二人の太陽 4
「何だ。何を呆けている。阿呆かお主は」
私は突然、窓を破って中へと入る来訪者に唖然として言葉が出ない。
「ううむ。貴様を選んで正解であったようだ。研鑽に励んでいたようでなにより。契約はなった。これからは何時でも安心して死ぬが良い」
何を言っているのかこの女は。何だかとてつもない違和感を感じる。何だか母の面影がある。しかし、こんなに若いはずがない。この女は私と同じくらいの年であろうか。
「阿呆か。まさか吾輩との契約を忘れたかこの間抜けめ」
なんだか見覚えがある顔をしているのは確かだ。この顔は見ている何度も。この顔は。そうだやはり母だ。
「だから違うと言っておろうに。この阿呆。これを見ても分からぬか!」
そう言うと女は背中から大きな翼を広げた。とても美しい翼であった。頭から角まで生えてきた。その後、女はこの世の物とは思えない姿に変容していく。そのとても美しい姿に私は魅入ってしまった。言葉が出ない。
「自分と同一の存在にも心を開けぬとは重症じゃな、お主。しかし、吾輩が美しく見えるとは……。真にお主は吾輩の物になったということであるな。うむ。契約通りじゃな」
「貴方様は……神様……」
「やっと会話をする気になったか。それにしても戯けが過ぎる。お主が心を開けばそんな事すぐさま分かるであろうに。残念じゃが、吾輩は神ではない。」
お主が契約した――。
神々しさの塊のような存在からのあまりに心地よい言葉に思わず心が解されてしまった。その瞬間、私に流れ込む情報の数々。思い出した。この方は……。
◆◇◆◇◆◇
私が母を失ったのはまだ七つになるかどうかの時分であった。葬儀では父が泣き崩れていたのを今でも覚えている。
私もだ。
私も何が起こったのを理解してしまった。帰ってくることのない母。私は祖母の部屋で祖母に抱きかかえられて毎日を泣いて過ごした。
そんな時である。祖母の部屋で見つけてしまったのだ。
絨毯の下にあったのは初めてみる魔方陣。私は祖母から母の家系の事をその時初めて聞いた。
母の家系はダイルトーアでは珍しい代々の魔法使いの家系であるそうだ。
しかし、国内では魔法は好まれておらず、どちらかといえば忌み嫌われており、その血筋や力を子孫に受け継がせるのは並大抵の努力ではなかったそうだ。
母はそんな家系でかなり有望な力を生まれながらに持ち、将来を祖父から期待されていたようだ。
しかし、母は父と出会い私を身ごもり、父との結婚のために家族と魔法を捨てたのだそうだ。
それに激怒した祖父は母を家から追い出し、その後を追うように祖母も家を出たそうだ。
私は疑問に思った。
なぜ魔法を捨てた母についてきた祖母が部屋に魔方陣を敷いているのかと。
祖母はその時は教えてくれなかったが今ならたぶん分かる。祖父は母を追い出したのではない。監禁したのだと。
それから祖母が母を逃し、祖父に見つけられることのないように何か特殊な術式を用いているのだと。
私は祖母の目を盗み、その魔方陣に血を捧げた。
ただの子供の浅知恵だと私は自分自身のその時の行動を侮っていたが、今分かった。
あの時、既に私は魔法使いであったのだ。幼い私は血を捧げた後、願ってしまったのだ。再び母と会いたいと。
◆◇◆◇◆◇
「うむ。思い出したようだな」
「やはり、貴方様は……神様」
目の前の異様な存在に心がときめく。あの時の契約。それは私が再び母と暮らせる代わりに私が全てを捧げるというものであった。
「なんだ、お主は自分が悪しきものと契約を結んだと信じたくないだけか。安心せい。吾輩は悪魔でも天使でもない」
そうだ。魔法とはそのような物ではない。帝国で学んだ私は知っている。
魔法はあくまでこの世の理、その一部に過ぎないと。それならこの方はいったい誰なのだ。
