第二話
それからキルシェは、匿ってもらうと言って俺の家に泊まるようになった。
俺はというと、もちろん仮にも女の子を泊めるのは初めてだったから緊張で最初のうちはあまり眠れなかった。
一緒に寝たわけじゃないぞ? キルシェにはちゃんと布団を敷いて、俺はソファの上に寝るようにした。
「そっかぁ、セイイチは朝に寝るんだぁ」
いつまでキルシェを匿うのか分からなかったが、一応自分の生活リズムを伝えた。
キルシェはそこまで驚く様子もなく俺は一安心した。
逆に何故か嬉しそうだったので、不思議に思って俺はキルシェに問うた。
「普通、引くところじゃないか? ここ」
「え? なんで?」
「なんで、って……。だってさ、昼夜逆転してるんだぞ?」
「わたしの世界ではそんなのぜんぜん気にしないもん! むしろ、夜に一緒に起きていてくれた方がこっちとしてはうれしいんだよ!」
「そういう、ものなのか?」
頬を紅潮させ本当に嬉しそうに言うキルシェに少々戸惑いつつも、俺は少し微笑んだ。
「あ!」
と、キルシェが一瞬だけ目を丸くしてから頬を緩ませた。
「笑ってくれたぁ」
目を細め、俺の顔をじっと見つめてそんなことを言った。
急にそんなことを言われると、照れてしまう。
俯いてだんまりしてしまった俺を見てもキルシェは物ともせず、
「セイイチ、ずっと元気なさそうだったから。
わたし、ちょっと心配してたんだ」
そう言って、さっきよりも更に嬉しそうにする。
・・・この子は、純粋だ。心が、綺麗なのだ。人のことを本気で心配することができるのだ。
俺なんかを、しかも初対面だったのに心配してくれていた。
この出来事は、キルシェを匿い始めた初日に起こった出来事で、
キルシェを最初に「魅力的」に感じたのが何となく分かった気がした。
陽が昇り、外が明るくなる。つい最近まで大合唱していた蝉の声はいつの間にか聴こえなくなっていた。俺は軽く欠伸をし、読んでいた漫画から目を離す。
キルシェの様子を見てみると、どうやらテレビに夢中なようだ。
テレビでは、「きらきら☆まほうのくに」という子ども向けアニメが放映されている。
時計に目をやると、既に朝の6時を指していた。ああ、今日は日曜日か。
ニート生活をしていると、どうも曜日感覚が狂ってきてしまう。
キルシェがやってきてから、三日目の朝である。
一日、二日、とキルシェと過ごして分かった事は、どうやら適応能力が割りと高いということだ。魔界でどんな生活をしていたのかは知らないが、二日足らずで俺の生活にほぼ慣れてきてしまっているようだった。
流石に、女の子に無理をさせてはいけないと思い「眠くなったら寝てくれな」と言ってはあったのだが、キルシェは笑ってそれを否定した。「気にしないで、大丈夫だよ」。
でも。俺はちょっと罪悪感を感じてしまう。キルシェを退屈させないように、借りっ放しのDVDなんかを(返し忘れてもう1年は経つが何も連絡は来ない)夜中に見せてみたりした。
すると、キルシェは目をキラキラさせながら食い入るようにテレビに見入っていた。
ちなみにそのDVDは、好奇心で借りてみた某魔法学園モノである。
「……面白いか?」
何本か同じシリーズを見てみたが、あまり俺の好みには入らなかった為につい訊いてしまった。
「……」
声が聞こえない程に熱中してるのか。キルシェは何も応えずに、ただ偶に何故か頷いたり眉間に皺を寄せたりしながら見ていた。
何だか微笑ましかった。俺は、いつもみたいに漫画を読んでおくことにした。
朝を迎えると、シャワーを浴びて適当にご飯を繕ってキルシェと食べた。
鯖缶とご飯、というなんとも貧相な朝飯(夜飯)だったがキルシェは常に笑顔でそれらを口にしていた。その表情が印象的で、なんというか。その、ちょっとした悪戯心が芽生えてしまい。
「これ、実は腐ってるんだ。俺、一人暮らしだから気にしてないけど」
などと口にしてしまった。
実際は鯖缶なのでそうそう腐る筈がない。
と、キルシェの顔色がみるみる内に真っ青になる。あれ、信じちゃってる?
