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猫地球R33GTR〈第一部〉  作者: 北川エイジ
1/1

[ PROJECT ]

十九歳の女主人公が異界で活躍する異世界ものですが、とくにエンタメしてはいないので純文に設定してあります。


第二部は推敲中です。

第三部は執筆中です。


PS 猫地球という言葉は『TAMALA2010』からきてます。構成はちょっと『君の名は』を参考にしてあります。──じゃGTRは? GTRは『湾岸MIDNIGHT』からきてます。そういう様々なものが絡まってできています。

 


     1


 翔子がたばこの箱を取り出したとき、こじんまりしたスポーツカーが駐車場に入ってきた。くすんだ黒色の外観を一見し国産車であることしか翔子にはわからず、それから元がMR2であることを気づくのに一分ほどの時間を要した。そのクルマは全身に均整のとれたエアロパーツを纏っておりまるきり別のクルマに仕上げられていたのだ。それはともかくとして運転席の男は屈んで何かの作業に没頭しておりなかなか車から出てこない。不思議に思いつつ翔子がたばこに火をつけつつ見ていると、その若い男はぱんぱんに膨らんだ白いレジ袋ふたつを両の手に持って車から出てきた。彼はまっすぐ店舗入り口脇に置かれたごみ箱に向かうとガシャガシャという不快な音を鳴り響かせながらレジ袋を押し込んでいる。改良されたごみ箱は入り口を狭くしてあるため彼は一生懸命にレジ袋をつぶしつつ押し込んでいた。それが済むと彼は車に引き返しふたたびレジ袋をふたつ両手に持って出てきて同じ作業に取り組んだ。完全に家庭ごみである。彼はごみ出しを終えるとそのまま車に乗り込みバックさせ、来た道を帰ってゆく。清々しいまでの節約行為である。そこには現代を象徴するコストカット意識がまるで戒律のように息づき、確かに適合の一形態だと認めざるをえないものがあった。そう、彼は彼で時代の声に従っているのだ。


翔子の視界の半分は田畑でありそれ以外のほとんどは晴天の空と低い山の連なりだった。愛車のカブと翔子のすぐそばで一羽のカケスがぴこぴこと尻尾を上下に揺らし、翔子の吐き出した煙が駐車場の片隅で立ち昇る。日本は平和だった。そばの壁には猫にえさをやらないで下さいと書かれた貼り紙がしてありその下のアスファルトにはまさしく猫のえさが散らばっている。この国は平和だった。

もし銃の所持が合法であり、いまこの瞬間に所持していたとしたら、翔子は空に向かって一発ぶっ放していたかもしれない。

イライラさせやがる。そう翔子は胸でつぶやく。が、考えても仕方なかった。どれほど不快であるにせよこれが現実であり、通りすぎる光景としてスルーするしかない。彼女は思考を切り替えた。


中古の原付カブを購入して二ヶ月、操作に慣れ手足の一部となっているような気はしても、まだ納得がいかない状態だった。誰にでも簡単に運転できるが乗りこなすのは難しい。ネットで目にしたこの言葉を翔子はいま痛感していた。一歩一歩、少しずつ距離を縮めてゆくしかない、翔子はそう自分に言い聞かせてシートにまたがり、右足でキックレバーを勢いよく踏み込み、エンジンに火を入れた。カブと水色のジェットヘルメットをかぶった翔子が駐車場からゆっくりと出ていく。

その光景を、駐車場の端にたたずむ一匹の黒猫が見つめていた。

 

     ─


あたしからすれば悪いのは向こうだ。直樹はあたしという恋人がいながら、職場の事務員の女とふたりきりでテーマパークに行った。黙っていたことは謝るけれどもべつにやましいことはなくただ遊びに行っただけとやつは言う。そうか、じゃああたしが男友達と同じことをしてもいいわけだとあたしが言い返すと、それはべつの話だとやつは言う。そこから先いろいろと言い合ったがどうでもよかった、早い話が裏切りであるのに認めず居直っているのだ。あたしは掌底ぎみに直樹のあごにビンタを入れ、その場──直樹宅の居間を去った。追ってきたらかるく蹴りを入れるつもりだったがやつは床にうずくまり立ち上がりもしなかった。あたしはこのとき少しばかり不思議な体験をする。玄関から出て、門まで五メートルほどつづく小路を歩き出したとき、何かが背後からあたしを呼び止めた気がしたのだ。左に少し移動して家屋に隠れている奥の庭を見やると屋根があるだけのおんぼろガレージに中古のGTRが鎮座していた。先輩の知人から100万で購入したという、一週間もしないうちに故障し不動車となったRである。とりあえずの修理に30万掛かるという。購入費100万は親から借りた金だ。新米エンジニアの直樹に経済的余裕はなく、頼りの親も不動車に散財する気は毛頭なかった。その結果がこれだ。Rは33Rであたしも好きな車種である──しかしあたしにはどうすることもできない。元の白色は塵と経年劣化でくすみ、悲しみが凝縮したような存在である。ヘッドライトはなんだか意志があるような眼差しであたしを見つめ、でも言葉までは届いてこない。あたしは気持ちを切り替える。バイバイ直樹、それとGTR。もうここに来ることはないだろう、バイバイ直樹の家。あたしはこんな感じでその場を去ったのだ。


この些末な別れの話は先月のこと。いま、あたしの人間関係はぐっと狭まっていた。週三で入っている雑貨屋のバイト仲間、亡くなった兄の友人、全部合わせても五人である。親戚は遠い県外にいて付き合いはないし高校の友人関係は卒業と同時に切ってある。両親は去年交通事故で他界したのであたしは世間的には孤独な人間ということになるのだろうがあたし自身は孤独を感じたことはない。

あたしはバイクなり兄が遺していった本や漫画なりを介して世界と繋がっている。仮に大きな災害が起こりすべてを失ったとしてもそれでも記憶が残る。あたしは孤独になり得ようがない。世界と繋がっているのだから。

そして繋がりがある以上果たすべき役割、与えられた仕事があるはずだ。あたしがバイクで走るのは、走れるうちに人生のポイントカードに〈世界との交流ポイント〉を蓄積してゆくためだ。それが何の役に立つのかはわからないが。きっと天国の門か地獄の門の関所にそのポイントカードを示したときすべてがわかるのだろう。走ることはあたしに課せられた義務であり本当の意味での仕事なのだ。だからあたしは今日も走る。


空は晴天で、しかし九月としては肌寒い気温だった。目の前の田畑は黄色に色づき、やがて来たる収穫の時期に備えている。コンビニで買い物を済ませたあたしは、駐車場に黒のスポーツカーで乗りつけた男が持ってきた家庭ごみを耳障りな音を立ててごみ箱に押し込むのを眺めた。むかついたがあたしに何ができるわけでもない。一服を済ませ出発、来た道を戻る。予定としては六キロ先のコンビニ前でUターンし再度ここの前を通るつもりでいた。

あたしのカブはエンジンが本調子を迎えるのに平均して十キロは走る必要がある──製造から十五年が過ぎた中古という点を考えれば妥当だろう──始動していきなり活力溢れる日もあるのだがそれは稀であり、特に最初の六キロは慣らしと考えた方がよかった。今日もまたよくあるケースで戻りのゆるい上り坂で調子が上がる。カブの力が増す。体感の推進力が増す。カブは基本的に坂に強いとネット記事にある通りエンジンの活力が増す。ここが実にこのバイクの謎の部分だ。ぶんぶんとうなりを上げて縦回転に回る大きなコマに乗っている感じだ。局面によって体感上のコマの大きさが変わる、この変化こそカブの味わいなのだと思う。

予定通り六キロ走ってUターン、二周目に入る。田畑の景色、工場の群れ、住宅地、田畑。二キロを過ぎると左折し長いきつめの昇り坂へ向かう。坂に入ると速度は落ちれどもカブには余裕があった。以前に乗っていたスクーターでは得られなかった余裕である。購入店のおやじが言っていた、オーバースペックのオイルが入れてあるという言葉が脳裏をよぎる。ミラーに車の姿はなく、小さなエンジンが叩き出す力強さが心地よくあたしの全身に伝わる。あたしは振動に、力強さに酔っていた。

が、坂を昇りきり同時に左カーブを越え、直線区間に入ったときだった。あたしは異変に気づく。

 

強烈な雨の匂いが鼻をとらえ、突然視界の先の空が真っ黒になり景色が灰色になった。先ほどの晴天が嘘のように。あたしは本能的に左の小路に進路をとる。めったに通らないルートだが交通量が少なくこのルートであれば最短距離で自宅に戻ることができる。小さな工場と住宅地を抜けると林に囲まれた区間に入る──そこであたしは理解できない事態に陥った。初めて目にする、見知らぬ道を自分が走っているからだ。

バイク乗りが経験する、走りのなかでのいわゆるトリップ感というのは以前に経験していたが、それとは明らかに違った。理解不能の事態に対する恐怖と同時に、見知らぬ土地、すなわちガソリン残量の心配からくる不安感があたしを襲う。ここどこ?何これ?どこかに迷いこんだ?