「人間とは脆いのう。与えられた情報が多すぎて処理しきれんかったか。口で説明してやろう。吾輩は世界そのものである。この世界の上、あの太陽。あそこにはこことは別の異世界がある。あの世。その世界こそが吾輩である。理解したか?」
「それで、母はどこに……」
「あの天上の吾輩という大地の上で元気に生きているぞ」
「それでは契約と」
「違うとは言わせん。再び会いたいとしか聞いておらん。いつ会えるかなどとは契約内容にはない。だから死ぬまで会わせん!」
得意げににやりと笑った。その表情にとてつもなく私は苛立った。
幼い私の健気な思いをこの者は踏みにじるのか。私があんなに願ったのにこいつは。
「何を怒っている?だから死ねば会わせてやると言っている。まあその前に死ぬまで吾輩のために働いてもらうがな」
「貴様のためになど誰が働くか!」
「いいのか?そんな口の聞き方をして?狂おしいほど吾輩に屈服したいのであろう?今のお主は?なんせ半分は吾輩の世界の住人になっておるのだからな。お主にとっては吾輩は世界そのものだからな」
「だったら、直ぐに母に会わせろ!」
「だから会わせんよ。自害しても無駄だ。吾輩が転生などさせぬ。許さぬ。吾輩の血肉として母と永遠に会えなくしてやろうか?」
私は珍しく頭に血が昇っているのを自分でも理解していた。
私の中で錯綜した情報がなかなか整理されない。ただ理解はしてしまった。
この世界の理の一部を。
この短い時間に多くの事が頭を流れすぎて殆ど言葉として表わせないが、理解だけはした。
「まだ、混乱しておるのか?吾輩は優しいからな。どれ、面倒だがまた言葉で説明してやるかの。お主たちはこの世界で死ぬとな、二つに分かれるのだよ。この世界に還元される分と、吾輩に還元される分とにな。量的には七対三だな。まあこれはどうでもいい。その還元されたお主をな。吾輩が吾輩の子として吾輩の世界に転生させてやろうと言うのだ。それも母子を同じ世界に。こんな事、お主一人の全てを捧げたところでこの世では到底叶わぬ夢だぞ?まだ不満か?」
私は神々しいこの異形の存在の言葉をじっくりと咀嚼し飲み込もうとする。
膨大な情報ではなく知識として。正しく理解するには頭がついてこない。なら正しくなくても知識として飲み込むのだ。
「うむ。それでよい。人間に天の理、地の理を瞬時に理解するなど出来んようだ。分かっているか知らんが吾輩はお主とほぼ同一の存在としてこの世に自身を転写したのだ。この世の情報や言語などは吾輩も古い物しか持っていなかった。だからお主と物理的に近づき、吾輩にはお主の知識や経験がまるまる一冊の本のように分かるようにしたのだ。お主も吾輩と情報を共有するはずが、人間には荷が勝ってしまうようだな。これは誤算であった。瞬時に吾輩の僕として新たな価値観の目覚めがあるはずであったがの」
「それで、貴様に協力しないと母の命はないと」
「おお、少しは理解してきたようだな。そうだ。この世とあの世の理が、保たれてきた平穏が、あの世の者ども、つまり吾輩の子たちによって崩されようとしているのだ。あの世は狭くてな、この世で死んだ者の三割しか還元されん。あの世で死ねば全てがこの世に辿り着き新たな生として蘇る。あの世はこの世がなくては成立せんのだ。それを我が子らは理解していない。」
「だから、この世で大量虐殺をしてあの世を広くしようと?それに何の意味が?」
「少し違うな。我が子らはこの世を滅ぼそうとしているのだよ。この世がなければあの世から還元されるべき物質は頼る場所を失い、再びあの世、吾輩の元に帰ってくると信じておるのだ」
「それなら母は死なない。私もあの世で永遠に暮らせるということでは?」
