第五話
翌朝。テレビを点けっ放しで俺は少しうとうとしていた。
そろそろ、準備しないと。
ソファからふらふらと立ち上がり、洗面所へと向かった。
水を豪快に出して、勢い良く顔を洗う。そして、強めに頬を叩いた。
しっかりしろ! 俺!
ご飯も程々に、服を慎重に見繕って鏡で何度も確認してから時計を見た。
午前8時15分。会社までは自転車で20分くらいで行けると思うが。
気が焦ってしまい、どうしようもない。
履歴書は昨夜の内に準備しておいた。初めて撮った証明写真にはムスッとした俺が写っていた。が、仕方がない。これが俺の顔なのだから。
そうだな。もう、出発してしまおうか。
「……よっしゃ、行くか」
気合を入れる為にもう一回頬を強く叩いた。
外に出て、少し肌寒い風に当たりながら俺は自転車に跨った。
向かった先で大量の広告を受け取って、唖然とした。
「これ、できたら全部配り終わってね。毎日決まった量を渡すから。はい、地図」
これだけの範囲の一軒一軒にこの広告を投函する訳ですか。
面接という程のものはなくていきなり決まってしまった。
でも、これを全部配り終わると、一週間後に一万とちょっとは貰えるらしい。
折れそうな心に渇を入れて、自転車に広告を積んで地図を手に進み始めた。
その日は、思い通りに体力がついていかず、少し配っただけでバテてしまった。
ちょっと情けなかったが、あと6日はあるから大丈夫、と自分に言い聞かせた。
キルシェのことが心配になって、帰りにゴミ捨て場に寄ってみたが前みたいに光が現れることもなかった。
家に帰り、布団に入ることにする。夜だったけど、疲れていたから寝ることができた。
翌朝、早朝から俺は自転車に乗る。
そして、昨日と同様に広告を受け取って、広告を配る作業を繰り返す。
途中で休み休み、少しずつ配っていった。
それから、4日後。俺は最後の広告を投函し終えた。
「おわった……」
ふぅ、と息をつく。一日早く配り終えた。早朝から夕方にかけて、休み休みやってきたが
こんなに早く終わるとは思わなかった。
意外と自分は体力があるのかもしれない。そんなことまで思えた。
チェックをし終えたこの紙を渡せば給料が貰える。
胸を高鳴らせながら、自転車を走らせた。
一日早くても、一万とちょっとは約束通りに貰えた。
俺は達成感と充実感で満たされていた。
これで、キルシェを助けられる。
と、思ったのも束の間。
「そういや、どうやって50個も100個も手に入れりゃいんだろ……」
問題が残っていた。先に買っておいた4個は一応冷凍してある。ドラゴンでも腐ったのは嫌だろうから。
とはいえ、嬉々とした表情で自転車を漕いでいると何故かいきなり後ろが少し重くなった。
誰かが乗っているような、そんな感じだ。
疑問に思って振り返ってみると、そこには。
「セイイチっ! セイイチー!!」
そう嬉しそうに叫びながら、俺に抱きつく、キルシェが居た。
い、いつの間に!? いつの間に跨ったんだろう。
それよりいきなり抱きつかれ、少しバランスを崩してしまった。
「おっと、っと……」
咄嗟に力を込めて、それを立て直す。
そして、自転車を止める。
「……キルシェ?」
「そうだよ! キルシェだよっ。セイイチ、あいたかったんだ!」
相変わらずの眩しい笑顔で、けれど少し泣きそうな声でキルシェが言った。
その姿は、最初出逢った時と同じく元気な姿だった。
「本当にキルシェなのか……?」
「もう、疑うのー? ほら、これが証拠だよ!」
そう言って、片目をいじってから俺に見せてくる。
その右目は、紅色を綺麗に光らせ、俺の姿を映していた。
俺の狭い部屋にふたり。
いつかのようにポテチを開けて向き合っていた。
そして、キルシェにこれまでの経緯を聞いていた。
