第四話
人間界へと戻った俺は、まず財布の中身を確認した。
「うわ……」
確認できたのは、野口さん1枚。小銭は、百円玉が3枚。計1300円だった。
頭を抱える。これじゃあ、あれが108円として、約10個。50個、あまつさえ100個なんて程遠かった。
簡単に計算すれば、100個得るためには諭吉さん一枚が必要な訳だ。それと消費税と。
確か今、銀行のATMに行っても残りは僅かなはずだ。この一週間ちょっと使い過ぎたか。仕方ないんだけど。
それに、もし諭吉さんがあったとしても100個なんて数売ってる訳がない。
どうしよう。とりあえず、近くのコンビニへと向かってみることにした。
コンビニにある時計を見て、今がお昼の3時ごろだと知る。
そういえば俺にとっての夜ごはんを食べてなかった。こんな時でもお腹は空くものだ。
キルシェも何も食べてないよな、と思うと心配になった。あの優しいお婆さんが、食べさせてくれるとは思うけど。
今はとにかく、目的のものを探そう。わざとぐるりと周ってからその場所へ。
ええと、あ。あった。
シャケおにぎり108円。
米と、紅色の魚、そしてお酒を嗜む。つまり鮭。
それらを、混ぜ合わせたもの。
これしか、思いつかなかった。キルシェがおいしいと言っていた、おにぎり。
今日は好評だったらしく、あと4つほどしか残っていない。
それらを買い物カゴに入れて、ついでにお茶もカゴに入れた。
レジに持っていく。
そこで俺は、ありったけの勇気を振り絞って店員に尋ねた。
「あの。……このシャケおにぎり、在庫とかはありませんか?」
「申し訳ありません。おにぎりは、朝方に補充しますので」
「すみません……」
当たり前だ。あったとして、100個も並べるとは思い難い。
全部で540円を払って、残金は760円となった。
これでは、集めるのは難しい。
「ありがとうございましたー」
コンビニを出て、俺はひとまず家に帰ることにした。
狭い部屋にひとり。あらかじめ買ってあった梅干おにぎりを口に運びながら俺は思案していた。
4つは買ったが、50個いるとして残りあと46個だ。
100個いるとしたら96個、気が遠くなる。
お金も底をつきかけているし、どうしたもんかな。
暗い思考になりそうだったので、頭を強く振った。今は、キルシェのことが優先なんだ。
お金なんてどうにでもなる。そう思わなければ、役に立つことすらできないだろう。
しかし、どうやって、そのお金を得ようか。
家族にも期待できない。俺が大学に行かなくなってからは、連絡すらあまりしていない。
ただ、たまに仕送りはしてくれるが。それで今まで食べてきていたのだ。
けれど次の仕送りまでにはまだ日にちがかかってしまう。
お金があれば、お金さえあれば、どうにかなるかもしれない。
それなのに何も策が思い浮かばない。歯がゆい想いで俺は頭を掻き毟った。
本当は、策なんて幾らでもあるはずだ。それを俺は必死で遠ざけようとしている。考えまいとしている。
だって、俺には出来ない。こんな俺にそんなことが出来る筈がない。
だから逃げてきたんだ。折角叶えたものまで捨てて。俺には、出来なかったから。
本当に、そうなのか? 出来なかった、それだけなのか? 俺は、俺は。ただ、怖かっただけなんじゃないか。
周りの他人達と俺は違う、と。あいつらみたいに巧くできなかったから。怖い、逃げてしまいたいと実際に思い通りにしてきた。それが、陰鬱な毎日の実態だった。
毎日が憂鬱で、面倒くさくて、嫌でたまらなかった。
そんな時に、キルシェが現れた。たったの一週間。それだけで俺の日常は、花でも咲いたかのように明るくなったんだ。
キルシェのどんな時にも崩さなかった笑顔を思い出す。いつも笑顔で。前向きで。
俺と正反対だ。そんな風に感じていた。だけど、傷付いたキルシェを見て。強がるキルシェを見て。
それは違うのだと想った。誰にでも弱さはある。それを、乗り越えようとするかしないか。
それだけの違い、だ。
キルシェは今も、自分に立ちはだかる壁を乗り越えようとしている。
自分の存在が、魔界の住人たちにとって迷惑だと知り人間界へと足を運んでいた。
いずれは、魔界を去る覚悟だったのかもしれない。それでもドラゴンはキルシェを探し続けるかもしれない。
それで、俺に助けを求めていたのだとしたら。俺は。
「怖い」のひとことで済ませられる問題じゃないと思った。キルシェをなんとしてでも助けるべきだと感じた。
あの時、守りたいと想ったのは本心なのだから。
カタン。
ちょっと涙ぐみながらそんなことを考えていた俺は、玄関から響いた音に振り向く。
なんだろう? なんかのチラシかな。そう思いながら、ポストに手を突っ込む。
出てきたのは一枚の紙切れ。
そこには。
『広告配りのアルバイトさん募集! 一週間程度』
と、でかでかと書かれていた。
会社の場所も詳細に記載されている。ここから、そんなに遠くない。
迷ってる暇なんてない。頭では分かっている。けれど、正直怖かった。
バイトなんて一回もしたことがない。こんな俺が、できるだろうか?