「そんなに上手くいくかい。大抵はどんな連鎖も断ち切ろうと努力すればするほど元に戻ろうと強力な反発をする。この世でもあの世でもそれは同じだ。しかもこの世とあの世の繋がりを、この世を消すことで断ち切ろうとする。あまりに阿呆すぎて我が子ながら呆れるわ。反発は波の様に次第に高くなり、むしろ吾輩が小さく消滅寸前になってしまうであろう。それでは吾輩の上で生きる者はどうなる?生きるべき世界が縮小しては奪い合うよりほかないではないか。その争いでお主の母が、勝者に残されたほんの小さな世界を勝ち得ると信じられるのか?吾輩にとっては一瞬のただの体積の増加と減少にすぎない。何れ元に戻るのだろうが、それではあまりに不憫ではないか、お主ら生きとし生ける者が!」
女は表情を曇らせながら雄弁に語った。
どうやらこの女『あの世』はとても慈悲深い世界であるようだ。
私たちのような小さき者の事に心を砕いている。
私としてはそんな神の様な者が目の前にいることを信じられずにいる。何か裏があるのではないかと疑わずにはいられない。
「タイヨーと呼べ。お主たちは日頃から吾輩をそう呼んでいるではないか。あの世などと、吾輩も自分で言ったが、他人にまるで死者の様に扱われるのは好かん」
「それでタイヨー」
「様は付けんのか?お主は目上の者には敬称を付けるであろう?」
「タイヨー様は――」
「なんだ?聞こえないな?もう一度!」
「――タイヨー様は私に何をさせるおつもりで?」
一頻り満足げにニヤニヤ笑った後に私に偉そうに説明を始めた。
あの世の者どもは仮初めの姿でこの世に召喚されているか、タイヨーの様にこの世の情報を集めるために誰かとほぼ同一の存在としてこの世に降臨しているらしい。
召喚された者どもはあの暗雲の周りの怪物が良い例で――あれが既にあの世からの干渉であるとは驚きである――この世の情報を持たない代わりに与えられた肉体とあの世での魔力の高さにより恐るべき魔物と化しているらしい。
タイヨーの説明から魔物はまだ対処がしやすいようで、非常に厄介なのはこの世の者から情報を得てその情報主を葬り、その身分を奪って人間社会に溶け込んでいる者である。
知りえる知識や記憶は元の存在と共有しているので見分けが困難であり、その魔力からあの世の者であると感じることができなければタイヨーでも誰があの世からの降臨者か分からないそうだ。
この降臨者を魔物と同一のあの世からの侵略者と考え、魔人と呼ぶことにする。
この魔物と魔人、双方には必ずこの世からの協力があったのだとタイヨーは断言しており、その協力者の抹殺と魔物、魔人のこの世からの排除がタイヨーの目的らしい。非常に――。
「――困難な事であるな。お主はそう思っておるのか?」
タイヨーは時折、私の心を読むらしい。文字通り。
「困難ではない。既にこの世で活動を始めた我が子らの目的はこの世の破壊。ただそれだけだ。なら簡単ではないか?この世の魔物、そして争いを生まんとする全ての者を始末すればよい」
困難である。
人間にも争いを好む習性はある。人間と魔人を区別して始末するなど到底できまい。
「区別する必要などない。ただ皆殺しにするのだ!世界の尺度で言ってしまえば、この世を破壊する。その方が無理難題だ。寧ろ、ただ戦争屋を皆殺しにするぐらい容易い事よ。しかも、その程度でこの世とあの世の均衡は壊れん。どうだ?出来る気になってきただろう?」
「それでは微力ながらこの世の破壊に手を貸すことになりませんか?どのような方法でこの世を破壊しようとしているのかも分からないのに――」
「最終的に勝てばよかろう!」
阿呆とはよく言ったものだ。どちらが阿呆であるか。
「なんか言ったか?」
「私に何が出来るでしょうか?私などに。私はただの人間です」
「魔法が使えるであろう?」
「魔法なんて帝国へ行けば腐るほど使い手がいます。それに私に碌な魔法は――」
「使えるであろう。お主は吾輩と契約をした。その時は吾輩の気まぐれが大きく作用したとしても、お主は吾輩に契約を正しく吾輩に伝えられるレベルの魔法を行使した。そうは思わんか?」