しかし、そもそもそんなはずはなかった。直線距離にすれば実家とは四キロ程度しか離れていない場所である。恐怖と不安は混ざり合い増幅してゆく。あたしはカブを停め、エンジンを切った。まず尻をシートから後ろの荷台に移してシートをはね上げ、燃料計をチェックする。針は真ん中を過ぎたあたり。その点はわずかに安心を得られても問題はそこではない。ここはどこなのだ。携帯をウエストバッグから取り出し、嫌な予感を抱きながら画面を見ると表示は圏外を示していた。あたしは来た道を戻ることを考え後ろを振り返り…しかし灰色のもや以外何も見えなかった。濃い霧が迫るように立ち込めていて、前を向くといつの間にか目前にも濃い霧だけがある。あたしは自分が霧に包まれていることを知り、バイクを降りて周辺を確かめることにした。危険なまでの視界不良である。道の端に停めたカブをさらに左端に移動させあたし自身も車の往来を警戒する──そこであたしの目の前が真っ白になった。ただ白の光景が広がり、次に目にした光景は──さらに理解しがたいものだった。


天井が視界にあり、どこかの部屋で、あたしはベッドに仰向けで寝転がっている。寝たまま周りを見回すとここは簡素な部屋でビジネスホテルを思わせた。白い壁、閉まったままのカーテン、液晶テレビと電話がのったチェスト。

…ここどこ? 閉められたカーテンを開ければ何か見える?あたしがそう考えたとき天井近くでグンと不気味な低い音が鳴り、一瞬部屋の気圧が上がった気がした。あたしはわけがわからないので怖くなりとりあえずベッドから起きてカーテンをおそるおそる開けてみる。外界は明るく、窓からはビル郡と道路、奥に高架橋が見える。ここは都市のなか…都市部にいる…なぜ?さっきまで山間部にいたのに。意識はとぎれていないはずだ。空白がありはしても瞬間である。と、そこであたしはぎょっとした。自分の手元を見て、微細な白い毛に覆われた見知らぬ手であったからだ。自分の手ではなかった。部屋を見渡し机の上に置かれてある長方形の鏡を見つけ、あたしは覗き込む。あたしは声をあげた。全身に冷たいものが走った。そこには猫がいた。猫が映っている。白……オフホワイトの猫が。これは夢、夢なのだ夢に違いない。もしくは頭がおかしくなっているのだ。

机を離れあたしは早足で入り口に向かい、ドアを開けて通路を見渡した。何も変わったところのない通路があるだけである。ドアを閉めて机に戻り、今度は椅子に座ってあたしは鏡を見つめる。ただただ呆然とする。どう見ても猫。ぴんとした頭の上の耳。くりくりとした大きな目。身を固め、ただ鏡に写った像を見ることしかできない。あたしには顔を触る勇気、触ってみようという勇気がなかった。落ち着け翔子、これは夢と認識できる夢、だからそのうち覚める、なんとかなる、大丈夫。

観察していくと顔以外、頭部以外は人間の外観だった。手も指が五本の人間の手。衣服はそのままジャケットとデニム姿で中身が猫人間。尻尾はない。これってやっぱり夢のなかだと自覚できる夢? 何? それとも呪い? あたしは嫌な記憶をよみがえらせる。昔つきあった男の母親にメス猫と罵られたことがあった。そんなどうでもよいことを思い出してどうする。現実と向き合えあたし。あれ、あれ? …あれっ? これってもしかして現実…

ピンポンと控えめな電子音──部屋にチャイムの音が響いてあたしはびくっとした。

来客……誰かが来た。あたしを知ってるってこと? それともホテルマン?あたしは気配を殺しつつ入り口のドアの前に行き、考える時間をとった。慎重になるべきか躊躇せず応えるべきか。結局、意を決して声をかける。

「どなたですか」

若さがにじむ、溌剌とした声がドアの向こうから届いた。

「貴方の置かれている状況を説明しに参った者です」

そうか。事情を知る人がいる。人というかこの場合相手も猫人間なのだろう。猫人間だらけのところに違いないんだからそれがここでは普通。──もう驚かない。何がなんだかわからないけど、なるようになるがいいさ!

「…どうぞ」

あたしはドアを開ける。どきりとするが鏡で見た自分の姿に比べれば受け入れやすい。現れたのはスーツ姿の猫である。オスだと思う。細身できりっとした顔立ちの猫人間で顔の毛なみは綺麗なグレーだった。

「こんにちは」と彼は言った。あたしは彼を部屋に通し、あたしたちは部屋の真ん中で向き合った。腕組みをするあたし。

「私の名はアンドロメダ川添。貴方をこの世界に導いた方の部下です。ここは猫地球。貴方がいた世界とは別次元の別世界です」

そうですか。そりゃあ別世界なんでしょうよ。

「とにかく帰りたいです。元の姿に戻して」

「私にその力はありません。私の役目はこの状況の説明と貴方の気持ちの整理を促すことです。話を聞いてください。私のボスはガイナス斎藤と云い、老舗芸能事務所のオーナーで業界ではドンと呼ばれている人物です。貴方を呼び寄せたのはこの方ですからすべてはこの方、ガイナス斎藤氏次第です」

あ? 勝手に呼びつけといて自分たちの都合や要求に従えと?

あたしは怒りを隠せなかった。

「言うことをきけと?」

何となく雰囲気からして二十代後半を思わせるアンドロメダは、あたしを見つめながらしばし押し黙ったあと事務的な口調で言った。

「貴方ひとりではどうすることもできない。他に方法がありません。戻りたいのならボスに会い、その場で貴方は良い対応、適切な対応をしなくてはなりません。貴方の処遇は貴方自身の振るまい、発言にかかっている。…個人的なアドバイスですけれども、戦略的に物事をとらえ、考えることをお勧めしますよ。…もし人間の姿のまま来たのであれば次元パトロールを呼べば済む話です。この場合、迷い人として強制送還となりただちに戻れます。ですがいまの外観のまま騒いでも相手にされないか下手すればメンタルヘルス行きですよ」

「元のあたし、人間であることが証明できないってことか」

「証言が嘘でないこと免許証が偽造でないことを証明できますか」

あたしはやわらかな脅しを受けている。腹が立つがあたしは無力だった。どうすればこの状況から切り抜けられるんだろう。

「どうしてこんなことに…」

彼が言った。

「冷蔵庫にレモンティーがありますからどうぞ」

なんでいつもあたしが飲んでるのを知っているのだ。とりあえず小さな冷蔵庫を開け、そこにあった黄色いボトル缶を手に取った。もちろん初めて見る商品である。

「一応、貴方の資料は社に届いていて関係者は目を通しています。──さて話をつづけます。

先週我が社に所属する女性タレントに重大な契約違反が発覚し、結果として巨額の損失が発生してしまいました。契約違反というのは無断で結婚し無断で休業宣言を行ったことです」

「…勝手に?」

「はい。そもそも異性との交際には報告の義務があるのですが、それを怠った上にすでに婚姻届を出しています。いわゆるデキ婚です。で、家事出産育児に集中したいので休業するという内容のFAXを報道各社に送っている…、信じがたい背信行為です。つまり引退覚悟、我々との闘争を覚悟の上での行動なのです」

こちらのことは知らないがそれだけを聞くと大変な不義理を働いたひどいタレントだと思う。

「実は彼女が生み出していた収益は我が社全体の収益の三割に及ぶものでした。中核の人材だったのです。屋台骨と言っていい代えの効かないタレントで、ならばこそ我が社は多大な投資を行ってきたわけです。育成、売り出し、広告業界との連携、近々ではファッションブランドの立ち上げと出店計画などが投資の内容です。大きなところでは六社が関わっているプロジェクトがストップし、いま混乱状態にある。回収の見込みを失い、信用を失い、我が社は窮地に置かれている。…そこでボスは奥の手を使うことにしました」


テーブルセットに向かってアンドロメダは歩いていき、椅子に腰を降ろすと彼は足を組んでからジャケットの外ポケットに手を突っ込み、フリスク的な物を取り出して掌に落とし口に運ぶ。鮮やかなブルーの靴下がダークスーツに映えた。

「この国にはモンテルス教という国家宗教があるのですがそこの支部長とボスは懇意なのでこの件について相談しました。そこで得られた答えが貴方の召喚だったのです」

意味がわからなかった。なぜによその世界から連れてくるのか? なぜあたしなのか?

「無理矢理連れてきといてその説明は何? ぜんっぜんわからないわよ」

「私も大まかにしか知らないのです。知っている範囲でお伝えしています」

そう淡々と話されても困る。

「ドンってくらいなら他の事務所から代わりになりそうなタレントを引き抜いたりできそうなもんだけど」

「無理です。ドンは他に四人いて大きな事務所にはその内の誰かがいます。全員が競合相手です。我が社の人材だけで乗りきらなければなりませんが代わりがいない、とすれば即戦力となり得るまったくの新人を獲得するしかない」

「それであたしを呼びつけたわけ? 意味わかんない! それで猫にしたの? どういう了見よ… つまり問題を起こしたやつの代わりにタレント活動をやれと!?」

アンドロメダはうなずいた。

「会社としての言い分を率直に申しますと──問題のタレントの名はラリッサと言いますが──ラリッサによって構築されていた社内のシステムやプロジェクトをとりあえずは維持し…代わりの方法を見つける猶予期間がほしいのです。時間がほしい。協力企業が求めているのは“看板”なんです。看板に裏切られ離れていった企業のすべてを取り戻すことはできないにしても、我が社としては説得にあたれる材料、すなわち“新たな看板”がどうしても必要です。それが貴方です。もちろん報酬があり日本円での支払いになります」

「そちらの言うことを聞いてタレント活動をやれば戻れるの?」

「はい。そういう依頼ですから」

「活動して、失敗しても? …つまり仕事が来なくても?」

「どこかの時点で会社なりボスなりが判断を下すことになるんでしょう、だめなら諦めて帰すでしょうね。だめなら貴方の存在はコストでしかない。しかし判断が下るまで基本給は出るはずです。リスクを負うのは会社であって貴方ではない。ギャンブルなのは最初からわかってることですから。

私に話せるのはここまでで、詳しい話はボスからありますよ」

「よくわからない、というかぜんぶわからない…! なんであたしなのか」あたしになったのか。

「鏡をようく見て貰えますか」

それは最初から感じていたことではあった。鏡のなかにいたのは美形の猫だった。均整のとれた、それでいて魅力があり魅惑されるものが漂う、正直に言えば異様とすら言える美がそこにはあった。