「セ、セイイチのばかっ!!」
お。涙目になった。本当に純粋だなー。
呑気に構えていると、キルシェの右手が俺の脳天目掛けてチョップを繰り出してきた。
それを体を横にずらして避ける。「ふ、俺にはきかな」……あれ?
意識が朦朧と、してきた?
「いじわるなセイイチにはお仕置きなんだ!」
ぷんすかした声が遠くから聞こえる。え、遠くから?
そこで、俺は完全に落ちた。何をされたかは全く分からなかった。
そんなことがあってから、迂闊にキルシェを怒らせることはできなくなった。
何をしたのかも怖くて聞けなかった。恐ろしい。
『きょうもいちにちきらきら! みんな、またあおうね!』
魔法少女の姿をした幼女がバイバイと手を振っている。テレビの中で。
「ばいばいー!」
キルシェは乗り乗りでテレビに向かって手を振る。
どうやら、番組が終わったようだ。
ちなみに、某DVDはもう全部見終わってしまったようだ。
上機嫌で鼻歌を歌いながら、(さっきのアニメのOP曲だ)リモコンを手に取って電源ボタンを押す。
「ふわぁー」
それから背伸びをしつつ、大きな欠伸をした。俺の方を振り向いて、二コリと笑う。
「セイイチ」
「ん」
未だに呼ばれ慣れない下の名前をキルシェはよく通る高い声で呼んだ。
漫画を閉じ、ああ、そろそろ朝飯(夜飯)の時間かーとソファに寝転がっていた俺は起き上がる。
「シャワー浴びてくるから、もちっと待っててな」
そう口にすると、何故だかキルシェはもじもじし始めた。
何だろう? 首を傾げて俺はキルシェの言葉を待った。
・・・数秒、沈黙があった。別に沈黙状態が苦手な訳ではないが、妙に引っかかる。
もしかして、鯖缶のことをまだ根に持ってたりする?
「セイイチ……」
キルシェの唇から可憐な声が……いや、ちょっと色っぽい声がした。気がした。
俺は思わず視線を外す。な、何だ? え。え。もしかして、え?
煩悩塗れの脳みそが何かを導き出そうとしてるのを必死で抑える。
「ど、どどどどうした?」
やっとのことで聞き返す。うわ、俺なんか気持ち悪い。
「あ、あのねっ」
「お、おう」
「わたしも、お風呂に入りたい!」
「……」
やばい。俺の脳みそが、一つの答えを導き出してしまう。煩悩が俺を狂わしてしまう……!
いや、ちょっと待て。冷静な俺がそれを落ち着かせる。キルシェは、一人で入るんだろ? 馬鹿か、お前は。
「どうしたの、セイイチ」
しどろもどろになっている俺に純粋すぎる眼を向けてくる。ああ、ごめんなさい神様。
「えっ……と、あ、先に入るか?」
「ううん」
「へ」
否定されてしまった、後から入るという事だろうか。だめだ、思考が追いつかない。
女の子と接した経験が殆どない俺にとって、こんなイベントはなかったのだから!