キルシェは殆ど寝ていたらしいが、目が覚めた時はかなり調子がよかったらしい。
どうやら、あのお婆さんが頑張ってくれたみたいだ。
それからキルシェはまた人間界へと避難してきて、今に至る、らしい。
「聞いたよ、おばあちゃん話しちゃったんだよね」
キルシェは俯いて言う。
「ごめん。勝手に聞いちゃって」
俺は慌てて謝った。
だけどキルシェは
「大丈夫だよ。仕方ないし……それに、へっちゃらだもん」
と、顔を上げて、へへ、と笑ってみせた。
だから俺は、キルシェの頭をくしゃくしゃと撫でてやった。
「俺が手伝うから、かな?」
自分でも驚いてしまうような言葉が口をついて出てきた。前はこんな風に言えただろうか。
キルシェはその言葉を聞いて、目を丸くした。
「そ、そうなんだ。やっぱり本当だったんだね……おばあちゃんの言ってた事はっ」
それから、瞬く間に嬉しそうな笑顔を俺に向けてくる。
「セイイチ、わたしのために頑張ってくれてたの?」
その言葉に俺は一瞬言葉を詰まらせた。
だけど、まだ集まってはいないけど、俺はそれを集めるだけの準備をすることはできたのだ。
うん、と俺は頷く。
「これからまた頑張らなきゃいけないけどな」
キルシェは首を傾げた。
「集めるのを?」
本当にキルシェはお婆さんから何でも聞いていたようだった。それなら話は早い。
「うん。でも、きっとひとつのコンビニだけでは集められないだろうな。何回も買い占めるのも恥ずかしいし……」
俺がそんなどうでもいいカミングアウトをしていると、キルシェは何故か両手でピースサインを作った。
「そんなの簡単だよ~」
なんだか楽しそうに。
「コンビニの場所をサーチして、移動していけばいいんだよ」
と、言ってのけた。
それは一番最初の時に、俺の部屋に先回りしてきた能力のことだろうか。
「そんな簡単にできるもんなの?」
俺は当然の疑問を口に出す。
キルシェはふふふ、と不敵な笑みを浮かべた。
「わたしにかかれば、ちょちょいのちょいなんだっ」
「そういえば、その、集めるおにぎりは100個じゃないといけないのか?」
ふと、お婆さんが言い直したことを思い出してキルシェに聞いてみた。
うーん、と少しの間キルシェは唸っていたが、ううん、と首を振る。
「たぶん、ドラゴンは50個でも十分だと思うんだ。だって、ドラゴン達はそんなに食いしん坊じゃないから。
10年くらい何も食べなくても大丈夫なくらいなんだ」
「それで、キルシェの代わりに、なるのか……? ドラゴン達は病を治せるのか?」
ドラゴン達の病を治すことができる、イコール、キルシェの治癒の能力と同じような力が
働くのだろうと俺は勝手に解釈して、正直に尋ねてみた。
するとキルシェはさっきと打って変わって、哀しそうな表情で俺を見た。
「わたしの代わり……? わたしはそんな大層なものじゃないんだよ。ドラゴン達は勘違いをしてるだけ。
わたしをどうにかしようとしても、どうにもならない。だって、この眼は」
儚げに呟く。はじめて、俺に対して今にも泣き出しそうな眼差しを向ける。
「ただ、生まれた時からこうだっただけ。治癒の能力が最初からあったのも、偶然だよ。ぐうぜん。
わたしには……なんの力もないんだ」
だけど、と少女は紡ぐ。
今度は力強い声で。
「この眼は大好きなんだ。わたしは、大好きなんだ」
俺は何も言えなくなった。キルシェは、自分で自分を励ましているんだ。
なんて、なんて強い子なんだろう。弱さを乗り越えようと、必死でがんばっているのな……。
俺の方が涙ぐんできてしまいそうだったので、咄嗟に顔を逸らした。
「本に書いてあったことなら、きっと本当のことなんだよ。だから大丈夫。ね、探そうよ、セイイチ」
どこまでも明るく、そうやって俺までも励ましてくれた。
ああ、俺はこの子にどんどん惹かれていくよ。あまりにも、眩しいから。