「私個人は貴方を見て納得がいきました……素のまま現時点でいまの芸能界におけるマストビューティーですよ。これをさらに磨きあげ、芸能活動のトレーニングや学習を行いつつ、段階的に成長していければかなりのものになります…そういう未来がいまの貴方の容貌から見える。私の役職はチーフマネージャーなのでその職業的見地から言っているのです」

彼は自信ありげにそう言った。

「ほんとかなー…?」

「もうひとつ、貴方には基本的なタレント性が与えられているはずですよ。カミの意志で、召喚の際にこちらの芸能界で生きていくための本能的な感覚や見識が与えられているはず」

「はずってなに」

「モンテルス教支部長がボスに語った話の伝聞ですから」

「神の意志?」

「いえ、カタカナのカミです」

「? …あ、それに、カブは?あたしのカブはどこ」

「このホテルの地下駐車場に保管してあります」

信じていいものか戸惑いはあるものの、あたしは彼の言葉を信じるしかなかった。「そう…」

「ボスと会う気になりましたか」

「他に選択肢がないじゃない」

「ではすぐに参りましょう、事務所でお待ちです。この空間にはまだ揺らぎが残ってますから次元パトロールが来るかもしれません、事態がややこしくなるので急いだ方がいい」

あたしは服のポケットを上から触り、つづいてウエストバッグをあさる。あるべきものが消えていた。

「たばこ吸いたいんだけど」

「次元移動の際に抹消されたんでしょう。残念ですがこちらでは生産されておりません。輸入も禁止されてます。忘れてください」

ため息をつくことしかできない。あたしはなるようになれと捨て鉢な気持ちになった。なんでこんなことになったのか。何に怒りをぶつければいいのか。

「その次元パトだとかはあたしにとって敵なの味方なの?」

移動しながら話しますと言ってアンドロメダはあたしを部屋から退出させた。廊下を通り抜けエレベーターに乗る。

「少なくとも敵ではないでしょう。…こちらの世界と貴方がいた世界の行き来は政府機関の認可を得ていれば合法なんです、でもそうではないケースがある。私自身は召喚の裏側を知らされておりませんから何とも言いようがありませんし…違法なのか事故なのか、或いは虚言なのか、判断するのは警察なので貴方がどういう扱いになるか私にはわからない。……私が貴方の立場に置かれたと考えた場合……気にくわない世界であれば警察にかけ込むのもアリですよ。フロントで呼ぶのもいい」

「…。」

あたしは押し黙った。あたしはこの世界についてまったく知らない。気にくわないも何も判断のしようがない。まずは知りたかった。こちらの世界のことを。あたしは黙って彼の後ろについていった。エレベーターから降りると一階の食堂らしきところを過ぎ、猫人間二名が立つフロントを通り抜ける。

あたしはこう彼に訊いてみた。

「あたしのケースって違法じゃないわよね?」

「知りません」

突き放すようにアンドロメダは言い、足を止めると入り口の階段下で待っている黒塗りの車の方を見やる。

「推測で言えばグレーな存在なんでしょう。黒なら芸能活動なんかできはしないわけですし」

車の周囲、背後の風景は日本の地方都市のそれだった。妙なものであたしはこの瞬間に自分が目の前の現実を受け入れることができる、現実と立ち向かえる、とそう確信した。

「無理を…通してない?」

「聞く相手を間違えてますよ」

それはそうだろう。しょうがない、聞くべき相手の前に立つしかない。あたしは覚悟を決めた。来やがれ現実。なるようになりやがれ。


瀟洒な造りの六階建てビルに連れて行かれ、アンドロメダによる案内のままにエレベーターに乗り最上階へ。あたしは戦いを挑む心持ちでビルの一室に入ってゆく。


待っていたのは樽のような体格をした猫人間だった。ソファーセットのいちばん奥にふんぞり返るようにして座っている。スーツのお腹周りは張り、一見だらしない。しかし眼光は鋭く向かい合っているだけで威圧される。この樽猫が自分の運命を握っていることを思うと腹が立つ。何て嫌な猫、じゃなかった猫人間。社長室に通されたあたしはただ一点、目の前の樽猫だけに意識を集中させる。相手が黙っているのであたしから挨拶した。

「こんにちは」

「少しは落ち着いたかね。見ての通りここは君がいた世界とは別次元の別世界…でもすぐに馴染むよ、安心したまえ。さあ座って」

促されるまま革張りの四角いソファーに腰を下ろすあたし。すぐさま言ってやった。

「まず、違う世界から無理矢理人をここに連れてくるのは法律や社会規範をやぶっているんじゃないんですか?」

「君が知らなくてもいいことだ」

「ではなぜあたしが呼ばれたのか、どうやってここに連れてきたのか、その詳しい経緯を話してください」

「話せんよ。守秘義務がある」

「国家宗教が関わっているからですか?」

「…帰還に直結する話をしよう。こちらの要請に応えてくれれば君は帰還できる。いたってシンプルな話だ」

あたしは直感的に“ああ、この人も詳しいことは知らされていないのだ”となぜか思った。そして気持ちがいくぶん晴れてきて視界が明るくなったように感じる。

帰還の鍵を握る重要な人物には違いないがあたしが突然投げ出されたこのクレイジーな状況の支配者ではない。支配者は他にいる。直感はそう告げている。自分が置かれた状況を把握すべく、あたしはとりあえず探れるだけ探ることにした。

「あたしが求められているのはどういう分野のタレントなんですか?」

「分野では説明しにくい…活躍できる分野を模索しつつ活動するマルチタレントかな。芸能界が椅子取りゲームなのはわかるだろう。我々のグループはそこに新たな椅子を創設したのさ。アパレル系タレント席とでも呼べるような椅子だ。言わば隙間産業だね。付き合いのあるアパレル業者と組んで我が社は準備を進めてきた」

「アパレル系タレントですか…」

「元はラリッサに合わせたプロジェクトで、ラリッサがそうだったのさ。彼女は雑誌のモデルからバラエティを主戦場とするマルチタレントになり近年では脇役だが女優業もこなしておってな…グッズや彼女の名を冠した関連商品の売り上げは巨額だった。……ラリッサの代わりとなるタレントは、消費者の欲望を刺激しこうした経済効果を生むシンボリックな存在でなければならない」

「具体的な活動計画と言いますか、どのようなプランなんでしょう」

「ラリッサを中心としたプランは彼女による商品プロデュースが核となるプランだったが、ここはもちろん変更になる。君はゼロスタートだからな。モデル業からスタートしてテレビタレントへという全体像のなか、君名義の商品プロデュースを専門家集団にやらせつつ……世間的な知名度が高まったところでブランドを立ち上げ、店舗運営……とここまでが計画の中身だ。君の当面の仕事は雑誌のモデル、ファッション関係の番組出演、ファッションを扱うコーナーへの出演……などになる。できればバラエティもこなしてもらいたいね。うまくいけば…つまり売り出し期間が過ぎてもオファーがつづけば一応は成功と見ていいし、まあテレビの仕事が半年途切れなくつづいたとしたら大したものだ。…と言ってもいまの話はこうなってほしいという願望だ。君が代理をつとめている間に我々は総力をあげて本来の“新たな椅子”に座るべきタレントを見つけ出さなくちゃならん」

現実味があるとはとても思えない、夢のような話だ。外見はともかく中身はふつうの一九の女である。…いやふつうではないか。走り屋の一九の女だ。

「知名度を得たとして…それで商品やグッズが売れるとはかぎりませんけど…そういう売り上げに対する責任はあたしにあるんですか」

「いや、ない。セルフプロデュースじゃないから。そんな超人的な仕事は求めてない。君は看板で、とびきりの看板でいてくれればそれでいい」

「代わりは無理な気がします」

「いまはそうだろう。ラリッサとて最初はたんに美形というだけだった。独自の特別な魅力、カリスマ性が漂うのにデビューから二年かかってる。…しかし彼女とて広告代理店が納得するほどのタレントではなかった。もう過去の基準だよ、彼女は」

「あたしの中身は単なる十九の日本人ですよ」

「中身は頑張り次第で変えることができる。帰還するという結論があるのならいますぐこちらの世界のこと、こちらの芸能界のことを学びたまえ」

有無を言わさない口調だった。怒りのままを怒号で発することができればどんなによかったろう、あたしはこらえた。それでは何にもならない。

敵はこの樽猫ではなくあたしを取り巻く現実全体であり、別の見方をすればあたしの運命そのものが敵なのだ。切り替えるしかない。切り替えろあたし。ここで生き抜くしかない。あたしは自分に命じ、猛勉強を始める決意をした。元の世界に還るために。


とはいえガイナス斎藤の語る話に現実味はまったくなかった。なんでこの樽猫は自信たっぷりに話せるんだろう?