右手が、携帯を握った。手が尋常じゃないほどに震える。
チラシに載っている電話番号を、恐る恐る入力していく。
電話してしまえば、もう後戻りは出来ない。
携帯に表示された番号と、チラシの番号を交互に見やる。
間違いは、ない。なのに、後一歩が物凄く怖い。
「こんなの、できるわけが」
できるわけがない。そう思ったけど、その時キルシェの明るい笑顔が頭に浮かんだ。
「俺だって。俺だって、やれる、かもしれないよな」
ここ数年で一番の勇気を出して、俺はコールボタンを押した。
心臓が早鐘を打つ。携帯を握り締める手にじっとりと汗をかいた。
コール音が数回。このまま、出てくれなければいいのに。そんな事も頭を掠めた。
と、相手が電話を取った気配がした。生唾を飲む。
『はい、こちら○○○製造所です』
繋がってしまった! 覚悟を決めて、俺は口を開いた。
「も、もしもし……! あのっ……えっ……と。そう! 広告を見まして!!」
謙譲語も何もあったもんじゃない。とにかく必死だった。
『あー、分かりました。少々お待ちください』
そう電話口から聞こえたかと思うと、“カノン”が流れ始めた。
俺は少し一呼吸置いた。事務的な女性の声が却って安心感を与えてくれた。
ここで、変なオッサンとかが出て色々聞かれたりしたら多分心が折れていただろう。
『はい、もしもしー。代わりました。担当の○○です』
“カノン”が途切れて、代わりに30代前半くらいのお兄さんの声がした。
ちょっと背筋を伸ばす。
「もしもしっ。ポストに入っていた広告を見まして電話したのですが……!
まだ、アルバイトの募集はしていますかっ……」
息が荒くなっているのを悟られないよう、なるべく声を張ったつもりだ。
ちなみに、アルバイト先への電話の仕方は高校の時に少し調べたことがあった。
俺だって、働こうと考えたことはあったのだ。勉強の妨げになるから、と親に止められたけど。
『はい、まだ募集してますよー。お名前と年齢、宜しいでしょうかー?』
「は、はい。加宮 誠一。18……いえっ、19歳です」
そういえば、ついこの前19歳になったんだった、危ない。
『わかりましたー。では、加宮さん。一応、履歴書を持って当社に来てもらえますか?
広告に地図が載っていると思いますのでー』
「はい! わかりました!!」
『では、明日の朝9時にいらしてください。お待ちしてますー』
「わかりましたっ!」
『それでは、失礼しますー』
「はいぃっ……よ、よろ……」
よろしくお願いします、と言う前に電話が切れてしまった。
とりあえず、携帯を閉じる。
「……っ。はぁー……」
これ以上ないくらい緊張した。働くって、最初の段階から大変なんだな。
俺だから、だろうか。他の人はそうでもないのかな。
「ふぅ……。でも、これで働けることになったら打開できるかもしれないな」
静かな部屋で小さく呟いた。
ぼんやりと、テレビの前、いつものキルシェの定位置を見つめる。
そこにキルシェが居ないだけで、酷く殺風景に見えた。
とにかく、明日だ。明日が勝負なのだ。
その日は、寝なくちゃと思いながら一睡もすることができなかった。