「えーとね、」
ちら、と俺の表情を見ながら純粋な少女は高らかに宣言する。
「ちょっと、魔界に帰ってお風呂入ってきます!」
脳みそが、煩悩が、ずっこけた音がした。
ちょっと冷静になろう。
「でも、魔界に帰ったら危険なんじゃないのか?」
キルシェは、首を振った。
もじもじしていた感じがなくなって、俺を片目が紅色の綺麗な瞳が捉えた。
すっかり煩悩は消え去り、安心して俺はキルシェを見返す。
「魔界はね、人間界で言う所の夜がいちばん危険なんだ。
日中は比較的安全だよ。
それに人間界のお湯はわたしには合わないから、これからもお風呂は魔界で入ってくるよ」
ゆっくり諭すように言うとキルシェは微笑んだ。
俺も釣られて笑った。この子と出逢ってから、よく笑うようになったと自分でも思う。
学校に行ってた頃は笑う余裕なんてなかった。
何だか嬉しくて、俺はその言葉に何の疑いもせずに頷いた。
そこで、何かもっと言えばよかったのに。その時の俺はまだ何も分かっていなかったのだ。
「このおにぎりって、何処に売ってるの?」
ある日のこと、深夜3時のお昼ご飯タイム。コンビニで買ってきたおにぎりを頬張りながら唐突にキルシェが聞いてきた。
深夜3時は特に面白いテレビ番組はしてないので、テレビは点けていない。
俺は紙パックのお茶をコップに注ぎ、キルシェに渡した。
「何処って、近くのコンビニだよ」
「ふーん……」
ぱり、と海苔が音を立てた。おにぎりの具は専ら「シャケ」。
どうもお気に召したらしい。一回、ツナを買ってきたことがあったが、キルシェ曰く「こども扱いしないで!」と。
え、俺、ツナ大好きなんだけど。俺ってこどもなのかな。
それに、シャケも十分こどもっぽいと思うけどな。
おにぎりを全部口に頬張って、もぐもぐしながらキルシェはお茶に口を付けた。
「で、それがどうしたんだ?」
もしゃもしゃ。
「キルシェ?」
ごくごく。
「……おい」
ごっくん。
「ふう」
キルシェは一息ついて、満足そうにお腹をさすっている。
とても幸せそうである。頭にきっとお花が咲いている。
いや、そうではなくて。
「もしかして、行ってみたいのか?」
「んー」
なんだか、今日のキルシェはぼんやりしてる気がした。
暫く、キルシェの発言を待ってみることにする。
俺も、おにぎりの包装紙を開けて頬張る。
ちなみに俺は今日はツナ味だ。
不意に、キルシェの顔が俺の顔に向けられた。
その、一瞬見えた表情にドキリ、とした。何故なら、いつもの笑顔の表情とは違って疲労感の見える表情だったからだ。
口を開く前に、キルシェの表情が破顔した。
無理矢理、笑おうとしている。そんなことくらいもう分かる。
「ううん、ちょっと気になっただけだよ。このおにぎり、すごく美味しいから」
そう言うと、キルシェは立ち上がり背伸びをしてから屈伸を始めた。
「いっちに、おいっちに」
食後の運動をいつも欠かさずにいるのだ。太ってなどいないのに、一生懸命だ。
俺なんか、運動なんてコンビニまで歩く位なのにな。
まぁ、自分は太らない体質(だと思っている)だから大丈夫だけど。
お茶をチビチビ飲みながら、おにぎりを全部食べ終わる。
静かに、俺は息を吐いた。
キルシェは今度は前屈運動を始めた。
もしかしたら、やっぱりこの生活はキルシェには厳しいのかもしれない。
そんな風に思ってしまい、一度思ってしまったことをなかなか取り除けない俺は眉間に皺を寄せてどうしたものか、と思案する。
それから、そっとキルシェに尋ねた。
「今から一緒に昼寝でもするか?」
すると、キルシェが動きを止め、文字通り固まった。
両手を床に付けてる体勢で。キルシェは体が柔らかいのだ。
何秒かそうしていたが、ついにプルプルと身体が震えだし
「わぁ!」
と叫んで尻餅を付いた。
「うー……」
涙目になりながら、小さなお尻を擦る。
顔は真っ赤になっている。流石のキルシェでも、あんな格好を続けるのは無理があったか。
て、今はそういうことじゃなくって。
昼寝だ。お昼寝。今は世間では深夜の4時近いけど俺達にとってはお昼なのだ。
昼寝をすれば、幾分かマシなんじゃないのか。そう考えた俺だった。
「で、でも!!」
こっちを見ずにキルシェは上ずった声を上げた。
「わたし、そんなことしなくても! ま、まぞくだもん! 24時間眠らなくたって平気だもん!」
「いや、だっておまえ」
「大丈夫! わわわ、わたし、お昼寝なんてしたくないよ!!」
「えー……」
「セイイチが寝たいんだったら、眠ってもいいよ」
「いや、そうでなくてな」
どうも、巧く伝わっていないようだ。言い方が悪かったか?