「まるきり興味がない世界ではなかろう」

それはそうだった。好きな世界である。芸能ニュース、ゴシップ記事は大好きだ。時にはネット民としての一日がそれで始まりそれだけで終わることもある。

「失敗しても報酬が出るという話を聞きました」

「そうだ。状況を前向きにとらえてほしいね。一年契約で年棒の基本給一千万を考えてる。これは私のポケットマネーだから税金はかからない。あとは出来高でここにはこちらの税金がかかる」

額に惑わされてはいけない、あたしは強く自分に念じた。金にまつわる話をかるく信用してはならない。

「気になるのは…ラリッサさん…でしたか、ラリッサさんの今回の振るまいは…言いにくいですけど待遇に原因があったのではないでしょうか」

「そうだよ。確かに初期は月給四万だったさ。あたり前だ。額が上がるのは投資を回収できて儲けが出てからだ。そこを何度説明しても彼女は納得しないんだ。自分はまさにその時期に金が要ったんだと。その時期にこそお金の支援が要ったんだと、こればっかりなんだよ。逆恨みもいいところだ。…君に関してはもちろん違う。まったく違うケースなので何もかもが違う。ほぼ即戦力としての評価になる」

「それは仕方ないです」あたしは大事な点に気づいて問うてみた。「で、仮に一年やったとして…元の世界では一年のあいだ、あたしは行方不明ですよね…」

「原理は知らんが移動の瞬間から数秒後に戻ると聞いてる。時間の進み方を変えるようだな。こちらにいた期間…一年なり半年なりをぐっと圧縮して秒単位にすると」

それが本当ならバイト先に迷惑をかけなくて済む。

「どうだね、やる気は湧いてきたかね?」

やるしかないんでしょう?と胸でつぶやき、あたしはガイナス斎藤の顔を見た。これからのあたしのボスだ。猫の顔をした。しかし忘れてはならない、あたしも猫の顔をしているのだ。

「やる気はあります。最初から」

これが運命なら、もう運命として立ち向かうしかない。

そのあとあたしたちは契約の話をし、確実な元の世界への帰還を約束した契約書にあたしはサインした。立場的には不法移民のようないまのあたしにとってこんな紙切れに意味があるのか疑問だが。


──ふと社長室の左奥に目が止まりあたしはボスに訊いた。

「あれ神棚ですよね?」

祖母の家で目にしてきた神棚と同じような物が天井近くにあったのだ。ボスはそれを見上げて「ああ」と言い、何かめずらしいかね?とつづける。

「いえ…住んでる家にはありませんが祖母の家にはありました。なぜこちらの世界にあるんですか?」

「日本の良いところは取り入れ、悪いところは反面教師にする。それがこの世界の流儀だ」

ああそうか勘違いではなかった。ホテルからの移動の道すがら、あたしはすれ違う多くの車を目にし、あたしの目にはそれがほぼクラウンに見えたのだった。世代が異なるだけでいろんな時代のクラウンが走っていた。乗ってきた黒い車も古い型のクラウンである。

「こちらで走ってる車種が限定されてるのはそれが理由ですか」

「ああそうだ。政府が輸入してるからな。業務用だと他の車種もあるが…基本的に公道で使用可能な車は政府があてがう仕組みになってる。選べないんだよ」



     ─


もうすぐこちらへ来てからひと月が経とうとしている。撮影と指導、指導を受けつつの撮影、着替えが何十回もつづく撮影…それはめまぐるしく、混乱と当惑に溢れ返る、まるで洗濯機に放り込まれたような日々だった。

この間によくわかったのは雑誌のモデル業という分野が自分にはまったく向いていないということだ。モデル業の本質は服が主役であり服を魅せることが仕事だ。それを感覚的に瞬時に行わなければならない。明らかに天性の素質が必要だった。事務所に育成のノウハウがあり幾分強い政治力があるため新人モデルとしてのあたしは表面的にかろうじて形だけ成立しているといった具合である。

あたしは気持ちをすぐに切り替えた。自分をグラビアアイドルのような位置づけで捉えることにした。つまりテレビに出てからが勝負という考え方だ。あたしにとってのモデル業は入口として重要なステップではあっても、たとえ全身全霊を賭けたとしてそれは正しい努力にはならない──という判断だ。エネルギーはもっと自分に向いていることに、自分にとっての実利に結びつくことに注ぐべきなのだ。


そういう訳であたしは通常のレッスン(芸能界の基礎的知識のレクチャー、現場のスタッフや先輩に対する振るまいや所作の指導、視聴者を不快にさせない言葉遣いの矯正など)と同時にこちらの主なバラエティや情報番組のVTRを見まくり、スタッフに頼んでレッスンの中身を番組出演のシミュレーションに重点を置くよう変えてもらった。あたしはこの研究と対策を繰り返して自分の血肉とすることに時間を費やした。むろんうまくいっているとは言いがたい。素人がすぐさまうまくやれるわけがない。本名のまま名だけカタカナにしたショーコ島崎を名乗るあたしはずぶの素人なのだ。それでもプロジェクトラリッサがプロジェクトショーコと名を変えて当面は維持されることになり、この点はほんとうによかった。プロジェクトから抜けた二社から請求されている違約金のことはともかくとして、社員やあたしの周囲のスタッフからにじむ安堵の感覚、はっきりと明るくなった社内の雰囲気、そういうのは新入りであっても嬉しいしほんとうに力になる。

協力企業の担当者への接待にはあたしも参加し、一応は精一杯の愛嬌を振りまいたのも無駄ではなかったのだ。

一方であたしのタレントとしての立場には一時的な危機が訪れていた。

あたしの存在と正体が早々にガイナス斎藤のボスであるフィクサーにバレてしまい、プロジェクトショーコは一時頓挫しかかった。数時間に及ぶ会議の末、この件全体はフィクサー預かりとなりいまに至っているが、あたしという存在に関わる交渉と取引はどうもかなり危ない橋渡りだったようだ。が、これは意外にも好機となった。テレビ出演が予定よりずっと早まったのだ。フィクサーの口添えによってあたしには〈モデル界の超新星〉というキャッチコピーが与えられ、お昼の主婦層向けバラエティ番組のいちコーナーであるコーディネイト対決の出演機会を得たのだ。比較的ハードルが低くかるいシミュレーションで対応可能な企画に思われるが実のところ人間性が出やすい企画でありタレントにとって何気に重みのある仕事である。今日これから収録があり、放送は再来週の予定になっていた。


共演者は四人いる。コーナーMCのカズヒロ・グレイル、元モデルのベテランタレントSAKI、ベテラン女優サユリ飯島、若手女優チナミ北村だ。そこにデビューしたてのあたしが加わってのコーディネイト対決である。もちろん対決そのものにあまり意味はない。対決を通してリーズナブルな店舗に並ぶリアルタイムの商品を視聴者に紹介すること、いまの流行を伝えることがメインである。

新人のあたしに問われるのは仕事に対する姿勢だ。誰もあたしのことは知らないし興味もないだろう、何のパフォーマンスも期待されていない。あるのは“お前は誰だ”の思いだけ。あたしにできることはただ真面目に対決に臨むこと。あたしはまず共演者の情報を得ることから始めた。SAKIさんは四五歳、このコーナーの常連であまり表裏のないタレント。女優の二人は舞台の番宣での出演で飯島さんは四七歳の実力派、北村さんは二一歳で世間的にはまだ有名ではないものの業界では気鋭の若手として名が通っている。

今回の企画の順位づけは幅広い年齢層の一般客による審査で行われるので年齢での有利不利はないと見ていい。コーディネイト対決のテーマは「秋にランチへ出かけるときの服装」である。

時刻は午前十時。収録開始は十一時の予定になっていた。あたしは巨大モールの中にある撮影現場すぐそばのベンチにひとり座り精神を集中させていた。マネジャーのシュトロハイムはそんなあたしに配慮して距離をとっている。撮影班は店舗入り口の辺りでひとかたまりとなって準備にいそしんでいる。


あたしは突然声を掛けられてはっとなった。

「おはようございます、あなたのこと知ってるわよショーコさん」

チナミ北村だった。綺麗な薄いグレーの毛並みこそ清楚なイメージを醸し出すがその眼光には野心が宿る、生まれながらの女優である。あたしは急いで立ち上がって挨拶した。どうも初めまして島崎翔子ですと言ってしまい、焦ったがとりつくろうのはやめた。

「hip見たわよ。これはくるってすぐ思ったのよ、それでもうTVでしょ、すごいわね」

hipとはファッションカルチャー誌であたし風情に丸ごと一ページ使ってくれた大恩人の雑誌である。

「ありがとうございます。まだ右も左もわからない新人ですがよろしくお願いします」

実物を目にして、あたしは彼女に抱いていたイメージを改めざるを得なかった。とても太刀打ちできないオーラを放っているのだ。圧と言っていい光にあたしは後ろに押されるような感覚を得ていた。これが本物か、との思いに包まれあたしは混乱するばかりである。

「座りましょ」声まで内臓にずしんとくる響きを持つ。

「先輩ったって大した先輩じゃないんだから、かしこまんなくていいわよ、逆にむかむかするからやめて」

「いやそう言われても」

「まだ代表作って言える仕事やってないのよ、私もペーペーなのこの世界では」


あたしは困ってしまった。彼女の言うことをあるがままに受け入れるべきなのか、受け入れたとして周りの目にどう映るのかを考えて迷った。そんなあたしにかまうことなく北村さんはどんどん迫ってくる。

「にしても、超新星て恥ずかしくない?」

「恥ずかしいですよ? でも新人なので断る権利ないです」

「ラベルダよね」

事務所の名だ。正式にはエンタープライズが付く。

「はい」

「パウラとは会ったことある?」「いえ。分野も違いますし」

パウラとは事務所の先輩にあたる、二六でここ数年は仕事が途切れることがない女優さんだ。デビューは十三でキャリアが長く世間的にも名が通っている。

「嫌いなのよね。よく比べられるの」

「五歳くらい違いません?キャラもかなり違うように思いますよ」

「でも選ぶ人からすると比較になるらしいのよ」

「ああキャスティングで」

わかる気がした。どちらもただ画面にいるだけで映像作品として成立させる力がある。その意味では似ていた。

「まあ私んとこは弱小事務所なんで被害妄想かもしんないけど」

パウラさんは十六から俳優業を始めて数々のオーディションに落ちながらもこつこつとキャリアを積み、二一のとき傑作となる映画と出会う。主人公の娘役を演じこれが好評を得て若手女優としてのポジションを確立させる。現在に至る道のりはチナミ北村とはまるきり違う。

「北村さんはものすごい才能を持ってて、この世界のプロ全員が認める女優さんです。気にする必要はない気がしますね」

「彼女の才能は認めてるわ。だから嫌なのよ」

なぜこんな話をあたしにするのか、と疑問に思いはしたがそれとは関係なく何かのスイッチが入り、あたしは自分が思ってもいないことを口に出していた。まるで脳と口が直結したかのように。

