗かせた。
鮮やかな青い瞳を前にして、その緊張が解かされていくのが分かる。
原因は分からないが、彼女に話すようなことではないと判断し、「別に」とロイは視線を反らした。
チェルシーが、そのことで機嫌を損ねた様子はなく、「そう」とだけ呟くと、自己紹介をするべく立ち上がった。
「チェルシー・ウィルド・アルクノアよ。属性は《癒し》。知っての通り、私は王女だけど、ただの学友として、接してくれると嬉しいわ。みんな仲良くには、私も賛成」
毅然とした態度でそう言うと、彼女はメロディに向けて、ウインクをして見せた。
それに気付いたメロディは、チェルシーに向けてにこやかに手を振る。
どうやら、今ので2人の間に、絆が生まれたらしい。
チェルシーの番が終わると、次はロイの番だ。
ロイは立ち上がり、教室をぐるりと見回す。こうしてみると、全員がロイに注目していることが分かる。
意外だったのは、他人に興味のなさそうなシドが、横目でこちらを見ていたことだ。
彼と目が合うと、再びロイの心がざわつく。
「ねえ、ほんとに大丈夫?」
なかなか自己紹介を始めようとしないロイに、チェルシーがまた声を掛ける。
その声に釣られて、視線を落とすと、心配そうにロイの顔を見つめる、彼女の瞳と目が合った。
たったそれだけで、ロイの心は、また落ち着きを取り戻す。
もしや、これが彼女の《癒し》の魔力なのだろうか。
「大丈夫だ。何でもない」
ロイはそう言うと、一度深く息を吐いて、呼吸を整える。
チラリとシドの方に目をやると、彼は目を閉じて、瞑想を始めていた。
どうやら、落ち着かないのはロイだけではないらしい。
ロイはシドから目を離し、他の全員に向けて言葉を発する。
「ロイ・ウィールクスだ。属性は《剣》。よろしく」