第一話
俺には何も無い。陰鬱な毎日。代わり映えのしない、努力しない日常。
「……今日も夕方に起きたな」
猛勉強して受かった大学に限界を感じて、辞めてから3ヶ月と、えぇと、3週間か。
いちいち数えてるあたり、辞めたことに対して未練を残している証拠か。
とにかく、辞めてからずっと、夕方に起きては朝に寝る習慣に甘んじている。
「朝飯か……」
俺にとっては、起きた時間が朝になる。
敷きっぱなしの布団から離れて、冷蔵庫に向かう。
開けて覗いてみたのはいいものの、案の定何も無かった。
「さて、どうっすっかな」
お金は無いが、何も食べない訳にもいかない。
とりあえず、近くのコンビニで安いおにぎりでも調達しにいこうと決めた。
サンダルを履いて、玄関のドアを開けて外に出る。
空はまだ微妙に明るかったが、風が肌寒く感じられ、夏の終わりを実感させた。
自転車で行こうと思ったが、たまには歩いた方がいいかとふと思って、歩きにした。
コンビニまでは、路地裏を通って10分で行ける。
一人暮らしを決めた時に、散策して探し当てた道のりだ。
ただ、夜に歩くには少し暗すぎた気もした。今は慣れたが、最初の頃なんか明るい内にしか歩けなかったくらいだ。
他の民家が無い訳ではないのだが、電灯がこの道は少ない。
あまり人が通らないのだろうか。
道を歩いてる途中に、あまりゴミを捨てられていないゴミ捨て場があった。
ここを歩く時にいつも思うのだが、このゴミ捨て場は何か特別なゴミ捨て場なのだろうか。
いつも、今時見ない黒いゴミ袋が三つくらいあるだけで、異常にスペースがあるのだ。
もしかして。いや、それはないな。
恐ろしい事を想像しそうになって、慌てて頭を振る。
怖い事がどうにも苦手な俺は、足を速めてコンビニに向かった。
「ありがとうございましたー」
シャケおにぎり108円。それと、紙パックのお茶108円。
総額216円を失った俺は、しかし、本日の食料が手に入ったことで、意気揚々と帰りの道を進んだ。
おにぎりだけで一日を過ごせるとは思えないが、お菓子の類は少しは溜め込んである。
だから、今日はおにぎりとお茶とお菓子で乗り切ろうと思うのだ。うん、お菓子は最強だね。
カロリー高めだし。サラダ味とかだと、野菜も食ってることになるだろ?
と少々ずれたことを考えながら、ふと足を止めた。さっきの、ゴミ捨て場の前で。
気付けば、空は暗くなり、闇が視界を覆っている。ゴミ捨て場の近くにある一本の電灯は切れ掛かっているのか、チカチカと点いたり消えたりを繰り返している。
さっき想像しそうになったことが、脳裏をよぎる。
まさか、な。また頭を強めに振ってから、歩き出そうとする。
途端に強めの風が吹いてきた。涼しいを通り越して、一瞬寒いと感じそうな強い風が。
雲が月を隠したのか、一層暗くなって、俺は立ち竦んだ。
そして、チカリ、と電灯の明かりが消える。
何事だ? と思い、周囲を確認してみる。……何事も何も、何もおかしいことはないだろ。
ただの通り風だ。気にする事は無い。そう思いながら、俺は怯えていた。
怯えていたから、さっきの事が鮮明に頭をよぎって、ハッとゴミ捨て場に視線を向けた。
まさか。
目を凝らして見てみると、異常なスペースの所から何かが生えてきているように見えた。
何だ? あれは何だ?
体が固まって動かない。視線を逸らそうとしても、どうしてもそれを見ようとしてしまう。
そうしていると、目がだんだん暗闇に慣れてきた。
それがどういう形のものかも、くっきりとしてくる。
「ひっ……!」
俺は思わず、声をあげていた。目を見開く。心臓が異様に速く動いている。
それは、人間の腕の形をしていた。それが、地面からニョキニョキと生えてきているのだ。
腰が抜けて、俺はその場にへたり込んだ。そして震えながら見ていると、
なんと、もう片方の腕が地面から伸びてくる。
俺は気絶しそうな頭で思った。ゴミで死体みたいなのが、捨てられているんじゃないかと思ったら……
なんだ? 死体が地面から生えてくるのか?