「でもいきなり女優になれた人じゃない。それに以前は新人がいきなり女優にはなれない時代でもありました」

「ああ、まあ、それはそうだけど私は昔を知らないし」

「やっぱりたいていはアイドル業をやらざるをえない時期があって、そうした先人が何人もいてこそ新人がいきなり女優をやれるいまの状況になったわけです」

「あなた私のプロフィール調べたの?」

「いえ、だからみんな知ってますって北村さんがほぼ傷つくことなくそのまま女優になったエリートってことは」

「そうかなそこ大事かな」

「アイドル志望だったのなら別ですけど違うでしょ」

「そりゃまあね」

「納得のいかない仕事をこなしていくのは建前上は必要ってことになってます。ですが才能ある人にとっては、これは辛いですよ。負担と消耗にしかならない。また売れたとして女優業とは関係のない、その時期だけの実績です。

言い替えれば北村さんはそうした時代を背負ってきてはいないわけです」

彼女は黙ってあたしを見つめつづけた。やがてトーンを落とした声が発せられ、それはまるで映画のワンシーンのようだった。やることのすべてに魅力があり、魅了されてしまう。

「…そうか、そうね…パウラは、私の立つ足場を作ってくれたひとりってことが言いたいのね」

「そんな感じです」

「ふうん、そんな考え方はしなかったな。……貴方は何になりたいの?」

「一応バラエティタレントを目指してます」

「本音ではどうなの」

あたしは態度を変え自分を前面に出すことにした。そうするべきだと思ったのだ。

「あたしは本来はバイクの走り屋なの。事務所的には秘密だけど。だからバイク生活が送れるような稼ぎがあればそれでいい」

チナミ北村は一瞬びっくりしたあと、すぐに元のクールな感じに戻り、こんどは弾けるような声をあげた。

「ハハ、そうなの?ほんとー?変わってるね─」

「契約だとバイク禁止なんで多少は偉くなってその条文を消したいんです」

「あーそうか私んとこも禁止だもんね、へー」

嘘ではなかったがあたしは話を盛っていた。いまのあたしはそれどころではない。カブのことは頭の隅に追いやっていた。まず帰還しなければならないのだから。


初のテレビ出演である収録を無事に終え、あたしはワゴンの中でチルドタイプの濃いめのコーヒーをちびちびと飲んでくつろいでいた。マネージャーのシュトロハイム佐藤は車の外で誰かと携帯電話で話している。結局コーデ対決はSAKIさん、チナミさん、飯島さん、あたしの順位で決し、あたし的にはまずまずの結果で、また見せて貰った撮り立てのVTRもあたしの望む出来になっていた。控えめな態度と真顔で服選びに没頭するあたしの映像はいまのあたしにできる最大限のパフォーマンスである。

いずれはタレント性が問われる厳しい局面が訪れるわけだが、そのときまでは地道にやっていくしかない。そのときは努力やこちらの思惑とは関係なく何かが試され何かがあたしに求められることになる。もしくは何も求められない結果を迎えるか。あたしにはまったく自信がない。自信がないことが誇らしいくらいだ、つまり凡庸なことが明確になっているので悩んでも仕方がないのである。確かにぱっと見は美形だけれども写真の出来映えに比べれば映像では平凡に思える。事務所の政治力が限界を迎えたとき、こんなあたしにオファーが来るのだろうか?

そんな意味のない心配はともかく、さしあたって今日は驚いたことがある。それは撮影スタッフの中にひとり犬の顔をした人物がいたことだ。こちらの世界の学習の折りに存在を伝え聞いてはいても実際に目にしたのは初めてだった。事務所スタッフの説明によれば犬地球からの移民なのだと言う。〈就ける職業が限定されている労働者〉の扱いでおおよそ九○○万人いる猫地球人口の中で三○○人強が犬族ということらしい。両族に敵対関係はないものの最低限の交流にとどめており去年、犬族の大統領の訪問があった際にはどちらの世界でもこの外交に対して賛否両論の意見が巻き起こったのだと。このとき、詳しい話はしたくないので上に訊いてほしいとあたしは告げられた。でも今日、その犬人間くんの存在をみな当たり前のこととして振る舞っているところを見るに、ふつうのことなのだと思う。いまさら不思議だとは思わない。しかし誰に訊くべきなんだろう?


「あ? なぜ私に訊く」

黒革のソファーでふんぞり返ったガイナス斎藤はあたしに怪訝な視線をくべて言った。あたしは事務所に呼び出されたのでその用事が済んだあと社長室へ寄ったのだ。犬族について知るために。

「先日、初めて犬族の方を目にしたんです。犬族のことをよく知りたいので教えてください」というあたしの申し出はボスにとって意外だったようである。

「アンドロメダくんは最近ピリピリしてて…仕事以外の話はしにくいんですよ…だからここはボスに訊くのが適切かなと」

「何が知りたい」

「二つの種族はどういう関係にあるのか」

背もたれから体を起こし、うつ向き加減になった彼はしばし右手で左手を握ったり指を絡めて両手を握ったりともじもじする仕草をやっていた。やがて諦めたような表情を見せて口を開いた。

「君を呼んだのは私だからな…多少の責任はあるか…。いまは少なくとも表面的にはふつうの関係にある…だから希望者を三百人前後という制限つきで受け入れてる」

「なぜ制限つきなんですか?」

「五十年くらい前に彼らはこちらの侵略を目論んだんだ。が我々は対策を講じていたのでそれは失敗に終わった。対策というのが次元パトロールで、元々の役割は犬族の侵入を防ぐことだったんだよ」

「犬族の…目的は?」

「領地だね。あと労働力」

「敵じゃないですか…!なぜ少数とはいえ犬族を受け入れてるんですか」

「さあ? 政府から説明はないね。だからそこは各々が自分で解釈する問題だ」

「解釈って…ボスはどう解釈してるんですか?」

ボスはあたしから目線をずらし、壁を見つめながら語り始めた。

「ん…?んー…我々は学んだんだ。彼らは準備していたのさ。こちら側…猫族側に侵略を引き入れる勢力…協力者を作っておいて事を始めた。こちらはそうした内側の対策はおろそかになっていた…。彼らの分断工作は功を奏し我々にはいっとき分裂していた時期がある…もし我々が皇帝制を持っていなかったとしたら、侵略以前に自滅していたかもしれんな…。我々は侵略から学んだんだ。外交、諜報活動、情報戦…そういったものの重要さを。政府はその方面に予算と人材をさく態勢をとるようになり…やがて猫族全体が、支配層も富裕層も大衆も変わっていった。我々は変わった。現実を見なくてはならないと。犬族が存在し、潜在的に敵の意味合いがあるということなら“目の前の現実”として扱わなければならない。ゆえに我々は…我々の政府は彼らを受け入れるのだ」

「…排除はしない、と?」

「いや、まずこちらの問題ということ。犬族の政府にとってこちらは獲物…こちらの国益を奪う気満々で百年単位の計画を立て実行に移してる…。目をそむけたり、別の問題にすり替えたりしてはならない。…そのためだ」

「排除した方が手っとり早くないですか」

「完全な排除は不可能だよ、内なる犬族派、隠れ犬族派はずっと存在するからね。本質は…ほんとうの敵は“区別を溶解させるもの、物事を忘却させるもの”なんだ。我々は犬族を区別し、現実を忘却しない。その体現が君が見たものだよ」

言葉を切ってもボスはあたしを見ずにずっと壁を見つめている。あたしとしてはコメントの内容をすぐには消化できなかったが、とにかくよそ者が口を出すべき事案ではないということだけは理解できた。

「芸能人にはいませんよね」

あたしを見てうなずくボス。

「ニーズがない。ああ文化人枠で何人かはいるか…。というか君、雑誌モデルなんだからこんなのどうでもいい話だろ、何の役にも立たないよ」

「一応はこの世界の住人ですから知っておきたいじゃないですか」

「気がすんだら去れ、私は忙しい」

ソファーから立ち上がり奥のデスクに向かうとどっかりと椅子に腰を下ろす。ボスはパソコンに向かった。どうせゲームしかやらないくせにとあたしは胸で毒づいて部屋をあとにした。


マネージャーのシュトロハイムによれば雑誌モデルとしてのあたしの評判はかんばしくないものだと言う。さして読者からの反響もなく、要は同性からの支持がまるでないそうなのだ。それは分かる。中身はあたしだ。外観がどうであれ、中身はあたしでしかない。これから雑誌取材を幾つかこなさなくてはならないのだがとにかくただただ気が重かった。一方で事務所の内部ではタレントショーコ島崎への期待値が上がっているという奇妙な状態にある。大体、男の四十~五十代の層にあたしは受けがよいようで、イメージがプラスに転じている感触がある。これはこれであたし自身とのズレが大きく、あたしにとっては変な…つまり意味不明、理解不能のプレッシャーになっている。が、しかしだ。あらゆる物事に対して立ち向かうしかないのだ。いまのあたしは。


それはかなり派手な容貌だった。出版社の会議室らしき部屋で待っていたあたしの前に現れたのは銀色の肌をした筋肉質の男…の猫人間。赤い革のジャケットにデニム姿だ。横柄というわけではないのだが馴れ々しい態度が気に障るやつである。しかしわりと部数が出ているカルチャー誌からの取材オファーなのであたしとしては最大限の丁寧さが要求される場面だった。それでも彼に対し、あたしは面食らった表情を隠せなかったはずだ。挨拶が済んで早々に彼はこう云ったのだ。