「――ですが、私はあの時使用した魔法陣も書けないですよ」
「その必要はない。吾輩がいる。吾輩を触媒としてあの世との交信が出来る。」
「魔物や魔人として来るような連中と対話をしろと?」
「そうではない。あの世も一枚岩ではない。吾輩のためにこの世を滅ぼさんとする者もおれば、吾輩の命がなければ動かん信心深い者もいるのだ。その者の手を借りればよい」
「ですが、その忠誠がいつ狂気に変わるとも分からないでは――」
「なら制限するのだ。能力を。与えぬのだ。肉体を。まあお主が魔人の肉体を作るほどの実力がないのは分かっている。だからお主自身に降ろすのだ。魔の力を」
「――では母を呼ぶことは」
「まかりならん!契約違反だ!吾輩を出し抜くなど絶対に許さん!」
私は悩んだ。
このタイヨーが言う契約で、私が最後には母に会えることは頭ではなく魂で理解しているようなのだが、何かが引っ掛かる。
私はこのタイヨーを信じていいものか、このタイヨーも世界を終わらせるために来たのではないかと疑いが晴れない。
「何を悩んでおる?お主はお主の傲慢さに似つかわしい力を手に入れることが出来るのだぞ?魔物にも魔人にもなれる力を。臆病者のように尻込みするな。欲を出せ。このまま吾輩の命に従うのなら死ぬまでその力は保障しよう。好きに使え。世界を滅ぼさん程度にな。楽しんだ後は後悔なく死ね。あの世で母が待っておる。」
「ご自分でこの世を守ってはいかがですか?」
「阿呆が!出来ることならやっておるわ。吾輩が自らこの世に降臨出来んから、お主と同質の存在としての肉体に、力の一部を移して来たのだ」
「それならやはりご自分で出来るのではないですか?」
「お主も分からんのか。吾輩は既に魔人。同じ肉体にあの世の力を二つも。しかも方や世界そのもの。吾輩が一度この身にあの世の我が子を降ろす度に、あの世の我が子は自分と自分の住む世界、どこまでが自分か分からなくなって発狂してしまうであろう。お主なら自分がこの世と同一になる感覚に耐えられるのか?吾輩からの情報すら満足に飲み込むことが出来ないのに。お主は吾輩に我が子を一人ずつ発狂させながら、この世を救えとそう言うのか?この人でなし!」
「そんなこと言われても私は……」
「まあいい。まだ自分の力を試してさえいないのだ。臆病者が突然、勇者になることなど出来ん。ならまずは手始めに吾輩を追ってこの地に召喚された魔物を倒せ。自分がどの程度人間を超越したのか感じる良い機会であろう」
「貴方は自分の子を殺す事には戸惑いはないのですか?」
「仮初めの肉体だ。失っても死にはせん」
そんな事は初耳だ。それでは何度倒してもこの世に戻ってくるではないか。
「なんだ?まさか、また無茶だと思っているのか?だから吾輩の子がその魔力を失い天寿を全うするまでお主は戦うのだ。この世の協力者を始末しながらな」
私はとんだ悪魔のような存在と契約を結んでしまったようだ。
私が死ぬまでこの途方もない親子喧嘩を仲裁し続けろと?それからやっと母に会える。これでは私は使い捨てにされるようだ。
「何を悲観している?お主は既に願いを叶えたのだぞ?先にその対価を支払う時が来た。それだけだ。しかもおまけで超人になれる。こんな贈り物は神でもせんだろう」
「私は……やはり――」
そんな私としては人生最大の選択を迫られている時に、またあの大きな地響きがした。
「悩んでいる暇はないぞ。来たぞ。親である吾輩をあの世に送り返さんとする力だけを求めて肥え太った我が子が。お主の出番だ。働かなければここにいる人々はみな吾輩の養分だな。早く支度しろ!行くぞ!」
タイヨーが窓から外へと踊り出る。魔物をおびき出すつもりなのか。
私は――。
私はどうすれば――。
「早く来い!お主の知り合いも全て失ってしまうぞ!」
私は言われるがままにタイヨーの後を追って館を飛び出した。