もう俺の頭には、それが死体としか認識されてなかった。
「第一発見者になってしまうのか……それで……俺が逮捕されて……」
よく分からない事を呟きながら、俺はなんとかそこから脱出しようと、立ち上がろうとした。
「よいしょっと」
すると。
可愛らしい声が聞こえた。見てみると、手と手の間から頭、顔、と生えてきて、そこから
首、体、と一瞬にして“人間”の姿が生えてきた。
いや、正確に言うと人間が地面の下から這い上がってきた、ように見えた。
その姿は、よく見てみるとまだ幼い少女のようで、屈んだ体勢から立ち上がると
手をぱんぱんとはたいた。
「……あ」
そこで俺に気付いたのか、まだ腰が抜けて立ち上がれないままの俺の顔をじっと見つめた。
俺はというと、その一部始終を見て、魂が抜けかかっていたと思う。
少女はそのまま近づいてくると、俺の肩をぽんぽんと叩いた。
「すみません~……大丈夫ですか?」
ハッと我に返った俺は、慌ててその場から立ち上がろうとする。
が、まだ腰が抜けていて立てなかった。
少女はそれに気付いたのか、その地面から生えてきていた手を差し出してくる。
掴まれ、ということなのだろうが、さっきの状況から考えて不気味で触りたくもなかった。
「いや、あの、大丈夫だから!!」
まだあまり働かない頭で必死に逃げようと考えて、体勢を変えて立ち上がろうと試みた。
ゆっくりと立ち上がると、そのまま逃げればよかったのだが少女の顔をまじまじと見つめてしまった。
俺が立ち上がれたことが嬉しかったのか、少女はニコニコと笑っている。
暗くてあまりよくわからなかったが、顔が整っていて綺麗な子だなぁと密かに思った。
「それじゃ、また!」
それから少女から視線を外して、全速力で走った。逃げたとも言う。
なんだ。何が起こったんだ。訳が分からなかった。
俺は家に入ると急いでドアを閉めて、鍵を閉めた。
「はぁはぁ……」
あんなに走るのは久しぶりだったから、息が上がっている。
覗き窓から外を見て、少女が付いてきていないかを確認する。
どうやら、いないようだ。ホッと息をついてサンダルを脱ぎ、部屋の電気を探って点けた。
「大丈夫?」
いつも見てる自分の部屋の風景。そこに、さっきの少女が心配そうな表情で立っていた。
「な、なんで……」
なんで、いるんだ。俺は鍵を閉めたはずだ。それなのに。
後ろを振り返ってドアを確認する。鍵は開いていない。じゃあ、どうして?
「あ、気にしないで。あなたの居場所をサーチして、移動してきただけ。
それよりも大丈夫?」
居場所をサーチして、移動? どうやって。というか、不法侵入じゃないか? これは。
よく分からないが、どうやら少女は俺が無事かを確かめに来たようだ。
とにかく返事をしないと、少女の眉がどんどん下がっていってしまう。
「ああ……大丈夫だよ。でも、君は……」
すると、少女はハッと何かに気付いたような顔をした。
「ごめんなさい、ここはあなたの部屋だね……。おじゃましました」
そして驚いたことに、少女はスーッと消えていった。
それから何事もなかったかのように、いつもと変わらない静かな空間が訪れた。
「なんだったんだ……」
と、何も理解できないまま突っ立っていると、ピンポーンといきなり玄関のチャイムが鳴った。
条件反射でドアを開けると、そこには。
「こんばんは!」
ニコニコと笑う、さっきの少女の姿があった。
少女は、うんうんと頷きながら
「そうだよねー。最初はまず、玄関から入ってご挨拶だよね。うん。ごめんね!」
と、明るい声で謝ってきた。
俺はしかめっ面でそんな少女を見つめる。
「ごめんねって言われても……」
あなたアヤシイデスヨと言えずとも、態度で示そうとして俺は視線を泳がせる。
肝心な時に臆病な性格が顔を出してしまう。
少女は俺の様子に気付いてか気付かずか、首を傾げた。
「ねぇ、中に入ってもいいかな?」
思わずその言葉を頭の中で反芻してしまった。
中に……? って、家の中だよな。
色々と考えようとする俺の脳内を遮るように、少女はまた口を開く。
「ちょっと匿ってほしいんだ」
「自己紹介しなくちゃだね」
テレビが見知らぬお笑い芸人の面白くもないコントを映し出している。
テーブルに向かい合う俺と少女。
テーブルの上には、溜め込んでいたポテチの一袋とお茶。
おにぎりも食べないままで放ってある。
あれから、俺は少女の縋るような瞳に負けて家に上がることを許可した。