もうちょっと分かりやすい言い方ってあるかな?
腕を組み、俺はまた眉間に皺を寄せた。これは、俺が何かを考える時の癖である。
「んっとね……」
と、小さな声でキルシェは俯きながらこう言った。
「そんなにセイイチが心配だったら、……べつべつに、寝るんだったら、いいよ?」
「え」
思わず口を開けて惚ける。ちょっとしてから、色んな思考が渦巻いてきた。
頭が混乱してきて訳が分からない。もしや、またか、また何か俺はやっちまったのか!
先程、自分が言った言葉を脳内で反芻してみる。「今から一緒に昼寝でもするか?」。
「昼寝でもするか?」ここを俺は言いたかった。しかし。
「今から“一緒に”」。
いっしょに。ん、英語で言うとなんだっけかな、確かトゥギャザー?
ということは、俺が言ったのは「今からトゥギャザーなお昼寝しようぜ」?
「ちょ、ちょっと待った!」
今度は俺が赤面する番だった。決してそんなつもりで言った訳ではなかったのに。
「い、一緒にってのは間違いだ。ただ、昼寝でもしないか? って言いたかっただけだ。一緒にってのを使ったのはたぶん、俺も、そう、俺もソファで昼寝したくて……!」
「そうなの……?」
上目遣いで俺を見てくるキルシェ。何かのドッキリですか、これは! と叫びたくなる程にその表情は可愛らしかった。
唾が沢山出てきて巧く舌が回らない。唾を何とか飲み込んで俺は立ち上がって宣言した。
「そ、そうだ! 昼寝しよう、キルシェ! キルシェはちゃんと布団に寝るんだ。わ、わかったな!?」
吃驚した様子でキルシェは俺を見上げた。そして、
「……あはっ」
目を細め、お腹を抱えて大笑いし始めた。
「ぷっ……あははははっ」
「な、なんだよっ」
「だって、セイイチ、……ふふっ、おもしろーい!」
俺は少しムッとしてしまい、そっぽを向いた。
「ったく、慌てて損したよ」
「ごめんー。セイイチ。ありがとう。うん、お昼寝したい時はさせてもらうよ!」
コロコロ笑いながらキルシェは明るく応えた。
なんか、振り回されてる気がする。いや、俺にも非はあるのだが。
けど、こういう日常も悪くない。
こんなに気分が高揚したり、あたふたしたり、そういうの何時ぶりだっけ。
何故だろう。
とても懐かしい気分になった。昔、こういう感情を持った事があった。
それは何時の事だっただろう。もう今では忘れてしまっていた。
こうして、キルシェと俺は深夜4時頃になると昼寝をするようになった。
起きるのはいつも朝の8時頃である。起きて、俺はシャワーを浴びてから朝飯、いや、もう夜飯でいいか。夜飯を作る。簡単なものだったが、毎回キルシェは嬉しそうにそれを食べていた。その後、キルシェは外に出て行く。魔界へと帰る為だ。
危ないと思って俺も付いていこうとするのだが、キルシェはそれを制止した。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。人間界の朝はほんとうに安全だから」
そんなことを言って。
きっと、無理をしている。頭の何処かではそう直感していた。
でも、俺にはキルシェを止める権利は無かった。
「じゃあ、気をつけてな」
そう声を掛けるほか、無かったのだ。
そんな生活が一週間程続いた。
俺は常にキルシェの心配をしていたが、魔界から帰ってくる時もキルシェは元気で笑っている。その姿を見る度に、ホッと胸を撫で下ろしていた。
夜は人間界でもきっと危ないだろうから、俺はいつもキルシェを迎えにゴミ捨て場に通っていた。
ただ、何が危険で俺に匿ってもらっているのか、キルシェは教えてくれない。
それがもどかしかった。何だか胸の辺りがモヤモヤしていた。
杞憂だ。
もしかしたら、気まぐれなのかもしれない。
“こんな”俺の所に匿ってもらいたい、だなんて。
好奇心で俺の所に来てるだけかもしれない、本当は危険なことなんて何一つないのかもしれない。そんな事も、沸々と浮かんでは消え、不安は拭い切れなかった。
そして、その日は唐突に訪れた。