「うちとしてはショーコさんを広い意味合いでのアイドルと捉えてるんですよ」

戸惑うしかないあたしはしばし絶句したあと言葉をしぼり出した。

「いえ基本は雑誌モデルで…テレビタレントを目指しているモデルという立場です。アイドルなんてかすってもいませんよ」

「僕の規定だと成長過程をエンタメにするのはアイドルの領域ですよ。それが嫌なら最初から完成品を出せと思う」

決して嫌味で言ってるのではないのだろう。あたしはそう受け取った。彼は彼にとっての事実をそのまま口にしてるだけ。

「あたしに言われても」

「べつに困ることではないと思いますが。いきなり雑誌に出てきていきなり昼の番組収録──かぎりなくインスタントな登場であるにもかかわらず早くも業界では注目されている」

「初めて聞くお話です、実感ないです」

「そりゃそうです。業界内のさらにコアな部分の話です。そこで貴方は噂の中心になってる…いい意味でもわるい意味でも。わるい意味というのは競合相手からすれば早めに摘んでおきたい芽ってことです」

「大げさに言ってません?あたしはそんな大したタマじゃないですよ」

「確かに貴方はアイドルではないが、そのコアな視点ではアイドルの立ち位置にいる。そういう視点というものを貴方は理解する必要があると思いますね。生き残ってゆくためには」

あたしは少々腹が立った。彼の口からなめらかに語られているのはつまりサブカルの視点だ。話の内容は分からなくはないけれども、まずあんた誰?というのが正直なところである。

「どうすればいいんです?」



「冷静に現場を見て冷静な対応をとる…わるくはないですが、オーディエンスが求めているのは生の反応ですよ。もっとはっきりしたリアクションをとりましょうよ。何かしら爪痕を残そうとする態度を見せましょうよ。貴方新人なんですよ?これは現場スタッフの声です。タレントとしての意識が低すぎるということです」

まだ放送されてもいない仕事についてこの男は語っているのだ、噂レベルの情報をもとに訳知り顔で。確かにあたしは服選びに没頭していてMCとの絡みは控えめだった。──でもあんたにあたしの何がわかるってのよ! イライラしたのでつい口がわるくなってしまった。

「タレント性がないから冷静なんでしょうが!その場を乗り切ることで精一杯のど新人にそんな高度なことを求めるのは無理がありますよ」

「わかりませんか? 貴方、そこをアイドル性で乗り切ってるんですよ」

あたしはまた絶句し、思わずとなりのシュトロハイムの顔を見た。彼は黙っていた。どきりとする指摘である。何の実績もないあたしに、プロジェクトショーコに関わる協力者達があたしの何に期待して投資をつづけているのかと言えばそれなのだ。あるフィクションを成立させるためにアイドルの概念は世の中に存在している。彼らはあたしに覚醒の萌芽を見いだしているのだった。それはいまのあたしにとって見て見ぬふりをするしかない事実だ。あたしはそこから目をそらしていまを生きている。

「まあアイドル性と言ってもそこに客観性はゼロですが。でもわかる人にはわかる」

あたしはたばこを吸いたくなった。取材者の男が言ってることは悲しいかなあたしにもわかる。こちらの世界でもアイドルという形態はリアリティを失っている。芸能界が提供するアイドルと時代が求めるアイドル像にズレがあるのだ。うちの事務所にも歌手系アイドルは所属している。一応調べてみると多少の経済効果以外、そこには特に何もなかった。芸能界全体を俯瞰しても似たような形態しか見受けられない。ゆえにこちらでは、というかこちらでもモデル系タレントに強く深い求心力が働く。期待し、信頼を寄せ、時代を背負わせる。あたしはかりそめの存在なのにそういうのは迷惑である。迷惑でしかない。

取材者のペンネームはガルーダ蘭丸。あたし達の邂逅はいびつに緊迫したものだったが、本題の取材に入ってからは無難な内容に切り替わり、ただただ無難で有りがちな話に終始した。彼は何がしたかったんだろう? 悪評が伝わるのはおそろしく速い、という教訓を暗に述べたかったのだろうか。いずれにせよカルチャー誌ロンゲリスによる取材はあたしにとっては後味のわるいものとなってしまった。


帰りの車の中でシュトロハイムがぼそぼそと教えてくれた。蘭丸という人物は、何でもこの世界では有名なフリーエディターなのだと言う。たまに深夜番組のコメンテイターも務めていて顔がとても広いらしい。辛辣な記事を書くことも多々あって普通はどこの事務所も警戒する相手なのだと。最初から教えてくれればよかったのにとあたしが言うと、すみませんと平謝りするシュトロくん。あたしはかなりネガティブな気分でいた。あたしに残っているのは“相手に対する敬意が足りなかったなあ”という反省の気持ちだった。あたしのわるいところが出ていた。でも一方で、相手が“あたしの核心を引き出した”という面もある。あんな短い時間で。芸能界ってこわい。あれも才能なのか? 才能なのだろう。


今日は休日だったのであたしは部屋のソファーに横たわりくつろいでいた。事務所が寮として利用しているマンションの一室である。ワンルームなのは不満でも新人は致し方ない。昼の一時、ひと眠りでもしようかと思っているところへ事務所支給の携帯電話が鳴った。通話に出るとガイナス斎藤からだった。

「休みのところすまんが聞きたいことがあってな。君の資料を見てたら君、将棋ができるらしいじゃないか」

将棋?なんだろう?

「むかし、祖父の相手をしていただけです」

中学高校時代の半分近い期間、あたしは祖父の家から学校に通っていた。祖母は将棋を打たないので自動的に相手は私となり、世話になっている以上あたしとしても付き合うしかなかったのだ。

「上級市民のあいだで流行りかけてて私も最近始めたんだ。コンピュータ相手に始めて一ヶ月くらい経つ。が…だ。先攻だとまあまあ戦えても後攻だとまるで勝負にならないんだよ。何がまずいか見てくれんか」

「あたしも初心者ですよ。こういうのは定跡を知らない人はみな初心者です」

「そういうもんかね。とにかく、無理にとは言わんが教えてほしいんだ」

マンションは事務所ビルから三○○メートルほどしか離れておらず、あたしには断る理由がなかった。疲労があればそのまま伝えて断っているところだ。あたしはジャージから普段着に着替えて部屋を出た。

最上階にある社長室に入るとモニターをにらむボスの姿が見える。うながされるままにあたしはボスの肉厚の背中越しに猫人間対将棋ソフトの対局を見つめる。

──両者ともスパスパと駒を進め、勝負の結末は五分でわかった。

「だめですね負けます。ボスは守りを固めてないんですよ」

「ええ?」「相手は自分の王を囲ってるじゃないですか」

「しかし」「来たら対処する…では遅いんです、わかります、ポリシーに反するんでしょう?でも最初だけでも守りを優先しましょ。上達してから好きにやりましょう」「つまらんなあ」「攻めと守りを同時進行でやるイメージで」「ゲームなのに」「だから楽しむためにやるんです。ソフトは定跡を知ってるんですから本来初心者が勝てるわけないんですよ」「そりゃそうだが」

ボスは対局を終了させ最初からやり直し、相手を真似て玉を囲う陣形にトライした。攻めに関してボスは良くできていてその理由はすぐにわかった。駒の打ち直しができる、ソフトの〈待った機能〉をフル活用して試し打ちを繰り返すのだ。そんな中でもボスは攻めに傾注しているため飛車をスコンスコンと角で獲られている…その度、ああそうかとつぶやきつつ〈待った〉でやり直す。

あたしはソフトの打ち方を見ていて感心した。攻守のバランスがとれた美しい戦い方である。ミスを待ち、相手に隙があると見るや攻撃を畳み掛けてくる。均衡は崩れ、一端崩れるともはやボス側の劣勢は動かない。このゲームのタイトルは『将棋王カリギュラ』という名なのだがそのノーマルモードはプレイヤーに対して何とも容赦がなく、しかし見ているだけで勉強になる打ち方をまるで意志を持つかのように示してくれて、あたしの中の眠っていた将棋感覚をふつふつと湧き上がらせている。隙の無さ、相手を罠にはめるため意図的に作る隙、好んで使う攻防一致の戦法…ソフトって凄い。

「負けですね」「要領はまあ理解した。ちょっと実際にやってみよう、戦い方を見せてくれ。参考にしたい」「あたしはソフトより嫌な戦い方をしますけど」

ボスが机から真新しい将棋盤を取り出して立ち上がり、部屋の中央に移動しテーブルセットに置き、あたしは何年ぶりかの対局にのぞむことになった。

あたしのスタイルは守り八割。敵の駒を獲り集めてから攻めに転じるやり方だ。祖父が攻め八割の人だったからうまく付き合うにはそうするしかなかったのだ。

先手をボスにして一回目は楽にあたしの勝ち、二回目はわずかにボスが食い下がったのち余裕であたしの勝ち、三回目はボスも防御の陣を組むことから始めるに至った。「君は容赦ないな」「ボスをあのソフトとやりあえるようにするのが目的ですから。形をとるだけじゃなくて守りを優先して考えないと」「言うは易しだ」

聞く耳を持ったところであたしはあたしにできるアドバイスと自分の手の解説を行う。この手は牽制なんです。この駒獲りは守りのための手なんです。これは攻めに見えて守りのための攻めなんです…しかめ面で黙って聞くボスはしかし怒っているようで真剣だった。やりにくさを強く感じているはずのボスはその正体に気づき始めている。“陣形”なのだ。あたしは急速な優勢を狙わず、迎え撃つ陣を組み、均衡状態の維持に努め、やがて流れによって訪れる優勢に向かう“時”を待っている。ボスの駒の動きに合わせて。ボスはぽつりと声をもらした。

「いやらしい戦い方だ。コンピュータと似てる」「さっき見たソフトのやり方を参考にしてます。でもソフトと違って正確ではないです」「穴があると?」

はい。あたしがそう言うと彼は熟考した。あたしもボスのリズムに合わせ、ふたりともゆるやかな駒打ちとなっていった。

「──ときに前々から不思議なんだが、なぜ君らは何でもかんでも中国由来にしようとするんだろう?」え…?何の話ですか?