そして今は、なぜだか物凄く寛いだ状況で少女が自己紹介をしようとしている。
少女が、
「静かだね。テレビないの? テレビ」
と言えば、俺は小さなテレビに電源を入れ
「おなかすいたなぁ……」
と呟けば、俺の大事な活力原であるポテチを開け、買ってきたばかりのお茶を入れた。
何をしているんだ、俺は。
「ねぇ、聞いてる?」
遠い目をして溜息などを吐いていると、少女がその無垢な瞳で俺を見つめてくる。
「ああ、聞いてるよ。君の名前は?」
仕方なしに返事をすると、待ってましたといわんばかりに少女は立ち上がる。
すると、テレビから喧しい笑い声が響いた。
「チャンネル変えていいかな?」
そう言うと少女はリモコンを手に取り、ゆっくりとチャンネルを変えていく。
今度はほのぼのとした動物番組になって、満足したのか少女はリモコンを置いた。
仕切り直し、という様に大きく息を吐いてから口を開いた。
「わたしの名前は、キルシェ。キルちゃんでも、キルキルでもいいよ」
呼び方はそんなんで本当にいいのか突っ込みたくなったが、堪えてキルシェと名乗った少女の言葉の続きを聞く。
「一応、魔族なんだ」
「……え?」
俺は思わず聞き返していた。よく、分からない単語が出てきたが。
キルシェはそのことを言うのが嬉しそうに、またその単語を口にした。
「まぞく。えっとね、簡単に言うと人間じゃないんだ。わたし」
その言葉の意味を、あまり回転の良くない頭で俺は必死に考える。
「えっと……つまり、どういうこと?」
言葉を選んでいるのか、キルシェは少し考え込む。
「人間とは異なる存在。魔族は、人間と違って科学の力ではなく、魔法の力で文明を築いてきたんだ。
魔族の世界は人間の世界の各所と繋がってるけど別の世界。わたしは、そこからきたんだよ」
なんとなく偉そうに語ると、また座ってお茶を一口啜る。
つまり。
「というと、何? 君は魔法みたいなのが使えるのか?」
「うん、使えるよ。さっきの家に先に入ってたのも魔法だよ」
あっさりとキルシェは答える。俺はなんだか半信半疑で、キルシェの風貌を改めて観察してみる。
髪型はショートカット。色は赤茶で綺麗な髪だ。服装は短パンにひらひらが付いた上着。
チュニックというのだろうか、そういう服装に似ている気がする。
そして、端正で可愛らしい顔立ち。
どうみても、人間に見えるのだが。どこが違うのだろう。
思案していると、キルシェがそんな俺に気付いたのか何やら唸って、下を向いた。
「ちょっと待ってね……」
そう言うと、自分の片目をいじって目から何か取り出した。
また顔を俺の方に向けると、キルシェははにかんだ。
「これが、証拠だよ!」
自分の右目を指して、自信たっぷりに言う。
「お?」
俺は、ちょっと驚いてしまった。
キルシェの右目は、明らかに左目の色と違っていた。
左目は普通の日本人と同じ黒色をしているのだが、右目は赤……というより紅色をしていた。
大きなその瞳は両の色が違っていた。なんだろう。キルシェのあどけない顔に似合わず、そこだけ神秘的だった。
「ね? こんな人間いないでしょ? 魔族の世界でも珍しい紅と黒のおっどあい! 信じてくれた?」
「おお……すごいな」
目をキラキラさせながら尋ねてくるキルシェに、素直に感想を漏らした。
褒められるのが嬉しいのか、キルシェはやけに楽しそうに笑った。
「でしょでしょ! わたし、この目が大好き!」
いや、自分で自分の目が好きだなんて簡単に言えるものじゃないだろう。
と思ったが、俺もこんなに綺麗なオッドアイだったら、好きになるかもしれないと思い直す。
むしろ、オッドアイだったら俺もこんなに明るくなれたのかな。
いかんいかん、脱線してしまう。
「コンタクトレンズしてたのか?」
「うん。人間界では普通の人間として過ごせるようにね。紅色だとあまりにも目立っちゃうでしょ?」
それもそうだ。俺は納得して考えた。このオッドアイが、魔族の証拠か。
信じていい気もしてきたな。
俺は魔族という人間じゃない存在を魅力的に感じ始めていた。羨ましくも感じていた。
どうしたらこの少女のように、底抜けに明るくなれるのだろう。
「そういえば、あなたの名前をまだ聞いてなかったよね?」
不意に聞かれて、俺は久しぶりに人に名前を教えるという行為をした。
するとキルシェはまたも花が咲くように笑って、噛み締めるようにその名前を口にした。
「加宮誠一くん……セイイチでいいかなっ?」
なんか、セイウチみたいで嫌だなぁと思ったことは言わないでおこう。