「…習慣じゃないスか?…細かな間違いがあるとしても…国内が丸く収まってまとまるんでしょうし…想像するに、やっぱどんどん親米国家、親米社会になっていく現実の中で、せめてもの抵抗として残された領域…みたいなもんじゃないスかね?」

「ああ親米化へのカウンターってことか。わからんでもないが、日本文化の起源はインドだろうに」

「それはみんな知識で知ってます。一方で由来や起源に重きを置いて隣国を立てるのは、まあ社会性として必要、ということでもあります。そもそも歴史教育の中で中国はリスペクトの対象なんですよ」

「将棋だってインドが起源だし、日本でカスタムされたから君が好む戦法も有効になってる」

敵の駒を奪うと自軍の駒として使えるルールをボスは言っている。

「見た目が漢字でできてますからインドのイメージは出てこないですよね」

「日本文化の起源はインドであり…数字だってそうじゃないか。なんでそこはリスペクトしないのだ?もっと言えば底流にあるのはエジプト文明だよな。さらに端から見れば日本文化の神髄は“外から輸入してカスタムする”って点だ。それを無意識にやってる。餃子だって君らは中華料理と思ってるけどあれって油で焼いて白米のおかずとして発展させた日本の料理じゃないか」「はいはい」「ローカライズやアレンジはどこの国もやるが、カスタムを取りつかれたように無意識でやってしまう国民性はやはり独特だし君らの特徴だよ。君らはカスタムにエネルギーを注ぎ込む、職人や技術者の尽力や切磋琢磨、その部分にこそリスペクトを向けるべきだろう」

なんとめんどうな話だろう。正論であるかも知れないが実にデリカシーを欠く物言いだ。隣国への配慮がメンタリティに組み込まれてあるのがあたし達であり多大な犠牲がそこにはある。そして犠牲に対しては見て見ぬ振りをしなくてはならない。

「…まあ集団におけるリスペクトの総量は決まってますから、個人に向けるというのはあり得ないですかね。社会そのものに八割九割のリスペクトを向けその意図的な部分はタブーにし、社会を意識の頂に据えるのをあたり前のこととして…常識として守る。全体に同化することがステイタスということにして秩序を構築…こういうのが日本の基本的なやり方ですかね」

「君が言ってるのは社会自体がひとつのレリジョンってことだろ…?」

「まあそうです」

永い沈黙があった。

「独特だな」

「異界のゲートをくぐって来てますから」

ネット民でもありますし。

「ゲートは私も通ってる。調査員としてね」

「ああ人間界の観察というか監視というか、ちらっと聞きました。あっちでは人間の姿に?」

「いや向こうでは完全な猫の外観になる。外観の操作が多少できるんで、ある時は仔猫になって一般家庭に潜り込み…ある時は野良猫になって都市部や田舎を駆け巡る…。黒猫の外観だとたいてい放っておかれるから楽だったね」

「いつ頃の話です」

「八○年代と九○年代」

「じゃあ今も誰かがその役目をやってるんですか」

「むろんだ。込み入った話はできんが」「なるほど」「不満げだな」「勝手だなあと。調査して何がわかるんスかね」「生活の実態。社会構造。社会の事情を優先して言論の自由を制限すると国は衰退に向かうってことかな。そして取り返しがつかない」あたしは挑発には乗らなかった。「いえ“報道しない自由について語れる自由”がありますからそうでもないです」「それはいまの話だろ」

盤上、あたしの陣形は攻めに転じるための準備が整い、ボスの駒は狩られるのを待つ獲物と化す流れの中にある。

相手の駒の動きを把握すると優勢に向けた駒打ちが自然にできるようになっている自分が不思議だ。脳内の変化を、指先を通して、盤上の駒を通して感じるこの感覚をあたしは忘れていた。

腕組みをして考え込むボスはため息をつくと、なんでこうなるかなあ、とぼやいた。

「攻めしか考えてないからですよ」

あたし自身、セオリーを知るまではそうだった。ルールだけではだめでその奥にあるセオリーを知ってからようやく楽しみが立ち上がってくる。時間がかかるものなのだ。


独りで学びたいということでお役免除となったあたしは社長室を退出しエレベーターに乗り帰途につく。と、四階でエレベーターが止まりアンドロメダくんが入ってきた。チーフマネージャーとして会議の場で顔を合わせることはたまにあってもこうしてふたりきりになるのは前回がいつだったか思い出せないくらい久しぶりのことである。

「おつかれさま、忙しいみたいね」「いえ、今朝がたちょっと状況が変わりまして。以前のルーティーンに戻ったというか、正常になりました。出ていったのはラリッサだけでなくて周りを引き連れていったんですね、でその分の仕事が私に回ってきていたんです」「そっか」「ボスに呼ばれて?」「うん将棋のレクチャーをね」「そうですか。…一応簡単に伝えておきますがプロジェクトショーコは私達の手から離れてアルフォンスグループの事業となりました」「何か変わるの?」元々アルフォンスグループとしての事業だったはずである。

「主導権が移ったんですよ。うちからグループ本体に。今後は我々の方が協力企業の立場になります。あなたには何の影響もないです。うちの事務所の責任がほぼなくなったということです。その代わり事業に口出しできなくなりました」そうなのか。そもそもプロジェクトは一端停止状態になっていると聞かされている。しかし水面下では動いているということか。彼も一階まで降りてきて、一階のカフェに行くようだったのだが、あたしは誘ってくれるものと思い返事を用意していたのに「じゃ」と言って彼はすたすた去ってゆく。あたしはひとつ息をついて事務所ビルから出てマンションに向かった。アンドロメダくんには不思議なところがある。彼には人を安心させる何かがあった。


     ──


初のテレビ番組収録から二週間が経ち、放送日を迎え、仕事のないあたしは事務所で社員やマネジャー達と一緒に放送を観ることになった。あたしの出演するファッションコーナーが午後一時あたりに始まるのはわかっているので皆ゆっくりと集い、会議室の中には次第に静かな緊張感が漂い始める。これですべてが決まるものではないけれどもまったく反響がないとしたらタレントとしてのあたしの将来は絶望的だと周りに言われている。あたし自身もそうだと思う。業界人視聴率の高いコーナーなのだ、そこは覚悟の上であたしも仕事をしたつもりである。──期待はしない、それでも多少の反響は欲しい。これが本音だった。……コーナーはおよそ三○分。時刻は一時半を過ぎ、観終わった皆の感想は、結論を言えばかんばしいものではなかった。まあまあかな、初めてならこんなもんだ、何も主張するものがなかったな、何も残さなかったな、アンドロメダくんに至っては「女優陣の引き立て役でしたね」という感想である。あたし自身も、何もおもしろくもないフツーさに愕然として観ているしかなかった。視聴者には風景のような存在感のない〈タレントみたいなもの〉に映ったのではなかろうか。確かに表面上はわるくない…自分で言うのもなんだが容貌だけを取り上げるのならわるくはない。といって何を残すでもない、かすみのような出演者だった、あたしは。

ばらばらと人が会議室を出ていって、室内にマネージャー職の四人だけが残った。「予想していたよりはわるくないです。しかし次は今回の経験を活かしましょう」とチーフマネのアンドロメダくん。女マネのマイミ桜田さん(36)はいつものクールさを保ちつつにこやかに言った。

「総括にはまだ早いですけど…あえて総括をすれば、ショーコさんは男性の支持を受けるタイプのタレントで、もうこれからはこの方向に絞っていいと思いますね」

そう言われてすぐ納得できるわけではなかった。あたしは確たるバックボーンを何も持っていない。そう思うとブルーな気分になる。

「あたし評判わるいみたいで」

アンドロメダくんが言った。

「あれショーコさんもしかして蘭丸の件、気にしてます?」

「え?そりゃあね」

「そこは大丈夫なんで心配しなくていいです。彼とは話をつけてあります。良い結果が出れば優先して取材を受けるから潰しには参加しないように、と釘を刺してます」「あら…、効くのかな」

「彼、笑ってました。わかりましたって言ってましたからしばらくは様子見というところじゃないですかね。私があなたに特別な“運”を見いだしているように、彼も同じものを見ている、そんな気がしますよ」

「そうね、私も同感だわ。運持ってる」と桜田さん。シュトロハイムと新人女優を担当しているサイラスも黙ってうなずいていた。

そうかなあ?


携帯電話が鳴り、画面には〈ボス〉と表示され、あたしは皆の手前急いで通話に出る。

「これから時間空いてるだろ、将棋に付き合ってくれ」

わかりましたと告げ、四人に社長室に行ってきますと声をかけてあたしは席を立った。将棋レクチャーの話はすでに社内で広まっているので、皆これかあという顔をしてあたしを見送っていた。二週間ぶりの呼び出しである。上達してるかなガイナスは。


エレベーター前に来たところで後ろから早足でやってきたサイラスがあたしを呼び止め、三田があなたと会いたがってると申し出た。三田とは彼が担当しているルーシア三田という十七歳の新人女優だ。

「チーフの了承があればあたしはべつにいいわよ」

問題があるとは思えないが一応である。社内であたしが異世界の人間であることを知っているのはボスとアンドロメダくんの二人だけ。あたしはそれを完全に隠す自信がなく仕事以外のつきあいを極力避けている状態だった。バレそうになれば実は調査員の経験があって…などとごまかせそうではあってもやはり隠し通せる自信はない。できればアンドロメダくんにさりげなく断って貰いたくもあった。

ルーシアはあたしから見てうちの事務所の所属芸能人の中で最も高いポテンシャルを秘めている人物で、あたしの中の“特別枠”に入れてある。彼女は別格だ。演技の才能まではわからなくともはっきり彼女は天に選ばれた人物だとあたしは断言できる。が、問題もあってまさにその別格という点だ。女優というには、彼女かわいすぎるのだ。水晶のような存在感。奥にもうひとつの世界が広がっていてそこから新世界の風が吹いてくる感じ。…実物に会ったことはなくあくまで写真や映像からの印象である…ゆえに少しだけ心配ではあった、あたしのハイパーにすぎる幻想が崩れはしないかと。


「編集どうだった?」

最初の一声がこれだったのでボスは番組を観ていないのか、といくぶん残念に思いつつ「普通でしたよ」と答え、あたしはテーブルの上の将棋盤に目を落とした。

主婦層向け情報バラエティ『お昼ンルン』ファッションコーナーのVTRはある意味公平な、女優陣がいるからといって彼女達の尺が長いわけではない、出演者として不満のない編集であった。

「ならいい。さてどうなるか…のるかそるか、勝負だな。楽しみじゃないか」「そんな余裕ないです」「ばか、波が来たら乗るしかないだろ、一回二回しか来ないぞ。これ人生の中で一回二回ってことだ。楽しまんでどうする。楽しまんでどうベストを出すんだ?」

中身は凡人なんですよ、と胸のうちでつぶやき席につくと、あたしは自分を将棋モードに切り替えてゆく。今日は私が後攻でいく、とボスが言う。そうですかとあたし。前回より自信があるように見受けられる。さてどうなるか…。対局が始まり、十分後も両者の均衡は崩れることなく、互いに考える時間をとりながらの打ち合いになった。ボスは銀を守りの位置に固定し前回までのような銀で攻める戦法をやめていた。大きな変化である。しかしまだあたしとの差は開いたままで、あたしを苦しめるほどではない。ほぼ二十分後にボスは投了した。ため息をついたあと彼はペットボトルのお茶をごくごくと飲み、難しいなと一言漏らした。あたしも用意されていたお茶を飲み、「コンピュータ相手ではどんな感じです?」と訊いてみる。

「勝率は上がってきているがスカッとは勝てない。毎日やってるわけじゃないからすぐやり方を忘れるし…あ、そういや午前中にバイク屋から電話があってな。君のカブを女の従業員が通勤で使いたいと言ってるんだがいいかって訊かれたから、かまわんと言っておいたよ。いいよな?」

あたしのカブはアルフォンスグループの藤田モータースというバイク屋に預けてある。整備環境を見るために一度だけ挨拶しに行ったことがあった。古いカブはただ倉庫に保管すれば済むといったバイクではない。

「…ええ。どんどん走ってってあたしも言ってますし」

カブのエンジンは放置に弱いのだ。数値的性能がたとえ落ちなくとも体感性能の低下を感じざるをえなくなる。ネット情報によれば酷使前提に設計されてあるかららしい。行うべき整備を行い使いつづけることで活きてくるカブエンジンの伝説は今を生きる神話でもある。

「私も十代の時、新聞配達でカブに乗ってね。あのエンジンが生み出すパルスは衝撃だったな…あれは社会に価値を与えるパルスだよな」

十代と言われても今の樽のような姿からはとても想像がつかない。

「そういえばあの店には排気量50から125までのバイクしかなかったんですよねえ」

「ああ、ホンダのビジネスバイクのみ輸入OKってルールだから。警察だとCD50が多くて次にカブ110かな」

「輸入規制ですか」

「そう。じゃあベンリィ50Sはどうなるんだって話なんだが。はっは」

「はいはい」

その車種はCD50をスポーティな外観に変えた派生モデルなのだ。年代が違うので厳密には同じものではないが中身はほぼ同じである。

「何が選択の決定基準になってるんですかね?」

「さあ?公表されんからわからん…たとえば映画だと『君の名は』は審査に半年くらいかかった一方でシンゴジは即公開が決まったんだよ。理由を推測すらできん…、シンゴジは観た?」「テレビで観ました」「どうだった?」「あたしはネットでさんざん評判や事前情報に触れてきてましたから、普通に楽しめましたね」「あの効果音は観客それぞれに“百万円のヴィンテージジーンズを配った”みたいな価値があるよ。全体もよかったが最新のCG技術じゃないところとか細部がいちいち正しくて見事だったね」「綺麗すぎずってことですか」「技術は使いこなせないと意味がない、使いこなしてる感じがしてて納得できたな」

突然あたしは背中がぞくっとし、身構えた。なんだ?とそう思うのと同時に目の前のボスの体から黄金色の炎のようなオーラが立ち昇るのを目にした。驚きで声も出ない。ボス自身の様子は何も変わず本人も放たれる炎には気づいていない。おかしいのはあたしの視覚の方かもしれない。もしくは──次元移動の際の衝撃があたしの脳に何らかの作用を及ぼしたのか。脳が見せている映像であることは直感でわかる。これは何?

まあしかしあたしはすぐこう思った。オーラがどうこう以前にあたしの目の前にいるのは猫人間だろ?と。内心ぷぷっと自分を笑った。何驚いてんのあたし。そしてやぶからぼうに脳裏には〈ハイパーガイナス〉という単語が浮かび、あたしはこれを気に入った。

ガイナス、あんたスゴイよ。


「それはともかく私の目から見るとあれはある意味日本のサブカルの総決算というか集大成だと思うのよ」

「何となくわかります。でもサブとメインて何が違うんですかね」

「ああそれはサブは何がしかのカウンターである必要があるって点だな。その時の社会状況だったりメインカルチャーに対するカウンターになっていればサブの役割を果たしたことになるね。世の中には普遍性では捉えきれないものがあるからな」

「カウンターですか」

「そう。たとえば連載のリアルタイム限定だが、ドラゴンボールにしても結果的にカウンターになってる訳だし、君らの伝統みたいなもんだ」

兄の本棚にあった漫画のひとつなのであたしもこの作品は読んでいた。読み込んでいた。

「そうなんですか」

「ドラゴンボールはメインカルチャーに正面から相対していた」

「どういう風に…どこがですか?」

「ピッコロ大魔王は知ってるだろ最初の」

「徹頭徹尾悪だった方ですよね?」

「八○年代当時すでにその悪、絶対的な悪を描けない時代に入ってたんだよ。勧善懲悪が成立しない時代になってた。悪にも事情があるのだ、悪もやむにやまれぬ切実な事情を抱えていてそうせざるを得ないのだ…という風に」

「勧善懲悪が古いと?」

「いや無効ってこと」

「なぜですか?」

「誰もが悪を内包して生きるしかない時代に入って…大人は勿論、大人だけでなく子供も経済論理を優先しなくてはならない時代になったからだ。時代を表す代表的な例を挙げれば無駄な公共事業がそうだ。財政的にも教育的にも環境保存、文化保存の面でもこれは悪だ。この悪はしかし社会的には必要なんだね」

「雇用ってことですか」

「そう。改造論に基づいて爆発的に急拡大していた建設業界を今度は養っていく必要があったのさ。別に矛盾はないんだそこには。経済と文化が両輪で進めば問題ない。が、経済論理だけでいってしまった。人間の心理には悪を許すなという欲求があるのに、そうした時代のニーズは膨れ上がり満ち満ちているのに社会全体としてそこは放置したわけだ。いや…非常にこれは言いにくいが封じたわけだ。何によってか。管理主義によって。悪を封じるのではなく憤懣や疑問を封じることが君らの管理主義の正体だった。メインカルチャー側の事情を言えばこの構造が背景にあるからメインは時代にひれ伏すしかなかったわけだ。適合しろ、黙ってろ、適合するしかないのだ、と封じる側についた。つくしかなかった。その封じられた欲求とニーズが、たまたまリアルタイムのドラゴンボールには描かれてあった。それがピッコロ大魔王というメタファーさ。…結果的にそうなったというだけで作者は全力で否定すると思うがね」


ガイナスの纏うオーラの炎はいったん弱まり、落ち着きを見せて安定したように見える。あたしは話のつづきを聞きたかったので口をはさむことをしなかった。

「このときドラゴンボールは〈絶対悪が登場し、その悪を主人公が倒す物語〉にたまたまなってしまい…たまたま、これが悪に言及しようとしないメインカルチャーに対するカウンターになった。なっていた。大魔王の絶対悪に気づくと…振り返って物語冒頭のクリリンの死は、そのまま、工事の影響によって失われゆく命であり、失われゆく君ら日本人のメンタリティを意味していた…と、私はそう感じたわけだ。……自然を愛で、昆虫のような極小の生命体にまで感情移入する民族…それが私の君らに対する認識だったのでな」

ガイナスのオーラは小さくなっていったあと消え、彼はいつものボスに戻った。

「といっても単行本を読んでもこんな大層なことは一切感じない。リアルタイムの魔力だね」

「へー。あ、じゃあフリーザとベジータも何かのメタファーなんですか?」

「結果的には…ふたりの関係はその時代のメインとサブの関係になってるね。がこれもたまたまそうなったのかもしれん」

「なんだか文学的ですネ」

「そうなんだよ」


不思議な話である。あたしが生まれるずっと前なので君ら民族と言われてもあずかり知らぬ話だ。

あたしはもう一局打ちますか、とボスに訊いた。いや、今日はもういい、君は今後に備えて鋭気を養いたまえという返事。ややあって彼はつづける。「…それからできるだけ新聞や雑誌に目を通しなさい」「それはけっこう前からそうしてますよ」「ならいいさ」

あたしは一礼して社長室を出る。何となくボスには今後の展開が見えているように感じた。あたしに何も語らないということはあたしが知らない方がよいことなのだろう。実際のところあたし自身もかすかながらに“うず”のようなものを感じている。自分の力ではどうにもならないうずだ。吉凶を越えた何かの意志に恐れを抱きもする。こわい。こわいがあたしには逃げるところもない。

 

 

 

 

       つづく



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